朝、一睡もしていないベッドから起き出したら、朝食もそこそこに病院へ向かう。
遅刻しないギリギリの時間まで集中治療室の前で過ごして、学校が終わるとまたすぐに駆けつける。
授業中もいつでも確認できるように、スマホはずっと机の上に置いていたし、休み時間のたびに、陸兄から連絡が来ていないかと何度も何度も確認した。
けれど待ち侘びた知らせは、一向に届かなかった。
「ひょっとしたらこのまま意識が戻らずに……という可能性もおおいにあります。覚悟はしておいて下さい……」
自分だって目を真っ赤にして、神妙な面持ちで石井先生が告げた言葉が、頭からずっと離れない。
(覚悟って……覚悟って……!)
そんなものできるはずがなかった。
(私はまだ海里になんにも言ってない! 勝手に彼女とどっか行ったことにも……陸兄にさえ嘘をついてたことにも、まだ全然文句も言えてないんだから……!)
声を大にしてみんなの前で叫んだ建て前と――。
(さよならも……ありがとうも……大好きも……何一つ伝えてない!)
決して誰にも言えない私の本音――。
このままその全てが伝えられないまま、置き去りにされるのかと思うと、居ても立ってもいられなかった。
「海里! 海里! ねえ、目を覚ましなさいよ!」
ようやく病室の中に入る許可が出て、眠る海里を間近で見下ろすことができるようになったら、私は開口一番怒鳴りつけてやった。
隣に立つ陸兄も、私を咎めたりはしない。
ベッドの横にひざまずいて、点滴のチューブがいくつも繋がった海里の手を、ただ握り締めた。
「起きろ、海里……みんな待ってるぞ……」
海里とよく似たちょっと癖がかった明るい色の髪の頭が、深く俯いてしまう。
陸兄が泣いている姿なんて、私は今まで十六年間、一度も見たことはなかった。
だからこそ焦る。
もうどうにも逃れようのないところまで、自分たちが追いこまれていることを自覚する。
恐い。
どうしようもなく恐いのに、私なんかの力じゃ、もうどうすることもできなかった。
ただ海里だけ――海里本人だけが、私の恐怖も、陸兄の悲しみも追い払うことができるのに、その海里が目を覚ましてくれない。
あのちょっと悪戯心を秘めた、だけどこの上なく綺麗に澄んだ瞳を、私に向けてはくれない。
「海里!」
必死の思いで何度目か叫んだ声に、固く閉じた瞼がピクリと動いたような気がした。
深く俯いてしまっている陸兄にはきっと見えない。
私にしか見えない反応だったと思ったから、私は急いで畳み掛けるように何度も呼んだ。
「海里! 海里!」
陸兄が驚いたように顔を跳ね上げる。
その目の前で、あきらかに海里のこめかみや頬が動いた。
「海里!」
陸兄の叫びに応えるかのように、海里はゆっくりと長く閉じていた瞼を開いた。
ここがどこなのか。
自分が今どういう状況なのか。
確かめようとでもするように何度も目を瞬かせる。
何かを言いたげに開かれた口元に、私は耳を寄せた。
海里が無理に大きな声をふり絞らなくても、言葉を聞き取ってあげるために、そっと顔を近づけた。
しかしそんな私の顔を見ながら、海里が放った言葉は――。
「ひとみちゃん……凄い顔……」
三日ぶりに目覚めたばかりだというのに、それはそれは見事な笑顔で笑いかけられたから、口にしたのはずいぶん失礼な発言だったのに、不覚にもときめいてしまった。
私がどんなに海里の笑った顔が好きなのかなんて、本人はまったく知らないだろう。
だから特別な意味なんてない。
ないとわかっているのに、真っ赤になってしまう頬は自分では止められない。
「バ……バカ海里!」
ベッドの傍から逃げるように、二、三歩退いたら、また笑われた。
その笑顔が愛しかった。
ひょっとしたらもう二度と見れないかもしれないと、ほんのついさっきまで覚悟していたからこそなおさら、私にとっては何よりも大切だと実感した。
たとえ海里が他の人のことを想っていたって、傍に居られるのなら、それでいいと思ってた。
これからもずっと、いつか私が自分から離れていけるまで、このまま海里の優しさに甘えていたかった。
私が海里に抱いている好意と、海里が私に感じてくれている好意は、きっと全然違う。
――そんなことはよくわかっている。
でも、お互いに気がついているのに、気づいていないような、曖昧で居心地のいい関係を、できればこれからもずっと続けていたかった。
(でもそれじゃダメなんだ……)
なくしてしまいそうになって初めて気がついた。
――私は本当に、海里になんにも伝えていない。
だからいつか、海里が居なくなってしまったら、きっと私にはたくさんの後悔が残る。
伝えたくても伝えられなかった言葉を、ずっと胸の中に抱えたまま生きていくことになる。
(それでいいの……? 本当にいいの……?)
