学校が夏休みに入り、涼しい午前中の数時間だけ、絵を描きに美術室に通う生活が始まった。
 
 私は正直ホッとしていた。
 
 私と海里を含めても、片手で数えることができるくらいの人数しかいない美術部には、
「一生君の退院決まった? ……えっ、まだなの? ……大丈夫?」
 なんてくり返し聞く人はいない。
 
 みんなが海里のことを心配して声をかけてくれるのは嬉しいが、自分でもようやく平静を保っている精神状態の時に、
「うん、大丈夫」
 と嘘をつくことは、そんなに簡単ではない。
 
 だから夏休みに入って、クラスメートと顔をあわせなくて済むようになったことが、嬉しかった。
 
 ――そう。「大丈夫」なんて言葉がもう『嘘』でしかないと、私は悟っている。
 
 海里はあれからも何度か外出許可を貰い、たびたび病院を抜け出して彼女に会いに行っているようだが、帰って来たあとも以前のようにうかれた様子はまったくない。
 
 むしろじっと何かを考えこんでいる様子を見ていると、こちらまで苦しくなる。
 
(きっと……彼女にいつどうやってサヨナラを切り出そうかと、悩んでる……)
 
 あんなに嬉しそうに毎日会いに行っていたのにと思うと、自分の想いはそっちのけで、海里が可哀相でたまらなかった。
 
 大好きな人にサヨナラを告げる。
 ――それが出来ないからこそ、私自身は海里の気持ちが違う人に向かっているとわかった今でも、まだこうして傍にいるというのに。
 
(そんなに、もう……時間がないの?)
 
 口に出しては決して確かめることのできない言葉を、心の中だけでくり返しながら、私は海里をただ見守っていた。
 これまでよりほんの少し距離を置いて、何も口を出さず、ただ見ていた。
 
 ――それが結果として、海里の容態を悪化させることになったと、私は今でも後悔している。



「え? まだ帰って来てないの?」
 
 部活の帰りにいつもどおり立ち寄った病室に、その日はまだ海里の姿がなかった。
 
 時刻はもう四時。
 外出したにしてもいつもだったらとっくに病院に帰って来ている時間で、だからこそお土産に冷たいゼリーまで買って来たのに、申し訳なさそうにベッド横のパイプ椅子に腰掛けていたのは、海里ではなくて陸兄だった。
 
 陸兄は私の顔を見ると、苦笑いを浮かべながら椅子から立ち上がる。
 
「ごめん。今日は外出許可じゃなくて外泊許可を取ったから、ここには海里、帰って来ないんだ……」
 
 それなら早く言ってくれればよかったのにと、私は踵を返した。
 
「じゃあ私たちも早く帰ろう。陸兄、車で来てるの? 乗っけてって……!」
「……ひとみ!」
 
 さっさと病室をあとにして歩き出そうとした途端、真剣な声で名前を呼ばれたのでドキリとした。
 
「なに?」
 
 嫌な予感に苛まれながらふり返ると、陸兄がこちらに歩み寄って来た。
 
 基本の顔が笑顔かと思うくらい、いつもいつも笑っている陸兄なのに、なぜか今は笑っていない。
 この上なく真剣な表情をしている。
 
 少し悲しそうにも見えるその顔が、いっきに私の心の中の不安を煽った。
 
「なに? どうしたの?」
 
 まさか海里の身に何かあったのではないかと、身構えた私に向かって、陸兄は思いもかけない言葉を告げる。
 
「うちに帰ったわけじゃないんだ……行き先は俺だってハッキリとは知らない……だから……!」
 
 私はなんとも不思議な気持ちで、陸兄の顔を見返した。
 
(どういうこと……? だったら確かめたらいいんじゃないの……?)
 
 ポケットから取り出したスマホにタッチしようとした私の手を、すぐ目の前まで来ていた陸兄が掴んだ。
 
 静かに私のスマホをポケットへ戻させながら、おそらくどんな言葉よりも言い出しにくかったであろう言葉を、私に告げる。
 
「連絡はしないであげて……一人じゃないから……」
 
(一人じゃ……ない……?)
 
