朝、一睡もしていないベッドから起き出したら、朝食もそこそこに病院へ向かう。
遅刻しないギリギリの時間まで集中治療室の前で過ごして、学校が終わるとまたすぐに駆けつける。
授業中もいつでも確認できるように、スマホはずっと机の上に置いていたし、休み時間のたびに、陸兄から連絡が来ていないかと何度も何度も確認した。
けれど待ち侘びた知らせは、一向に届かなかった。
「ひょっとしたらこのまま意識が戻らずに……という可能性もおおいにあります。覚悟はしておいて下さい……」
自分だって目を真っ赤にして、神妙な面持ちで石井先生が告げた言葉が、頭からずっと離れない。
(覚悟って……覚悟って……!)
そんなものできるはずがなかった。
(私はまだ海里になんにも言ってない! 勝手に彼女とどっか行ったことにも……陸兄にさえ嘘をついてたことにも、まだ全然文句も言えてないんだから……!)
声を大にしてみんなの前で叫んだ建て前と――。
(さよならも……ありがとうも……大好きも……何一つ伝えてない!)
決して誰にも言えない私の本音――。
このままその全てが伝えられないまま、置き去りにされるのかと思うと、居ても立ってもいられなかった。
「海里! 海里! ねえ、目を覚ましなさいよ!」
ようやく病室の中に入る許可が出て、眠る海里を間近で見下ろすことができるようになったら、私は開口一番怒鳴りつけてやった。
隣に立つ陸兄も、私を咎めたりはしない。
ベッドの横にひざまずいて、点滴のチューブがいくつも繋がった海里の手を、ただ握り締めた。
「起きろ、海里……みんな待ってるぞ……」
海里とよく似たちょっと癖がかった明るい色の髪の頭が、深く俯いてしまう。
陸兄が泣いている姿なんて、私は今まで十六年間、一度も見たことはなかった。
だからこそ焦る。
もうどうにも逃れようのないところまで、自分たちが追いこまれていることを自覚する。
恐い。
どうしようもなく恐いのに、私なんかの力じゃ、もうどうすることもできなかった。
ただ海里だけ――海里本人だけが、私の恐怖も、陸兄の悲しみも追い払うことができるのに、その海里が目を覚ましてくれない。
あのちょっと悪戯心を秘めた、だけどこの上なく綺麗に澄んだ瞳を、私に向けてはくれない。
「海里!」
必死の思いで何度目か叫んだ声に、固く閉じた瞼がピクリと動いたような気がした。
深く俯いてしまっている陸兄にはきっと見えない。
私にしか見えない反応だったと思ったから、私は急いで畳み掛けるように何度も呼んだ。
「海里! 海里!」
陸兄が驚いたように顔を跳ね上げる。
その目の前で、あきらかに海里のこめかみや頬が動いた。
「海里!」
陸兄の叫びに応えるかのように、海里はゆっくりと長く閉じていた瞼を開いた。
ここがどこなのか。
自分が今どういう状況なのか。
確かめようとでもするように何度も目を瞬かせる。
何かを言いたげに開かれた口元に、私は耳を寄せた。
海里が無理に大きな声をふり絞らなくても、言葉を聞き取ってあげるために、そっと顔を近づけた。
しかしそんな私の顔を見ながら、海里が放った言葉は――。
「ひとみちゃん……凄い顔……」
三日ぶりに目覚めたばかりだというのに、それはそれは見事な笑顔で笑いかけられたから、口にしたのはずいぶん失礼な発言だったのに、不覚にもときめいてしまった。
私がどんなに海里の笑った顔が好きなのかなんて、本人はまったく知らないだろう。
だから特別な意味なんてない。
ないとわかっているのに、真っ赤になってしまう頬は自分では止められない。
「バ……バカ海里!」
ベッドの傍から逃げるように、二、三歩退いたら、また笑われた。
その笑顔が愛しかった。
ひょっとしたらもう二度と見れないかもしれないと、ほんのついさっきまで覚悟していたからこそなおさら、私にとっては何よりも大切だと実感した。
たとえ海里が他の人のことを想っていたって、傍に居られるのなら、それでいいと思ってた。
これからもずっと、いつか私が自分から離れていけるまで、このまま海里の優しさに甘えていたかった。
私が海里に抱いている好意と、海里が私に感じてくれている好意は、きっと全然違う。
――そんなことはよくわかっている。
でも、お互いに気がついているのに、気づいていないような、曖昧で居心地のいい関係を、できればこれからもずっと続けていたかった。
(でもそれじゃダメなんだ……)
なくしてしまいそうになって初めて気がついた。
――私は本当に、海里になんにも伝えていない。
だからいつか、海里が居なくなってしまったら、きっと私にはたくさんの後悔が残る。
伝えたくても伝えられなかった言葉を、ずっと胸の中に抱えたまま生きていくことになる。
(それでいいの……? 本当にいいの……?)
散々迷って、悩んだ末に私は決断した。
海里に残された時間が短いにしろ、長いにしろ、そんなことは関係なく、もう自分の想いに決着をつけなければならない。
そうして得た、新たな気持ちで、海里との残された時間を大切にしたい。
だって悲し過ぎる。
せっかくこんなに好きだったのに、海里とのたくさんの思い出よりも、後悔の思いばかりがあとに強く残ってしまったら、こんなに悲しいことはない。
だから――。
(海里にはそうとわからなくていい……ただ自分で自分の気持ちに区切りをつけよう……!)
その瞬間は、思っていたよりもすぐに、そして呆気なくやってきた。
容態が落ち着いて、集中治療室から普段の病室に移動した日。
学校帰りにやって来た私の姿を見るなり、海里は、
「ごめん……ご心配おかけしました……」
と率直に頭を下げた。
珍しく殊勝なその態度に、ついつい
「ふん!」
と怒っているような返答をしてしまう。
本当はもう、怒ってなどいなかった。
でも一度は、ちゃんと言っておかなくちゃと思っていたことが、思わず口をついて出て来た。
「心配かけすぎなのよ! フェリーに乗ってたなんて、私だけじゃなくって、陸兄だって、石井先生だって知らなかったっていうじゃないの……! いったいどういうつもりなのよ! ……ほんとにバカじゃないの!」
「ゴメン……」
その件に関しては心から申し訳なかったと思っているらしく、海里は何度も頭を下げる。
「ゴメン……」
できれば自分から言い出してくれればよかったのに、海里がそれ以外には何も言わないものだから、私はあまり言いたくなかった言葉を口にした。
「別に隠しごとしたっていいけど……せめて行き先ぐらいは嘘つかないでよ……お願い……」
「うん……ゴメン……」
海里が神妙な顔でもう一度頭を下げた瞬間、気がついた。
――今がその時なんだと悟った。
いつもなんでも冗談にしてしまうくらい、私に対してはふざけた返事ばっかりする海里が、今は軽口を叩かない。
しかも、自分のせいで散々みんなに心配かけたとわかっているものだから、いつもより素直に応待してくれる。
答えづらい質問を投げかけるなら、今なんだと感じた。
今ならきっと、海里は私が何を聞いたって、ごまかしたりはぐらかしたりせずに答えてくれるだろう。
(…………頑張れ! 頑張れ私……!)
この場から逃げ出してしまいたいくらいの緊張に、ドキドキと胸を鳴らしながら、私は意を決して海里に真っ直ぐに向き合った。
「ねえ海里……」
「うん……?」
邪気のない顔で、私を見つめ返す顔が胸に痛い。
(海里ってこんなにかっこ良かったかな……? ハハッ……笑っちゃうくらい、私の好きな顔だ……)
決して一番に私を想ってはくれないと。
そしてそう遠くない未来もう二度と会えなくなると。
わかっているのに、そんなことを思ってしまう私はバカだ。
本当に大バカだ。
でもどうしようもない。
いつから好きだったのかも思い出せないくらい、ずっとずっと昔から、一番近くにいて、ずっと想ってきた人なんだからしかたない。
(聞かなくちゃ……でも……聞きたくない……)
いくつもの葛藤を乗り越えて、私は口を開いた。
自分でも笑っちゃうくらい、まるで私らしくない小さな声だった。
「やっぱり好きな人がいるでしょ……? 倒れる前……フェリーでその人と一緒だった?」
一瞬、海里がハッと息をのんだことはわかったが、私は目を逸らさなかった。
決して逸らさなかった。
その決意に応えてくれるかのように、海里が頷く。
隠しもごまかしもしないで、真っ直ぐな瞳で私を見つめたまま頷く。
「うん」
瞬間、私の中で何かが終わったことを感じた。
悲しいよりも、苦しいよりもホッとした思いが大きくて、気がついたら涙が零れていた。
「ひ……とみちゃん……?」
たぶんこれまで一度も、私の泣き顔なんて見たことのなかった海里が、呆然としたように私の名前を呼んだから、慌てて手の甲で涙を拭う。
即座に踵を返して、急いで病室から出て行こうとすると、私の背中に海里の必死の声がかかる。
「ひとみちゃん!」
けれど私はまったくふり返らず、海里の病室をあとにした。
覚悟していたほど、落ちこみはしなかった。
でも時間が欲しかった。
それほど長い間でなくていい。
ただ、たった今自分の中で葬った恋心を、一人きりでちょっとふり返るぐらいの時間でいい。
小走りで廊下を抜けて、いつかも逃げこんだ非常階段にたどり着いたら、息をつく間もなく、誰かが私のうしろから入って来た。
私を追って来れるはずもない海里が、まさか追いかけて来たんだろうか――。
驚いてふり返ったら、なぜか陸兄が立っていた。
私がまだ口を開かないうちに、両手を伸ばして、私を胸に抱きしめてしまう。
本当に、ちょっと気持ちの整理をつけたかっただけなのに。
それほど落ちこんでいるつもりはなかったのに。
不思議だ。
陸兄の腕の中にいると、涙が止まらない。
全然そんなつもりはなかったのに、涙があとからあとから溢れ出て、全然止まらなくて、泣き崩れてしまう。
「偉いぞ、ひとみ……よく頑張った……!」
海里に事情を聞いて追いかけて来たにしては、たどり着くのがあまりにも早過ぎる。
きっと詳しい経緯なんてまるで聞いていないはずなのに、どうして陸兄には、私が何をしたのか。
今どんな気持ちなのか。
わかるのだろう。
「偉い、偉い……!」
まるで小さな子供の頃のように頭を撫でられて、そのくせ、子供の頃とは全然違った抱きしめられ方をして、それでも陸兄の腕の中は居心地が悪くはなかった。
誰にも知られないままに葬り去ろうとしていた想いだったのに、それでも陸兄が理解してくれて。
褒めてくれて。
嬉しいと思うほどには、居心地が良かった。
その日はさすがにもう一度病室に顔を出すことは照れ臭くて、そのまま家に帰った。
でも翌日の朝、私はまるで何もなかったかのように、いつもの時間に海里の病室を訪れた。
「いいか? 明日からも今までどおりにするんだぞ? 変に気を遣ったりする必要はない……そのほうが海里だって気が楽だし、ひとみだって何一つ失わないでいられる……どうにも我慢できない時には、いつだって俺が愚痴を聞いてやるから……」
自分ひとりではとてもできなかっただろうけど、陸兄にそんなふうに言ってもらったから、なんとか実際に行動に移せた。
「今度はそう簡単に退院できるわけないんだから……美術室から取って来てほしい物があったら持って来るけど?」
いつもどおり荷物の整理をしながら話しかけると、海里がホッと安堵した気配がした。
それだけでも、陸兄の言うとおりにして良かったと思う。
「それじゃお言葉に甘えて……水彩の道具全部持って来て……イーゼルも含めて、いつもひとみちゃんが描いてるくらいの用紙サイズで……」
遠慮なくつらつらと海里が答えるので、思わず手が止まる。
ちょっと悪戯心に満ちた冗談交じりの声。
その変わりなさが嬉しくて、笑ってしまいそうになる顔を必死に隠して、私はきっと海里が望んでいるだろう反応を返した。
「私に一人で持って来いって……? 学校からここまであのサイズのイーゼルを?」
かなり棘のある、不満そうな声。
でも私にはわかる。
海里が見たかったのはきっと私のこんな反応なのだ。
その証拠に――。
「あ……無理ならいいんだよ?」
淡々と返したつもりらしい素っ気ない言葉が、もうどうしようもなく嬉しそうに、私には聞こえる。
私は海里が期待しているとおり、長い髪を揺らしてガバッとふり返った。
「持って来るわよ! 持ってくればいいんでしょ? ぜんっぜん平気よ!」
語気を荒げて偉そうに胸を張ったら、海里がお腹を抱えて笑いだした。
その笑顔こそ――私が見たかったもの。
「なによ、バカ海里!」
捨てゼリフを残して病室から去りながら、私の頬も緩まずにはいられなかった。
一生一度の大失恋をして、それでもこれからも大好きな人の傍にいて、こんなふうに笑うことができる。
そんな恋をしてよかったと思った。
何もかもが思いどおりにいかなくて、悲しいことも、切ないことも多いけど、海里を好きになって良かったと心から思った。
そう思わせてくれたのは陸兄の存在で、本当に感謝してもしきれないんだと、私にはそのことも、ちゃんとわかっていた。
先生から許可が出たわずかな時間だけ、海里はベッドを下りて窓際の椅子で絵筆を握る。
時々目を閉じて何かを思い出すようにしながら、目の前にあるものとは全然違うものをキャンパスに描きだしていく姿を、少しでも長く見ていたくて、私は毎日大急ぎで病院へと向かった。
私が花や木を描くのが好きなように、海里にも好きなものがある。
彼は人物を描くのが好きだったし、また上手だった。
なのに――。
「えっ? 風景を描いてんの?」
背後からキャンパスをのぞきこんで、つい声に出して言ってしまった。
海里はクスリと笑って、顔だけ私をふり返る。
「そうだよ……そんなに変かな?」
「うん」
画布の大半を占めている青を基調とした色のものは、ひょっとして海ではないだろうか。
黒っぽい岩と小さな砂浜と真っ青な空。
(浜辺の風景だ!)
