翌日の昼休み。いつものように弁当を食べ終えたユキオは、小説を読んでいた。しかし、全然集中して読むことが出来ない。
「はぁ……」
小さくため息をつくユキオ。今日はずっとこんな調子だ。
何をやるにも身が入らず、気が付けば昨日の光景をリフレインさせている。
「お付き合いしてください」と言った時の、アイナの美しくまっすぐな瞳。
彼女と付き合うことに臆し、「すいません」と頭を下げた時の情けない自分。
(僕、最悪だ……)
と、その時であった。教室の扉がガラガラと開いたかと思うと、廊下から聞きなじみのある声がする。
「おーい、クマちゃーん!」
「……ん?」
パッと顔を上げ、声がした方を向くユキオ。そこにいたのは料理部の部長・西野ハルカであった。
「あっ、部長! どうしたんですか?」
「すまんクマちゃん! 緊急で料理部のミーティングを開くことになったんだ! 来てくれ!」
そう言って、「こっちこっち」と手招きをするハルカ。
「分かりました、すぐ行きます!」
小説をしまった彼は、すぐに廊下へ出た。
「それで……緊急ミーティングって、どこでやるんですか?」
尋ねるユキオ。するとハルカはあっけらかんとした表情で、
「ん? ああ、あれ嘘」
と淡白に答えた。
「えっ!? 嘘っ!?」
「おう。嘘」
一切悪びれることなく、コクリと頷くハルカ。そして彼女は表情を一変させ、いつになく真面目な顔になった。
「ところでさ、クマちゃん……アイナから聞いたよ、色々と」
「え……」
その言葉を聞いた途端、ユキオは心がズシリと重くなるのを感じる。そして気が付けば、彼は頭を下げていた。
「す、すみません……本当に……」
ハルカはアイナの幼馴染であり、親友だ。そんなアイナをあんなにも雑に振ったのだから、きっとハルカは怒っている……そう考えてユキオは頭を下げた。
だがハルカは、腰に手を当てて「謝るなよ」と言う。
「別に、アイナと付き合うかどうかなんて、クマちゃんが自分で決める事なんだし。ちゃんと考えてから付き合わないって決めたんだったら、誰も文句言う筋合いないっしょ。でもさ……」
そこで彼女は言葉を区切り、深く息を吸ってから続けた。
「もしもクマちゃんが、アイナについて誤解したまま“付き合えない”って決断したんだとしたら、それって超もったいないことだと思ってさ」
「……え?」
ユキオは頭を上げながら、ぽかんと口を開けた。
「アイナって、昔から凄く真面目な子だったからさ。私と違って、周りの皆に期待されてたのよ。勉強とか、まあ色々とさ」
「なるほど……」
確かに、思い当たる節はある。ユキオ自身、アイナの事はつい先日まで完璧超人だと思い込んでいた。
「だからアイナはいつも努力して、周りの期待に応えてきた。生徒会長になったのだって、みんなの期待に応えるためなんだよ。あの子、本当は引っ込み思案なのにさ……」
そう言って、少し悲し気に目を伏せるハルカ。いつも無邪気に笑ってばかりいる彼女がこんな表情をするところを、ユキオは初めて見た。
「あんたの気持ちは分かるよ、クマちゃん。アイナと付き合ったら、劣等感に苛まれる……でしょ?」
心を完全に見透かされたユキオは、素直に「はい」と頷く。
「私もさ、アイナと昔から遊んでるけど、周りからは“釣り合ってない”とか言われて馬鹿にされたりもしたよ。ほら、私頭悪いし。ガサツだし。だから、クマちゃんみたいに劣等感に苛まれたりもした」
「……」
ユキオは、何も言えなかった。何を言えばいいのか、まるで分らなかった。
するとハルカが、ユキオの肩をポン、と優しく叩く。
「でもさ。あんたが“勝手に”劣等感に苛まれて、“勝手に”逃げたりなんかしたら……アイナ、一人ぼっちになっちゃうじゃん」
「……」
「釣り合ってないなんて、全然思わないよ。私。アイナはアイナで結構不器用なところあるし。クマちゃんと凄くお似合いだと思う……」