 ゆっくりと頭の中でくり返した言葉の意味に、いっきに私の心臓は跳ね上がった。
 
 ドクドクと体中の血液が頭に上ってくるような感覚。
 
 私は大慌てて陸兄に背を向けた。
 驚きとショックで、真っ赤になっているんだか真っ青になっているんだかわからない顔なんて、誰にも見せられない。
 
 ましてや、いっきに浮かんで来た涙なんて尚更――。
 
 だけど、急いで逃げ出そうとした私を、陸兄はいつものように黙ったまま見送ってはくれなかった。
 
「ひとみ、ごめん……でもわかって……!」
 
 私の腕を掴んで引き寄せて、あっという間に抱き締めてしまう。
 身長差が三十センチもある陸兄の腕の中から、逃げ出すなんてそうそうできることではない。
 
「バカ! 陸兄のバカ! 放して!」
 
 必死にもがく私の頭を自分の胸に押し付けるようにして、陸兄はますます腕に力をこめる。
 
「ごめん……でもこれが最初で最後だから! ……きっともう『次』なんてものは海里にはないから……!」
 
 そんな言葉聞きたくないのに――。
 両手で耳を塞いでしまいたいのに――。
 
 いつも温和な笑顔の陸兄は、やっぱり、優しそうで優しくない海里の兄さんなんだと再確認する。
 
「陸兄のバカ!」
 
 八つ当たり気味の言葉しか出せない私が、ふり上げるこぶしも、止まらない罵倒も、全部全部陸兄は全身で受け止める。
 今までのように、はぐらかしたり、ごまかしたりは決してしない。
 
 それが悲しかった。
 何度もくり返される『最後』という言葉以上に、海里にもう時間がないことをありありと語っているようで、辛くてたまらなかった。
 
(悲しくて……苦しくて……もう海里のことなんて考えたくない! 今この時も、大好きな人と一緒にいる……そのくせもうじき、その人さえ置き去りにしていなくなってしまう、自分勝手な海里! ……可哀相な海里!)
 
 私は必死で首を横に振った。
 
「嫌だ! ……そんなの嫌!」
 
 私が拒否したいのは、外泊許可を取った海里が、誰かとどこかへ行ったという事実よりも、きっと、陸兄に下された最後通告のほうだった。
 どうしても受け入れたくなくて、泣き叫びながら首を横に振り続けた。
 
 その間ずっと陸兄は、「ごめん」と謝りながら、私を抱き締めていた。
 私が落ち着いて話が出来るようになるまで、ずっとずっと――。

 陸兄の車に乗って家へと帰る間、私は一言も口をきかず、窓の外へ視線を向け続けた。
 
 例えばこんな時海里だったら、触らぬ神に祟りなしとばかりに、自分のほうもしらんぷりを決めこんでしまうのだが、陸兄はそうではない。
 
 私が返事をするまで、くり返しくり返し話しかけてくる。
 しまいにはとうとう根負けして、私も開くつもりはなかった口を開いてしまうというのが、これまでの常だった。
 
「ごめんなひとみ……」
 
 いつもどおりにくり返される言葉を、最初のうちは聞き流していたが、私もそれほど冷血に徹することができるわけではない。
 
 ましてや今回の件で、陸兄は当事者でもなんでもないのだ。
 
 それほど何度も私に謝らなければならない理由なんて、陸兄には何もない。
 
「陸兄のせいじゃないよ……」
 
 やっぱりいつもどおりに根負けして口を開いたら、陸兄はホッとしたように息をついた。
 そのくせ、頑なに首を振る。
 
「いいや、俺だよ。ひどいこと言ったってわかってる……だからごめん……」
 
 私の気持ちをどこまでも正確に読み取ってしまう陸兄が、恐いくらいだったけれど、少し嬉しかった。


 
 泣き疲れてぐったりしながら家に帰るとすぐ、私は夕食も断わって自分の部屋へ引きこもった。
 
「どうしたの?」
 としつこく尋ねられなかったところを見ると、どうやらママも海里の外泊については知っていたらしい。
 
(私一人だけが何も知らされていなかったってわけね……!)
 
 やっぱり頭に来て、制服のままベッドに倒れこむ。
 
 枕に顔を押し付けるようにしてうつ伏せになっていると、涙まで浮かんできそうで、私は慌てて上を向いた。
 
(いいわよ。勝手にすればいいじゃない! 別にこれで最後でなくたって……全然構わないわ!)
 
 強がったついでに、スマホの電源を切る。
 
 まちがっても、思い余って海里に連絡したりしないように――それは私が自分で自分に張った防衛線だった。
 
(好きにすればいいわ!)
 
 ――海里の好きなように。
 
 それは強がりでもあったけれど、私の本音でもあった。
 それで海里が少しでも前向きになってくれるなら、以前のように私をからかって笑顔を見せてくれるなら、それで充分だった。
 
(その人と一緒にいて、海里が幸せなら……!)
 
