朝、一睡もしていないベッドから起き出したら、朝食もそこそこに病院へ向かう。
 
 遅刻しないギリギリの時間まで集中治療室の前で過ごして、学校が終わるとまたすぐに駆けつける。
 
 授業中もいつでも確認できるように、スマホはずっと机の上に置いていたし、休み時間のたびに、陸兄から連絡が来ていないかと何度も何度も確認した。
 
 けれど待ち侘びた知らせは、一向に届かなかった。
 
「ひょっとしたらこのまま意識が戻らずに……という可能性もおおいにあります。覚悟はしておいて下さい……」
 自分だって目を真っ赤にして、神妙な面持ちで石井先生が告げた言葉が、頭からずっと離れない。
 
(覚悟って……覚悟って……!)
 
 そんなものできるはずがなかった。
 
(私はまだ海里になんにも言ってない! 勝手に彼女とどっか行ったことにも……陸兄にさえ嘘をついてたことにも、まだ全然文句も言えてないんだから……!)
 
 声を大にしてみんなの前で叫んだ建て前と――。
 
(さよならも……ありがとうも……大好きも……何一つ伝えてない!)
 
 決して誰にも言えない私の本音――。
 
 このままその全てが伝えられないまま、置き去りにされるのかと思うと、居ても立ってもいられなかった。
 
「海里! 海里! ねえ、目を覚ましなさいよ!」
 
 ようやく病室の中に入る許可が出て、眠る海里を間近で見下ろすことができるようになったら、私は開口一番怒鳴りつけてやった。
 
 隣に立つ陸兄も、私を咎めたりはしない。
 ベッドの横にひざまずいて、点滴のチューブがいくつも繋がった海里の手を、ただ握り締めた。
 
「起きろ、海里……みんな待ってるぞ……」
 
 海里とよく似たちょっと癖がかった明るい色の髪の頭が、深く俯いてしまう。
 
 陸兄が泣いている姿なんて、私は今まで十六年間、一度も見たことはなかった。
 
 だからこそ焦る。
 もうどうにも逃れようのないところまで、自分たちが追いこまれていることを自覚する。
 
 恐い。
 どうしようもなく恐いのに、私なんかの力じゃ、もうどうすることもできなかった。
 
 ただ海里だけ――海里本人だけが、私の恐怖も、陸兄の悲しみも追い払うことができるのに、その海里が目を覚ましてくれない。
 
 あのちょっと悪戯心を秘めた、だけどこの上なく綺麗に澄んだ瞳を、私に向けてはくれない。
 
「海里!」
 
 必死の思いで何度目か叫んだ声に、固く閉じた瞼がピクリと動いたような気がした。
 
 深く俯いてしまっている陸兄にはきっと見えない。
 私にしか見えない反応だったと思ったから、私は急いで畳み掛けるように何度も呼んだ。
 
「海里! 海里!」
 
 陸兄が驚いたように顔を跳ね上げる。
 その目の前で、あきらかに海里のこめかみや頬が動いた。
 
「海里!」
 
 陸兄の叫びに応えるかのように、海里はゆっくりと長く閉じていた瞼を開いた。
 
 ここがどこなのか。
 自分が今どういう状況なのか。
 確かめようとでもするように何度も目を瞬かせる。
 
 何かを言いたげに開かれた口元に、私は耳を寄せた。
 海里が無理に大きな声をふり絞らなくても、言葉を聞き取ってあげるために、そっと顔を近づけた。
 
 しかしそんな私の顔を見ながら、海里が放った言葉は――。
 
「ひとみちゃん……凄い顔……」
 
 三日ぶりに目覚めたばかりだというのに、それはそれは見事な笑顔で笑いかけられたから、口にしたのはずいぶん失礼な発言だったのに、不覚にもときめいてしまった。
 
 私がどんなに海里の笑った顔が好きなのかなんて、本人はまったく知らないだろう。
 だから特別な意味なんてない。
 ないとわかっているのに、真っ赤になってしまう頬は自分では止められない。
 
「バ……バカ海里!」
 
 ベッドの傍から逃げるように、二、三歩退いたら、また笑われた。
 
 その笑顔が愛しかった。
 
 ひょっとしたらもう二度と見れないかもしれないと、ほんのついさっきまで覚悟していたからこそなおさら、私にとっては何よりも大切だと実感した。

 たとえ海里が他の人のことを想っていたって、傍に居られるのなら、それでいいと思ってた。
 
 これからもずっと、いつか私が自分から離れていけるまで、このまま海里の優しさに甘えていたかった。
 
 私が海里に抱いている好意と、海里が私に感じてくれている好意は、きっと全然違う。
 
 ――そんなことはよくわかっている。
 
 でも、お互いに気がついているのに、気づいていないような、曖昧で居心地のいい関係を、できればこれからもずっと続けていたかった。
 
(でもそれじゃダメなんだ……)
 
 なくしてしまいそうになって初めて気がついた。
 
 ――私は本当に、海里になんにも伝えていない。
 
 だからいつか、海里が居なくなってしまったら、きっと私にはたくさんの後悔が残る。
 
 伝えたくても伝えられなかった言葉を、ずっと胸の中に抱えたまま生きていくことになる。
 
(それでいいの……? 本当にいいの……?)
 
