先生から許可が出たわずかな時間だけ、海里はベッドを下りて窓際の椅子で絵筆を握る。
 
 時々目を閉じて何かを思い出すようにしながら、目の前にあるものとは全然違うものをキャンパスに描きだしていく姿を、少しでも長く見ていたくて、私は毎日大急ぎで病院へと向かった。
 
 私が花や木を描くのが好きなように、海里にも好きなものがある。
 彼は人物を描くのが好きだったし、また上手だった。
 なのに――。
 
「えっ? 風景を描いてんの?」
 
 背後からキャンパスをのぞきこんで、つい声に出して言ってしまった。
 海里はクスリと笑って、顔だけ私をふり返る。
 
「そうだよ……そんなに変かな?」
「うん」
 
 画布の大半を占めている青を基調とした色のものは、ひょっとして海ではないだろうか。
 黒っぽい岩と小さな砂浜と真っ青な空。
 
(浜辺の風景だ!)
 
 そう思うだけで、もうどうしようもなくドキドキした。
 
「なんか……名前と関係あるから? って聞かれるのが嫌だから、海は描かないって言ってなかった……?」
 
「ああ……そういえばそうだね……」
 
 そんなこと、今の今まで忘れていたとでも言うように、海里は笑った。
 
「でも、描かなくちゃって思ったから……」
 
「そう……」
 
「どうして?」とか「なぜ?」とかいう質問を口にすることが、私は恐い。
 
 何を尋ねても、今はもうあまり聞きたくない答えにたどり着きそうで、とてもこれまでのように軽々しく口は開けない。
 
 その代わりに注意する。
 海里の表情。
 声音。
 行動。
 今まで以上に、そこから何かを読み取ろうと、私はいつだって真剣だった。
 
 静かに画布に向かって、色を加え続けていた海里が、唐突に口を開いた。
 
「九月に入ったらすぐに誕生日なんだ。だから……」
 
「誰の?」とは聞かない。
 そんなことは聞かなくってもわかってる。
 
「プレゼントするんだ?」
「うん」
 
 海里に好きな人がいることを、ちゃんと口に出して本人に確かめておいてよかった。
 きっと他の誰にも話さないこんな話を、私にだけはしてくれる。
 
(本当は今だってまだ苦しい。辛い……でも……前よりずっと海里を近くに感じる……)
 
 それは私が、自分で望んで手に入れた特別な関係。
 だから、大丈夫。
 今だけは誰よりも、私が海里の心の近くにいる。
 
「だったら自分を描けばいいのに……『離れてる時もこれで寂しくないでしょ?』なんて……ゴメン、そんなキャラじゃないか、ハハッ……」
 
 自分で言ってて恥ずかしくなって、笑い話にしてしまおうとしたのに、海里はまじまじと私の顔を見た。
 
 それからこの上なく嬉しそうにニッコリと笑う。
 
「いや、いいかも! ありがと、ひとみちゃん!」
「う、うん……」
 
 さっきまでとはまた違う色をパレットに広げ始めた背中を、私は見つめた。
 
 もとから華奢だが、最近本当に細くなって。
 こうして座っていることだって、長い時間は続けられなくて。
 
 それでもまだ、何かをしようとしている。
 大好きな人のために、せいいっぱい何かをやってあげようとしている。
 
 そんな様子を見ていたら、喉の奥に熱いものがこみ上げてきた。
 
「できあがったら私が持って行こうか?」
 
 涙なんか絶対に浮かべないように努力して、明るく問いかけたら、もう一度ふり返られる。
 
「いや。それまでには体調を整えて、俺が自分で行く。前にも言ったでしょ? これだけは誰にも代わりはできない……俺が自分で行きたい……!」
 
(でも……)
 
