ずっとキミを好きだった

 あいつと初めて会ったのはいつかと聞かれれば、それはもうママのお腹の中にいた頃からで――。
 仲良し姉妹が同じ時期に生んだ子供同士だったからこそ、まるで双子の兄妹のように、なにをするにもずっと一緒だった。
 
 ただ違っていたのは――。
 
 健康優良児で表彰までされた私とは違って、あいつは生まれつき心臓に病気を抱えていたということ。
 そして、そんな運命さえ前向きに受け止めていた伯母さんが、長くは生きられないと言われていたあいつよりも先に、亡くなってしまったこと。
 
 まるで遺志を受け継いだかのように、私をあと回しにしてまであいつの世話を焼くママを、嫌だと思ったことは一度もない。
 そうすることであいつが――海里が一日でも長く生きられるのなら、私にとってはそのほうがずっとずっと大事だった。「だから……今日はちょっと用があるから、学校休むんだよ……」
 受話器の向こうから聞こえてくる海里の声は、珍しく歯切れが悪い。
 
「寝坊したからって、ズル休みするんじゃないでしょうね?」
 ちょっと探るように問いかけてみたら、案の定、一瞬言葉に詰まる。
 
「うっ……違うって」
「じゃあ用ってなんなのよ……病院?」
「いや、そうじゃないんだけど……」
 
 のらりくらりとはぐらかすことで、学校を休む理由をなんとか誤魔化そうとしているんだと、ピンときた。
 ちょっと腹が立って、つい責めるような言い方になってしまう。
 
「いいご身分ね……やっと通えるようになったと思ったら、もうサボるわけ?」
「サボるって……」
「違うの?」
「いや……違わない」
 
 思わずため息が出た。
 大きな大きなため息を、受話器越し、海里の耳にもよく聞こえるように吐く。
 
「いいわよ……『一生君は病院です』とでも言い訳はしてあげる。だからせめて行き先ぐらいは教えて」
「本当にたいしたことじゃないんだ。ひとみちゃんが学校から帰って来るよりは絶対に早く帰って来るし」
 
 そこまで秘密にしたいのかとカチンとくる。
 この私に対して――いつだって海里のことばっかり優先して、十六年間生きてきた私に対して。
「つまり、言いたくないってわけね」
 畳みかけるように確認したら、そこだけははっきりと返事がある。
「はい……」
 
「だったら、最初っからそう言いなさいよ! 私が遅刻しちゃうでしょ!」
 本当に頭にきて、大声で怒鳴りつけてから受話器を置いたら、ママが心配そうにキッチンからこちらを見ていた。
 
 慌てて声のトーンをちょっと下げる。
「……海里、学校休むって……別に具合が悪いわけじゃないらしいから、心配は要らないわ」
「そう……」
 
 ホッとしたように胸を撫で下ろしたママは、「どうして」だとか「なぜ」だとかは聞かない。
 私が学校を休もうとしたって、ちょっとやそっとの頭痛じゃ休ませてくれないことと比較すると、不公平な気もするがしょうがない。
 
 ――海里なんだから仕方ない。
 
 迎えに行く必要がなくなったぶん、時間に余裕が出来た登校時間を有意義に使おうと、私は早速玄関へと向かった。
 
「ひとみ……先生にはなんて言うの……?」
 靴を履いている背中に向かってママが問いかけてくるから、ふり返らないままに答える。
 
「病院って言っとくわよ……まさか十ヶ月の入院を経てようやく入学した高校に、一ヶ月で飽きたみたいですとは言えないでしょ……?」
「別にそういうわけじゃないと思うんだけど……」
 
(それぐらい私にだってわかってる……! だてに十六年も一緒にいるんじゃない!)
 何に対してだかハッキリしない怒り混じりのセリフは、心の中だけにしまっておいた。
 
 小さな子供の頃ならともかく、高校生にもなった今では、いくら同級生の従兄妹同士だからって、何もかも一緒といかないことくらいは、私にだってわかっている。
 でも、少しずつ私と距離を置いていこうとするあいつの行動に、最近妙に焦る。
 そしてそんな自分の心理に、もっともっと焦る。
 
「……ちゃんと上手く言っとくから大丈夫よ。じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい。気をつけて」
 
 すっきりしない思いを追い払うように頭を振って、私は玄関の扉を開けた。
 雨上がりの空気が清々しい庭を抜けて、大通りへと通じる細い路地に一歩を踏み出す。
 
 新緑に萌える木々の間から、朝日が顔を出して眩しい。
 珍しくよく晴れた6月の朝だった。



 中学三年の夏に大きな発作を起こした海里が、特別配慮で受けた試験に合格し、退院と同時に私と同じ高校に通い始めたのは、つい一ヶ月前のことだ。
 
 みんなよりひと月後れの入学を心待ちにしていたのは、海里本人ばかりではない。
 伯父さんや五つ年上の陸兄。
 それからうちのパパとママ。
 ――もちろん私だって、当然嬉しかった。
 
 急に容態が悪くなった時に備えて、一緒に登下校する上に同じクラス。
 その上、席まで隣同士。
 私が所属している美術部にも上手く引っ張り込んで、これで安心だ、なんて私自身はすっかり満足していたが、ひょっとして海里はそれらが嫌だったのだろうか。
 
 なんだかスルッとすり抜けて、上手く逃げられてしまったような気がしてならない。
 
(なによ……! 嫌なら嫌だって言えばいいじゃない! こっちだって好きでやってるわけじゃないんだから……!)
 
 我ながらなんとも説得力がないセリフを心の中だけで呟きながら、学校までの道をひさしぶりに一人で歩いた。
 
 途中、一番の大通りを抜けるあたりに、海里が一ヶ月前まで入院していた病院がある。
 十ヶ月の間、朝と夕に顔を出し続けたその建物を、ちょっと懐かしい思いでふり仰いだ。
 
 二階の西端の部屋の窓から、いつも私を見送っていた明るい色の頭は、もちろん今はもうそこにはない。
 でも毎日学校で顔を会わせているから、これまではなんの心配もいらなかった。
 
(でも今日はいない……まったくどこで何するつもりなんだか……!)
 
 十ヶ月前、海里がひどい発作を起こして倒れた時に、私は傍にいなかった。
 そのことで私は自分をひどく責めたし、深く後悔した。
 だから二度とそんな失敗はおかさないと心に決めている。
 なのに――。
 
(まったくもう! どこをほっつき歩いてるのよ!)
 
 気を緩めると不安に覆い尽くされてしまいそうになる心を、代わりに怒りで満たして、私は足を早めた。
 
(絶対に明日、問い詰めてやるんだから!)
 
 でも翌朝、やっぱり同じくらいの時間に私の家に、学校を休むという海里の電話がかかってきた。「そう……うん……わかった……」
 
 海里のなんともハッキリしない説明を大目に見て、担任に嘘の欠席理由を伝えるのも、もう今日でいったい何日目になるんだろう。
 
(……一週間じゃないのよ!)
 
 欠席ぶんの授業のノートをコピーしてやるにしても、授業が進んだぶんを私が直接教えてやるにしても、そろそろ限界がある。
 
 海里はきっと、伯父さんや陸兄には何も言ってないはずだ。
 そうでなけりゃ、弟命の心配性の陸兄が、こんなこと黙って許すはずがない。
 
(いくら私が大目に見てあげてるからって……甘えるのもたいがいにしなさいよ!)
 