そう思うだけで、もうどうしようもなくドキドキした。
「なんか……名前と関係あるから? って聞かれるのが嫌だから、海は描かないって言ってなかった……?」
「ああ……そういえばそうだね……」
そんなこと、今の今まで忘れていたとでも言うように、海里は笑った。
「でも、描かなくちゃって思ったから……」
「そう……」
「どうして?」とか「なぜ?」とかいう質問を口にすることが、私は恐い。
何を尋ねても、今はもうあまり聞きたくない答えにたどり着きそうで、とてもこれまでのように軽々しく口は開けない。
その代わりに注意する。
海里の表情。
声音。
行動。
今まで以上に、そこから何かを読み取ろうと、私はいつだって真剣だった。
静かに画布に向かって、色を加え続けていた海里が、唐突に口を開いた。
「九月に入ったらすぐに誕生日なんだ。だから……」
「誰の?」とは聞かない。
そんなことは聞かなくってもわかってる。
「プレゼントするんだ?」
「うん」
海里に好きな人がいることを、ちゃんと口に出して本人に確かめておいてよかった。
きっと他の誰にも話さないこんな話を、私にだけはしてくれる。
(本当は今だってまだ苦しい。辛い……でも……前よりずっと海里を近くに感じる……)
それは私が、自分で望んで手に入れた特別な関係。
だから、大丈夫。
今だけは誰よりも、私が海里の心の近くにいる。
「だったら自分を描けばいいのに……『離れてる時もこれで寂しくないでしょ?』なんて……ゴメン、そんなキャラじゃないか、ハハッ……」
自分で言ってて恥ずかしくなって、笑い話にしてしまおうとしたのに、海里はまじまじと私の顔を見た。
それからこの上なく嬉しそうにニッコリと笑う。
「いや、いいかも! ありがと、ひとみちゃん!」
「う、うん……」
さっきまでとはまた違う色をパレットに広げ始めた背中を、私は見つめた。
もとから華奢だが、最近本当に細くなって。
こうして座っていることだって、長い時間は続けられなくて。
それでもまだ、何かをしようとしている。
大好きな人のために、せいいっぱい何かをやってあげようとしている。
そんな様子を見ていたら、喉の奥に熱いものがこみ上げてきた。
「できあがったら私が持って行こうか?」
涙なんか絶対に浮かべないように努力して、明るく問いかけたら、もう一度ふり返られる。
「いや。それまでには体調を整えて、俺が自分で行く。前にも言ったでしょ? これだけは誰にも代わりはできない……俺が自分で行きたい……!」
(でも……)
反論の声は、心の中だけにした。
「もう外には出れないんじゃ?」とか「無理だよ」とか
――そんな言葉、私自身が一番聞きたくない。
「じゃあ、ちゃんと静養して、また外出許可がもらえるように、真面目な患者しなさいよ! じゃないと……結局、『やっぱりひとみちゃんお願い……』ってことになるわよ?」
「ハハッ……そうだね。うん……頑張る!」
小さく笑って、もう一度画布に向き直った海里に、私はもうそれ以上は話しかけなかった。
どんなに頑張ったって、本当にもう彼女には会えないんじゃないかなんて。
とても海里には言えない思いは、やっぱり胸の奥にだけ留めておいた。
しかし、私の予想に反して、海里は九月の最初の日曜日。
三時間の外出をすることを許可された。
出かける準備を始めたのが夕暮れ。
ひさしぶりの普段着に袖を通して、紙袋に入った荷物を片手に、病室を出ようとしたのは、もう外が真っ暗になる頃。
いくら「何時でも海里君の希望する時間に」と石井先生が言ってくれたからといって、ちょっと遅すぎなのじゃないかと思った。
家から着替えを持って来たのも、描きあげた絵を額に入れたのも、小さな花束を準備したのも、全部私――。
少し前の私だったら、嫉妬で目が眩みそうだったはずなのに、今はもう海里のために何かができることが嬉しくって、それ以外の思いは湧いても来なかった。
ただ恐かった。
病院の目も、私の目も届かないところで、また海里が倒れてしまったらどうしようと、そればかりが気がかりだった。
「ちょっとでも悪くなったら、すぐに呼んでよ? 絶対に絶対に連絡しなさいよ!」
しつこいくらいに念を押す私を、「過保護!」と笑って、海里は出かけていった。
願わくば、無事で帰って来て欲しいと――本当にそれだけを願っていた。
約束の三時間より少し遅れて、海里が病院に帰って来るまで、私は家にも帰らず待っていた。
看護師さんたちが出入りに使う、夜間外来を兼ねた小さな通用口。
階段に腰掛けてボーッとしている私の隣に、何も言わず座る人がいる。
「陸兄。今、研修中じゃなかった? ……今日はもういいの?」
その人以外には有り得ないと思って、誰かも確認しないで問いかけたら、小さく苦笑された。
「日曜の夜ぐらい、俺にも自由を下さい……ひとみこそ……明日は普通に学校だろ?」
ちょっと高い位置から自分を見下ろす優しい瞳をふり仰いで、私は敢然と宣言した。
「それこそ……私にとっては何が最優先かってことよ! ……ここでこうしてることが、私にとっては明日の授業よりも大事なの!」
「俺だってそうだよ」
ああ、本当にそうだなと、私はしみじみ思った。
いつだって海里のことばかりで。
自分のことなんて全部あと回しで。
私が過ごしてきたのと同じくらいの時間を、陸兄だって同じように海里のことばかり考えてきた。
近くでずっとそれを見てきた私には、よくわかっている。
月の光を背に受けて、穏やかな笑顔を浮かべている人の顔を、改めて見つめ直す。
海里によく似た、でも海里よりはやっぱりちょっと大人びた顔。
陸兄は海里よりも物腰柔らかいし、実際優しいし。
もてないはずはないと思うのに、いくつになっても弟のことばっかりで、全然女の人とどうこうという話は聞かない。
(その海里は恋人に会いに行ったっていうのにね……なんだか私も陸兄も……本当に変わってる……)
思わず笑ってしまったら、(何?)と目線だけで尋ねられた。
そんなところまで、ああ、やっぱり海里とよく似ている。
「ううん。海里は好きな人と楽しい時間を過ごしてるって言うのに……ここで待ってる私たちにはそんな相手もいないなんて……なんかおかしいなって……」
自嘲気味に笑いながらそう告げたら、陸兄は見惚れそうなほどに綺麗に笑った。
「俺はいいんだよ……ひとみと一緒に海里を待ってるのが、一番楽しいんだから……」
ドキンと胸が鳴った。
聞きようによっては、自意識過剰な意味にも取れてしまう陸兄の返事に、なんだか戸惑う。
「えっと……私も、全然嫌だとは思わない……」
「うん」
あまりにもあっさりと返事されてしまうので、さっきのはやっぱり自分の考えすぎだったのだと恥ずかしくなる。
(当たり前じゃない! 私にとって、陸兄が本当のお兄さんみたいなのと同じように、陸兄にとっての私は妹みたいなものなんだから!)
でも、だけど、なんでか、上手く言えない違和感を覚える。
陸兄がそれきり何も言わずに、私との距離をほんの少し縮めたからかもしれない。
ちょっと動けば肩が当たるぐらいの距離。
なのに全然嫌ではなくって、陸兄も海里と同じで、私にとっては特別なんだとふと思う。
気がつけば、海里が外出許可を取ったと知った時から、ずっと心の中に抱え続けていた不安を、一瞬忘れている自分がいた。
無事で帰って来る姿を見るまでは、きっと何も手につかないだろうからと、ここで待っていたはずなのに、その海里のことを一瞬忘れていた。
(……変なの)
私にとってはいつだって、何よりもの最優先事項。
なのに、海里のことを失念するなんて有り得ない。
ブルブルと首を横に振って夜空を見上げると、隣で陸兄も顔を上げる。
「今日は星が綺麗だな……きっと海里もそう思っただろう……あいつ……今夜外出できて良かったな……」
「うん……」
――やっぱり私たちの一番の共通の話題は海里。
そのことにホッとしている自分が、なんだか可笑しかった。
暗い中を俯きながら帰ってきた海里は、出入り口の前に座る私と陸兄の姿を見るとビックリしたように目を見開いた。
「どうしたの、二人とも?」
いつもどおりの快活な声だったが、その目が赤くなっていることに、気がつかない私ではない。
(あんたこそどうしたのよ? あんなに楽しみにしてたのに……何かよくないことでもあった?)