ハルカのその力強い言葉に、ユキオは思わず目頭が熱くなった。
「ぶ、部長……」
「大丈夫だよ。行ってきな、ユキオ。アイナは調理室で、あんたの事を待ってるから」
「……はい!」
そしてユキオは、いてもたってもいられずに廊下を走り出した。
ユキオは、走るのが苦手だ。それでも、アイナのもとへ急いで向かおうと必死で走った。
それから調理室に着くまでの間、彼は何度も頭の中で“僕なんか”という言葉を振り払った。
◆ ◆ ◆
「アイナさん!」
調理室の扉を開けて中に入った彼は、開口一番にそう叫んだ。するとそこには、キッチンの前で眉をひそめ、必死にパスタをゆでるアイナの姿があった。
「あっ……ユキオ君……」
調理室に入ってきたユキオの姿を見て、ほんの一瞬固まるアイナ。
「あ……アイナさん……えっと……な、何してるんですか……」
ここまでずっと走って来たので、息が荒い。必死に呼吸を整えつつ、ユキオは尋ねた。
するとアイナが、少し恥ずかしそうにしながら
「今、ミートソーススパゲティを作ってるの。ユキオ君に、食べてほしくて……」
と答える。
「え……ミートソーススパゲティを……?」
「うん……というか、昨日はごめんなさいね。いきなり、あんなこと言って。驚いちゃうのも当然よね。ごめんなさい」
パスタをゆでる鍋に視線を落としながら謝るアイナ。ユキオは、ブンブンと首を横に振った。
「そんな、まさか……謝るのは、僕の方ですよ!」
そして、勢いよく頭を下げるユキオ。
「すみませんでした、アイナさん! 昨日、あんな形で逃げちゃって!」
それから数秒間、調理室は静寂に包まれた。パスタをゆでている鍋の、グツグツと煮えたぎる心地よい音だけが、鼓膜を震わせる。
「……頭を上げて、ユキオ君」
「は、はい……」
ユキオはおずおずと顔を上げた。するとアイナが、いつものクールな表情で言う。
「パスタが茹で上がったわ。一緒に、食べましょう」
そして彼女は、ぎこちない手つきでパスタを2つの皿に盛り、その上にミートソースをかける。いつもクールな彼女からは想像できないくらい、その盛り付ける手はプルプルと震えていた。
「……で、出来たわ……」
案の定、出来上がったミートソーススパゲティの見栄えはあまり良くなかった。ソースに入っているマッシュルームはきれいにカットされていないし、パスタ同士もくっついてしまっている。
しかも何故か、真っ黒に焦げた小振りのししゃもが丸々4匹も上にトッピングされていた。料理が不得意な人に限って余計なアレンジをしたがるとよく言われるが、それにしたってこれは本当に意味が分からない。
どういう意図があっての黒焦げししゃもなのだ。
おかしすぎてついつい笑ってしまいそうになるユキオであったが──それでも、彼女がこうして料理をしてくれたという事が、嬉しかった。
出来上がった料理が盛られた2つの皿を、テーブルに運ぶアイナ。
「いただきます……」
ユキオは椅子に座ると、テーブルの上に置かれたフォークを手に言った。そして、パスタとソースを絡ませてからパクリと一口食べる。
「……どう、かしら……自信はないんだけど……」
反対側の席に座り、少しオタオタとしながら聞いてくるアイナ。ユキオは、あえてお世辞なしで率直に答えた。
「えっと……たぶん、パスタの茹で時間が足りてないですね。かなり芯が残ってて、あまり……その……美味しくないです」
一番のツッコミどころは真っ黒に焦げたししゃもなのだが、それには触れないでおくユキオ。
「うっ……ご、ごめんなさい」
するとアイナは、眉を八の字にして申し訳なさそうな顔をした。
「でも……」
「……でも?」
「なんていうか……凄く……」
そこでユキオは、言葉に詰まった。
不意に、目からボロボロと涙があふれ出てくる。
それを見たアイナが、慌ててハンカチを取り出した。
「ど、どうしたの!? ユキオ君! そ、そんなに美味しくなかった!?」