 意を決して翌日の朝、海里がうちに電話をかけて来るよりも先に、家に乗り込んで行ってやった。
 
 でも結果はあまり芳しくなかった。
 
「それは……お前にとって、学校に行くより大事なことなのか?」
 
 弟が学校を休んでいたことに驚きながらも、そう問いかけた陸兄に、海里が今までにない真剣な顔で頷いた時、嫌な予感がした。
 
「陸兄!」
 抗議の声を上げて、座っていたソファーから立ち上がってももう遅い。
 
「いいじゃないか。海里にとってそれが大事だっていうんだったら、学校よりそっちを優先させても……ね……?」
 
 海里の実の兄である陸兄に、笑顔でそんなふうに言われれば、私に異を唱える資格はない。
 
「陸兄は海里に甘い! 甘すぎる!」
 憤懣やるかたない思いでいくら叫んでも、あとの祭りだった。
 
「そうかな? そんなことないと思うけどなあ……」
 私の叫びなんて笑顔で軽くかわしながら、陸兄は海里の隣から立ち上がり、サイドボードの引き出しを開けて、白いスマホを取り出す。
 
「でも、もしもの時に困るから、これからはこれを持ってろ。俺とひとみの連絡先は、先に登録してあるから。何かあったらすぐに言え。ちょっとでも具合が悪くなったら、絶対に連絡するんだぞ」
「ありがとう……」
 
 それはまさに、これまで病院や病気に縛られてきた海里が、生まれて初めての自由を手にした瞬間だった。
 
 これからは誰にも報告しなくても、自分の意志で自分のやりたいことが出来る。
 
 それを海里がどんなに喜んでいるのかは、よくわかった。
 目を輝かせながら、陸兄からスマホを受け取る笑顔が眩しい。
 だけど――。
 
 これまで海里の為に海里の為にと生きてきた私にとっては、いったいどう使ったらいいのかさえわからない自分の時間を与えられても、戸惑うばかりだった。
 
(じゃあ私は、これからなんの為に海里のいないあの高校へ行くの……? 何をして毎日を過ごしたらいいの?)
 
 思わず喉が熱くなったが、私はそれに耐えた。
 私はこれまで、人前で泣いたことなんてない。
 人に弱みは見せたくない。
 海里の前だったら、それは尚更だった。
 
「ひとみ……お前もこれからはもう少し自分のことを優先してもいいよ……もう高校生なんだもんな……」
 
 傍から聞くぶんには思いやりに溢れたとしか言いようのない陸兄の優しい言葉も、私にはまるで死刑を宣告する声のように冷たく聞こえた。
 
 体中から力が抜けて、その場に座りこんでしまいそうだった。
 
 ――それぐらい、海里は私にとって全てだった。
 
 自分でもとっくにわかっているつもりだったけれど、あいつが私とは違う方向を向いて自分の足で歩き出したこの瞬間、確かに自覚した。
 
 海里を守らなければという思いよりも、何よりも、私はただ、ずっとずっと海里のことが好きだったんだ。
 従兄妹というだけではなく、一人の男の子として――。
 
 泣きたいくらいの気持ちで、そう悟った。
 あまりと言えば、あまりのタイミングの、初恋の自覚だった。
「何……? 俺の顔になんか付いてる?」
 私が見ていることになんて、まるで気がついていないと思っていたのに、やっぱり海里は侮れない。
 
 ママ自慢の手作りコロッケをお箸でつかみながら、伏せていた視線を急に上げ、真正面から私をじっと見つめて突然そんなことを聞いてくるから、ドキリと心臓が跳ねる。
 
(髪の色だけじゃなく瞳の色も薄いなー)
 とか
(睫毛ながっ!)
 とか、
 私が考えていたことなんてまるでいつもどおりだったのに、それを素直に本人に伝える気にはやっぱりなれなかった。
 
「別に……いつもどおりのニヤケ顔だなって……そう思っただけ……」
「ひどっ! なにそれ……!」
 口では文句を言いながらも、もう笑ってる。
 
 笑い上戸の海里は、ちょっとしたことでもすぐに肩を揺すって大笑いを始める。
 大きな目の目尻をほんの少しだけ下げて、大きく口を開けて、屈託なく笑うその笑顔は、いろんな表情の中でも私が特に好きな顔だ。
 
 だから慌てて目を逸らす。
 
 ボッと火がついたように頬が赤くなるか。
 ボケーッと魂を奪われたように私のほうこそマヌケ面になるか。
 そんな失態を晒す前に、急いで危険を回避した。
 
「だって本当に、さっきからニヤニヤしっぱなし。気持ち悪い。何? ……思い出し笑い?」
 テーブルの上に頬杖をついて、そっぽを向いたまま問いかけたら、海里がブッと吹き出した。
 
「気持ち悪いって! ……でもまあ……うん……確かに思い出し笑いかな……ははっ」
 ちょっと照れたように、そのくせ嬉しそうに、素直に認めるものだから腹が立つ。
 
 海里のことならなんでもわかってしまう自分に――。
 
 そして、結構いろんなことに気がまわるくせに、私の気持ちにだけはまるで気がつかない海里にも――。
 
「あっそう! よかったわね!」
 
 悔し紛れに、目の前にあったバケットを取り上げてガブリとかじりついた。
 
 ――海里の好物。
 
 これを焼き上げるのに、私は朝から休日の半分を費やしたというのに、当の本人は今日もやっぱり出かけていて、私の家に夕食を食べにやって来たのは、いつもよりかなり遅い時間だった。
 
(別にいいんだけど……! そんなこととやかくいう権利なんて私にはないし……!)
 
 顎が痛くなるほどの勢いで噛み砕いて、もう一口食べようとしたら阻止された。
 パンではなく私の手首をつかんで、海里がそのまま自分のほうへと引き寄せるからドキリとする。
 
「な、なによ!」
「なによって……これ俺のでしょ? ……ひとみちゃんが焼いたの? うまそー」
 
 そのまま本当に海里は、私の手に握られたままのバケットに顔を寄せて、一口食べてしまった。
 
 手首をつかまれたままの大きな手に、指先にかすかに触れた柔らかい髪に、どうしようもなく鼓動が速くなる。
 
「じ、自分で持って食べなさいよっ! バカ海里!」
 
 私が焦ることなんてまるであらかじめわかっていたかのように、ちょっと低い位置から悪戯っぽい笑顔で上目遣いに顔を見上げられるから、私は体をよじって顔を背ける。
 
(真っ赤になった顔なんて見せない! 絶対に、絶対に見せない!)
 
 しかし、固い決意が虚しくなるほどに、海里はまるで緊張感の欠片もない声でのんびりと呟いた。
 
「あ、美味しい……! 凄いなー、どんどん腕を上げてるんじゃない? 何? ……ひとみちゃん、将来パン屋になるの?」
「あっ……!」
 
 危うく『あんた以外のために作る気なんてないわよ!』と叫んでしまいそうだった自分を、必死でこらえた。
 
「……あ?」
 
 小首を傾げて、そんなに無邪気な笑顔で私を見ないで欲しい。
 私だって小さな頃は、海里と同じように素直に笑顔を返していた。
 でもあの頃のようには、最近は全然上手くいかない。
 
 大好きなはずなのに、海里の笑顔を目の前にすると、もともと意地っ張りで天邪鬼な性格が災いして、ますます意固地な態度を取ってしまう。
 
「あんたに関係ないわよっ!」
「えーっ! なにそれ……ひどいなぁ……ははっ」
 
 文句を言いながらもやっぱり笑いだす顔に、自然と視線が釘づけになる。
 どんなに顔を背けようとしたって、頑なに背を向けようとしたって、とっくの昔にはまってしまってるんだから、今さらもうどうしようもない。
 
 笑う海里が私のすぐ近くで頭を揺らすたびに、柔らかな茶色い髪からいいい香りがした。
 
 ――これまでの海里の周りでは嗅いだことのない、少なくとも私の知らない香り。
 
 学校をサボってどこかに出かけるようになってから、自分がそのいい香りをさせて帰って来るようになったことに、海里は気がついているんだろうか。
 
(きっと気づいてないよね……バカ海里……!)
 
 ズキンと胸の奥に突き刺さった痛みをなかったことにしようと、私は今日も複雑に絡みあった全ての感情を、怒りへとすりかえる。
 
(ほんっとにバカ! 最低!)
 
 海里がいつまでも私の手首をつかんだままなことが、本当は嬉しくて、少し苦しかった。

 毎日決まった時間にどこかに出かけていく海里が、きっと誰かと会っているんだろうってことは、私にだってすぐに察しがついた。
 以前よりずっと笑うようになったし、それとは逆に真剣に考えこむようにもなったから――。
 
 本人は全然そんな気はないかもしれないが、ずいぶんと男っぽくなったとも思う。
 クラスの男子たち同様、年齢よりもずっとお子様だと思っていたのに、時々ふとした瞬間に大人っぽい気遣いや仕草を見せるようになった。
 
 その変化はやっぱり、私の知らない誰かによってもたらされたのだ。
 
(『誰か』か……それってやっぱり……女の子だよね?)
 