 反論の声は、心の中だけにした。
「もう外には出れないんじゃ?」とか「無理だよ」とか
 ――そんな言葉、私自身が一番聞きたくない。
 
「じゃあ、ちゃんと静養して、また外出許可がもらえるように、真面目な患者しなさいよ! じゃないと……結局、『やっぱりひとみちゃんお願い……』ってことになるわよ?」
 
「ハハッ……そうだね。うん……頑張る!」
 
 小さく笑って、もう一度画布に向き直った海里に、私はもうそれ以上は話しかけなかった。
 
 どんなに頑張ったって、本当にもう彼女には会えないんじゃないかなんて。
 とても海里には言えない思いは、やっぱり胸の奥にだけ留めておいた。

 しかし、私の予想に反して、海里は九月の最初の日曜日。
 三時間の外出をすることを許可された。
 
 出かける準備を始めたのが夕暮れ。
 ひさしぶりの普段着に袖を通して、紙袋に入った荷物を片手に、病室を出ようとしたのは、もう外が真っ暗になる頃。
 
 いくら「何時でも海里君の希望する時間に」と石井先生が言ってくれたからといって、ちょっと遅すぎなのじゃないかと思った。
 
 家から着替えを持って来たのも、描きあげた絵を額に入れたのも、小さな花束を準備したのも、全部私――。
 
 少し前の私だったら、嫉妬で目が眩みそうだったはずなのに、今はもう海里のために何かができることが嬉しくって、それ以外の思いは湧いても来なかった。
 
 ただ恐かった。
 
 病院の目も、私の目も届かないところで、また海里が倒れてしまったらどうしようと、そればかりが気がかりだった。
 
「ちょっとでも悪くなったら、すぐに呼んでよ? 絶対に絶対に連絡しなさいよ!」
 
 しつこいくらいに念を押す私を、「過保護!」と笑って、海里は出かけていった。
 
 願わくば、無事で帰って来て欲しいと――本当にそれだけを願っていた。
 


 約束の三時間より少し遅れて、海里が病院に帰って来るまで、私は家にも帰らず待っていた。
 
 看護師さんたちが出入りに使う、夜間外来を兼ねた小さな通用口。
 階段に腰掛けてボーッとしている私の隣に、何も言わず座る人がいる。
 
「陸兄。今、研修中じゃなかった? ……今日はもういいの?」
 
 その人以外には有り得ないと思って、誰かも確認しないで問いかけたら、小さく苦笑された。
 
「日曜の夜ぐらい、俺にも自由を下さい……ひとみこそ……明日は普通に学校だろ?」
 
 ちょっと高い位置から自分を見下ろす優しい瞳をふり仰いで、私は敢然と宣言した。
 
「それこそ……私にとっては何が最優先かってことよ! ……ここでこうしてることが、私にとっては明日の授業よりも大事なの!」
「俺だってそうだよ」
 
 ああ、本当にそうだなと、私はしみじみ思った。
 
 いつだって海里のことばかりで。
 自分のことなんて全部あと回しで。
 私が過ごしてきたのと同じくらいの時間を、陸兄だって同じように海里のことばかり考えてきた。
 
 近くでずっとそれを見てきた私には、よくわかっている。
 
 月の光を背に受けて、穏やかな笑顔を浮かべている人の顔を、改めて見つめ直す。
 海里によく似た、でも海里よりはやっぱりちょっと大人びた顔。
 
 陸兄は海里よりも物腰柔らかいし、実際優しいし。
 もてないはずはないと思うのに、いくつになっても弟のことばっかりで、全然女の人とどうこうという話は聞かない。
 
(その海里は恋人に会いに行ったっていうのにね……なんだか私も陸兄も……本当に変わってる……)
 
 思わず笑ってしまったら、(何?)と目線だけで尋ねられた。
 そんなところまで、ああ、やっぱり海里とよく似ている。
 
「ううん。海里は好きな人と楽しい時間を過ごしてるって言うのに……ここで待ってる私たちにはそんな相手もいないなんて……なんかおかしいなって……」
 
 自嘲気味に笑いながらそう告げたら、陸兄は見惚れそうなほどに綺麗に笑った。
 
「俺はいいんだよ……ひとみと一緒に海里を待ってるのが、一番楽しいんだから……」
 
 ドキンと胸が鳴った。
 聞きようによっては、自意識過剰な意味にも取れてしまう陸兄の返事に、なんだか戸惑う。
 
「えっと……私も、全然嫌だとは思わない……」
「うん」
 
 あまりにもあっさりと返事されてしまうので、さっきのはやっぱり自分の考えすぎだったのだと恥ずかしくなる。
 
(当たり前じゃない! 私にとって、陸兄が本当のお兄さんみたいなのと同じように、陸兄にとっての私は妹みたいなものなんだから!)
 
