二週間の入院の末に海里がようやく病院を退院した日は、まるで真夏のような晴天だった。
 
「暑っ! ……こんなに暑いとなんにもやる気がおきないよ……」
 
 帰って来た早々リビングのソファーに寝転んで、ゴロゴロしている頭に問いかける。
 
「私が全部片付けちゃっていいの? それともあとで自分でやるの?」
 
 大きなクッションを抱きかかえながらこちらをふり返り、海里がニカッと笑った。
 
「ひとみちゃん、お願い!」
「まったくもう……!」
 
 口先だけで文句を言いながら、テキパキと持ち帰った荷物の片づけを始める。
 勝手知ったる人の家。
 きっと伯父さんよりも陸兄よりも海里よりも、この家のどこに何があるのか、私のほうが詳しい。
 
 私が荷物を片付けている間、のんびりとテレビを見ていた海里は、そのうちうとうととソファーで眠ってしまった。
 
 ピッタリと閉じた長い睫毛。
 いくら平気なフリをしていても、ちょっと痩せた顔にはやっぱり疲労の色が濃い。
 
(しょうがない……ゆっくり休ませてあげるか……)
 
 薄い毛布を掛けてあげて、窓から少し風が入りこむようにし、今のうちにと一度自分の家へ帰った。
 
 ママが用意してくれた昼食を食べ、海里のぶんはお弁当にして、私がもう一度戻ってきた時には、海里はもう目を覚ましていて、ちょうど玄関で靴を履いているところだった。
 
「ちょっと! どこに行くのよ……?」
 
 驚いて問いかける私を見上げて、ニコニコ笑いながら靴紐を結ぶ。
 
「散歩だよ……少し歩いてくる……」
「散歩って! お昼ご飯は?」
「戻ったら食べるよ。ゴメンとっておいて」
 
 終始笑顔のまま、焦る私のことなんてまるでお構いなしに、シャツの裾を翻らせてさっさと行ってしまった。
 
 呆気に取られていた私は、バタンとドアの閉まる音にやっと我に返って、それからあらためて腹が立ってきた。
 
「なんでこんな暑い時間に、散歩になんか行くのよ! もっと涼しくなってから行けばいいでしょ! 倒れたらどうするの! ……それに一言そう言ってくれれば、いくらだってつきあうのに……!」
 
 本人に何一つぶつけられなかった不満を口に出して並べていたら、気がついてしまった。
 
(そうか……! 海里は私につきあってほしくなかったんだ……そうきっと……この二週間、誰よりも一番会いたかった人に、真っ先に会いに行ったんだ……!)
 
 悔しさに唇を噛みしめる。
 思わず投げ捨ててしまいたくなったお弁当を、逆にギュッと胸に抱き締める。
 
(何やってんだろう私! ……バカみたい! ……ほんとにほんとにバカみたい……!)
 
 悲しいんだか悔しいんだかよくわからない涙がじわっと浮かんで来た瞬間、ほんの今、海里が出て行ったばかりのドアがガチャッと開いた。
 
 飛び上がらんばかりに驚いてふり返ると、大好きな海里の笑顔とそっくりの顔が、ずっと高い位置から、満面の笑みで私に問いかけてきた。
 
「おっ! やっぱり帰って来てた! おかえりひとみ! 海里は? ……具合はどう?」
 
 今日も朝早くから大学へ行っていたはずなのに、おそらくは昼休みを利用して、退院したばっかりの弟の様子を見にわざわざ家へ帰って来るなんて、なんて兄バカなんだろう。
 
 玄関に立ったまま靴も脱がず、涙目でお弁当を抱き締めている私の様子と、どこにも海里の靴がないことを即座に見て、この上なくタイミングが悪くて察しのいい陸兄は、案の定全てを理解してしまった。
 
「そっか……帰った早々どこかへ出かけるくらいには調子がいいってことだな……OK、OK……」
 
 あまりにも飄々とした物言いに、私の中で何かがブツッと切れた。
 
「OKなんかじゃない!」
 
 肩を震わせて叫ぶ私の頭をさっさと腕の中に抱きこんで、陸兄はポンポンと軽く叩く。
 
「気にするな、すぐ帰ってくるよ。いつもそうだろ?」
 
 私がなんにも答えを返さないでいるうちに、ハハハッと笑いながらもう靴を脱ぎ始める。
 
「文句なら俺が聞くから、こんなとこに突っ立ってないでおいでよ、ひとみ……一緒にお茶しよう! ……って言うか、お茶淹れて……?」
 
 私から取り上げたお弁当を軽々と持って、先に立って歩き始めた陸兄に手を引かれるまま、私もようやくその場所から歩きだすことができた。
 
「陸兄のバカ!」
 
 理不尽な八つ当たりさえも、笑いながら受け止めてくれる海里よりずっと背の高い広い背中に、私は本当はとっても感謝していた。
 いつだって感謝していた。



 陸兄が言ったとおり、海里はそう遅くはならない時間に家に帰ってきた。
 
 まだまだ本調子じゃない顔色は、出かけて行った時と同じようにあまりよくないし、きっと予定していた以上に動き回ったのだろう、昼間よりもっと疲れているようにも見えた。
 
 でも目が違ってた。
 出かける前まで少しの寂しさを含んでいた綺麗な瞳が、今はこの上ない喜びに輝いていた。
 
(どんなに毎日一緒にいたって……しばらくの間独り占めできたって……やっぱり敵わない……)
 