 海里に、誰にも内緒で会っている女の子がいるなんて、これだけ状況証拠が揃っていたって全然想像できない。
 
(だってどんな顔して……? あの面倒臭がりが……?)
 
 わざわざ告白してくれたもの好きな女の子にだって、あいつはこれまでずっと断りを入れ続けてきたのだ。
 
 それに関しては病気のこともあるのかもしれないが、だからこそ尚更、海里にそんな相手がある日突然できるなんて、私は想像もしていなかった。
 
 小さな頃からずっと隣に並んで同じ景色を見て育ったのに、違う方向を向いて歩きだした途端、一足飛びに遠いところへ行ってしまったなんて、とても信じられない。
 
 ――それも私には手が届きそうもない遠いところへだ。
 
(ほんとにそうなのかな……?)
 
 微かな希望をこめた疑惑を捨て去ることのできない私は、海里に直接聞いてみることにした。
 もちろんそのものズバリを聞くなんてできないから、多少遠回しに――。
 
 でもそれが、この先どんなに自分にとって苦しいことになるのかなんて、この時はまだ全然わかってなかった。



 学校に行かずに自由に過ごすことを許可してもらった代わりに、海里は陸兄といくつか約束を交わした。
 
 常に携帯電話を持ち歩くことと、ちょっとでも具合が悪くなったら陸兄か私にすぐに連絡すること。
 そして週に一回は病院に検査を受けに行くこと。
 
 発作が起きたわけでもなく、ましてや今は長い入院からやっと開放されたばかりで体調だっていいはずなのに、週一は多すぎるんじゃないかと尋ねたら、陸兄に笑顔で諭された。
 
『常に万全を期すに越したことはないだろ?』
 
 さすがに現役で国立大の医学部に受かって、外科医の道一直線の人の言葉には重みがある。
 
 たとえ本人が実生活においては、海里とたいして変わらないくらい大事なところでどこか抜けている人だとしても――。
 
 つき添いには私が行くことになり、週に一回は学校に許可を貰って、海里と病院に通っている。
 
 海里が学校に行っていた頃は、朝夕一緒に乗っていたタクシー。
 ひさしぶりに並んで座る後部座席は、必要以上にドキドキした。
 
「毎回毎回ついて来なくても……子供じゃないんだし、俺は一人で大丈夫だよ?」
 ニッコリ笑いながら話しかけてくる海里に、わざと視線を向けないままに私は口を開く。
 
「それはどうかな? 今日だって私が教えてやらなきゃ、病院の日だってことすらすっかり忘れてたし……」
「それはそうなんだけど……知らせてくれれば、行くのは俺一人でだって……」
「どうかな? あんなに行きたがってた学校だってサボってるくらいだから……ひょっとしたら病院も……」
「それはない」
 
 意地悪な私の攻撃をのらりくらりとかわし続けていた海里が、急に反撃に出た。
 ――そんな気がした。
 
 唇には軽く笑みを浮かべたまま、瞳だけはこの上なく真剣に輝かせて、まっ直ぐにこちらを見ている気配を感じるから、妙に焦る。
 
「それじゃ死ぬのが早くなっちゃうじゃん……」
 
 さらりと何気ない口調で言ってのけられたセリフに、ドキリとどうしようもなく大きく心臓が跳ねた。
 
『死』なんて言葉、私は耳にするのも嫌いだ。
 物心もつかない小さな頃から、私の大好きな従兄妹はずっとその言葉につき纏われてきた。
 
 危うく連れ去られそうになったり、なんとかこちらに踏み止まったり。
 何度も何度もくり返して、それでも戦いはまだ終わってはいないのだから、一瞬だって気が抜けない。
 
 私は『死』に負けるつもりなんてさらさらなかった。
 海里が連れて行かれるのを黙って見送るつもりもない。
 戦って戦って、最後の最後まで絶対に海里を守ってみせる。
 
 本人には決して言えない本心。
 でも私の中では揺らぐことのない強固な想い。
 
 だから『死』なんて言葉、海里が軽く口にするのは吐き気がするほど嫌いなのに、今日は必死に我慢して、いつもの罵声を飲みこんだ。
 
『なんって言い方するのよ! バカ海里!』と叫ぶ代わりに、これはきっといいチャンスなんだと、最近ずっと気になっていたことを問い質した。
 
「……もっと生きたいって思うようなことでもあった?」
 
 ハッとしたように海里が私の顔を見返した気配がしたが、そちらに視線は向けない。
 真っ直ぐに前を向いたまま、さらに尋ねる。
 
「……もっと生きて、傍にいたいと思うような人でも見つけた?」
 
 海里が息をのんだのがわかったような気がした。
 それでよかった。
 それで充分だった。
 もうこれ以上、私の疑惑を肯定するような海里の動きを感じたくはない。
 
『そうだよ。なんでわかったの?』なんていつもの調子で笑われてしまう前に、私は急いで、自分で始めたこの問答に終止符を打った。
 
「そう」
 
 そして、これ以上はどんな追加の説明も受けたくないという思いの意思表明として、海里に背を向けて、窓の外を向く。
 
 ズキズキとどうしようもなく胸が痛んでいた。
 
(そうか……やっぱりそうか……海里、好きな人ができたんだ……)
 
 思っていたよりもずっと苦しい。
 息をするのも苦しい。
 胸が痛い。
 必死に我慢していなければ、涙だって溢れてきそうだ。
 
『きっと誰のものにもならない……だから今のままでいい。一番近いポジションはきっとずっと私のもの』
 
 そんなふうに心の中で安心しきっていた先日までの自分に、できることならガツンと言ってやりたい。
 
(自惚れるな。甘く見るな。従兄妹だからってずっとその場所にいれるとは限らない。海里に大切な人ができたら、あいつの中の私なんて、きっと陸兄よりあと回しになってしまうんだから……)
 
『本当にただの従兄妹ですから!』
 
 誰かに海里との仲を冷やかされるたびに、怒って口にしていた自分の言葉が胸に痛い。
 それが本当に今の私たちの現実なんだと実感した途端、悲しくて悲しくてたまらなくなった。
 
(バカ海里! ……ううん……本当にバカなのは私だ……)
 
 ギュッとこぶしを握り締めながらも、一生懸命気持ちを落ち着ける。
 なんとか普通の様子に見えるように我慢するのだって、並大抵の努力じゃなかった。
 必死だった。
 
 ――だってそれは私にとって、全然平気なんかじゃない、一生一度の大失恋の瞬間だった。
 時刻はとっくに夜の七時を過ぎていた。
 
 リビングのソファーに座ったまま、テレビを見るでもなく、ただただ木製の小さな置き時計とにらめっこしている私に、キッチンからママが声をかける。
 
「それにしても遅いわね……いつもならとっくに帰ってきてる時間なのに……」
 
 二時間前から幾度となく心の中でくり返していた思いを、そっくりそのまま言葉にされたから、私はついに決意を固めた。
 
 海里にだって自由な時間は必要だからとか。
 私がとやかく言うようなことではないからとか。
 必死で自分に言い聞かせていた無駄な努力をやめて、スマホを手に取る。
 
 緊急の時以外は使わないようにしようと、これまで一度も自分からは連絡したことになかったた海里に、ドキドキしながら電話した。
 
 たっぷりと十回以上のコールを数えてから、なんとも呑気な声が聞こえてくる。
「もしもし……?」
 
(ああよかった……どこかで急に具合が悪くなったわけじゃなかったんだ……!)
 