散々迷って、悩んだ末に私は決断した。
海里に残された時間が短いにしろ、長いにしろ、そんなことは関係なく、もう自分の想いに決着をつけなければならない。
そうして得た、新たな気持ちで、海里との残された時間を大切にしたい。
だって悲し過ぎる。
せっかくこんなに好きだったのに、海里とのたくさんの思い出よりも、後悔の思いばかりがあとに強く残ってしまったら、こんなに悲しいことはない。
だから――。
(海里にはそうとわからなくていい……ただ自分で自分の気持ちに区切りをつけよう……!)
その瞬間は、思っていたよりもすぐに、そして呆気なくやってきた。
容態が落ち着いて、集中治療室から普段の病室に移動した日。
学校帰りにやって来た私の姿を見るなり、海里は、
「ごめん……ご心配おかけしました……」
と率直に頭を下げた。
珍しく殊勝なその態度に、ついつい
「ふん!」
と怒っているような返答をしてしまう。
本当はもう、怒ってなどいなかった。
でも一度は、ちゃんと言っておかなくちゃと思っていたことが、思わず口をついて出て来た。
「心配かけすぎなのよ! フェリーに乗ってたなんて、私だけじゃなくって、陸兄だって、石井先生だって知らなかったっていうじゃないの……! いったいどういうつもりなのよ! ……ほんとにバカじゃないの!」
「ゴメン……」
その件に関しては心から申し訳なかったと思っているらしく、海里は何度も頭を下げる。
「ゴメン……」
できれば自分から言い出してくれればよかったのに、海里がそれ以外には何も言わないものだから、私はあまり言いたくなかった言葉を口にした。
「別に隠しごとしたっていいけど……せめて行き先ぐらいは嘘つかないでよ……お願い……」
「うん……ゴメン……」
海里が神妙な顔でもう一度頭を下げた瞬間、気がついた。
――今がその時なんだと悟った。
いつもなんでも冗談にしてしまうくらい、私に対してはふざけた返事ばっかりする海里が、今は軽口を叩かない。
しかも、自分のせいで散々みんなに心配かけたとわかっているものだから、いつもより素直に応待してくれる。
答えづらい質問を投げかけるなら、今なんだと感じた。
今ならきっと、海里は私が何を聞いたって、ごまかしたりはぐらかしたりせずに答えてくれるだろう。
(…………頑張れ! 頑張れ私……!)
この場から逃げ出してしまいたいくらいの緊張に、ドキドキと胸を鳴らしながら、私は意を決して海里に真っ直ぐに向き合った。
「ねえ海里……」
「うん……?」
邪気のない顔で、私を見つめ返す顔が胸に痛い。
(海里ってこんなにかっこ良かったかな……? ハハッ……笑っちゃうくらい、私の好きな顔だ……)
決して一番に私を想ってはくれないと。
そしてそう遠くない未来もう二度と会えなくなると。
わかっているのに、そんなことを思ってしまう私はバカだ。
本当に大バカだ。
でもどうしようもない。
いつから好きだったのかも思い出せないくらい、ずっとずっと昔から、一番近くにいて、ずっと想ってきた人なんだからしかたない。
(聞かなくちゃ……でも……聞きたくない……)
いくつもの葛藤を乗り越えて、私は口を開いた。
自分でも笑っちゃうくらい、まるで私らしくない小さな声だった。
「やっぱり好きな人がいるでしょ……? 倒れる前……フェリーでその人と一緒だった?」
一瞬、海里がハッと息をのんだことはわかったが、私は目を逸らさなかった。
決して逸らさなかった。
その決意に応えてくれるかのように、海里が頷く。
隠しもごまかしもしないで、真っ直ぐな瞳で私を見つめたまま頷く。
「うん」
瞬間、私の中で何かが終わったことを感じた。
悲しいよりも、苦しいよりもホッとした思いが大きくて、気がついたら涙が零れていた。
「ひ……とみちゃん……?」
たぶんこれまで一度も、私の泣き顔なんて見たことのなかった海里が、呆然としたように私の名前を呼んだから、慌てて手の甲で涙を拭う。
即座に踵を返して、急いで病室から出て行こうとすると、私の背中に海里の必死の声がかかる。
「ひとみちゃん!」
けれど私はまったくふり返らず、海里の病室をあとにした。
覚悟していたほど、落ちこみはしなかった。
でも時間が欲しかった。
それほど長い間でなくていい。
ただ、たった今自分の中で葬った恋心を、一人きりでちょっとふり返るぐらいの時間でいい。