 散々迷って、悩んだ末に私は決断した。
 
 海里に残された時間が短いにしろ、長いにしろ、そんなことは関係なく、もう自分の想いに決着をつけなければならない。
 
 そうして得た、新たな気持ちで、海里との残された時間を大切にしたい。
 
 だって悲し過ぎる。
 せっかくこんなに好きだったのに、海里とのたくさんの思い出よりも、後悔の思いばかりがあとに強く残ってしまったら、こんなに悲しいことはない。
 だから――。
 
(海里にはそうとわからなくていい……ただ自分で自分の気持ちに区切りをつけよう……!)
 
 その瞬間は、思っていたよりもすぐに、そして呆気なくやってきた。



 容態が落ち着いて、集中治療室から普段の病室に移動した日。
 
 学校帰りにやって来た私の姿を見るなり、海里は、
「ごめん……ご心配おかけしました……」
 と率直に頭を下げた。
 
 珍しく殊勝なその態度に、ついつい
「ふん!」
 と怒っているような返答をしてしまう。
 
 本当はもう、怒ってなどいなかった。
 でも一度は、ちゃんと言っておかなくちゃと思っていたことが、思わず口をついて出て来た。
 
「心配かけすぎなのよ! フェリーに乗ってたなんて、私だけじゃなくって、陸兄だって、石井先生だって知らなかったっていうじゃないの……! いったいどういうつもりなのよ! ……ほんとにバカじゃないの!」
 
「ゴメン……」
 
 その件に関しては心から申し訳なかったと思っているらしく、海里は何度も頭を下げる。
「ゴメン……」
 
 できれば自分から言い出してくれればよかったのに、海里がそれ以外には何も言わないものだから、私はあまり言いたくなかった言葉を口にした。
 
「別に隠しごとしたっていいけど……せめて行き先ぐらいは嘘つかないでよ……お願い……」
「うん……ゴメン……」
 
 海里が神妙な顔でもう一度頭を下げた瞬間、気がついた。
 ――今がその時なんだと悟った。
 
 いつもなんでも冗談にしてしまうくらい、私に対してはふざけた返事ばっかりする海里が、今は軽口を叩かない。
 
 しかも、自分のせいで散々みんなに心配かけたとわかっているものだから、いつもより素直に応待してくれる。
 
 答えづらい質問を投げかけるなら、今なんだと感じた。
 今ならきっと、海里は私が何を聞いたって、ごまかしたりはぐらかしたりせずに答えてくれるだろう。
 
 
(…………頑張れ! 頑張れ私……!)
 
 この場から逃げ出してしまいたいくらいの緊張に、ドキドキと胸を鳴らしながら、私は意を決して海里に真っ直ぐに向き合った。
 
「ねえ海里……」
「うん……?」
 
 邪気のない顔で、私を見つめ返す顔が胸に痛い。
 
(海里ってこんなにかっこ良かったかな……? ハハッ……笑っちゃうくらい、私の好きな顔だ……)
 
 決して一番に私を想ってはくれないと。
 そしてそう遠くない未来もう二度と会えなくなると。
 わかっているのに、そんなことを思ってしまう私はバカだ。
 本当に大バカだ。
 
 でもどうしようもない。
 いつから好きだったのかも思い出せないくらい、ずっとずっと昔から、一番近くにいて、ずっと想ってきた人なんだからしかたない。
 
(聞かなくちゃ……でも……聞きたくない……)
 