 瞬間的に心に浮かんだ安堵の思いをふり払うかのように、必要以上に気あいの入った声で怒鳴ってやった。
「遅いっ!」
 
 こっちは怒っているというのにまるで悪びれない飄々としたいつもの顔が、携帯の向こうに見えるような気がするから、尚更声を荒げる。
 
「家に帰ってくるのも……電話に出るのも……どっちも遅すぎるっ! 夕飯、ちゃんとうちで食べるのか。それともいらないのか。聞いてみろってママが言ってるんだけど……!」
 
 くすりと海里が笑った気配がした。
 あまりにも耳元近くに息遣いを感じて、不覚にもドキリとする。
 
「ごめん。すぐ帰る。だからご飯も家で食べます……」
 
 これ以上会話を続けていると、本来の目的も忘れて、『このまま切りたくないな』なんて乙女思考モードに入っていきそうだ。
 
 そんな自分が嫌で、思いっきりぶっきらぼうに電話を切った。
「わかったっ!」
 
 電話の向こうで大笑いを始めた海里の声が、聞こえるはずもないのに、やっぱり聞こえてくるような気がした。


 
 陸兄が海里に持たせたスマホは、海里を束縛するための道具ではない。
 あくまでも具合が悪くなった時に、すぐに私たちと連絡を取るためのものだ。
 
 だからこちらから電話をかけるのはなんだかルール違反な気がしたし、何かに負けたようで、これまで極力やりたくなかった。
 
 何に負けたのかと考えてみれば――海里への恋心とか、嫉妬心とか、なんとも面白くない答えしか浮かんでこない。
 
 他の女の子に会いに行っている海里の帰りを、毎日今か今かと待っている不毛な想いを、自分自身で肯定してしまうようで、なるべくならやりたくなかった。
 
(あーあ……なんで私、こんなどうしようもないことやってんだろ……)
 
 きっかけは何だったのかとか。
 いったいいつから好きだったのかとか。
 答えられるような想いではないから、尚更厄介だ。

「ねえ……帰ってくるって言ったのよね……? それにしちゃあ遅くない……?」
 
 平静を装ってテレビをつけてはみたものの、放送されている内容はまったく上の空。
 
 イライラする気持ちを落ち着けようと、手にしたクッションを自分が座っているのとは反対側のソファーに投げるのにも、我知らず次第に力がこもって。
 
 いつの間にか立ち上がって、部屋の中を行ったり来たりとし始めていた私を見かねて、ママが恐る恐る尋ねてきた。
 
 顔にかかった長い髪をふり払うようにして、キッチンに向かって敢然と顔を上げる。
 
「確かに『すぐ帰る』って言ったのよ! まったく信じられないわ……あのバカ!」
 
 時刻はとっくに九時を過ぎていた。
 どんなに遠くまで行っていたとしても、『すぐ帰る』と宣言した以上は、そろそろ帰り着いていなければさすがにおかしい。
 ひしひしと迫りくる嫌な予感を必死にふり払おうと、私は怒りの感情のほうを大きくする。
 
「どこで道草したらこんなに時間がかかるわけ? 子供じゃないんだから……それとも子供なの? 体だけ大きくなっても、中身のほうはまだまだ小学生並み?」
 
 次第に大きくなる不安をうち消すかのように、声を荒げる私をママが宥めにかかる。
 
「きっと大丈夫よ……ね、ひとみ……」
 
(どうせ私の複雑な思いぐらい……きっとママにはお見通しだ……それもこれも全部、海里のせい!)
 
 そんなことを思った時、家の前に車が止まった音がした。
 
(タクシーを使った海里が、ようやく帰ってきたんだ!)
 なんて頭で考える前に、私の体はもう玄関に向かって駆けだしていた。


 
 何かがおかしいと思ったのは、本来なら運転席に座ったままで後部座席の自動扉を開閉する運転手さんが、わざわざ車から降りて、海里が乗っているらしい後部座席を外から覗きこんでいたからだった。
 
 玄関から出てきた私の姿を見ると、ホッとしたように頭を下げる。
「どうやら具合が悪いらしいんですが……」
 
 靴を履くのももどかしいくらいの気持ちでタクシーに駆け寄り、急いで後部座席に横たわる海里の姿を確かめた。
 
 かなり顔色が悪かった。
 汗をびっしょりかいて、肩で大きく息をくり返している。
 
(どうしてこんなになるまで連絡してこないのよ!)
 
 喉までせり上がって来た叫びを飲みこんで、私は、背後で困ったようにウロウロしている運転手さんをふり返った。
 
「このまま病院までお願いします! すぐに準備してきます!」
 
 救急車を呼ぶよりも、もうそのほうが早いと思った。
 
 ママにひと言言ってこようと駆けだす私に、海里が苦しい息の下から小さな声を絞りだす。
「ごめん……ひとみちゃん……」
 
(謝るくらいなら無茶しないで! すぐに連絡して!)
 心のままに言葉を紡ぎだしたら、一緒に涙まで溢れてしまいそうだったので、海里には背を向けたまま、一言だけ叫んだ。
 
「海里のバカ!」
 
 いつものようにくすりと笑い声が聞こえないことが、胸が張り裂けそうに辛かった。「ごめん。ひとみちゃん……」
 タクシーに乗って病院に向かう間も、海里は何度もそう言い続けた。
 
 口を開くと泣き出してしまいそうで、唇をひき結んで懸命にこらえているのに、あまりに何度も謝られるから言ってしまいたくなる。
 
 私に謝る必要はないんだと。
 勝手に海里のことを心配して、勝手に怒ってる私のことなんて、今はどうでもいい。
 
 今大切なのは、海里が大事に至らないことだけ。
 このまま大きな発作を起こしたりなんてしないことだけ。
 
 だからもう気にしなくていいのに。
 静かに容態を安定させることにだけ集中していればいいのに。
 どうして私を気遣う言葉ばかり口にするんだろう。
 
(絶対辛くって、苦しくってたまらないはずなのに、なんでこんな時まで、私の気持ちのほうを優先するのよ……!)
 
 優しい海里。
 優しすぎる海里。
 他の人を好きになったくせに、なんて残酷なやつ。
 
「海里はなんにもわかってない……私の気持ちなんて全然わかってない……!」
 
 このままだんまりを続けていたら、いつまでも海里が私に謝り続けてしまいそうだったので、やっとそれだけを言葉にした。
 涙が零れないだけの、ぎりぎりの意志表明だった。
 
 なのに海里は、苦しい息の下ながらも、微笑みさえ滲ませたような声を私に返してくる。
「うん。心配かけてごめん……それと心配してくれてありがとう」
 
 我慢できなくって涙が溢れた。
 顔を見られないようにあらかじめ背を向けていて良かったと、心からそう思った。
 
「やっぱりわかってない……!」
 
 もう本当に口を開かなくていいと。
 これ以上、私に海里を好きだという気持ちを再確認させるような言葉はくれなくていいと。
 
 決して口にすることはできない本音の代わりに、ぶっきらぼうに最終通達を言い渡した。
 自分でも呆れるくらい、可愛げのない、嫌な言い方だと思った。



 急な来院ということもあって、海里が通された処置室に主治医の石井先生が駆けつけて来るまでにはかなりの時間があった。
 その間に看護師さんたちの手によって、点滴を打たれたり、心電図を取られたり。
 できるだけの処置をしてもらって、海里の顔色が良くなっていったのは、傍から見ているだけの私にもよくわかった。
 
(よかった……これなら今回はそんなに長い入院にはならないはず……)
 
 それでも入院の準備をしに、一度は家に帰らなければならないなんて、時計を確認しながら考えていた私の耳に、思いがけない言葉が飛びこんできた。
 
「ちょっと無理したかな? ここへ帰りたくないんだったら、もっと慎重にならなきゃ……」
 石井先生の穏やかな声。
 
「はい。これからは気をつけます」
 海里の珍しく殊勝な声。
 そして――。
 
「うん……じゃあ帰ってもいいよ」
 思わず海里と石井先生のほうを、もの凄い勢いでふり返ってしまった。
 
(え? ……帰るの? 今から?)
 