何に対してだか、ちょっと怒りを覚えながら、私は立ち上がる。
「遅いのよ! 何かあったんじゃないかって心配するでしょ!」
「ああ。ごめん……大丈夫だよ」
苦笑しながら入り口のドアを潜る海里を、追いかけようとしたら、わざわざふり返って制止された。
「ゴメン。今日はもう、すぐに寝るから……」
ちょっと疲れたような物言いに、私が何か言葉を返すより先に、陸兄が一歩を踏み出して頷く。
「わかった。また明日来るからな」
「うん」
二の腕を軽く陸兄につかまれて、病院の敷地の外へと連れて行かれながら、本当は気になってならなかった。
(だって! 今日のためにあんなに頑張ったのに……! どうして?)
何があったのか、できることなら海里に根堀り葉堀り聞きたい。
でもそれこそ、余計なお世話というものだ。
「会わなかったんじゃないかな……」
陸兄の呟きに、私は伏せていた顔を慌てて上げた。
私のほうをふり返りはせず、真っ直ぐ前を向いたまま歩き続けながら、陸兄は短い言葉だけを連ねる。
「プレゼントだけを置いてきた……そんな感じかな……会いたかったのに会わない……ひとみ……あいつの覚悟を無駄にしないで……」
ドキリとこれ以上なく胸が跳ねた。
(覚悟って……なんでそんなもの……?)
口に出して問いかけるのは、もう恐くて恐くて。
黙ったまま私は歩き続けた。
ポロポロと涙が零れる姿が、真夜中のおかげで誰にも見られずに済むことに感謝しながら、陸兄に手を引かれるまま、歩いて家まで帰った。
翌日いつものように病室を訪ねたら、まるで昨日までと同じように、海里が窓際の椅子で絵筆を握っていた。
(…………?)
どうやら描いているのも、まったく同じ海の絵だと気がついて、内心疑問に思いながらも、いつもどおりに声をかける。
「あれ? その絵、もうできたんじゃなかった? だからわざわざ持って行ったんでしょ?」
海里はふり返りもせず、手も止めないままに返事した。
「あれとは別だよ……これは文化祭に展示してもらうために描いてんの」
素っ気ない返事に、ちょっとムッとしながらも、これで話題が途切れてしまうのが嫌で、私は海里の背後に近づく。
「ふーん……綺麗な海……」
思わず呟いたら、なんだか肩の力が抜けたように、海里が小さく笑った。
「本物に近づいてるならいいけどね……」
どこか傷ついたふうの海里に、やっぱり昨夜の話は切り出しにくかった。
その代わり、さっきまでより優しくなった雰囲気に便乗して、ずっと聞きたくて聞けなかったことを口にしてみる。
「……ここに行ったんだ?」
あえて「いつ」とは言わない。
それはもちろん、フェリーに乗ってどこかへ行って、海里が倒れた時のこと――。
本人もよくわかっているらしく、確認もしないで、海里は簡単に答えをくれた。
「うん。綺麗なところだったよ……特に夜の星空は圧巻だった。この街じゃ全然見えないけど、空にはあんなに星があるんだって、生まれて初めて実感した……!」
「ふーん……」
話すうちに気持ちが浮上していくのが、うしろ姿を見ているだけでもよくわかる。
(これでいいか)と思った。
なにも詳しく話を聞いて相談に乗るのだけが、海里を元気づける方法ではない。
ずっと一緒に生きてきた、私には私のやり方がある。
「ひとみちゃんのほうはどう? 文化祭の絵……もうできた?」
かなりいつもどおりの調子でそんなことを聞かれるから、待ってましたとばかりに私は腕組みをして、胸を張る。
「もちろんよ! 誰かさんと違って、私は夏休みの間もずっと美術室に通ってたんだから……!」
「…………どうもすみません」
思わず笑いながら、私は海里に背中を向けた。
これでちょっとは元気も出ただろうなんて、偉そうなことを思いながら、学校へ向かうため病室をあとにする。
「今坂先輩の超大作の隣に並べるんだから……さっさと丁寧に仕上げなさいよ……!」
ハハッと軽く笑いながら、海里が片手を上げた。
「わかった……ありがとう」
その反応に私はとても満足していた。
これできっと大丈夫だろうなんて、その時の海里の気持ちを簡単に考えていた。
もっと気をつけていれば、わかったはずなのに。
――今朝の海里は、とうとう一度も私と目をあわさなかった。
それがどういうことなのか。
ずっと傍で海里だけを見てきた私には、わかるはずだったのに――。
肝心の時に役に立たなかった自分を、私はこのあと長い間悔やむことになったし、責める気持ちは、今だって完全に消えてはいない。
教室に着いて、机の上に鞄を乗せた時。
唐突にスマホに着信が来た。
何気なく見て、画面に出ていた名前が『海里』だったから驚愕する。
なんでもないのに私にあいつがわざわざ電話をしてくるなんて、絶対にないとわかっていたから、心臓が凍りつくような気がした。
「海里? ……何?」
携帯の向こうで、大きく息をつきながら、もうどうしようもないほど具合が悪くなった時のような海里の声がした。
「……ひとみちゃん? 俺。悪い……ドジった。動けない。迎えに来て」
途切れ途切れの声を聞きながら、私はもう駆けだしていた。
「どこにいるのよ! ……どうしたのっ?」
鞄なんて置き去りに、大声で叫びながら、今来たばかりの学校の中を、校門へ向かって全力疾走していた。
その人はいったいどんな人なんだろうと、想像してみたことは一度や二度ではない。
――海里が初めて好きになった人。
きっと一生一度の恋の相手。
決して会ってみたかったわけではないが、いつだって海里の笑顔の向こうにはその人の存在を感じていた。
あんなにも愛されて、あんなにも大切にされているその人が、本当言えば私はずっとうらやましかった。
でももし海里に、「会わせたい」と言われても、実際には困ってしまう。
私がどんなに手に入れたくても決して手にすることはできなかったものを、持っているその人を憎んでしまいそうで、恐い。
そんな自分の醜い心を知ることが恐い。
だから、ずっと会わないままでよかったのに、――神様は残酷だ。
私にとっては最も耐えがたい形で、その人は突然私の目の前に現われた。
電話口で指示された病院近くの川原の土手に、タクシーで乗りつけた。
帰りも海里を連れてすぐに乗りこめるように、そのまま待っていてもらう。
緊張と恐怖のあまりガタガタと震える足を必死に励まして、降り立った場所から川原を見下ろしたら、いくつかの人影が見えた。
小柄な女の人を胸に抱き締めている明るい色の髪を見て、胸が軋む。
(海里!)
どちらかといえば海里のほうが、今にも倒れそうな体をその人に支えてもらっているようにも見えた。
だから私は、回れ右してここから逃げ出してしまいたい気持ちを必死に我慢して、二人に駆け寄る。
こちらをふり返った彼女が、私の姿を見て、驚いたように海里から離れようとした。
なのに海里はその人を抱き締める腕を決して解かず、それどころか私の目の前で、まるで見せつけるかのようにキスした。
(それって……どういうつもり?)
こんなことで泣きそうになっている自分なんて、私は認めたくないし、海里に知られたくもない。
だから悲しいとか、辛いとかいう感情を、全部怒りに置き換えた。
全部全部置き換えた。
「なによ! ……じゅうぶん元気じゃないのよ!」
私の怒声を聞いた途端、海里がホッとしたように笑ったので、その選択は間違っていなかったんだと思う。
電話で助けを求めた私のことなんかてんで無視で、小さな声で腕の中の彼女に何かを語っている海里の姿に、ポーズじゃなく本当に腹が立つ。
どんなに気にしないでおこうと思っても、その人がどんな人なのか。
二人が何を話しているのか。
気になってしまう自分が本当に嫌だ。
「じゃあ約束……」
何かを彼女と約束してから、海里はあつかましくも私に向かって手を伸ばした。
「ありがとう……ひとみちゃん……」
いつものようにその手を握って、海里が立ち上がるのを手伝う瞬間――彼女がどんな思いをするのかは、よくわかるのに、ほんの少し優越感を得る。
そんな自分を軽蔑する。
「いつかこんなことになるんじゃないかと思ってた……」
嫌味たっぷりに呟きながら、流した視線が思いがけず彼女に向いてしまった。
そしたら即座に、海里が口を開いた。
「真実さんのせいじゃない……!」
全然そんなこと思ってもいなかったのに、あまりにもきっぱりと言い切られたので、かえって反発心が湧く。
「だって……!」
泥だらけで地面に座りこんでいる、その『真実さん』を見る。
小さな顔にも細い腕にも、血が滲んだ擦り傷がいっぱいできている。
しかも彼女の傍らで伸びている、大柄な男はいったいなんなんだろう。
あきらかに何かの事件に巻きこまれたっぽいのに、海里はいかにも彼女を庇っている。
そのなりふり構わなさに腹が立つ。
「俺が自分で決めたことだから」
苦しそうに大きく肩で息をくり返しているくせに、あまりにも潔い海里の態度に、こんな時だというのに不覚にもドキドキした。
「なによ……格好つけちゃって……! ねえ……あそこで伸びてる男……ひょっとして海里がやったの?」」
心の動揺を知られたくなくて、話題を変えたつもりだったのに、なおさら困ることになった。
「うんそう……どう? やっぱり格好よくない? 見直した?」
嬉しそうに笑いながら尋ねられるから焦る。
心から焦る。
「バカ!」
いつものように怒り混じりに叫び、ポーカーフェィスのできなくなった顔を逸らしたまま、私は海里に肩を貸して歩き始めた。
こちらに背を向けている海里の彼女には、あえて話しかけることはしなかった。
ヨロヨロと歩く海里が、かなり危ない状態になっているのがわかる。
これまで何度もそういう場面に直面してきた私には、よくわかる。
「ほんっとに……バカ……!」
こみ上げてくる涙を必死に我慢して、もう一度呟いても、海里はもう否定の言葉も非難の言葉も口にはしなかった。
そのことに焦る。
次第に肩にかかる体重が重くなってくることに、どうしようもなく焦る。
「しっかりしなさいよ!」
ともすれば挫けてしまいそうになる自分の心を支えるためにも、私は海里を怒鳴り続けた。
懸命に怒った。
「もしも……なんてことになったら、絶対に許さないわよ!」
微かに――ほんの微かに海里が私の肩の上で頷いたような気がした。
私たちが後部座席に倒れこむように乗り込むとすぐに、タクシーは病院へ向かって走りだした。
本当は気になってしかたがなかったのに、川原が遠くなって大きな道路に出るまでずっと、私はとうとう一度も背後をふり返らなかった。
私に支えられていなくなる海里を、彼女がどんな思いで見送ったのかなんて――そんな思い、知りたくなかった。
ひと月前にようやく出ることができた集中治療室に、もう一度戻る事態になった海里を誰も責めなかった。
忙しく立ち回る石井先生に深々と頭を下げた陸兄は、思っていたよりも穏やかな顔で、私に目を向ける。
「ありがとう、ひとみ……辛かったな」
海里が彼女と一緒だったこととか。
その光景を見て私がどんな気持ちになったのかなんて、陸兄にはまったく話していないのに、またしても心理を読まれきっている。
「ううん。本当に辛かったのは、私のほうじゃないかも……」
最初に私の姿を認めた時の、海里の彼女の表情が忘れられない。
大きな目を見開いて、まさしく息をのんでいた。
――そのあまりにも悲しげな顔。
「優しいな、ひとみは……」
「ううん」
私は慌てて首を横に振った。
私がもし本当に優しい人間だったら、あの場で海里の従兄妹だと名乗っていたはずだし、海里の彼女にも何か言葉をかけてあげていたはずだ。
あてつけがましく、無言を貫きとおしたりはきっとしなかった――。
「全然……優しくなんかないよ……」
もう一度呟いたら、陸兄に引き寄せられた。
そのまま胸の中に抱き締められて、そしたら不思議と涙が溢れてきた。
海里から連絡が来た時も。
迎えに行く時も。
病院に連れて来てからも。
全然涙なんか浮かばなかったのに、なぜだろう。
――私にとって陸兄は、いったいなんなんだろう。
「いいや。優しいよ……」
願わくば、これからは本当に陸兄の言葉のような自分でありたいと思った。
現実はほど遠いからこそ、そうであれたらと憧れた。
心拍数も、血圧も、心電図の波形も、血液中の酸素濃度も、海里はとっくに限界値を越えていた。
もし体力がもたなくなったら、もうそれで全てが終わりになる緊張感の中、私にできることといえば、ただ祈るしかない。
でも意識のない海里にいくら私が呼びかけたって、何の力にもなれない気がした。
(そう……きっと……呼びかけてあげたら一番の力になれるのはあの人なのに! ……変に意地を張って私が口もきかなかったから、ここに呼んであげることさえできない……!)