小走りで廊下を抜けて、いつかも逃げこんだ非常階段にたどり着いたら、息をつく間もなく、誰かが私のうしろから入って来た。
私を追って来れるはずもない海里が、まさか追いかけて来たんだろうか――。
驚いてふり返ったら、なぜか陸兄が立っていた。
私がまだ口を開かないうちに、両手を伸ばして、私を胸に抱きしめてしまう。
本当に、ちょっと気持ちの整理をつけたかっただけなのに。
それほど落ちこんでいるつもりはなかったのに。
不思議だ。
陸兄の腕の中にいると、涙が止まらない。
全然そんなつもりはなかったのに、涙があとからあとから溢れ出て、全然止まらなくて、泣き崩れてしまう。
「偉いぞ、ひとみ……よく頑張った……!」
海里に事情を聞いて追いかけて来たにしては、たどり着くのがあまりにも早過ぎる。
きっと詳しい経緯なんてまるで聞いていないはずなのに、どうして陸兄には、私が何をしたのか。
今どんな気持ちなのか。
わかるのだろう。
「偉い、偉い……!」
まるで小さな子供の頃のように頭を撫でられて、そのくせ、子供の頃とは全然違った抱きしめられ方をして、それでも陸兄の腕の中は居心地が悪くはなかった。
誰にも知られないままに葬り去ろうとしていた想いだったのに、それでも陸兄が理解してくれて。
褒めてくれて。
嬉しいと思うほどには、居心地が良かった。
その日はさすがにもう一度病室に顔を出すことは照れ臭くて、そのまま家に帰った。
でも翌日の朝、私はまるで何もなかったかのように、いつもの時間に海里の病室を訪れた。
「いいか? 明日からも今までどおりにするんだぞ? 変に気を遣ったりする必要はない……そのほうが海里だって気が楽だし、ひとみだって何一つ失わないでいられる……どうにも我慢できない時には、いつだって俺が愚痴を聞いてやるから……」
自分ひとりではとてもできなかっただろうけど、陸兄にそんなふうに言ってもらったから、なんとか実際に行動に移せた。
「今度はそう簡単に退院できるわけないんだから……美術室から取って来てほしい物があったら持って来るけど?」
いつもどおり荷物の整理をしながら話しかけると、海里がホッと安堵した気配がした。
それだけでも、陸兄の言うとおりにして良かったと思う。
「それじゃお言葉に甘えて……水彩の道具全部持って来て……イーゼルも含めて、いつもひとみちゃんが描いてるくらいの用紙サイズで……」
遠慮なくつらつらと海里が答えるので、思わず手が止まる。
ちょっと悪戯心に満ちた冗談交じりの声。
その変わりなさが嬉しくて、笑ってしまいそうになる顔を必死に隠して、私はきっと海里が望んでいるだろう反応を返した。
「私に一人で持って来いって……? 学校からここまであのサイズのイーゼルを?」
かなり棘のある、不満そうな声。
でも私にはわかる。
海里が見たかったのはきっと私のこんな反応なのだ。
その証拠に――。
「あ……無理ならいいんだよ?」
淡々と返したつもりらしい素っ気ない言葉が、もうどうしようもなく嬉しそうに、私には聞こえる。
私は海里が期待しているとおり、長い髪を揺らしてガバッとふり返った。
「持って来るわよ! 持ってくればいいんでしょ? ぜんっぜん平気よ!」
語気を荒げて偉そうに胸を張ったら、海里がお腹を抱えて笑いだした。
その笑顔こそ――私が見たかったもの。
「なによ、バカ海里!」
捨てゼリフを残して病室から去りながら、私の頬も緩まずにはいられなかった。
一生一度の大失恋をして、それでもこれからも大好きな人の傍にいて、こんなふうに笑うことができる。
そんな恋をしてよかったと思った。
何もかもが思いどおりにいかなくて、悲しいことも、切ないことも多いけど、海里を好きになって良かったと心から思った。
そう思わせてくれたのは陸兄の存在で、本当に感謝してもしきれないんだと、私にはそのことも、ちゃんとわかっていた。
遅刻しないギリギリの時間まで集中治療室の前で過ごして、学校が終わるとまたすぐに駆けつける。
授業中もいつでも確認できるように、スマホはずっと机の上に置いていたし、休み時間のたびに、陸兄から連絡が来ていないかと何度も何度も確認した。
けれど待ち侘びた知らせは、一向に届かなかった。
「ひょっとしたらこのまま意識が戻らずに……という可能性もおおいにあります。覚悟はしておいて下さい……」
自分だって目を真っ赤にして、神妙な面持ちで石井先生が告げた言葉が、頭からずっと離れない。
(覚悟って……覚悟って……!)