 心の中で首を捻った次の瞬間には、もう私の口から、語気を荒げた疑問の言葉が飛び出していた。
「どうしてですか? 入院しなくていいんですか?」
 
 一瞬ピクリと海里の肩が跳ねたような気がした。
 それに対し、石井先生のほうは顔色一つ変わらない。
 いつもどおりの優しい笑顔を浮かべて、海里ばかりではなく、私にも微笑みかけてくれる。
 
「ああ。ちょっと病院に来てもらう回数は増えるかもしれないけれど、今のところは大丈夫だからね」
「でも……」
 
 それ以上は口にできなかった。
 
「本当に大丈夫なんですか?」なんて質問。
 もし「実は……」なんて言葉が返ってきたらどうすればいいのだろう。
 そんなことは恐くて、考えたくもなくて、私は口を噤む。
 
 これまで何度も、ちょっと具合を悪くして海里が病院に担ぎこまれた時は、必ず『念のための入院』が一、二日は付いてくるものだったのに、今回はなぜそれがないのか。
 
 ――突きつめるととんでもない答えが返ってきそうで、それを確かめることが恐くて、納得いかない自分の思いを無理に押し殺して、口を噤む。
 
(そんなの……先生が言うように、今回はたいしたことなかったらからに決まってるじゃないの! ……他にどんな理由があるっていうの……?)
 
 自分を安心させるかのように、何度も心の中でそうくり返していること自体が、誰よりも私自身が不安を感じているという証拠だった。
 
 なんとも読めない曖昧な笑顔で、ちょっと困ったように私をじっと見つめる海里の表情が、妙に印象的な夜だった。
 深夜に体調を崩して帰ってきた日以降も、海里はどこかに出かけることをやめなかった。
 
 毎朝、私が学校に向かうのとは反対の方角へ、足取りも軽く出かけていく。
 しかもその出発時間は、日一日と早くなっている。
 
(ふーんそうですか……そんなにその子と会うのが楽しみなんですか……!)
 
 私には関係ないことだなんて強がりながらも、内心は気になってしょうがなかった。
 
(どんな子なんだろ? あの海里が好きになった人……)
 
 チクリと痛む胸をこらえながら、忙しい朝のひと時、一瞬そんなことを考える。
 
(まあ、どうでもいいけど……!)
 
 机の上に置かれていた鞄を取り上げて、私は階段を駆け下りた。
 
「行ってきます!」
「え? ああ、行ってらっしゃい……」
 
 海里が一緒に登校していた頃は、
「ちゃんと見ててあげてね」
「お願いね」
 と煩わしいくらいに朝から念を押していたママも、私一人だとリビングの向こうから軽く声をかけて、それで朝の見送りは終わりだ。
 
(別にいいんだけど……!)
 
 玄関の扉を押し開けて外に出ると、もう陽射しが眩しいほどだった。
「今日も暑くなりそうだな……」
 
 ふとそんなことを考えれば、抜けるように色の白い海里の横顔が一瞬脳裏を過ぎる。
 
「ちゃんと帽子ぐらい被って行ったんでしょうね……? そろそろいいかげん倒れるわよ……?」
 
 冗談になんてまるでなりようのないことを思わず口にしたら、我ながらため息が出た。
 
(だから……もう私が気にする必要はないんだって……!)
 
 小さな頃からすっかり体と思考に染みついてしまっている海里優先の生活は、そう簡単には切り替えられそうにもなかった。



「ねえ……五十嵐さんってやっぱり、一生君とつきあってるの……?」
 
 二時間目の休み時間。
 次の英語の時間に自分が当たるはずの箇所の予習に励んでいると、よく聞き慣れたその質問を、ひさしぶりに投げかけられた。
 
 ノートに覆い被さるようになって煩わしかった髪を耳にかけながら、ゆっくりと顔を上げてみれば、前の席の畠田さんが興味津々といったふうに瞳を輝かせて、体ごとこちらをふり返っている。
 
「違うわよ。ただの従兄妹」
 
 なるべくぶっきらぼうにならないように気をつけながら、短くそう答えた。
 
 本当は
「海里には他にちゃんと好きな人がいるから!」
 とまで言ってしまいたかったが、そこで
「じゃあ、あなたは?」
 なんて聞かれると、私には返す言葉がない。
 
 海里が完全に私とは違う方向を向いてしまった今でも、懲りもせず片思いを続けているなんて自分でも認めたくなくて、私はそれ以上は口を噤んだ。
 
「ふーん、そうなんだ……」
 
 あっさりと納得した畠田さんが、そのあとに続ける言葉は、
「てっきり恋人同士だと思ってた」
 とか
「それにしては仲がいいよね」
 とか、これまでにも散々言われてきた言葉だと思った。
 
 だからもう視線をノートに戻して、予習の続きを始める。
 
 なのに、ニコニコとした笑顔が可愛い畠田さんは、俯いた私の頭に向かって思いがけない言葉をかけた。
 
「じゃあさ。会って欲しい人がいるんだ……このクラスじゃないんだけど、入学したばっかりの頃からずっと、『畠田のクラスのあの黒髪美人を紹介して!』って、私、言われてたんだよね……!」
「……は?」
 
 思わず間抜けな声が出てしまった。
 ノートから上げた顔も、同じく間抜けな顔だったらしい。
 
 畠田さんの笑顔がいよいよ綻ぶ。
 
「ははっ……五十嵐さんって美人でとっつきにくいと思ってたけど、意外と反応が面白いよね……そう思ったのは、一生君相手にまるでコントみたいなやり取りしてるのを見たからなんだけどさ……」
「…………!」
 
 絶句する。
 無邪気な笑顔で人をからかうのが趣味みたいな海里に、本気で立ち向かっている姿なんて、学校で見せるんじゃなかった。
 
(これじゃ私のイメージがぶち壊しじゃない!)
 
 本当はそれほどこだわっているわけでもない、人の目に映る自分の姿を、さも大事にしているかのように心の中で毒づく。
 
(海里のバカ……!)
 
 おかげで断わりを入れるタイミングをすっかり失ってしまった。
 
「昼休みに中庭の木蓮の木の下にいるからさ……ちょっと話だけでも聞いてあげてよ。お願い。ねっ?」
 
 右手を顔の前に構えて、拝むようなポーズで片目を瞑り、畠田さんは私の返答も待たずに前に向き直った。
 
「えっ? ちょ、ちょっと……?」
 
 慌てて声を上げる私を、肩越しに少しだけふり返る。
「会うだけでいいから。ねっ?」
 
 困ったような笑顔で念を押されれば、無下に断わることはできなかった。
 
(まあいいか……会うだけなら……)
 
 この手のことは、今までまったく経験がなかったわけではない。
 
 中学時代にも何度か呼び出しのようなものを受けて、
「友だちからでいいんで、お願いします!」
 という大仰な願いを受け入れて、少しは仲良くなった男の子だっていた。
 
 でも海里の具合が悪くなれば、私は何を差し置いても付き添うし、入院している間は朝夕病院に通うから、空いている時間なんてまるでない。
 
 すぐに
「やっぱりな……」
 と諦めていく男の子たちを、なんの感慨もなく見送る私は、結局誰のこともなんとも思っていなかったんだろう。
 
 これまで十六年間、誰だって私の『特別』にはなりようがなかった。
 
 ――海里以外は。



 大きな木の下で私を待っていたのは、意外なことにあまり大柄ではない男の子だった。
 
 意外だと思ったのにはわけがある。
 なぜだか私は昔から、体格のいい男の子に好かれることが多かったのだ。
 
 柔道部。
 アメフト部。
 ラグビー部。
 バスケ部。
 バレー部。
 
 思い返してみれば、揃いも揃って運動部なのには何かわけがあるんだろうか。
 
(例えば……つきあったら、マネージャーっぽい世話の焼き方をしてくれそうだとか……?)
 