 でも、だけど、なんでか、上手く言えない違和感を覚える。
 
 陸兄がそれきり何も言わずに、私との距離をほんの少し縮めたからかもしれない。
 
 ちょっと動けば肩が当たるぐらいの距離。
 なのに全然嫌ではなくって、陸兄も海里と同じで、私にとっては特別なんだとふと思う。
 
 気がつけば、海里が外出許可を取ったと知った時から、ずっと心の中に抱え続けていた不安を、一瞬忘れている自分がいた。
 
 無事で帰って来る姿を見るまでは、きっと何も手につかないだろうからと、ここで待っていたはずなのに、その海里のことを一瞬忘れていた。
 
(……変なの)
 
 私にとってはいつだって、何よりもの最優先事項。
 なのに、海里のことを失念するなんて有り得ない。
 
 ブルブルと首を横に振って夜空を見上げると、隣で陸兄も顔を上げる。
 
「今日は星が綺麗だな……きっと海里もそう思っただろう……あいつ……今夜外出できて良かったな……」
「うん……」
 
 ――やっぱり私たちの一番の共通の話題は海里。
 
 そのことにホッとしている自分が、なんだか可笑しかった。

 暗い中を俯きながら帰ってきた海里は、出入り口の前に座る私と陸兄の姿を見るとビックリしたように目を見開いた。
 
「どうしたの、二人とも?」
 
 いつもどおりの快活な声だったが、その目が赤くなっていることに、気がつかない私ではない。
 
(あんたこそどうしたのよ? あんなに楽しみにしてたのに……何かよくないことでもあった?)
 
 何に対してだか、ちょっと怒りを覚えながら、私は立ち上がる。
 
「遅いのよ! 何かあったんじゃないかって心配するでしょ!」
「ああ。ごめん……大丈夫だよ」
 
 苦笑しながら入り口のドアを潜る海里を、追いかけようとしたら、わざわざふり返って制止された。
 
「ゴメン。今日はもう、すぐに寝るから……」
 
 ちょっと疲れたような物言いに、私が何か言葉を返すより先に、陸兄が一歩を踏み出して頷く。
 
「わかった。また明日来るからな」
「うん」
 
 二の腕を軽く陸兄につかまれて、病院の敷地の外へと連れて行かれながら、本当は気になってならなかった。
 
(だって! 今日のためにあんなに頑張ったのに……! どうして?)
 
 何があったのか、できることなら海里に根堀り葉堀り聞きたい。
 でもそれこそ、余計なお世話というものだ。
 
「会わなかったんじゃないかな……」
 
 陸兄の呟きに、私は伏せていた顔を慌てて上げた。
 
 私のほうをふり返りはせず、真っ直ぐ前を向いたまま歩き続けながら、陸兄は短い言葉だけを連ねる。
 
「プレゼントだけを置いてきた……そんな感じかな……会いたかったのに会わない……ひとみ……あいつの覚悟を無駄にしないで……」
 
 ドキリとこれ以上なく胸が跳ねた。
 
(覚悟って……なんでそんなもの……?)
 
 口に出して問いかけるのは、もう恐くて恐くて。
 黙ったまま私は歩き続けた。
 
 ポロポロと涙が零れる姿が、真夜中のおかげで誰にも見られずに済むことに感謝しながら、陸兄に手を引かれるまま、歩いて家まで帰った。



 翌日いつものように病室を訪ねたら、まるで昨日までと同じように、海里が窓際の椅子で絵筆を握っていた。
 
(…………?)
 