 どこの誰かも知らない海里の大切な人に、やっぱり嫉妬せずにはいられなくて、そんな自分が嫌になる。
 
 髪からも服からも、私の胸を苦しくさせる甘い匂いを香らせながら、ひどくテンションの高い海里が憎らしい。
 
 陸兄と何かを談笑しながら、時々思い出したようにぼおっとしている姿を見ていると、ついつい
(誰のことを思い出してるのよ!)
 と力いっぱい頭を叩きたくなる。
 
「浮かれてるんじゃないわよ! ちゃんと体調にも気をつけてよね! 一度も学校にも行かないうちに、また病院に逆戻りなんて承知しないわよ!」
 
 我慢できずに叫んだら、速攻でとびきりの笑顔が返ってきた。
 
「わかってるよ! ひとみちゃんと約束したからね……」
 
『今度退院したら高校にもちゃんと通う』なんて口約束。
 海里が覚えていたことにビックリした。
 
「そ、そうよ……! 約束は守ってもらうわよ」
 
 慌てて腰に手を当てて大威張りのポーズを決める私に、海里も陸兄もハハハッと笑いだす。
 
「はいはい。必ず!」
 
 なのに翌日。
 海里は私が学校に誘いに来る前に、さっさともうどこかに出かけてしまっていた。


 
「どこに行ったのよ! バカ海里!!」
 
 答えは確かにわかっているのに、それでもあえて悔しい気持ちを口に出すことで、なんとか自分の感情をコントロールしようと頑張る。
 
 もういちいち泣くのは嫌だった。
 海里が他の誰かに会いに行くたびに、それを気にしてくよくよするなんて、そんなのまるで私らしくない。
 
(まるで望みのない恋だなんて、そんなこと最初からわかってたのに、泣いてばかりいるなんてもう嫌だ……!)
 
 だから私は負けないことにした。
 自分の中のこの上なく女の子らしい感傷に、もうこれ以上ひきずられたくない。
 
(そんなのまるで私らしくないもの!)
 
 だから悲しみは怒りに変えて、自分の中に溜めこむことなく発散する。
 
(これで昼休みの美術室にだけ顔を出したりしたら、ただじゃおかないわよ!)
 
 怒りながら、ドンドンドンと足音を鳴らしてもう誰もいない広い家の中を突っ切り、海里の部屋へ向かう。
 
(絶対に許さないんだからね!)
 
 くり返す怒りの言葉とは裏腹に、私は壁に掛けられたままの海里の真新しい学生服に手を伸ばした。
 
 ハンガーに掛かったまま軽く折り曲げて、大きな紙袋に入れて持ち上げる。
 
「バカ海里!」
 
 今はいないその部屋の主を大きな声で罵ってから、通い慣れた部屋の扉を閉めた。



 どんなに口では文句を言いながらも、やっぱり私は、たとえどこに出かけて行ったとしても海里はきっと昼には学校に来るだろうと思っていた。
 
 日頃はふざけてばかりでも、自分勝手ばかりしていても、私と交わした約束を破るような海里ではないと――固く強く信じていた。
 
(恋人ができて、その人のことが何よりも大事になったとしても……あいつは絶対に『約束』を破ったりはしない……!)
 
 辛さなんて周りには微塵も感じさせないで。
 いつだって笑顔で。
 そのくせ本心は誰にも明かさないし、芯は誰よりも強い。
 秘密はいっぱいでも、嘘はつかない海里。
 
 一番近くて一番遠くにいる私の大好きな人は、昔からそんなやつだったのだから――。



「で? 今日から例の従兄君が登校してくるんじゃなかったの?」
 
 朝から何度となくくり返された同じような質問には、
「そうだったんだけどね……」
 とちょっと眉を曇らせることで、それ以上は聞いてはいけないような雰囲気を作りだすことに成功していたのに、彼に対してはダメだった。
 