 常に海里の世話をしている姿ばかり、中学時代も晒していたんだから、さも有り得そうな話だ。
 
 そんなことを考えていたらため息が出た。
 
 男の子から呼び出しを受けた。
 ――こんな時でさえ海里のことしか頭にない自分には、いいかげんうんざりする。
 
 目の前に立つ男の子は、客観的に見れば格好いい部類かもしれない。
 いや。
 どちらかと言えば可愛いかも。
 
 女の子みたいに綺麗な肌も、大きな目も、ダメだ――見れば見るほど海里と被る。
 
 そのくせ、
(やっぱり海里よりは健康そうな肌の色だな)
 とか
(力だってこの人のほうがありそうよね)
 とか、ついつい海里と比較してしまう。
 
(無理……やっぱりこんな状態じゃ、いくらなんでも相手にだって失礼だ……)
 
 早々に「ごめんなさい」と頭を下げて帰ってしまおうと思ったのに、それはなかなか上手くいかなかった。
 
 相手の男の子――確か隣のクラスの伊坂君――は、ちっとも私に何かを表明するわけでも、答えを求めるわけでもない。
 
「この木って学校ができた当初からここにあるらしいよ」
 とか
「今年の修学旅行は目的地が変わるらしいね」
 とか、次から次へとあまりにも普通の話題を持ちだされるので、私もついつい普通に話に乗ってしまう。
 
「ふーん、そうなんだ……よくそんなこと知ってるね……」
 
 気がつけば中庭の芝生に座り込んで、まるで昔からの知り合いのように話しこんでいた。
 
 昼休みの終りを告げるチャイムにハッとして立ち上がる。
 
 伊坂君も同じように立ち上がって、それから私に向かってニッコリ笑った。
 
「楽しかった……五十嵐さんってやっぱり、僕が思ってたとおりの人だ。ねえ、またこんなふうに話しようね」
 
 まるで裏表を感じさせない屈託のない笑顔を向けられると、思わずドキリとする。
 ずっとずっと私が見続けてきた笑顔に、彼が笑った顔はほんの少し似ていた。
 
「ええっと……」
 
 さっさと謝って、それっきりにしようと決めていたのに、返答に詰まった。
 
(話するだけ……なんだよね? 今だってずっと、いろんなこと話してただけだもんね……それってつまりは、特別な意味なんかなくって、単なる友だちづきあいなんじゃないの……?)
 
 話していて楽しかったし、だったら別にこれからも時々はそんな時間があったっていいんじゃないかと、私は頭の中でそう結論づけた。
 
「うん。時々なら……」
 私が頷いたら、伊坂君はますます笑顔になった。
 
「よろしく!」
「う、うん。よろしく……」
 
 なんとも不思議な気分だった。
 それから私は、昼休みに時々伊坂君と一緒に、中庭でお弁当を食べるようになった。
 
「驚いたなぁ……まさかOKしちゃうとは思わなかった……」
 
 以前よりはちょっぴり話す回数の増えた畠田さんは、やっぱり体ごと私をふり返って、大袈裟にため息をついてみせる。
 
「OKって何が……?」
 
 首を捻る私の肩を、
「またまたぁ」
 なんて言いながらバチンと叩く。
 
「伊坂とつきあってるんでしょ? 一生君とはただの従兄妹同士だなんて、絶対嘘だと思ってたのに……本当だったんだね……じゃあ一生君が学校来てる間に、私も思い切って話しかけてみればよかったなぁ……」
 
「ちょっと! それってどういう……!」
 
 思わず立ち上がって大声を出しかけてから、慌ててそんな自分にストップをかけた。
 
『伊坂君とつきあってる』
 とか、すぐさま訂正しなければならない箇所だってあったはずなのに、私が過剰反応したのはそんなところにではない。
 
 相変わらず海里のことしか頭にない自分が嫌になる。
 
「冗談だよ冗談……ほんっとに反応が面白いなぁ……」
 
 コロコロと笑いながら畠田さんが前に向き直ったので、私も椅子に座り直した。
 これまでなるべく見ないようにしていたのに、思わず隣の空席に目を向けてしまう。
 
(バカ! ……それもこれも全部海里のせいだからね……!)
 
 その席からもの珍しそうに教室中を見回していた海里は、もう長いこと学校に来ていない。
 
(ひょっとして、もう来ることはないのかも……)
 
 何気なくそんなことを考えてしまった自分に、ギョッとした。
 
 ――海里の我が儘を、なぜ陸兄が許しているのか。
 
 考えてしまうと、あまりにも知りたくない答えに辿り着いてしまいそうで、私は考えること自体を最初から放棄している。
 
 あんなに憧れていた高校生活。
 何をおいても優先したいらしい何か。
 
 その両方をやる時間が、海里にはもうないだなんて。
 どちらか一つを選ぶしかないだなんて。
 
 ――そんなこと、絶対にあって欲しくない。
 
 ガタンと大きな音を鳴らして、一度は座った席から私はまた立ち上がった。
 
「どうしたの……?」
 
 ゆっくりとふり返った畠田さんに顔を見られないように、急いで歩きだす。
 
「ちょっと美術室に行ってくる。今描いてる絵……かなり時間がかかりそうなんだ……」
「昼休みも部活……? 熱心だね」
 
 これまでにも時々、美術室で昼休みを過ごしたことがあったため、怪しまれずに済んで良かった。
 
(このまま本当に美術室まで行っちゃおう……)
 
 急いで廊下を通り、上履きから靴に履き替えて、中庭に出る。
 渡り廊下を使えば違う校舎にある美術室にだって、上履きのまま行けないこともなかったが、あえて人のあまりいなさそうなルートを選んだ。
 
 多分自分が酷い顔色をしているだろうってことは、鏡を見て確かめなくってもわかっていた。
 
(海里……)
 
 考えるとどうしようもなく胸が痛くなるから、考えないようにする。
 
(海里の容態はあまりよくないのかもなんて……そんなこと、どんなに状況証拠が揃ったって私は信じない! 絶対に信じない!!)
 
 ドスドスドスと足音を響かせて、地面を力いっぱい踏みしめながら歩いていたら、笑い含みに声をかけられた。
 
「すごい勢いだね……どこ行くの?」
 
 伊坂君だった。
 いつもの木蓮の木の下で、数人の男子と談笑しているから、私と約束していない日にも彼はこの場所で昼休みを過ごしているんだと、改めて知る。
 
「…………美術室」
 
 プイッと顔を逸らしたまま答える私に、彼は余計な詮索はしなかった。
 
 そう。
 いつだって伊坂君は、私が触れて欲しくない事柄には、不思議なくらい全く言及しない。
 それでいて、コチコチに凝り固まった私の心が、思わずほぐれるような話題を提供してくれる。
 
「そっか。五十嵐さん美術部だもんね……ねえ、木の絵は描いたりしないの?」
 
 私が花や木の絵を描くことが好きなのを知っていて、わざと尋ねているのかとさえ思った。
 それぐらい、私が今仕上げようとしている絵と彼の質問は、ピタリと一致していた。
 
「描くわ……大好きだもの……」
 
 驚いて思わず足を止めた私に、伊坂君は笑顔を向ける。
 おそらく酷いことになっているだろう顔色にも、彼は全く躊躇しない。
 
「いつかこの木も描いてよ……そして僕に見せて!」
 
 自分が描いた絵をわざわざ人に見せるなんて、普段は好きじゃないのに気がつけば頷いていた。
 こっくりと頷いていた。
 
(なんか不思議な人だな、伊坂君って……)
 
 さっきまでよりはだいぶ落ち着いた足取りで、私は美術室へと急いだ。

 油絵の具の匂いと、古い部屋の匂いが入り混じった独特の香りがする薄暗い空間。
 私は美術室が大好きだ。
 
 そこは幼い頃に海里と二人で遊んだ、海里の家の最奥の部屋とよく似た雰囲気がある。
 
 もともとは伯母さんが絵を描くためのアトリエだったというその部屋は、伯母さんが亡くなってからは単なる物置と化していたが、海里が絵を描き始めてからは海里のものになった。
 