そんなものできるはずがなかった。
(私はまだ海里になんにも言ってない! 勝手に彼女とどっか行ったことにも……陸兄にさえ嘘をついてたことにも、まだ全然文句も言えてないんだから……!)
声を大にしてみんなの前で叫んだ建て前と――。
(さよならも……ありがとうも……大好きも……何一つ伝えてない!)
決して誰にも言えない私の本音――。
このままその全てが伝えられないまま、置き去りにされるのかと思うと、居ても立ってもいられなかった。
「海里! 海里! ねえ、目を覚ましなさいよ!」
ようやく病室の中に入る許可が出て、眠る海里を間近で見下ろすことができるようになったら、私は開口一番怒鳴りつけてやった。
隣に立つ陸兄も、私を咎めたりはしない。
ベッドの横にひざまずいて、点滴のチューブがいくつも繋がった海里の手を、ただ握り締めた。
「起きろ、海里……みんな待ってるぞ……」
海里とよく似たちょっと癖がかった明るい色の髪の頭が、深く俯いてしまう。
陸兄が泣いている姿なんて、私は今まで十六年間、一度も見たことはなかった。
だからこそ焦る。
もうどうにも逃れようのないところまで、自分たちが追いこまれていることを自覚する。
恐い。
どうしようもなく恐いのに、私なんかの力じゃ、もうどうすることもできなかった。
ただ海里だけ――海里本人だけが、私の恐怖も、陸兄の悲しみも追い払うことができるのに、その海里が目を覚ましてくれない。
あのちょっと悪戯心を秘めた、だけどこの上なく綺麗に澄んだ瞳を、私に向けてはくれない。
「海里!」
必死の思いで何度目か叫んだ声に、固く閉じた瞼がピクリと動いたような気がした。
深く俯いてしまっている陸兄にはきっと見えない。
私にしか見えない反応だったと思ったから、私は急いで畳み掛けるように何度も呼んだ。
「海里! 海里!」
陸兄が驚いたように顔を跳ね上げる。
その目の前で、あきらかに海里のこめかみや頬が動いた。
「海里!」
陸兄の叫びに応えるかのように、海里はゆっくりと長く閉じていた瞼を開いた。
ここがどこなのか。
自分が今どういう状況なのか。
確かめようとでもするように何度も目を瞬かせる。
何かを言いたげに開かれた口元に、私は耳を寄せた。
海里が無理に大きな声をふり絞らなくても、言葉を聞き取ってあげるために、そっと顔を近づけた。
しかしそんな私の顔を見ながら、海里が放った言葉は――。
「ひとみちゃん……凄い顔……」
三日ぶりに目覚めたばかりだというのに、それはそれは見事な笑顔で笑いかけられたから、口にしたのはずいぶん失礼な発言だったのに、不覚にもときめいてしまった。
私がどんなに海里の笑った顔が好きなのかなんて、本人はまったく知らないだろう。
だから特別な意味なんてない。
ないとわかっているのに、真っ赤になってしまう頬は自分では止められない。
「バ……バカ海里!」
ベッドの傍から逃げるように、二、三歩退いたら、また笑われた。
その笑顔が愛しかった。
ひょっとしたらもう二度と見れないかもしれないと、ほんのついさっきまで覚悟していたからこそなおさら、私にとっては何よりも大切だと実感した。
たとえ海里が他の人のことを想っていたって、傍に居られるのなら、それでいいと思ってた。
これからもずっと、いつか私が自分から離れていけるまで、このまま海里の優しさに甘えていたかった。
私が海里に抱いている好意と、海里が私に感じてくれている好意は、きっと全然違う。
――そんなことはよくわかっている。
でも、お互いに気がついているのに、気づいていないような、曖昧で居心地のいい関係を、できればこれからもずっと続けていたかった。
(でもそれじゃダメなんだ……)
なくしてしまいそうになって初めて気がついた。
――私は本当に、海里になんにも伝えていない。
だからいつか、海里が居なくなってしまったら、きっと私にはたくさんの後悔が残る。
伝えたくても伝えられなかった言葉を、ずっと胸の中に抱えたまま生きていくことになる。
(それでいいの……? 本当にいいの……?)