そう言って身を乗り出し、ユキオの頬を伝う涙をハンカチで拭う。すると彼は、くしゃくしゃの顔のままで懸命に言葉を紡いだ。
「美味しくないけど……美味しいです、これ……!」
「……!」
ユキオの涙を拭う手を止め、目を見開くアイナ。
「アイナさん……もう、“僕なんか”って言いませんから……僕と、付き合ってください……!」
「……」
「お願いします……!」
「……」
彼女は、無言だった。
だがそれは、決して否定の意味の沈黙ではない。
アイナはハンカチをポケットにしまうと、涙で濡れたユキオの両頬を、両手で優しく包み込んだ。
そして、静かに顔を近付け──
唇と唇を、重ね合わせた。
時間にして、実に3秒。だがこの3秒は、ユキオにとって1分にも、1時間にも、1日にも感じられた。
「あ、アイナさん……」
口づけが終わると、呆然とした顔で声を上げるユキオ。するとアイナは、慌てて彼の顔からパッと手を離し、気まずそうにそっぽを向いた。
そして、ボソリと呟く。
「……約束よ」
「……え?」
「もう、“僕なんか”って言わないって……約束……」
「……」
この学校の多くの生徒が、生徒会長・榊原アイナを完璧な人間だと思い込んでいる。いつもクールで表情を崩さず、苦手なことなど一つもない超人だと。
だが、それは違う。
「私にだって、苦手な事は沢山あるわ。手が不器用ですぐに物を壊しちゃうし、料理もろくにできないし……だから、私からすれば、料理が上手なユキオ君は憧れなの……」
そっぽを向いたまま、顔を赤らめて言うアイナ。
「だから……“僕なんか”って、言わないでよ……」
「……はい!」
ユキオは、またとめどなく涙を流しながら、力強く頷いた。
「あと、その体型も。私、結構好きよ……可愛くて」
「えへへ……あ、ありがとうございます」
ユキオは、顔から火が出そうなほど、照れくさかった。
そして2人は、付き合うことになった。
◆ ◆ ◆
ユキオには、コンプレックスがあった。
それは、自分のぽっちゃりとした体型だ。
顔も体つきもふっくらとしており、運動が苦手だったこともあって昔から同級生からは「のろま」と呼ばれていた。
ユキオは、自分に自信がなかった。
だが、1人の女性が変えてくれた。
だから今のユキオは、自分の事が好きだ。
そしてそれ以上に──榊原アイナの事が、大好きだ。
これからもそれは、きっと変わらない。
「はぁ……」
小さくため息をつくユキオ。今日はずっとこんな調子だ。
何をやるにも身が入らず、気が付けば昨日の光景をリフレインさせている。
「お付き合いしてください」と言った時の、アイナの美しくまっすぐな瞳。
彼女と付き合うことに臆し、「すいません」と頭を下げた時の情けない自分。
(僕、最悪だ……)
と、その時であった。教室の扉がガラガラと開いたかと思うと、廊下から聞きなじみのある声がする。
「おーい、クマちゃーん!」
「……ん?」
パッと顔を上げ、声がした方を向くユキオ。そこにいたのは料理部の部長・西野ハルカであった。
「あっ、部長! どうしたんですか?」
「すまんクマちゃん! 緊急で料理部のミーティングを開くことになったんだ! 来てくれ!」
そう言って、「こっちこっち」と手招きをするハルカ。
「分かりました、すぐ行きます!」
小説をしまった彼は、すぐに廊下へ出た。
「それで……緊急ミーティングって、どこでやるんですか?」
尋ねるユキオ。するとハルカはあっけらかんとした表情で、
「ん? ああ、あれ嘘」
と淡白に答えた。
「えっ!? 嘘っ!?」
「おう。嘘」
一切悪びれることなく、コクリと頷くハルカ。そして彼女は表情を一変させ、いつになく真面目な顔になった。
「ところでさ、クマちゃん……アイナから聞いたよ、色々と」
「え……」
その言葉を聞いた途端、ユキオは心がズシリと重くなるのを感じる。そして気が付けば、彼は頭を下げていた。
「す、すみません……本当に……」