いつまで経ったってまるで子供のままの自分が、悔しかった。
「名前は『真実さん』だったっけ……?」
陸兄がいくら海里のスマホを調べても、履歴にもアドレス帳にもその人らしき名前は存在しなかった。
見れば見るほど、メール履歴にも着信履歴にも私の名前ばかりが並んでいるのが、なんだか申し訳ない。
「連絡先教えてないんだな……いったいどうやって連絡を取りあってたんだろう?」
首を傾げた陸兄の疑問は、そっくりそのまま私の思いだった。
でも私には思い当ることがある。
――だからこそ海里は、毎日毎日決まった時間に、欠かさず彼女に会いに行っていたのだ。
実際に足を運ぶのだけが、逢瀬を重ねるためのたった一つの方法なんて、まるで数世代前の恋人同士のようだが、どうして海里がそんな面倒なことをしていたのか、私にはわかる。
小さな頃から耳にたこができるくらい、何度も何度も聞かされた決意を、私はまだ忘れてはいない。
「海里は……誰かの中に自分の思い出が強く残るのを嫌がってたから……だから本当は必要なはずの情報も彼女に教えてないんだと思う……名前さえ、ちゃんと教えてたか怪しい……」
(だってあの人は、海里のことを『うみくん』って呼んでた。本当ならそこは『かいくん』になるんじゃない? ……そんな呼び方、私は絶対にしないけど……!)
「海里らしいな」
陸兄が小さく笑った。
不思議だ。
その声につられるように、私もほんの少しだけ気持ちが浮上する。
「他の人に頼ろうとしたらダメだよ……海里が目を覚ますように私たちが呼びかけなきゃ……これまでだってずっとそうしてきたじゃない……ね?」
「ああ」
力強く頷いた陸兄がギュッと強くつかんだ自分の肩に、私も手を添えた。
またもう一度、海里を自分たちのところに呼び戻そうと、誓うように私たちは頷きあった。
もし気を緩めて眠ってしまったら、海里が危ない時にまにあわないような気がして、すぐ横の椅子に腰掛けて顔をのぞきこんだまま、私はそれから一睡もできなかった。
「ごめんひとみ……もう代わるから……」
家のことや学校のことで席を外した陸兄が、急いで帰って来てそう言ってくれても、眠る気になんてなれなかった。
――一秒足りとも、海里から目が離せない。
「大丈夫……私は大丈夫だよ……」
何度もくり返したセリフを、あいかわらずなんの抑揚もなく口にする私に、陸兄は困った顔を向ける。
「大丈夫なわけないだろ……そんなに青い顔して……」
呆れきったような言い方に、ちょっとカチンときた。
「陸兄こそ! 病院と学校と家の間を駆け回ってて、全然寝てないくせに!」
「俺はいいんだよ。男だから……」
「男尊女卑、反対! 女だったら何がいけないっていうの?」
「ひとみの可愛い顔が、やつれたら悲しいだろ……」
「だ、誰も悲しくなんかないわよ! きっと海里だって……そんなの見慣れてるって、目を覚ましたら笑うんだから!」
「俺が悲しい」
「…………!」
ダメだ。
勝てない。
海里相手にだってからかわれてばかりの私が、五つも年上の大学生の陸兄相手に口喧嘩したって、敵うわけがない。
ムッとして口をつぐんだ瞬間、大声で言いあっていた私たちの声がうるさいとでも言うように、海里の固く閉じていた瞼が震えた。
「海里……?」
恐る恐る呼びかけたら、まるで飛びつくようにして、陸兄も私の隣に来た。
「おい! 海里! ……海里!!」
私が誰にも負けないと自負している声の大きさを、発揮するなら今だ。
あとで隣の処置室から苦情が来たって、そんなの知るものか――。
「海里!」
お腹の底から声を出したら、感情が高ぶっていたからか、涙まで混じってしまった。
でもその甲斐あって、海里がゆっくりと身じろぎする気配がする。
薄く開いたような気がする目を見つめながら、私は夢中で叫んだ。
「海里! 気がついたの?」
点滴の管が何本も繋がった左手を、海里が微かに持ち上げた。
ゆっくりと開いた綺麗な瞳の端から、涙がひとすじ白い頬を伝って、シーツに落ちた。
「真実さん」と声にならない声で、海里があの人の名前を呼んだ気がした。
これまでにも何度も生死の境をさまよったことのある海里が、本当に絶望的な状態から目を覚ました。
――それは確かに、この上なく嬉しいことだったのに。
まるで天に祈りが通じたかのように、幸せなことだったのに。
そのあとすぐに私に告げられたのは、とても信じられない、信じたくない事実だった。
「な……に……? なんのことだかわからない……」
海里の病室からは遠く離れた診療室で、石井先生が椅子に座ったまま、深々と頭を下げて私と陸兄に言った言葉は、簡単な言葉だった。
けれど、私の心には全然すんなりと入ってこない。
「おそらく……もう長くはないです……覚悟だけはしておいて下さい……」
なんでそうなるのか、全然わからない。
確かに、海里の意識がなかった間は、私だって必死に自分にそう言い聞かせていた。
とても受け入れたくはないけど、もしもの時は受け入れなければと、心の中でくり返し唱えていた。
(でも海里は目を覚ましたじゃない……! なのになんで? ……どうして!)
湧き上がってくる激情のままに大きな声を出そうとしたら、隣から陸兄に腕を掴まれた。
まるで私の行為を止めようとするかのように強く掴まれたから、顔を上げない石井先生をそのままに、私は陸兄と一緒に部屋をあとにした。
「ごめん……本当は、6月に退院する時から言われてたことだったんだ……あとはなるべく海里の好きなようにさせてあげようって……それが俺と父さんの思いだったんだけど……ひとみには言えなくて……」
よく二人で話をした海里の病室がある階の外階段ではなく、病棟の屋上に陸兄が私を連れて来たことでもわかる。
陸兄は絶対にこの話を海里に知られたくはないんだ。
「ごめんな……」
くり返される言葉が苦しい。
陸兄や石井先生の話が本当に事実なんだと、何度も何度も思い知らされているようで、どうしようもなく苦しい。
「……んなの……そんなの、嫌だ……」
口から出て来たのは、自分でも驚いてしまうくらい弱々しい声で、なのに絶対に譲れない思いだった。
まるで自分が否定すれば事態が変わるかのように、ただひたすら首を横に振ることしか、私にはできない。
「嫌よ! 絶対に嫌!」
おそらく私以上に海里を大切に思っていて、それでも冷静に現実を受け止めようとしている陸兄に、いくら自分の気持ちを叫んで意思表示をしたって、何も変わらない。
――そんなことは私にだってわかっている。
わかってはいたけど、どうすることもできなかった。
私のこれまでの人生の中で一番受け入れ難いことを、仕方がないからとすんなり受け止められるような、――私はそんな諦めのいい人間じゃない。
(どうしようもなく諦めが悪いから……どんなに望みがないってわかってたって、ずっとずっと海里を想ってきたんだもの……!)
嫌々と子供のように駄々をこねて、泣き叫ぶ私に陸兄が腕を伸ばす。
私の憤りも悲しみも全部すっぽりと包みこむかのように、抱きしめてくれる。
でもその腕の中でも私はずっと泣きながら怒り続けた。
「どうしてもっと早く教えてくれなかったのよ! そしたら海里にあんな無茶させなかったのに!」
だからこそ――海里の最後の自由を阻害してしまうからこそ、私にだけは真実が告げられなかったんだろう。
そのことすら本当はわかってる。
でもそれでも――。
「絶対に止めたのに!」
今さら取り返しのつかないことをいつまでも諦めきれずに、私は陸兄に怒りをぶつけ続けた。
残り少ない大切な時間を、何も知らずに今までどおり過ごしていた自分と、全てを知っているのに、本当のことを私にだけは教えてくれなかった陸兄を責めるしか、その時、私が崩れ落ちそうな自分の心を支えるすべはなかった。
泣いて泣いて泣き疲れて眠った夜。
私は決意した。
それでもやっぱり海里には今までどおり接しようと――。
あんまり泣き過ぎてズキズキと痛む頭でそう思えたから、わかった。
陸兄だって同じ思いだ。
いつだって私と同じ思いだ。
だからできる。
私にはきっとできる。
私の弱さも醜さも全部知ってて、それでも海里の隣でもがき続ける私を咎めたりせずに見ててくれる陸兄がいるから、私は最後の最後まで海里にはいつもどおり強がってみせることができる。
――そう思った。
あいかわらずキャンバスに向かって、時間さえあれば絵筆を握っていた海里は、彼女にプレゼントしたのとよく似た大きな海の絵を仕上げたら、それきり絵筆を置いた。
頼まれるまま、私はその絵を文化祭に展示するために学校へ持って行った。
自分の背丈ほどもある大きな絵をヨロヨロしながら運んでいたら、誰かが横に来て一緒に運んでくれる。
伊坂君だった。
「これって一生君の絵……?」
私が多くを語らなくても、不思議といろんなことを察してくれる。
――伊坂君がそんな不思議な人でよかった。
今、海里のことを話したら、私は人目も気にせず泣きだしてしまいそうだ。
だから声をかけてきたのが彼で、助かったと思った。
「うん、そう。文化祭に展示するの」
「ふーん、大きな絵だね……遠くから見たら絵が自分で歩いてるのかと思った」
病室から出て行く私を見送って、海里が言い放った失礼なセリフを、そっくりそのままくり返されたから、思わず笑みが零れる。
「失礼ね! ほんとに……伊坂君も……!」
「うん……一生君もね……」
彼は私が心の中だけに留めておいた言葉を、あっさりと口に出してしまった。
ドキリと胸が跳ねた。
「知ってる? 僕は五十嵐さんの気を引きたくて、時にはわざと怒らすようなことも言ってるって……」
「し、知らないわよ! そんなこと!」
「うん……知らなくていいんだけどね……」
女の子のように華奢な体からは想像もつかないくらいの力で、伊坂君が私の手から海里の絵を取り上げた。
「僕と同じ思いで、彼が君に接してるんだとしたら……君の想いは決して一方通行なんかじゃないって……僕は思うよ……」
思わず足が止まった。
伊坂君は『誰が』とはハッキリ言わなかった。
でも話の流れからして、そこには当然『海里』の名前が入るはずだ。
(私の想いが、片想いじゃない……? そんなことあるはずない……!)