 大きな椅子にゆったりと腰掛けて、何かを思い出すかのように時々目を閉じながら、キャンバスに向かう海里を眺めているのが好きだった。
 
 だから私は、学校でも海里を美術部に無理やりひっぱりこんだ。
 
 そんなことをぼんやりと思い出していたから、幻を見たのかと思った。
 
 グイッと手の甲で目を擦る。
 しかし窓際の席に腰を下ろしているよく見慣れた人物のシルエットは、私の視界から消えてはくれない。
 
 それどころか部屋に入ってきた私に手を上げて、ニッコリ笑って立ち上がった。
 
「やあ、ひとみちゃん……ちょうどよかった……!」
 
 どう考えても本物らしいその笑顔に、呑気な声に、思わず悲鳴のような叫び声を上げてしまった。
 
「何やってんのよ、海里! 授業はサボっといて美術室にだけ顔出すんじゃないわよ!
 しかも制服じゃないじゃない! どうやってここまで入りこんだのよ!!」
 
 息もつかずに一気に叫んだ私に、一瞬呆気に取られたような顔をしたあと、海里は次の瞬間、お腹を抱えて大笑いを始めた。
 
「ごめんごめん。急に絵が描きたくなっちゃってさ……でも別に入りこんじゃいないよ……俺だってこの学校の生徒なんだから、普通に校門から入ってきたよ……ははははっ」
 
 ちょっと癖がかった淡い色の髪を揺らして、綺麗な瞳の目尻をほんの少し下げて、大きな口を開けて屈託なく笑うその顔に、目が釘付けになる。
 
(ああ海里だ……本当に海里だ……)
 
 誰よりも見慣れているはずの人に、見惚れずにいられない私は、やっぱり恋している。
 
 この残酷なくらい鈍感な従兄に、どうしようもなく恋していた。


 
 海里の言葉を借りるならば、
「空があんまり綺麗で、ひさしぶりに絵を描きたくなって、気がついたらここまで来ていた」
 のだそうだ。
 
「あんたね……」
 
 私から無理やり借りたスケッチブックを片手に、窓際の席でもう鉛筆を走らせ始めた海里の姿を見ていると、頭を抱えずにはいられない。
 
 もうずいぶん長いこと、絵を描くのを辞めていたのにどんな心境の変化なのかとか。
 なんで自分の家のアトリエじゃなく、学校の美術室に来たのかとか。
 
 尋ねたいことはいくつもあったけれど諦めた。
 
 絵を描くことに集中し始めた海里は、こちらの言うことなんてまるで耳に入らないのだ。
 
 その証拠に、どうやら私が美術室に現われるまで、相手をしてくれていたらしい部長が
「私、先に教室に帰るね」
 と一声かけていっても、返事すらしない。
 
 代わりに海里のぶんも頭を下げた私の身にもなって欲しいと、心からそう思った。
 
 たぶん私がいてもいなくても同じだろうと、ちょっと足りなくなった絵の具を取りに隣の美術準備室へ行こうとすると、思いがけず声をかけられる。
 
「どこ行くの?」
 
 二、三十センチは床から飛び上がって、窓際の席に座る海里をふり返った。
 
「じゅ、準備室よ! 絵の具取ってくるのよ!」
「ふうん。そう……」
 
 こちらには目も向けず、興味なさそうに返ってきた言葉にムッとした。
 
(別にどうでもいいんなら、いちいち呼び止めないでよね!)
 
 急いで部屋から出て行こうとしたら、また背中に声がかかる。
 
「ここに来る前、中庭にいたでしょ……話してた奴、誰? ……ひとみちゃんの彼氏?」
 
 思わずガバッとふり返ってしまった。
 
 海里は相変わらずこちらを見もしないで、視線はスケッチブックに落としている。
 
 なかば閉じているような長い睫毛にドキドキする自分をふり払って、私は大声で叫んだ。
 
「違うわよっ! 友だち! ……隣のクラスの伊坂君!」
「ふうん。そう……」
 
(だから、そんな気のない返事をするくらいなら尋ねないで!)
 
 怒りに任せて再び背を向けて、歩きだそうとしたのにできなかった。
 
 私が背を向けるより先に、海里が伏せていた視線を上げて、遠くから真っ直ぐに私の顔を見た。
 
「俺の知らない間にひとみちゃんに彼氏ができたのかと思って、なんか焦った……そうなったらいいのにってずっと思ってたはずなのに……結構へこむね……あんな顔、他の奴にも見せるんだ……」
 
 まるで冗談にもならないような真面目な顔で、他ならぬこの私にそんなこと言わないで欲しい。
 
 どう受け取ったらいいのか。
 悲しんでいいんだか、喜んでいいんだか。
 全然わからなくなる。
 
「な、なによ……それって伊坂君にやきもちでも妬いてんの……?」
 
 もういっそのこと笑い話にしてしまおうと、ひやかすように問いかけたら、真顔のまま頷かれた。
 
「うん。そうかも」
 
 言ってすぐに、海里が私から目を逸らして再びスケッチブックに向かってくれて、心から良かったと思った。
 
 真っ赤になった顔を見られないように慌てて背を向けて、
「なに言ってんのよ! バカ!!」
 と思いっきり叫んで、美術室を飛び出したけれど、その全てが間に合っていたとはとても思えない。
 
 私をからかうのが趣味のような海里に、翻弄されただけなのだろうか。
 それともあれは本当に、海里の本音なのだろうか。
 
(ほんっとにバカ! バカ海里!)
 
 くり返し心の中で叫ばずにはいられない私が、この上なく動揺しきってしまったことだけは確かだった。
 その日から海里は、気が向いた時にふらっと昼休みの美術室に顔を出すようになった。
 
「授業には出ないくせに、いったい何様のつもりなのよ!」
 
 私が怒ってそんなふうに言えば、満面の笑顔で、「もちろん、俺様!」なんて答えが返ってくるので、いちいち怒る気も失せる。
 
 窓際の椅子に座って時々空を眺めながら、スケッチブックに向かっている姿を見ていると、それだけでホッと安心できるのは確かだったので、もう細かいことは大目に見ることにした。
 
 そもそも美術部の顧問も、私たちの担任も、海里の自分勝手な行動を知ってて黙認している気がする。
 
 もしも叔父さんや陸兄との間でなんらかのとり決めがなされているんなら、私ごときの出る幕ではない。
 
 海里は子供の頃から、いつだって特別扱いだった。
 
 それは決して羨ましいことではないし、本人にとっては悔しい以外の何でもない。
『みんなと同じ』こそが、海里がずっと求めてきたものだったのだから――。


 
「……しわが寄ってる……」
 
 スラスラと滑るように一心に鉛筆を動かしている海里が、目は紙面に向けたまま突然呟いたので、私はぼんやりと視点を定めずに考えごとをしていた目を、窓際へ向けた。
 
「何……?」
 
「眉間にしわが寄ってるって言ったの。ひとみちゃん……可愛い顔がだいなしだよ?」
 
 相変わらずこちらを見ようともしないで、まるで歌うように囁かれた上機嫌の声に、私は首まで真っ赤になった。
 
「なんであんたにそんなことわかるのよ! そっから見えるはずないでしょ!! そもそも……か、か……可愛い顔ってなんなのよ!」
 
 どこにどう反論したら、海里の一言一言に私が大慌てしていることがバレずに済むんだろう。
 昔からそれだけは全然わからない。
 
「見えるよ。俺、目いいもん。今だって中庭で、あの伊坂って奴がひとみちゃんを待ってるのもよく見える……行かなくていいの?」
 
 私は怒りにふり上げていたこぶしを下ろして、思わず腰を浮かした大きな画布の前の椅子にもう一度座り直した。
 
「別に毎日約束してたわけじゃないから……それに今は、これを早く仕上げないといけないし……」
「そう」
 
 それっきり海里は口を閉ざして、また空を見上げた。
 
 太陽の光を受けて輝く淡い色の髪に、白い横顔に、思わず視線をひき寄せられる自分を戒めて、私は宣言したとおり、まだ空白部分が多い目の前の画布に向き直る。
 
(嘘つきだな……私……)
 
 私が昼休みの美術室に足繁く通うようになったのなんて、しょせんは海里に会いたい一心からだ。
 そんなことは、自分でもよくわかっている。
 
 これまで伊坂君と話をして過ごしていた時間はどうしようかなんて、頭に浮かびもしなかった。
 
(馬鹿だな……小学生の頃から全然成長してない……いくつになってもやってることは同じ……!)
 