ハルカはアイナの幼馴染であり、親友だ。そんなアイナをあんなにも雑に振ったのだから、きっとハルカは怒っている……そう考えてユキオは頭を下げた。
だがハルカは、腰に手を当てて「謝るなよ」と言う。
「別に、アイナと付き合うかどうかなんて、クマちゃんが自分で決める事なんだし。ちゃんと考えてから付き合わないって決めたんだったら、誰も文句言う筋合いないっしょ。でもさ……」
そこで彼女は言葉を区切り、深く息を吸ってから続けた。
「もしもクマちゃんが、アイナについて誤解したまま“付き合えない”って決断したんだとしたら、それって超もったいないことだと思ってさ」
「……え?」
ユキオは頭を上げながら、ぽかんと口を開けた。
「アイナって、昔から凄く真面目な子だったからさ。私と違って、周りの皆に期待されてたのよ。勉強とか、まあ色々とさ」
「なるほど……」
確かに、思い当たる節はある。ユキオ自身、アイナの事はつい先日まで完璧超人だと思い込んでいた。
「だからアイナはいつも努力して、周りの期待に応えてきた。生徒会長になったのだって、みんなの期待に応えるためなんだよ。あの子、本当は引っ込み思案なのにさ……」
そう言って、少し悲し気に目を伏せるハルカ。いつも無邪気に笑ってばかりいる彼女がこんな表情をするところを、ユキオは初めて見た。
「あんたの気持ちは分かるよ、クマちゃん。アイナと付き合ったら、劣等感に苛まれる……でしょ?」
心を完全に見透かされたユキオは、素直に「はい」と頷く。
「私もさ、アイナと昔から遊んでるけど、周りからは“釣り合ってない”とか言われて馬鹿にされたりもしたよ。ほら、私頭悪いし。ガサツだし。だから、クマちゃんみたいに劣等感に苛まれたりもした」
「……」
ユキオは、何も言えなかった。何を言えばいいのか、まるで分らなかった。
するとハルカが、ユキオの肩をポン、と優しく叩く。
「でもさ。あんたが“勝手に”劣等感に苛まれて、“勝手に”逃げたりなんかしたら……アイナ、一人ぼっちになっちゃうじゃん」
「……」
「釣り合ってないなんて、全然思わないよ。私。アイナはアイナで結構不器用なところあるし。クマちゃんと凄くお似合いだと思う……」
ハルカのその力強い言葉に、ユキオは思わず目頭が熱くなった。
「ぶ、部長……」
「大丈夫だよ。行ってきな、ユキオ。アイナは調理室で、あんたの事を待ってるから」
「……はい!」
そしてユキオは、いてもたってもいられずに廊下を走り出した。
ユキオは、走るのが苦手だ。それでも、アイナのもとへ急いで向かおうと必死で走った。
それから調理室に着くまでの間、彼は何度も頭の中で“僕なんか”という言葉を振り払った。
◆ ◆ ◆
「アイナさん!」
調理室の扉を開けて中に入った彼は、開口一番にそう叫んだ。するとそこには、キッチンの前で眉をひそめ、必死にパスタをゆでるアイナの姿があった。
「あっ……ユキオ君……」
調理室に入ってきたユキオの姿を見て、ほんの一瞬固まるアイナ。
「あ……アイナさん……えっと……な、何してるんですか……」
ここまでずっと走って来たので、息が荒い。必死に呼吸を整えつつ、ユキオは尋ねた。
するとアイナが、少し恥ずかしそうにしながら
「今、ミートソーススパゲティを作ってるの。ユキオ君に、食べてほしくて……」
と答える。
「え……ミートソーススパゲティを……?」
「うん……というか、昨日はごめんなさいね。いきなり、あんなこと言って。驚いちゃうのも当然よね。ごめんなさい」
パスタをゆでる鍋に視線を落としながら謝るアイナ。ユキオは、ブンブンと首を横に振った。
「そんな、まさか……謝るのは、僕の方ですよ!」
そして、勢いよく頭を下げるユキオ。
「すみませんでした、アイナさん! 昨日、あんな形で逃げちゃって!」
それから数秒間、調理室は静寂に包まれた。パスタをゆでている鍋の、グツグツと煮えたぎる心地よい音だけが、鼓膜を震わせる。