海里には確かに好きな人がいて。
その人のためなら命をかけてしまうくらい、本当に本気の恋で。
私はその背中を、いつだってうらやましく見ていることしかできなかった。
でももし本当に伊坂君の言うとおり、海里が私を想ってくれているんだとしたら、それは恋ではなく、もっと優しく穏やかな想いだ。
小さな頃から変わることのない、確かな信頼感と安心感に包まれた温かな想いだ。
(そうか……そうだね……自分だけが! 私だけが! なんて……そんなことはなかったね……)
海里はいつだって私のことを、信頼してくれて、頼ってくれて、お節介が度を過ぎる時でも、鬱陶しがりもせず一番近くに置いていてくれた。
そのことこそが、私が誰にだって自慢できる一番の誇りだったはずなのに――。
海里を好きだと思う気持ちが大きくなり過ぎて、いつの間にか私は本当に大事なことを忘れてた。
小さな頃から築いてきた私と海里の固い絆を、忘れたままにあいつを見送るところだった。
「伊坂君……」
呼びかけた私に、彼はうしろ姿のまま返事する。
「聞かないよ。単なるありがとうだったら聞かない……一生君より僕のほうが好きって告白だったら喜んで聞くけど……そんなことはないでしょ?」
本当に不思議な人だ。
まるで現実の人ではないかのように、私の気持ちが丸わかりの人。
それでも私はあえて、どんどん遠くなって行く背中を追いかけて走り出しながら、自分の心を言葉にした。
「うん。でも私……伊坂君のことは好きだよ。すごく大切な友達だよ。だから私と友達になってくれて……やっぱりありがとう」
「……どういたしまして」
いつになく素直に気持ちを口にした私を、ようやくふり返って見てくれた伊坂君は笑顔だった。
海里とよく似た――でもよく見れば全然違う、満面の笑みだった。
その笑顔のお蔭で、自分の中でまたひとつ大きな何かが整理できたことが嬉しかった。
自分の中で整理がついていたからこそ、海里が最後に彼女に会いに行きたいとみんなに願いでた時、私は必要以上にあいつを責めずに済んだんだと思う。
いろんな思いを押し隠して、海里に許可を出した叔父さんの姿を見ながら、私はこぶしを握り締めて立っていた。
反対の手を陸兄としっかり繋いだまま、嗚咽を漏らしたりしないように、唇を噛みしめていた。
「俺は先に父さんに連れて行ってもらうから……ひとみちゃん……真実さんを呼んで来てくれる?」
段取りを相談し始めた叔父さんたちにはわからないように小さな声で、図々しくもそう持ちかけてきた海里に、思わず呆気に取られた。
「なんで私が……!」
怒りをこめて反論すると、クスリと笑われる。
伊坂君が言っていたとおり、私の反応を面白がっている海里が確かにそこにはいて、なんだか必要以上に腹がたった。
「絶対に嫌よ!」
こぶしを握り締めて小声で叫んだら、ますます笑われる。
そのくせ――。
「頼むよ……俺の最後のお願いだから……ね?」
そんな卑怯な言い方を、海里はわざとする。
『いったい何回目の「最後」なのよ!』と前にも言ったことのある言葉は、もう口に出さなかった。
その代わり、どうしようもないとばかりにため息をついて尋ねた。
「なんて言えばいいのよ……?」
海里が嬉しそうに笑った。
でも以前の光り輝くような笑顔とはほど遠い、すっかり痩せてしまった儚げな笑顔が胸に痛かった。
「俺が呼んでるって……それだけでいいよ。きっと真実さんには伝わるから……」
それだけ自信満々に言い切ってしまえる二人の間柄が、やっぱり本当はうらやましい。
「海里って本当にバカ……! でも私は……もっと大バカだ……!」
ベッドの上の海里に背を向けて、ドアに向かって早足で歩き始めると、背中に声がかかる。
「俺は確かにバカだけど……ひとみちゃんはバカじゃないよ……優しすぎるくらいに優しい……素敵な女の子だよ……」
(なによそれ……! なんで今さらそんなこと……まるで、もうすぐにでもいなくなってしまうみたいに言わないでよ……!)
ぐっと喉の奥にせり上がってきた熱いものを飲みこんで、私はふり返らないままに大声で叫んだ。
「バカアッ!」
とっくにバレてはいるんだろうけど、それでも溢れた涙を見られないため、全力で走ってその場から逃げた。
走り出た病院の外の景色は、いつの間にか秋の気配を濃くしていた。
海里の退院を喜んだ初夏の風景とも、あいつに好きな人ができたんだと知って落ちこんだ夏とも違う、どこか寂しい空の色。
厚く垂れこめた雲からは、今にも雨が降ってきそうで、あまりにも今の私の心境と似ている。
(だって……どんな顔で会えばいいのよ?)
本人を前にして平気な顔ができるほど、私は大人じゃないし、私にとってその人はどうでもいい人なんかじゃない。
うらやましくてたまらなくて――そして少なからず憎い人。
(だってあの人がいなかったら、海里はあんな無茶をしなかった……もっと、もっと長く生きられた!)
実際のところはわからない。
命をかけれるほど好きだと思える相手にめぐり逢えて、海里は幸せなのかもしれない。
私にだって、そう思う気持ちがないわけじゃない。
でも、だけど――。
あまりにも感情がぐちゃぐちゃのまま、できれば会いたくなかったのに、その人は現われた。
海里に教えられたとおり、大学の正門で待っていたら、私の姿を見つけて自分から声をかけてきてくれた。
「ひとみちゃん……だよね……?」
自分でも近寄りがたいと自覚するほど、ガチガチに態度を硬くしている私にさえも、優しい笑顔で話しかけてきてくれるから喉が詰まる。
この人をどんなに海里が好きだったかということが、なぜだかわかってしまって、私まで苦しくなる。
ちょっと青い顔で真っ直ぐに私を見つめたまま、私の返事を待ってくれているその人に、私は必死で口を開いた。
「連れて来るように言われたから……」
声がかすれた。
その人は静かに、私が伝えられなかった言葉を補ってくれた。
「……海君が?」
そう『うみくん』。
この人が海里のことをそう呼んでいることを私は知っている。
本当の名前ではないのに、海里の本質を見事に言い当てているかのようなその呼び名が、少し妬ましくて悔しい。
口は開かずただ頷いたら、その人が私に問いかけた。
「どこに行ったらいいの?」
海里の容態はどうなのかとか。
どうして本人じゃなく私が呼びに来たのかとか。
本来なら当然聞かれるようなことは全部なしで、本当に必要なことだけを口にするその人が、やっぱり妬ましい。
海里に時間がないことも、これがきっと最後になるってことも、全部知っててそれをもう受け止めてしまっているかのような態度に、どうしようもなく嫉妬する。
(私はこんなに悩んで……! 今だって心の中はまだぐちゃぐちゃで! 全然、覚悟なんてできないのに……これが違い? 確かに海里に愛されている人と、そうじゃない私との違いなの……?)
醜い自分の感情とこれ以上戦っていることが苦しくて、私はその人に背を向けた。
「送るから一緒に来て……」
一緒にいた友人に、その人が元気づけられている様子が、目には見なくても聞こえてくる。
「行ってこい。真実……泣くな、笑え!」
懸命に励まされている声が聞こえてくるから、やっぱりその人だって無理しているんだとわかった。
もうすぐ海里を亡くしてしまいそうなことに、どうしようもなく動揺して、それでも気丈であろうと必死に頑張っている。
そのことが嬉しかった。
まるで海里の気持ちになったかのように、私にだって嬉しかった。
最後に会った海で、海里が彼女と何を話したのか私は知らない。
ただ私は、行きの道中、車の中でやっぱり彼女を責めてしまった。
「私は許さない……! あなたのせいなんだから……どうしたって、あんな無茶をしたのはあなたのせいだから……!」
心の中にずっとためていた思いを、口に出して本人に言ってしまった。
相手の心に入りこんで、全てを受け入れてしまうような――そんな不思議な雰囲気が彼女にはあって、言うつもりなんかまるでなかったのに、いつの間にか言ってしまっていた。
「ごめんなさい……」
涙で滲んだような声に、それでも彼女のほうを決してふり返りはせず、背中を向けたまま私はくり返した。
「許さない」
私だって、彼女と同じくらい涙声だった。
「ごめんなさい……」
何度謝られても、素直に許せるはずなどなかった。
そんな頑なな自分が嫌だった。
彼女と会った次の日。
目を覚ました海里は、朝一で、私にスケッチブックを取ってほしいと言った。
――夏頃から海里が夢中になって、抱きかかえるような格好でいつも何かを描きこんでいたスケッチブック。
「何? まだなにか描くの?」
尋ねてみたら曖昧に首を振られた。
「うん……でも絵じゃないよ……ちょっと言葉を入れておきたいんだ」
「ふーん?」
よくわからないままに手渡したら、さっそくパラパラと開いて鉛筆を動かし始める。
海里がそのスケッチブックだけは誰にも見せようとしなかったことをよく知っている私は、少し離れたところで病室の片づけをした。
しばらく経った頃に、「ひとみちゃん」と小さな声で呼ばれる。
「これを真実さんに渡してほしい。いつかきっと俺を探しだして、ひとみちゃんのところに来てくれるはずだから……」
大事そうにスケッチブックをさし出しながら告げられた言葉に、思わず目が点になった。
――会うたびに、ついつい嫌なことばかり言ってしまう私に、今さらどんな顔してあの人と会えと言うのか。
「自分で渡せばいいでしょ! 縁起でもないこと言わないよ!」とも叫べたのに、不意をつかれたものだから、思わず真っ先に本音が出た。
「なんで私が!」
でもその言葉で正解だったんだと思う。
お蔭で私は、「もう俺は渡せないから」なんて海里が言うのだけは、聞かずに済んだ。
私の反応に、海里がまるでいつものように、ブッと吹き出す。
「お願い……頼むよ……これが本当に最後のお願いだからさ……」
「最後、最後って……! あんたにはいったい何回最後があるのよ!」
「あっ……やっぱり気がついた?」
「気がつかないわけないでしょう! 私をバカにしてんの?」
まるで今までどおりのやり取り。
小さな頃から何百回も何千回もくり返してきた、お決まりの光景。
「ううん。信頼してるし頼りにしてるんだよ」
だけど私は、真顔のままで自分をからかう海里に、最後の抵抗をした。
本当にこれが最後なんじゃないかと、不思議とそれが私にもわかったから、頑張った。
「でも海里……私だってあんたのことが好きだったのよ……知ってた?」
渋々スケッチブックを受け取りながらも、そんな反撃をしてきた私に、海里は驚きの目を向ける。
でも次の瞬間、その目が本当に優しい――慈しむような色に変わった。
「うん。知ってた……ずっと知ってた」
あまりにもあっさりと肯定されるから、ちょっとムッとする。
「でも一時の気の迷いだからねっ! 好き『だった』なんだからね……!」
「ハハッそれは残念……今の『好き』はもう違う人に向いてるの?」
一瞬、誰かの顔が頭を過ぎったが、私はそれをぶんぶんと首を振って追い払った。
「あんたには関係ないでしょ!」
「ハハハッ、それはそうだ……」
小さく笑った海里が、私を見てもう一度笑う。
「ありがとう、ひとみちゃん……」
照れ臭くて恥ずかしくて、本当は、「なんでお礼なんか言ってるのよ、バカ!」と叫んでしまいたかった。
でもその気持ちを必死に我慢して、私は頷いた。
「うん」
海里に託されたスケッチブックを胸に抱いて、ちょっと誇らしく俯いた。
この時、あいつの願いを素直に聞いてあげることができて、自分の思いを冗談交じりに告げることができて、本当によかったと思う。
それがやっぱり、私が海里と交わした最後の言葉になった。
――その日。
まるで眠るように穏やかな幸せそうな顔で、海里は息をひき取った。
生まれた時からの魂の片割れのように思っていた海里を、失ったら自分がどうなってしまうのか。
ずっと恐かったし、不安だった。
(私はちゃんとそのあとも生きていけるのかな……?)