散々迷って、悩んだ末に私は決断した。
海里に残された時間が短いにしろ、長いにしろ、そんなことは関係なく、もう自分の想いに決着をつけなければならない。
そうして得た、新たな気持ちで、海里との残された時間を大切にしたい。
だって悲し過ぎる。
せっかくこんなに好きだったのに、海里とのたくさんの思い出よりも、後悔の思いばかりがあとに強く残ってしまったら、こんなに悲しいことはない。
だから――。
(海里にはそうとわからなくていい……ただ自分で自分の気持ちに区切りをつけよう……!)
その瞬間は、思っていたよりもすぐに、そして呆気なくやってきた。
容態が落ち着いて、集中治療室から普段の病室に移動した日。
学校帰りにやって来た私の姿を見るなり、海里は、
「ごめん……ご心配おかけしました……」
と率直に頭を下げた。
珍しく殊勝なその態度に、ついつい
「ふん!」
と怒っているような返答をしてしまう。
本当はもう、怒ってなどいなかった。
でも一度は、ちゃんと言っておかなくちゃと思っていたことが、思わず口をついて出て来た。
「心配かけすぎなのよ! フェリーに乗ってたなんて、私だけじゃなくって、陸兄だって、石井先生だって知らなかったっていうじゃないの……! いったいどういうつもりなのよ! ……ほんとにバカじゃないの!」
「ゴメン……」
その件に関しては心から申し訳なかったと思っているらしく、海里は何度も頭を下げる。
「ゴメン……」
できれば自分から言い出してくれればよかったのに、海里がそれ以外には何も言わないものだから、私はあまり言いたくなかった言葉を口にした。
「別に隠しごとしたっていいけど……せめて行き先ぐらいは嘘つかないでよ……お願い……」
「うん……ゴメン……」
海里が神妙な顔でもう一度頭を下げた瞬間、気がついた。
――今がその時なんだと悟った。
いつもなんでも冗談にしてしまうくらい、私に対してはふざけた返事ばっかりする海里が、今は軽口を叩かない。
しかも、自分のせいで散々みんなに心配かけたとわかっているものだから、いつもより素直に応待してくれる。
答えづらい質問を投げかけるなら、今なんだと感じた。
今ならきっと、海里は私が何を聞いたって、ごまかしたりはぐらかしたりせずに答えてくれるだろう。
(…………頑張れ! 頑張れ私……!)
この場から逃げ出してしまいたいくらいの緊張に、ドキドキと胸を鳴らしながら、私は意を決して海里に真っ直ぐに向き合った。
「ねえ海里……」
「うん……?」
邪気のない顔で、私を見つめ返す顔が胸に痛い。
(海里ってこんなにかっこ良かったかな……? ハハッ……笑っちゃうくらい、私の好きな顔だ……)
決して一番に私を想ってはくれないと。
そしてそう遠くない未来もう二度と会えなくなると。
わかっているのに、そんなことを思ってしまう私はバカだ。
本当に大バカだ。
でもどうしようもない。
いつから好きだったのかも思い出せないくらい、ずっとずっと昔から、一番近くにいて、ずっと想ってきた人なんだからしかたない。
(聞かなくちゃ……でも……聞きたくない……)
いくつもの葛藤を乗り越えて、私は口を開いた。
自分でも笑っちゃうくらい、まるで私らしくない小さな声だった。
「やっぱり好きな人がいるでしょ……? 倒れる前……フェリーでその人と一緒だった?」
一瞬、海里がハッと息をのんだことはわかったが、私は目を逸らさなかった。
決して逸らさなかった。
その決意に応えてくれるかのように、海里が頷く。
隠しもごまかしもしないで、真っ直ぐな瞳で私を見つめたまま頷く。
「うん」
瞬間、私の中で何かが終わったことを感じた。
悲しいよりも、苦しいよりもホッとした思いが大きくて、気がついたら涙が零れていた。
「ひ……とみちゃん……?」
たぶんこれまで一度も、私の泣き顔なんて見たことのなかった海里が、呆然としたように私の名前を呼んだから、慌てて手の甲で涙を拭う。
即座に踵を返して、急いで病室から出て行こうとすると、私の背中に海里の必死の声がかかる。
「ひとみちゃん!」
けれど私はまったくふり返らず、海里の病室をあとにした。