 なんだか無性に腹立たしくて、悔し紛れに絵筆を取り上げた途端、海里がもう一度口を開いた。
 
「俺さ……また入院することになったから……」
 
 息が止まるような思いで、私はやっぱり窓のほうをふり返った。
 
 太陽を背に受けて、まるで何もかもを納得しているかのような顔で、海里は笑っていた。
 
「念のための検査入院だけどね……ひとみちゃん、いつもみたいについて来てくれる?」
 
 あまりそうは見えなかったけれど、最近調子が悪かったんだろうかとか。
 どうして発作も起こしてないのに、入院なのだろうかとか。
 まさかとか。
 ひょっとしてとか――。
 
 心に浮かんだ不安は全部どこかに押しやって、私はせいいっぱいいつもどおりの反応を海里へ返した。
 わざとプイッと顔を背けて、声を荒げて強気で言いきった。
 
「あたり前じゃない! 私が行かなきゃ誰が行くのよ!」
「ハハハッそうだね。よろしく」
 
 笑いながら言った海里の顔は見れなかった。
 どうやら『目はいい』らしい海里に、胸の中の不安まで全部見透かされてしまいそうで、それが恐かった。



「入院手続きなんかのために、一生君に付き添います!」という名目で、私は海里の入院当日、学校に欠席届を提出した。
 
「別に私がついて行ってもいいのよ?」
 
 ママはきっと私を気遣ってそう言ってくれたのだろうけど、海里に関係することに限って言えば、それは余計なお世話だ。
 
 海里が、他の誰でもなく私についてきてほしいと言った。
 ――それこそが私の喜びだし、誇りなのだから。
 
「いいよ。私が行くから……」
 
 何日も前から勝手知ったる海里の家に入りこんで、荷物の用意なんかも全部やって、準備万端整えた。
 あとは当日、海里が予約したという時間に病院に向かうだけだった。
 それなのに――。


 
 当日の朝早く、わざわざ迎えに行った私よりも更に早い時間から、海里はいつものようにさっさとどこかに出かけてしまっていた。
 
「……信じらんない! ……あの馬鹿! 自分がついてきてくれって言ったくせに……!」
 
 玄関先で怒りに震える私を、陸兄がまあまあと宥める。
 
「すぐに帰って来るつもりなんじゃないかな? もしひとみがいいんだったら、うちで待っててもいいからさ……?」
 
 そうして家の鍵を私に預けると、自分はさっさと大学へ行ってしまった。
 
 行き場の無い怒りを私に向けられるのが嫌で、早々に逃げてしまったんじゃないかと、そんなひねくれた考えばかりが頭に浮かぶ。
 
(どこに行ったっていうのよ! 入院当日に!)
 
 答えは考えずとも浮かんでくるが、それは私にはどうにも納得のいかない内容なので、なおさら腹が立つ。
 
(たぶん彼女に会いに行ったんだよね……しばらく会えないとかなんとか、そんなこと言いに行ったのかな? ……それで別れを惜しんでるとか……?)
 
 勝手に海里の家のリビングのソファーに腰を下ろして、そこにあったクッションを悔し紛れにギュッと抱き締めた。
 傍らに置いてあった海里の荷物が入った大きな旅行カバンを、つま先で蹴る。
 
「馬鹿……!」
 
 悔しい気持ち半分。
 羨ましい気持ち半分。
 それでも、(しょうがない)という思いでしばらくは待ったのに――。
 
 海里はいつまで経っても帰って来なかった。

「いくらなんでも遅すぎる!」
 
 イライラと時計を見ながら待っているうちに、とっくに病院の午前中の診療時間を過ぎた。
 さすがにそろそろ堪忍袋の尾も切れる。
 
 かけようと思ってはやっぱりやめてを何度もくり返した海里のスマホに、しかたがないので電話することにした。
 
(出なかったらどうしよう……)
 
 今、取りこみ中だとか。
 私からの連絡なんてあと回しとか。
 そんなこと考えただけで気持ちが滅入る。
 
 でも予想に反して、数回のコールで海里は電話に出た。
 それもいつもどおりの飄々とした声で。
 
「はいはい」
 
 あまりに緊張感のない普段どおりの応対に、朝から散々待たされてたまりにたまっていた鬱憤が爆発した。
 
「なにやってんのよ!! まさか今日これから入院だっていうのに、忘れてるんじゃないでしょうね!!」
 
 大声で怒鳴りつけると、電話の向こうでかすかに息をのむ声が聞こえる。
 
「うっわ……忘れてた……!」
 
 あまりと言えばあまりの発言に、思わず脱力する。
 
(私は何日も前から準備をして、学校まで休んで迎えに来たのに……当の本人が忘れてた……? あり得ない!)
 
「何をどうやったらそうなるのよ! 能天気海里!」
 
 もう一度叫んで一気に不満をまくし立て始める。
 
 海里は神妙な声で、何度も「うんうん」と相槌を返してくる。
 いつもなら軽口を叩いて私をからかうところなのに、そうはしないものだからなんとなくピンと来た。
 
(きっと近くに誰かがいるんだ……)
 
 その『誰か』を意識した途端、流れるように文句を言い続けていた私の声が、思わず途切れる。
 海里はその瞬間を狙っていたかのように、ひどく優しい声で耳元で囁いた。
 
「わかったから。じゃそこで待ってて、ひとみちゃん」
 
 私の機嫌が悪い時に、海里がいつも浮かべる笑顔まで目の前に見える気がして、悔しいけれどドキリとした。
 条件反射のように、カアッと顔まで赤くなる。
 
 私の返事も待たずに海里はすぐに電話を切ったけれど、私はぼうっとスマホを握り締めていた。
 嬉しいんだか、悔しいんだか、自分の感情がもう全然わからない。
 
 力が抜けたようにソファーに座りこんだまま、しばらくの間は何もする気が起こらなかった。


 
 すぐに帰ると言った言葉どおり、海里は三十分足らずで家に帰ってきた。
 
「遅いっ!」
 
 慌ててタクシーで向かった病院は、もう昼の休憩時間だった。
 
「すいませんでした。すっかり忘れてました!」
 
 潔く頭を下げて、二カッと悪戯っぽく笑う海里を、誰も咎めたりはしない。
 石井先生も看護師さんたちも、みんなニコニコ笑いながら、すんなりと許してしまう。
 
 そこには確かに、どこにいても何をしててもすぐに周囲と打ち解けて仲間を作ってしまう、昔と変わらない海里がいた。
 
 休んでばかりの小学校でも、みんなの半分も通わなかった中学校でも、海里にはたくさんの友だちがいた。
 私とは比べものにならないくらい――。
 
(なんて得な性格なんだろ……ううん、これが海里のいいところなんだよね……)
 
 そんなふうに思えば、『神様に愛された子供は早く天に召される』なんてどこかで聞いたような言葉が脳裏をかすめる。
 
(嫌だ……そんなに早く連れて行かないで……!)
 
 誰に宣言されたわけでもないのに、そう願わずにはいられない。
 
「じゃあ、ひとみちゃん。また明日」
 
 さっさと病室のベッドに繋がれた海里が、無邪気に笑えば笑うほど、私は苦しくて仕方がなかった。
 
「ずうずうしいこと言ってるんじゃないわよ!」と怒鳴り返す元気もなく、「うん」と頷いて病室をあとにしようとした背中に、聞き慣れた調子の声がかかる。
 
「ひとみちゃん! ……しわが寄ってるって!」
 
 思わず自分の眉間に指を当てて、海里の言うとおりそこに深いしわが刻まれていることを確認してから、私はクルリとうしろをふり返った。
 
「うるさいわよ! 馬鹿!」
 
 大きな声で叫ぶと、海里が楽しそうに笑い始めるからホッとする。
 本当は不安でいっぱいな気持ちを悟られずに、上手く海里を騙せたんだと安堵する。
 
「ハハハハッ」
 
 背後で響く明るい笑い声に、つられるように私も笑顔になりながら、病室を出た。
 
(「来い」なんて言われなくたって……毎日通うわよ! そして私はまだまだ絶対に、海里をここに引き止めておくんだから……!)
 
 誰に対してなのかわからない、そんな挑戦状を、心の中で叩きつけた。