でも現実は、私が想像していたよりずっと辛く悲しかった。
あんなに大好きだった海里を失ってしまったのに、私の日常は何事もなかったかのように、あまりにも当たり前に過ぎていくのだ。
「ひとみー。ご飯よー」
食欲はまったくないけれど、ママを心配させないためだけに、呼ばれれば食卓に着く。
そこには当然海里の姿はないけれど、まるであいつが病院に入院しているような感覚で、すんなりと受け止めてしまえる。
朝、学校へと向かう途中で、もう立ち寄ることはなくなった病院の窓を見上げる。
そこにはやっぱり海里の姿はないけれど、今度はあいつが自分の家に帰っているような感覚にとらわれた。
教室で顔を見なくても、また学校をサボって彼女に会いに行ってる気がしてならなかった。
四六時中一緒にいたつもりだったのに、最近の自分と海里はこんなにもすれ違っていたんだと思い知らされる。
そのすれ違いに、あきらかに気持ちを救われている自分が悲しい。
(ああ、きっと海里だ……ある日突然自分がいなくなっても、こんなふうに私が錯覚をおこせるくらいに、少しずつ距離を取っていってくれてたんだ……)
どこまでも気配りの行き届いた海里が、ちょっと憎らしくて、やっぱりどうしようもなく好きだった。
文化祭用にと海里が仕上げた絵は、その時期が来るまで、美術室の一画に大切に保管してあった。
変色しないようにと上から薄い布を掛けてあるが、そこに描かれた海の色は、確かに私の目に焼きついている。
(優しくて温かくて……そのくせ残酷で気紛れな……本当に海みたいな奴だったな……)
海里のことをそんなふうに過去の者として考えられる自分が嫌だった。
でも海里が望んで意図したとおり、確かに私は、いつかはここから歩きださなければならない。
海里の死を心の枷として、塞ぎこんで生きるような人生はあいつが最も嫌っていたものだし、私自身だってそんなものは望まない。
だから――。
(海里に負けないくらい、私も真摯に自分と向きあおう……!)
文化祭用にと半ばできあがりかけていた絵を、私はもう一度最初から描き直すことにした。
何を描こうかと考えるまでもなく、私の絵筆は自然と海里を描きだしていた。
人物を描くには、その人の人となりまでよく知っていなければ描けないような気がして、私は本来人物画が苦手だが、この絵だけは特別だ。
たとえもう一度会うことはできなくたって、目を閉じればこんなにも瞼の裏に焼きついている面影を、ただ手が動くままに描けばいい。
笑い顔も、ふざけた顔も、呆れた顔も、怒った顔も、海里の顔だったらこんなにも覚えている。
(海里……)
正直言って私は、今の今まで全然泣けなかった。
海里がいなくなってしまってから、誰の前でもどこでも、まったく泣けなかった。
でも、おぼろげにあいつの面影が甦ってくる画布の前に座っていたら、いつも陽だまりの中で幸せそうにスケッチブックを抱えていた窓際の席を見たら、ポロポロポロポロ涙が零れてきた。
(バカ……バカ海里!)
私の悪態を、いつも余裕で笑って受け止めてくれていた顔が浮かぶ。
「きっとひとみちゃんに会いにくるから」と、嬉しそうに『彼女』のことを語った顔が浮かぶ。
(わかったわよ。しょうがないから待っててあげるわよ……!)
私よりもっともっと辛いかも知れない気持ちを抱えて、それでも前を向いて生きて欲しいという海里の思いを無駄にせずに、本当にあの人が私までたどり着いたら、その時は、海里から託された『最後のプレゼント』を渡してあげる。
その時もしもこの絵ができあがっていたなら、私からのプレゼントとして一緒に渡してあげてもいい。
「遅くなったとしても絶対に来る」と海里が言い切った――あの人とあいつの絆の確かさを、私だって信じてみたい。
(来れるものなら来てみなさいよ!)
傲慢にそんなことを思った日から二ヶ月――だけどまだあの人は、私のところへやって来ない。
「やっぱり無理だったんじゃない? それどころか海里のことなんてすっかり忘れちゃって、もう新しい恋人と一緒にいるのかも!」
やけになってそんな言い方をする私に、陸兄はやんわりと釘を刺す。
「バカなこと言うんじゃないよ。本当はそんなふうに思ってないくせに……」
「陸兄に私の何がわかるの!」と叫びたいところだが、残念ながら何から何まで全部わかってしまっている気がしてならない。
待ちくたびれてじれじれして、それでも心のどこかではあの人が来てくれることを心待ちにしていることまで全部――。
「それより今日から文化祭だろ? 一般開放は日曜日だけ?」
「うん。最終日だから早く来ないと、夕方にはもう片付けに入っちゃうよ」
「OK。なるべく午前中に行く」
「うん」
大学へと向かう陸兄は、高校に向かう私とは通学路の途中でわかれて、大きく手を振りながら駅の方角へと向かっていく。
近くにいる時はそうでもないが、遠くなった姿をふり返って見てみたら、やっぱり陸兄はちょっと見には海里にも見えないことはない。
だからだろうか、なかなか目が離せない。
「ひとみ。早く行かないと遅刻するぞ!」
もう存在しないはずの面影を今でも追い続けている私を、小さく笑って陸兄が叫ぶ。
「うん」
私は慌てて駆け出した。
決していなくなるはずなどない陸兄のことまで、目を放したらもう会えなくなるんじゃないかと心配でたまらない自分が、私だって可笑しかった。
三日間の文化祭。
通常の授業では使われない第二美術室までをフルに使って、ズラリと並べられた私たち美術部の作品展は、まさに圧巻だった。
色使いでも絵の大きさでも、今坂先輩の右に出る者はいないが、海里の描いた絵もなかなかいいと私は思っている。
その思いは、なにも身びいきではなかったらしい。
「すごいね……」
「うん。綺麗だね……」
見学に来た学生たちも、美術部の部員たちも、口々に海里の絵を褒めるのが、私は自慢でならなかった。
遠い隅のほうに貼られた私の絵なんて、誰も見てくれなくてもいいくらいだった。
なのに――。
「これって、一生君でしょ? 五十嵐さんが描いたの?」
文化祭最終日に美術室を訪れた伊坂君は、一目で私の絵を見抜いてしまった。
海里を描きたいとは思ったものの、いざとなったらやっぱり照れ臭くて、重なり合う木々の木漏れ日の中に浮かぶ幻のように、よく見ればわかるぐらいの鮮明さで描いたつもりだったのに、そんな小細工全然通用しなかった。
「うん。やっぱりいいね……愛情がこもってる……」
「あ、愛情って!」
「違うの? 違わないよね……」
一人で納得してしまった彼に、もうあえて反論はしなかった。
伊坂君の思うように解釈してもらって、それでおそらく間違いはないだろう。
彼にとっては私なんて、しょせんその程度に、わかりやすい人間だ。
「で? 一生君の絵がこれなんだね……」
海里の大きな絵の前に立った彼の姿を見て、ふとそれをここまで運んでくれたのが伊坂君だったことを思い出した。
「あ……あの時は、これを運んでくれてありがとう……」
慌ててお礼を言った私を、伊坂君は顔だけでふり返った。
「ううん、どういたしまして……そっか、こんな絵だったのか……五十嵐さんが好きな相手ってこんな人なのか……いいね……」
なんだか意味が通じるような通じないような、彼独特の言い回しで海里のことを褒められる。
それはとっても嬉しいことだったけれど、私は海里と最後に交わした会話のとおり、伊坂君の言葉を微妙に訂正した。
「好き『だった』だよ……私にとって海里は、ずっと好き『だった』相手なの……」
「過去形? ふーん、じゃあ今は……?」
そんなふうに聞き返されてドキリと胸が跳ねる。
自分でもよくわからないけれど、海里を想っていたのとはまったく違うように、複雑に私の心に影響を与える人なら確かにいる。
ううん。本当はずっと前からいた。
ただ私は、海里を好きな自分の気持ちしか見えていなくって、ずっとずっと長い年月を、気づかないままに過ごしてきただけ。
(でもこれが恋かどうかなんて……そんなことわからない……!)