 昼休みの中庭。
 伊坂君はいつもの笑顔で、あっさりと真実を言い当ててしまった。
 
「そうか。すっぽかされちゃったんだね……」
 
 初めのうちこそ、おっとりした雰囲気に騙されていて気がつかなかったが、伊坂君はなかなかどうしていい性格をしている。
 
 歯に衣着せぬというか。
 余計な気を遣わないというか。
 
 良い言い方をすればそういうことになるのだろうが、彼の前ではあれこれ取り繕っても全て無駄になってしまうことが、私は不思議と嫌ではなかった。
 
 海里に言わせれば『考えていることが全部顔に書いてある』ほどに感情がもろに表情に出る私だから、どうせ今さら焦って隠す必要もない。
 
 それよりも、複雑な想いをありのままに理解してくれて、それに対してとやかく言わない伊坂君と話をしているのは、かなり気が楽だった。
 
「すっぽかされたって……まあそうだけどね! でも!」
 
 語気を荒げて反論し始めた私に、伊坂君はスッと目を向ける。
 海里や陸兄の薄茶色の目とは全然違う真っ黒な瞳に向かって、私は必死に語り続けた。
 
「約束を破るような奴じゃないのよ、あいつは! だから朝一では無理でも、二時間目からとか……三時間目からとか……!」
「そうやって待ち続けて、ちょっとくたびれたんだね」
「…………!」
 
 ものの見事に言い当てられてしまって、ついつい次の言葉を飲みこんだ。
 
 彼の言うとおり、休み時間のたびに窓から、穴の開くほどに正門のほうばかりを見続けて私はすっかり疲れきっていた。
 
「うらやましいな、五十嵐さんにそんなに信頼されてる一生君が……」
 
 聞きようによっては冷やかしにも聞こえる言葉も、こんなに近い距離から真っ直ぐに見つめられたまま告げられると、思わずドキリとさせられる。
 
「そ、そんなんじゃ……!」
 
 慌てて訂正しようとしても、朝からずっと肌身離さず持ち歩いている紙袋をさっと指差されてしまう。
 
「違わないよ。それは確かな信頼感だよ」
 
 諭すように、言い聞かせるように告げられて、思わず涙が浮かびそうになった。 
 
「そしてきっと一生君のほうも、君を信頼してるんだろうな……」
 
 言いながら彼が目を向けた方向に、つられたように目を向けて、なおさら泣きそうになった。
 
 白と黒の学生服の中では目立って仕方のないチェックのシャツを風に翻らせて、海里が真っ直ぐに特別棟へ向かって歩いていた。
 
 思わず動けなくなった私の背中を、伊坂君がトンと押す。
「ほら、待ってたんでしょ?」
 
 スカートに付いた芝生を急いで叩き落としながら、私は木蓮の木の下から立ち上がった。
「行ってくる……」
「うん。行っておいで」
 
 全力で走れば、絶対に走ることはしない海里よりも早く美術室に着ける場所にいて、本当に良かったと思った。
 
 それと言うのも、むしゃくちゃした気持ちで教室でお弁当を食べていた私を、
「一緒にいつもの場所でお昼をしよう」
 と伊坂君がわざわざ呼びに来てくれたおかげだ。
 
「ありがと……またね!」
「うん。頑張れ」
 
 一目散に駆けだした私を、彼が笑って見送ってくれていることは、ふり返って確認してみなくてもわかった。
 それはきっと、海里と少し似ている、あの満面の笑顔のはずだった。

 私が美術室に駆けこんで、自分の画布の前に腰を下ろすとすぐに、海里も教室に入って来た。
 私のことなんててんで無視で、部長とにこやかに挨拶を交わしながら、窓際の自分の席にさっさと座ろうとするから、私は慌てて朝から大事に抱えていた紙袋の中身を投げつける。
 
「海里……あんたねえ……学校に来るんだったらせめて制服ぐらい着てきなさいよっ!」
「なにこれ?」
「なにって……! あんたの制服でしょうっ!!」
 
 美術室どころか特別棟全体に響き渡るような大声で叫んだら、部長以外の他の部員が、全員両手で耳を塞いだ。
 
(しまった! ……つい家にいる時の癖で……!)
 
 ひどく気まずい思いで、私は慌ててみんなに軽く頭を下げたのに、当の海里は全く動揺していない。
 
 私の怒鳴り声にはすっかり慣れきっているのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、動じないばかりか、さっさと来ていた私服のシャツを脱ぎ捨てて、私が投げつけた制服の上着に袖を通し始めるからビックリする。
 
(はっ! そう言えば、もう上着って季節じゃなかったんだわ!)
 
 部室にいる他の男子部員や、さっきまで一緒にいた伊坂君の夏服姿を思い出して、真っ赤になる私をからかいもせず、海里はニッコリと笑う。
 
「ありがと、ひとみちゃん」
 
 その笑顔が、嫌味なんかじゃなく本物だとわかってる私は、その場で泣きだしてしまわないようにするのがせいいっぱいだった。
 
 真心のこもった感謝の言葉をもらって、本物の笑顔を見れただけでこんなに嬉しいなんて――。
 
 自分だけがこんなに海里を好きなことが、やっぱりどうしようもなく悔しかった。