覚悟していたほど、落ちこみはしなかった。
でも時間が欲しかった。
それほど長い間でなくていい。
ただ、たった今自分の中で葬った恋心を、一人きりでちょっとふり返るぐらいの時間でいい。
小走りで廊下を抜けて、いつかも逃げこんだ非常階段にたどり着いたら、息をつく間もなく、誰かが私のうしろから入って来た。
私を追って来れるはずもない海里が、まさか追いかけて来たんだろうか――。
驚いてふり返ったら、なぜか陸兄が立っていた。
私がまだ口を開かないうちに、両手を伸ばして、私を胸に抱きしめてしまう。
本当に、ちょっと気持ちの整理をつけたかっただけなのに。
それほど落ちこんでいるつもりはなかったのに。
不思議だ。
陸兄の腕の中にいると、涙が止まらない。
全然そんなつもりはなかったのに、涙があとからあとから溢れ出て、全然止まらなくて、泣き崩れてしまう。
「偉いぞ、ひとみ……よく頑張った……!」
海里に事情を聞いて追いかけて来たにしては、たどり着くのがあまりにも早過ぎる。
きっと詳しい経緯なんてまるで聞いていないはずなのに、どうして陸兄には、私が何をしたのか。
今どんな気持ちなのか。
わかるのだろう。
「偉い、偉い……!」
まるで小さな子供の頃のように頭を撫でられて、そのくせ、子供の頃とは全然違った抱きしめられ方をして、それでも陸兄の腕の中は居心地が悪くはなかった。
誰にも知られないままに葬り去ろうとしていた想いだったのに、それでも陸兄が理解してくれて。
褒めてくれて。
嬉しいと思うほどには、居心地が良かった。
その日はさすがにもう一度病室に顔を出すことは照れ臭くて、そのまま家に帰った。
でも翌日の朝、私はまるで何もなかったかのように、いつもの時間に海里の病室を訪れた。
「いいか? 明日からも今までどおりにするんだぞ? 変に気を遣ったりする必要はない……そのほうが海里だって気が楽だし、ひとみだって何一つ失わないでいられる……どうにも我慢できない時には、いつだって俺が愚痴を聞いてやるから……」
自分ひとりではとてもできなかっただろうけど、陸兄にそんなふうに言ってもらったから、なんとか実際に行動に移せた。
「今度はそう簡単に退院できるわけないんだから……美術室から取って来てほしい物があったら持って来るけど?」
いつもどおり荷物の整理をしながら話しかけると、海里がホッと安堵した気配がした。
それだけでも、陸兄の言うとおりにして良かったと思う。
「それじゃお言葉に甘えて……水彩の道具全部持って来て……イーゼルも含めて、いつもひとみちゃんが描いてるくらいの用紙サイズで……」
遠慮なくつらつらと海里が答えるので、思わず手が止まる。
ちょっと悪戯心に満ちた冗談交じりの声。
その変わりなさが嬉しくて、笑ってしまいそうになる顔を必死に隠して、私はきっと海里が望んでいるだろう反応を返した。
「私に一人で持って来いって……? 学校からここまであのサイズのイーゼルを?」
かなり棘のある、不満そうな声。
でも私にはわかる。
海里が見たかったのはきっと私のこんな反応なのだ。
その証拠に――。
「あ……無理ならいいんだよ?」
淡々と返したつもりらしい素っ気ない言葉が、もうどうしようもなく嬉しそうに、私には聞こえる。
私は海里が期待しているとおり、長い髪を揺らしてガバッとふり返った。
「持って来るわよ! 持ってくればいいんでしょ? ぜんっぜん平気よ!」
語気を荒げて偉そうに胸を張ったら、海里がお腹を抱えて笑いだした。
その笑顔こそ――私が見たかったもの。
「なによ、バカ海里!」
捨てゼリフを残して病室から去りながら、私の頬も緩まずにはいられなかった。
一生一度の大失恋をして、それでもこれからも大好きな人の傍にいて、こんなふうに笑うことができる。
そんな恋をしてよかったと思った。
何もかもが思いどおりにいかなくて、悲しいことも、切ないことも多いけど、海里を好きになって良かったと心から思った。
そう思わせてくれたのは陸兄の存在で、本当に感謝してもしきれないんだと、私にはそのことも、ちゃんとわかっていた。