そう思った瞬間――。
「ひとみ! ……どう? ちゃんとまにあっただろ? ちょっと病院を抜けて来たぞ!」
海里とよく似た、でもやっぱり違う声で私を呼びながら白衣を翻らせて、陸兄が美術室に入ってきた。
わずかしかしない美術部員が、みんなハッとしたように息をのむ気配がわかる。
(そうだね……やっぱりパッと見には驚くくらい、陸兄は海里に似てるよね……)
そう思ったから、私はわざわざ声に出して陸兄の名前を呼んだ。
「陸兄……海里の絵ならこっち!」
「ああ」
快活に笑いながらみんなに会釈して部屋の中央へと進む陸兄の姿に、みんなの緊張がほぐれていく。
「一生君のお兄さんですか?」
伊坂君がそう問いかけてくれたことで、陸兄は海里の幽霊なんかではなく、別の人間だと、そこにいた全員に確かに認識されたようだった。
「ああ。そうです。どうも、海里がお世話になりました」
少し天然気味に人のいい陸兄に対して、伊坂君が「別に僕は関係ないです」なんて答えるような人じゃなくてよかった。
「いいえ、こちらこそ」
如才なく頭を下げてくれたことで、思わず私がホッとする。
「うん。いい絵だな……」
海里の絵を見つめて瞳を輝かせる陸兄の横顔を見て、嬉しかった。
「この海に、彼女と行ったんだって」
「そうか……」
ほんのしばらくの間海里の絵を眺め、他のみんなの絵も見てまわり、私の絵の前でうんうんと頷いてから、陸兄は慌しく帰って行った。
その間中、隣にくっついて説明を加えてまわっていた私に、陸兄がいなくなったら、また伊坂君が近づいてきた。
「いいんじゃない……? でも『いつから?』って聞いても、答えが返ってくるような簡単なものではなさそうだ……」
「うん。そうだね……」
私の中で、海里がいた場所に陸兄が入りこんだわけではない。
ずっとずっと昔から変わらずに陸兄は私の傍にさり気なくいた。
それが自分にとって、とても大切なことだったんだと、私がやっと気がつき始めただけ。
だから好きだとか恋だとか、そんな言葉では説明がつかない。
なんといっていいのかわからない。
「でもいいんだ……」
今はまだこれでいい――穏やかにそんなことを思った時、廊下ではなく、外から直接入れる美術室の入り口に、その人が姿を現わした。
まるで子供のように背が小さな、そのくせ大きな黒目がちの瞳が大人っぽい――海里の大事な人。
心臓が止まりそうなくらいビックリした次の瞬間。
私は嬉しくて嬉しくて、いっきに涙が溢れ出した。
自分がどんなに、その人が来てくれることを待ち望んでいたのかを思い知る。
(だって海里は、あんなに信じきっていたんだもの……よかった。本当によかった!)
人の気持ちなんて、時間と共にうつろっていくのが当然な中。
あんなに大好きだった人の心にも、海里が今でも消えることなく存在していることを見せつけられて、どうしようもなく嬉しかった。
今坂先輩に促されて海里の大きな絵の前に立ったその人は、涙をいっぱいにたたえた目で、先輩に問いかけている。
「この絵を描いた人って……」
だから私は、やっぱり海里は自分の本当の名前さえも彼女にあかしていなかったんだと知った。
(どれだけ自信家なのよ……本当に彼女がここまでたどり着けなかったらどうするつもりだったの?)
決して答えの返って来るはずはない嫌味は、心の中だけに留めておいた。
先輩から海里の苗字を聞かされたその人に、私は静かに近寄る。
「ひとうみ……『一生』何君?」
絵を見つめたまま尋ねた声に、そっと返事をした。
「『かいり』よ。『一生海里』。だからあなたが呼んでいた名前もあながち外れじゃないわ……」
驚いてふり返った彼女が、私の顔を見て呟いた。
「ひとみちゃん……」
海里が呼んでいたままのその呼び方が、不思議と嬉しかった。
「本当にここまで来たんだ……ずいぶん遅かったじゃない……」
嫌味たっぷりにそんなことを言ったのに、彼女の静かな笑顔は崩れない。
「ごめんなさい……私って本当に、何をやっても時間がかかるから……」
優しい笑顔につられるように、思わず私も笑顔になった。
「だけど……『遅くなっても真実さんは絶対来るから、だから待っててくれ』って……海里はそう言ったわ……!」
確かな信頼。
それを彼女が裏切らないでくれたことが嬉しくて嬉しくて――。
「……ありがとう」
らしくもなく頭を下げながらお礼を言ったら、
「ありがとう……」
ちょうど、彼女の言葉も私の声の上に重なった。
二人で顔を見合わせて苦笑する。
前回会った時は、本当にどちらも極限の精神状態で、私なんて彼女に、酷い言葉をぶつけることしかできなかった。
こんなふうに笑える日が来るなんて思いもしなかった。
いつの間にか今坂先輩も伊坂君も、他の美術部員もみんないなくなって、広い美術室には私たち二人だけだった。
嬉しそうに、懐かしそうに。それにも増してどうしようもなく愛しそうに。
海里の絵を見つめ続けるその人に、私は海里から預かったスケッチブックをさし出す。
「海里からあなたに……私だって中身は知らないわ……海里はこれだけは絶対に誰にも見せなかったの……」
そう言って私も、彼女と並んで海里の絵を見つめた。
「私、あなたがうらましかったわ……それに妬ましかった……海里はあなたのためにあんな無茶をしたんだもん……絶対に許すもんかと思った……許さないと思った!」
まるで海里そのもののような絵を目の前にしていると――不思議だ。
言葉がスルスルと口から出て来る。
「でも海里がいなくなってから……思い出すのは楽しそうな顔ばっかり……あなたと出会って、どんどん活き活きとしていった顔ばっかり……! 私が小さな頃からよく知ってた海里じゃなくって、あなたのことを好きになった海里を私は好きだったんだって、……なんだか思い知らされた……!」
一生誰にも言うつもりはなかった自分の気持ちを、海里が大好きだったその人に吐露したら、思いがけない言葉が返って来た。
「私も……私もひとみちゃんがうらましかった……私の知らない海君の本当の名前を呼んで、いつだって彼の傍にいれるひとみちゃんがうらましかった……彼の力になれるあなたが、妬ましくてたまらなかった……」
ビックリして、自分よりちょっと小さなその人の顔をのぞきこんだ。
黒目がちの大きな瞳が、私を真っ直ぐに見つめて、それはそれは嬉しそうに輝いた。
「私たち二人って、呆れるくらいにまったく同じ気持ちを胸に抱えてたんだね……」
照れ臭そうに笑われるから、思わず私まで笑顔になる。
「きっと彼にはバレバレだったろうね……」
こんなふうに穏やかにこの人と話ができて、誰よりも海里が喜んでいるんだろう。
いつもいつも、たぶんあいつを困らせてばかりの私の片想いだったけど、こんな形で海里の役に立つことができてよかった。
それが涙が出るほどに嬉しかった。
文化祭が終わったら、私からもプレゼントがあると伝えたら、その人――海里の大切な真実さんは、ちょっと迷った末に私の耳に口を寄せた。
「それなら私も……ひとみちゃんにプレゼントがあるの……ちょっと遅くなるけど、来年の夏には、また海君に会わせてあげる……」
「えっ?」
よく意味がわからず首を捻る私に、笑いながら真実さんは自分のお腹に両手を添えた。
(以前会った時、確か華奢すぎるくらいに痩せている人だと思ったのに……そういえばちょっと太ったのかな……?)
のんびりとそんなことを考えてから、私はふとある可能性に思い当り、驚きのあまり大きな声が出た。
「えっ! それって、まさか……⁉」
真実さんはまるで海里のように、余裕たっぷりに笑って頷いた。
「うん。海君がくれた命……だからきっと、ひとみちゃんがよく知ってる海君に、またもう一度会えるよ……」
(……なんてこと! 陸兄は……! 叔父さんは、このことを知ってるの? ううん……そもそも海里自身は?)
おそらく一瞬にして百面相になったに違いない私を、それでも優しく見上げながら、真実さんはニッコリと笑う。
「海君は知ってる……ちゃんと話した。ありがとうって言ってくれた。だから私守るから……何があったって、きっとこの子を守ってみせるから!」
初めて見た時から、可愛くて、男が守ってあげたくなるような女の子そのもので。
海里もきっとそんなところが好きだったんだろうとばかり思っていたのに、私の予想以上に、真実さんは強かった。
私なんかの何倍も何十倍も強いと思った。
「いつかこの子に、海君の話をしてあげて……私が知らない海君の話をしてあげてほしいの……お願いできるかな?」
「……うん」
零れそうになる涙を必死にこらえて、私は頷いた。
たまらない気持ちで頷いた。
今はまだ、男の子か女の子かもわからないこの子が、海里によく似た仕草や姿を見せてくれたら、きっとその時も自分は泣くんだろうなと思う。
嬉しくて嬉しくて泣くんだと思う。
だからそうなる前にもう一度――。
「ありがとう……」
真実さんに向かって私は頭を下げた。
二人の絆を信じて待っていたお蔭で、自分まで素敵なサプライズに会えたことに、そこまで海里がお膳立てして逝ってくれたことに、感謝して頭を下げた。
(ありがとう海里……)
思い出すたびに、今はまだ胸が痛いけれど、いつかはもっと穏やかな気持ちで思い出せるようにもなるのだろう。
そうなるためのいろんな別れや出会い。
その全てに、感謝の気落ちを捧げたい。
(ありがとう)
海里を好きになってよかったと思った。
ずっとずっと好きでよかったと思った。
(私は忘れない。絶対に忘れないから!)
海里を『好きだった』気持ちを抱えて、これからも生きていこう。
――それが、あいつと共に一番長い時間を過ごした私の答えだ。
ずっとずっと変わることのない気持ちだ。
私の手を取って、真実さんがそっと自分のお腹に当てる。
「ほら、ひとみちゃんだよ」
まるでその声に応えるかのように、お腹の中からポンと合図が返ってくる。
その確かさに、海里が生きた証を感じた。
確かに海里という人間が存在したことを――再確認した。
(うん。やっぱり大好きだったな……)
またそう思えたことが、嬉しくてたまらなかった。
半年後。
奇しくも海里の誕生日の三日後に、真実さんは元気な男の子を産んだ。
生まれてすぐに保育器に入れられたあいつとは正反対に、いたって健康な赤ちゃん。
海里によく似ているというその子が、無事に生まれてきてくれたことを喜んだのは、なにも真実さんや彼女の家族や友だちばかりではない。
――私だって陸兄だって、心から嬉しかった。
「ひとみまだか? ……早くしないとおいて行くぞ!」
「ひどいなぁ、もう! ……だいたい……『会わせてあげるね』って真実さんに約束して貰ったのは私なんだから! 陸兄はただのつきそいのくせに!」
玄関で靴を履くのに手間取っている私を、待ちきれないように急かせる陸兄の大きな背中を、私は恨みがましく見上げる。
「意地悪言うなよ……俺がこの日をどんなに楽しみにしてたか……お前だって知ってるだろ?」
真実さんの友だちの愛梨さんからの電話を待ち侘びて、今か今かとウロウロしていた昨夜からの陸兄の姿を思い出す。
「うん……まるで陸兄が子供の父親みたいだった……」
笑い出してしまわないように苦労しながら必死に真顔で答えたら、もっと真剣な顔でふり向かれた。
「本当に俺の子供が生まれる時は、きっともっと落ち着かないよ……覚悟しといて、ひとみ」
(なんで私が覚悟するの!)
真っ赤になって反論したい心を、懸命にこらえた。
そんなことしたらきっと陸兄は、まるで当たり前のような顔で、もっと私をからかうだろう。
そうに違いない。
(ほんとにもう……! 兄弟して私で遊んでばかりなんだから!)