 いくつもの葛藤を乗り越えて、私は口を開いた。
 自分でも笑っちゃうくらい、まるで私らしくない小さな声だった。
 
「やっぱり好きな人がいるでしょ……? 倒れる前……フェリーでその人と一緒だった?」
 
 一瞬、海里がハッと息をのんだことはわかったが、私は目を逸らさなかった。
 決して逸らさなかった。
 
 その決意に応えてくれるかのように、海里が頷く。
 隠しもごまかしもしないで、真っ直ぐな瞳で私を見つめたまま頷く。
 
「うん」
 
 瞬間、私の中で何かが終わったことを感じた。
 悲しいよりも、苦しいよりもホッとした思いが大きくて、気がついたら涙が零れていた。
 
「ひ……とみちゃん……?」
 
 たぶんこれまで一度も、私の泣き顔なんて見たことのなかった海里が、呆然としたように私の名前を呼んだから、慌てて手の甲で涙を拭う。
 
 即座に踵を返して、急いで病室から出て行こうとすると、私の背中に海里の必死の声がかかる。
 
「ひとみちゃん!」
 
 けれど私はまったくふり返らず、海里の病室をあとにした。
 
 覚悟していたほど、落ちこみはしなかった。
 
 でも時間が欲しかった。
 それほど長い間でなくていい。
 ただ、たった今自分の中で葬った恋心を、一人きりでちょっとふり返るぐらいの時間でいい。
 
 小走りで廊下を抜けて、いつかも逃げこんだ非常階段にたどり着いたら、息をつく間もなく、誰かが私のうしろから入って来た。
 
 私を追って来れるはずもない海里が、まさか追いかけて来たんだろうか――。
 
 驚いてふり返ったら、なぜか陸兄が立っていた。
 私がまだ口を開かないうちに、両手を伸ばして、私を胸に抱きしめてしまう。
 
 本当に、ちょっと気持ちの整理をつけたかっただけなのに。
 それほど落ちこんでいるつもりはなかったのに。
 不思議だ。
 陸兄の腕の中にいると、涙が止まらない。
 
 全然そんなつもりはなかったのに、涙があとからあとから溢れ出て、全然止まらなくて、泣き崩れてしまう。
 
「偉いぞ、ひとみ……よく頑張った……!」
 
 海里に事情を聞いて追いかけて来たにしては、たどり着くのがあまりにも早過ぎる。
 きっと詳しい経緯なんてまるで聞いていないはずなのに、どうして陸兄には、私が何をしたのか。
 今どんな気持ちなのか。
 わかるのだろう。
 
「偉い、偉い……!」
 
 まるで小さな子供の頃のように頭を撫でられて、そのくせ、子供の頃とは全然違った抱きしめられ方をして、それでも陸兄の腕の中は居心地が悪くはなかった。
 
 誰にも知られないままに葬り去ろうとしていた想いだったのに、それでも陸兄が理解してくれて。
 褒めてくれて。
 嬉しいと思うほどには、居心地が良かった。

 その日はさすがにもう一度病室に顔を出すことは照れ臭くて、そのまま家に帰った。
 でも翌日の朝、私はまるで何もなかったかのように、いつもの時間に海里の病室を訪れた。
 
「いいか? 明日からも今までどおりにするんだぞ? 変に気を遣ったりする必要はない……そのほうが海里だって気が楽だし、ひとみだって何一つ失わないでいられる……どうにも我慢できない時には、いつだって俺が愚痴を聞いてやるから……」
 
 自分ひとりではとてもできなかっただろうけど、陸兄にそんなふうに言ってもらったから、なんとか実際に行動に移せた。
 
「今度はそう簡単に退院できるわけないんだから……美術室から取って来てほしい物があったら持って来るけど?」
 
 いつもどおり荷物の整理をしながら話しかけると、海里がホッと安堵した気配がした。
 それだけでも、陸兄の言うとおりにして良かったと思う。
 
「それじゃお言葉に甘えて……水彩の道具全部持って来て……イーゼルも含めて、いつもひとみちゃんが描いてるくらいの用紙サイズで……」
 
 遠慮なくつらつらと海里が答えるので、思わず手が止まる。
 
 ちょっと悪戯心に満ちた冗談交じりの声。
 その変わりなさが嬉しくて、笑ってしまいそうになる顔を必死に隠して、私はきっと海里が望んでいるだろう反応を返した。
 
「私に一人で持って来いって……? 学校からここまであのサイズのイーゼルを?」
 
 かなり棘のある、不満そうな声。
 でも私にはわかる。
 海里が見たかったのはきっと私のこんな反応なのだ。
 その証拠に――。
 
「あ……無理ならいいんだよ?」
 
 淡々と返したつもりらしい素っ気ない言葉が、もうどうしようもなく嬉しそうに、私には聞こえる。
 
 私は海里が期待しているとおり、長い髪を揺らしてガバッとふり返った。
 
「持って来るわよ! 持ってくればいいんでしょ? ぜんっぜん平気よ!」
 
 語気を荒げて偉そうに胸を張ったら、海里がお腹を抱えて笑いだした。
 
 その笑顔こそ――私が見たかったもの。
 
「なによ、バカ海里!」
 
 捨てゼリフを残して病室から去りながら、私の頬も緩まずにはいられなかった。
 
 一生一度の大失恋をして、それでもこれからも大好きな人の傍にいて、こんなふうに笑うことができる。
 そんな恋をしてよかったと思った。
 
 何もかもが思いどおりにいかなくて、悲しいことも、切ないことも多いけど、海里を好きになって良かったと心から思った。
 
 そう思わせてくれたのは陸兄の存在で、本当に感謝してもしきれないんだと、私にはそのことも、ちゃんとわかっていた。