 どうやら描いているのも、まったく同じ海の絵だと気がついて、内心疑問に思いながらも、いつもどおりに声をかける。
 
「あれ? その絵、もうできたんじゃなかった? だからわざわざ持って行ったんでしょ?」
 
 海里はふり返りもせず、手も止めないままに返事した。
 
「あれとは別だよ……これは文化祭に展示してもらうために描いてんの」
 
 素っ気ない返事に、ちょっとムッとしながらも、これで話題が途切れてしまうのが嫌で、私は海里の背後に近づく。
 
「ふーん……綺麗な海……」
 
 思わず呟いたら、なんだか肩の力が抜けたように、海里が小さく笑った。
 
「本物に近づいてるならいいけどね……」
 
 どこか傷ついたふうの海里に、やっぱり昨夜の話は切り出しにくかった。
 その代わり、さっきまでより優しくなった雰囲気に便乗して、ずっと聞きたくて聞けなかったことを口にしてみる。
 
「……ここに行ったんだ?」
 
 あえて「いつ」とは言わない。
 それはもちろん、フェリーに乗ってどこかへ行って、海里が倒れた時のこと――。
 
 本人もよくわかっているらしく、確認もしないで、海里は簡単に答えをくれた。
 
「うん。綺麗なところだったよ……特に夜の星空は圧巻だった。この街じゃ全然見えないけど、空にはあんなに星があるんだって、生まれて初めて実感した……!」
 
「ふーん……」
 
 話すうちに気持ちが浮上していくのが、うしろ姿を見ているだけでもよくわかる。
 
(これでいいか)と思った。
 なにも詳しく話を聞いて相談に乗るのだけが、海里を元気づける方法ではない。
 
 ずっと一緒に生きてきた、私には私のやり方がある。 
 
「ひとみちゃんのほうはどう? 文化祭の絵……もうできた?」
 
 かなりいつもどおりの調子でそんなことを聞かれるから、待ってましたとばかりに私は腕組みをして、胸を張る。
 
「もちろんよ! 誰かさんと違って、私は夏休みの間もずっと美術室に通ってたんだから……!」
「…………どうもすみません」
 
 思わず笑いながら、私は海里に背中を向けた。
 これでちょっとは元気も出ただろうなんて、偉そうなことを思いながら、学校へ向かうため病室をあとにする。
 
「今坂先輩の超大作の隣に並べるんだから……さっさと丁寧に仕上げなさいよ……!」
 
 ハハッと軽く笑いながら、海里が片手を上げた。
 
「わかった……ありがとう」
 
 その反応に私はとても満足していた。
 これできっと大丈夫だろうなんて、その時の海里の気持ちを簡単に考えていた。
 
 もっと気をつけていれば、わかったはずなのに。
 ――今朝の海里は、とうとう一度も私と目をあわさなかった。
 
 それがどういうことなのか。
 ずっと傍で海里だけを見てきた私には、わかるはずだったのに――。
 
 肝心の時に役に立たなかった自分を、私はこのあと長い間悔やむことになったし、責める気持ちは、今だって完全に消えてはいない。


 
 教室に着いて、机の上に鞄を乗せた時。
 唐突にスマホに着信が来た。
 
 何気なく見て、画面に出ていた名前が『海里』だったから驚愕する。
 
 なんでもないのに私にあいつがわざわざ電話をしてくるなんて、絶対にないとわかっていたから、心臓が凍りつくような気がした。
 
「海里? ……何?」
 
 携帯の向こうで、大きく息をつきながら、もうどうしようもないほど具合が悪くなった時のような海里の声がした。
 
「……ひとみちゃん? 俺。悪い……ドジった。動けない。迎えに来て」
 
 途切れ途切れの声を聞きながら、私はもう駆けだしていた。
 
「どこにいるのよ! ……どうしたのっ?」
 
 鞄なんて置き去りに、大声で叫びながら、今来たばかりの学校の中を、校門へ向かって全力疾走していた。