「陸兄のバカ!」
まるで海里にそうしていたように、思いっきり文句を言う。
そんな悪口さえ嬉しそうに受け止めて、「ハハハ」と大きな声で笑う陸兄の姿を、私はちょっと懐かしく見上げていた。
海里が亡くなってから八ヶ月。
私は、あいつともこんなやり取りをしていた日々を、やっと穏やかな気持ちでふり返ることが出来るようになっていた。
『飛行機だったら一時間。新幹線で三時間。高速バスだったら五時間』
生前、海里は真実さんの実家がある町のことを指して、そう言って笑った。
海里が新幹線で行き、帰りは真実さんとフェリーで帰ってきた町に、私は陸兄が運転する車で向かった。
「私……陸兄の運転だったら日が暮れちゃうんじゃないかって思ってた……でも意外と飛ばすんだね……」
何事もおおらかな心で受け止めて、どちらかといえば海里よりのんびりしていると思っていた陸兄だったが、高速を走る車の速度メーターは常に百二十キロを軽く越えている。
見る見る前方の車を追い越していく運転が恐くはなかったが、ちょっと意外だと思った。
「うん。まあ、のんびり行ってもいいんだけど……今日は、一刻も早く『海』に会いたいからね!」
「そ、そう……」
運転席の陸兄に向けていた顔を、私は慌てて前方に戻す。
遥か先のほうに、本当に鈍く光る海が見えてきた。
真実さんは、生まれてくる子が男の子でも女の子でも『海』と名づけると以前から言っていた。
――それは彼女に名前さえ明かさなかった海里を、彼女が勝手に名づけて呼んでいた名前。
『絶対無理だと思ってたのにな……凄いよ……結構いいせんいってる! うん、今までで一番かも。真実さん凄い!』
彼女にそう呼ばれて、海里がとても喜んでいたというのは、あとになって真実さんに聞かせてもらった話だ。
その話を聞いた時に、やっぱり二人は特別だったんだなと思った。
私なんかの――ううん。たとえ他の誰でも――入り込む隙間なんて全然ないくらい、出会って恋に落ちることが運命づけられていた二人だったんだなと、改めて思った。
二人の特別な思い出がたくさん詰まった『海』という名を、これから真実さんは小さな我が子に対して呼びかける。
海里の命を受け継いだその子に、これ以上ピッタリな名前はないと、私もそう思う。
「早く会いたいな……」
どんどん近くなってくる窓の外の風景の海を眺めながら呟いたら、陸兄が「よし!」と返事した。
ただでさえ速かった車の速度が、段違いにまた速くなるから私は大慌てする。
「そんなにスピード出したら、スピード違反で捕まってかえって遅くなっちゃうでしょ!」
陸兄がまた、大きな声で「ハハハ」と笑った。
「大丈夫! 俺はそんなヘマはしない!」
自身たっぷりの言い方が、また海里を思い出させて。
でも本当に何事もそつなくこなしてしまう陸兄らしくもあって。
私も声をたてて笑った。
「じゃあ、規定速度以内で急いで!」
「OK!」
飛ぶように過ぎて行く窓の風景の中に、海はまた見えなくなった。
「ひとみちゃん! 本当に来てくれたんだ。遠かったでしょ? ありがとう……」
十五時間以上も陣痛で苦しんだというわりには、とても穏やかな満ち足りた笑顔で、真実さんは私たちを迎えてくれた。
「陸人さんも、ありがとうございます……」
真実さんの友人たちは、やっぱり陸兄の姿を見てちょっとたじろぐそぶりを見せたが、真実さんはまったく動じない。
どんなに陸兄が海里に似ていても、彼女にとってはまったく別人なんだということが、私は嬉しくて誇らしかった。
「いえ。こちらこそありがとう……」
真実さんに向かって深々と頭を下げる陸兄に、つられるように私も頭を下げた。
そんな私たちを、真実さんは本当に聖母のような笑顔で見つめている。
「今、ちょっと検査に行ってるんだけど、もうすぐ帰ってくるから……」
自分のベッドのすぐ横に置かれた新生児用の小さな小さなベッドを見ながら、真実さんが笑う。
ベッドに付けられたプレートには、『白川海 男 50cm 2940kg』とマジックペンで書いてあった。
「もう名前が書いてある……」
思わず呟いた私に、真実さんの友人で長髪美人の貴子さんが返事をくれる。
「そう。本当はまだ真実の名前が書いてあるはずの場所なのに、このママは『名前はずっと前から決まってるんです』って強引に書いてもらったんだ」
ふふっと真実さんが嬉しそうに笑った。
「だって本当だもの。海君ともそう約束したもの」
真実さんの声でひさしぶりに海里の呼び名を聞いて、なんだかドキリとした。
その声にこもる愛情とか愛しいと思う感情とか、彼女に初めて会った時から何一つ変わっていないように感じた。
「お腹にいる時からずっとそう呼んでたから、きっと本人も自分は『海』って名前なんだって、わかってると思うんだよね……」
「生まれたばっかりの赤ん坊が、そんなことわかってたら恐いだろ!」
貴子さんの叫びに、部屋にいた全員が笑い出した瞬間、扉が開いて淡い水色のタオルにくるまれた赤ちゃんを抱いた看護師さんが部屋に入ってきた。
「検査終わりましたよ。よく眠ってるけど、どうしますか? ベッドに寝かせますか?」
ズラリと並んだお見舞いの面々を見渡しながら、看護師さんが真実さんに問う。
真実さんは笑いながら、私の名前を呼んだ。
「ひとみちゃん、抱いてあげてくれる?」
私は赤ちゃんを抱くどころか、小さな子供と接したこともほとんどない。
ドキドキしながら頷いたら、陸兄が耳元でそっと囁いた。
「頑張れ、伯母さん!」
「なんで伯母さんなのよ!」
大きな声で叫んだらせっかく寝ている赤ちゃんを起こしてしまいそうだったので、小さな声で文句は言っておいた。
看護師さんから手渡される、温かくて確かな重みにドキドキする。
タオルにくるまれた顔をのぞきこんでみたら、本当に海里によく似ていて思わず泣きそうになった。
「海……ひとみちゃんだよ。パパの従兄妹。パパはひとみちゃんのことが大好きだったんだ」
真実さんが優しい優しい――本当に優しすぎる声でそんなことを言うから、ますます涙が零れそうになる。
隣から手を出して、私の腕から海を抱き上げる陸兄にあとは任せて、私は両手で顔を覆った。
「海……陸人さんだよ。パパのお兄さん。海の伯父さんだね」
「初めまして、甥っ子君……」
静かに囁いた陸兄の声は、ちょっと涙声だった。
「俺、かすかに覚えてるんだ……海里が生まれた時のこと……そういえばこんなふうだったなあって、海を見てたら記憶がどんどん鮮明になってくる……真実ちゃん、ありがとう……」
「ううん。私こそありがとう……今だけ……ごめんなさい……まるで海君が海を抱いてくれたみたいに見える……」
彼女が謝ったのは誰に対してなのか。
――それは海里にかもしれないし、陸兄にかもしれない。
ひょっとしたら私の陸兄に対する想いを、敏感に感じ取ってくれたからかもしれない。
でもその時その部屋にいた人間は、誰もそんなことで気分を害すような者はいなかった。
スヤスヤと眠る海を見つめて、嬉しそうに微笑む陸兄の姿に、私だって、決して見ることのできないはずだった夢のような光景を見たと思った。
もしも海里が生きていたなら、海の誕生をきっと手放しで大喜びしたはずで。
息子のこれからの人生を、全力で支えて守っていったはずで。
だからその役目の一端でも、私も手伝いたいと思う。
これからたった一人でこの子を育てていく真実さんを、少しでも助けてあげたいと思う。
「おっ? 目を覚ますか?」
腕の中で身じろぎし始めた海を、陸兄がそっと真実さんに渡した。
やっぱり誰よりも一番しっくりくる腕に抱かれて、小さな小さな命が、ふわっと欠伸をしてから目を開いた。
真実さんに良く似た黒目がちの大きな瞳に真っ直ぐに見つめられて、のぞきこんでいたたくさんの大人たちは口々に感嘆の声を上げる。
「かあわいい。おーい海君。愛梨だよ」
「私は花菜!」
「こりゃあ、海里よりもいい男だな……」
「うん。真実よりかしこそうだ……」
「ひどい、貴子! ママだってちゃんと大学卒業できるように頑張ります!」
「ハハハハッ」
その綺麗な瞳には、きっとまだ周りの風景は映らないだろう。
でもにぎやかな声は聞こえているはずだ。
小さな唇の両端が、偶然にも笑顔のようにちょっと持ち上がって、大人たちはまた歓喜の声を上げる。
「笑った! 笑ったよ!」
「きっとすぐに、海里みたいに大口開けて笑うようになるぞ」
「うん。そうだね……」
小さな我が子の笑顔を見つめて、真実さん自身もまるで聖母のような笑顔になった。
その二人を包みこむように窓から射しこむ、うららかな五月の光の中に、私は海里の姿を見たような気がした。
嬉しそうに、幸せそうに、真実さんと小さな海を見つめて微笑んでいるような気がした。
(よかったわね……)
心の中だけで話しかけたら、ニッコリとあのちょっと悪戯っぽい満面の笑みを向けられる。
(うん。ひとみちゃんも、兄貴と仲良くね)
(そ、そんなこと、あんたに言われなくったってわかってるわよ!)
(うん。そうだと思った。だから安心してる)
それはきっとまぼろし。
私にしか聞こえない幻聴。
でも海里は本当に、これからも真実さんと小さな海と共にあるんだと思った。
姿は見えなくても、声は聞こえなくても、確かにそこにいるんだと思った。
――だから大丈夫。
きっと真実さんと小さな海は大丈夫。
そう思えたことが嬉しかった。
いつの間にか見えなくなった海里の姿と共に、私の中のちょっと切ない初恋への思いも消えていく。
静かに穏やかに、まるで泡が消えていくように少しずつ昇華していく。
(バイバイ、海里)
心の中で呟いた瞬間に、「ひとみ」と私を呼ぶ声がした。
急いでふり返って、私に向けられる、決してまぼろしではない陸兄の笑顔に見惚れる。
「そろそろ、帰るぞ。真実ちゃん……また来るね……」
海里の大切な真実さんにはぺこりと頭を下げて、私に向かってさし出される手。
それが自分にだけ与えられるということが、どんなに特別でどんなに奇跡みたいに素晴らしいことなのか。
私は知っている。
だから、いつも意地を張ってばかりの自分を今だけは追い払って、素直に陸兄と手を繋ぐ。
いつになくドキドキしながら繋いだ。
「よし! 帰りも全力で急ぐぞ!」
私の手を握ったまま、高々と腕を突き上げる陸兄の姿に笑う。
確かに――愛しいという想いを感じながら笑った。
(ハハハッ。よかったね。ひとみちゃん……)
またどこからか、海里の大笑いと優しい祝福の声が聞こえた気がした。
――それはきっと、私が「ずっと好きだった」人からの、最後のメッセージ。
(終)