 けれどそんな想いのなにもかもが、全部裏目に出る。

 翌朝。
 今日はもう部活もサボってしまおうと思って、朝寝を満喫した私は、遅い朝食の最中に、家の電話で陸兄からの連絡を受けた。
 
「何度もスマホに連絡したんだぞ!」
 
 珍しく語気を荒げる陸兄の声に、ドキリと胸が跳ねる。
 
「ごめん……電源切ってた……」
 
 答える声は自分でもハッキリとわかるくらいに震えた。
 
 そんなことにもまったく言及せず、陸兄は電話の向こうで真剣に話し続ける。
 
「いいか、ひとみ。落ち着け。落ち着いて聞けよ……」
 
 何度も念を押されるから、ますます胸が逸る。
 
「どうしたの……?」
 
 尋ねると同時に、陸兄が告げた。
 
「海里が倒れた。今のところ意識はない……叔母さんと一緒に、今すぐ来れるか?」
 
 呆然と受話器を落とした私の様子を見て、ママが慌ててカーペットの上から受話器を拾い上げる。
 
「もしもし、陸人? どうしたの? 海里になにかあったの?」
 
 ママの問いかけに対して、私に話した時よりもさらに詳しく陸兄が答えを返している声が、ママが持つ受話器の向こうからかすかに聞こえて来る。
 
 顔色をなくしたママが、こちらにチラチラと視線を向けていることはわかっていたが、私は指一本動かすことができなかった。
 
「なにやってんの! ひとみ! 行くわよ!」
 
 ママの叫びにハッとしたように、我に返る。
 それでもなかなか、まず何をしたらいいのかさえ、頭が働かない。
 
「海里にもう会えなくてもいいの?」
 
 叱責するようなママの声に、すぐさま首を横に振った。
 
(もう……会えない……?)
 
 頭の中でいっきに、たくさんの海里の笑顔が弾けた。
 
 小さな子供の頃から、ついこの間、私をからかって遊んだ時のものまで。
 溢れ出るように、私の霞みがかっていた頭の中を埋め尽くしてしまって、息をするのも苦しくなる。
 
(嫌だ! ……そんなの嫌だよ!)
 
 一言も言葉を返さず、私はママの先に立って走り始めた。
 
 外に行くような服じゃなかったとか、そういえばまだ朝食の最中だったとか。
 あとになって思い返してみれば、悔やむことはいっぱいあったけど、その時の私は何一つ気にはならなかった。
 
 ――ただ海里に会いたい思いしかなかった。



 タクシーで駆けつけた病院の集中治療室で、海里は真っ青な顔でベッドに横たわっていた。
 
 その顔を覆うように付けられているのが、酸素マスクではなくて人工呼吸器なだけでも、たいへんなことが起こったのだと理解出来る。
 
 たくさんの計器に囲まれて、石井先生にあちこち確認されている海里を、ガラス越しに見守るしかない私の隣に、スッと背の高い人影が近づいて来た。
 
「無茶をするなっていうのが、どだい無茶な話だ……そんなことは始めからわかってた……でも……一晩フェリーに乗ってたんだそうだ……倒れたのがもし海の上だったらと思うと、ゾッとした」
 
「…………!」
 思わず陸兄の顔をふり仰いだ。
 
「予定では新幹線って言ってて……だったらいいかと思ってたんだけど……まったくあいつは……!」
 
 困ったように首を竦めて、視線だけで海里を示した陸兄の言葉を、私はギュッとこぶしを握り締めて引き継いだ。
 
「バカよ……大バカ! バカ海里!」
 
 叫んだ私の顔を見下ろして、陸兄は眉根を寄せる。
 それは怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える、切ないばかりの表情だった。
 
「海里が目を覚ましたら、真っ先に文句言ってやれ。それぐらいの権利は、ひとみにはじゅうぶんあるんだから」 
 
 海里とよく似た大きなてのひらで、クシャッと髪をかき混ぜるようにして頭を撫でられる。
 
 その手でそのまま、また抱き寄せられるより先に、私は自分から陸兄の腕の中に飛びこんだ。
 
「うん。絶対に言ってやる! ……だから目を覚まして! 目を覚まさないと……許さない!」
 
 海里本人には到底届きそうにはない思いを、泣きながら吐き出した。
 陸兄はそんな私を、やっぱりギュッと強く抱き締めてくれた。
 
 
 ――あれから三日が経つ今も、海里はまだ目を覚ましていない。