「……頭を上げて、ユキオ君」
「は、はい……」
ユキオはおずおずと顔を上げた。するとアイナが、いつものクールな表情で言う。
「パスタが茹で上がったわ。一緒に、食べましょう」
そして彼女は、ぎこちない手つきでパスタを2つの皿に盛り、その上にミートソースをかける。いつもクールな彼女からは想像できないくらい、その盛り付ける手はプルプルと震えていた。
「……で、出来たわ……」
案の定、出来上がったミートソーススパゲティの見栄えはあまり良くなかった。ソースに入っているマッシュルームはきれいにカットされていないし、パスタ同士もくっついてしまっている。
しかも何故か、真っ黒に焦げた小振りのししゃもが丸々4匹も上にトッピングされていた。料理が不得意な人に限って余計なアレンジをしたがるとよく言われるが、それにしたってこれは本当に意味が分からない。
どういう意図があっての黒焦げししゃもなのだ。
おかしすぎてついつい笑ってしまいそうになるユキオであったが──それでも、彼女がこうして料理をしてくれたという事が、嬉しかった。
出来上がった料理が盛られた2つの皿を、テーブルに運ぶアイナ。
「いただきます……」
ユキオは椅子に座ると、テーブルの上に置かれたフォークを手に言った。そして、パスタとソースを絡ませてからパクリと一口食べる。
「……どう、かしら……自信はないんだけど……」
反対側の席に座り、少しオタオタとしながら聞いてくるアイナ。ユキオは、あえてお世辞なしで率直に答えた。
「えっと……たぶん、パスタの茹で時間が足りてないですね。かなり芯が残ってて、あまり……その……美味しくないです」
一番のツッコミどころは真っ黒に焦げたししゃもなのだが、それには触れないでおくユキオ。
「うっ……ご、ごめんなさい」
するとアイナは、眉を八の字にして申し訳なさそうな顔をした。
「でも……」
「……でも?」
「なんていうか……凄く……」
そこでユキオは、言葉に詰まった。
不意に、目からボロボロと涙があふれ出てくる。
それを見たアイナが、慌ててハンカチを取り出した。
「ど、どうしたの!? ユキオ君! そ、そんなに美味しくなかった!?」
そう言って身を乗り出し、ユキオの頬を伝う涙をハンカチで拭う。すると彼は、くしゃくしゃの顔のままで懸命に言葉を紡いだ。
「美味しくないけど……美味しいです、これ……!」
「……!」
ユキオの涙を拭う手を止め、目を見開くアイナ。
「アイナさん……もう、“僕なんか”って言いませんから……僕と、付き合ってください……!」
「……」
「お願いします……!」
「……」
彼女は、無言だった。
だがそれは、決して否定の意味の沈黙ではない。
アイナはハンカチをポケットにしまうと、涙で濡れたユキオの両頬を、両手で優しく包み込んだ。
そして、静かに顔を近付け──
唇と唇を、重ね合わせた。
時間にして、実に3秒。だがこの3秒は、ユキオにとって1分にも、1時間にも、1日にも感じられた。
「あ、アイナさん……」
口づけが終わると、呆然とした顔で声を上げるユキオ。するとアイナは、慌てて彼の顔からパッと手を離し、気まずそうにそっぽを向いた。
そして、ボソリと呟く。
「……約束よ」
「……え?」
「もう、“僕なんか”って言わないって……約束……」
「……」
この学校の多くの生徒が、生徒会長・榊原アイナを完璧な人間だと思い込んでいる。いつもクールで表情を崩さず、苦手なことなど一つもない超人だと。
だが、それは違う。
「私にだって、苦手な事は沢山あるわ。手が不器用ですぐに物を壊しちゃうし、料理もろくにできないし……だから、私からすれば、料理が上手なユキオ君は憧れなの……」
そっぽを向いたまま、顔を赤らめて言うアイナ。
「だから……“僕なんか”って、言わないでよ……」
「……はい!」
ユキオは、またとめどなく涙を流しながら、力強く頷いた。
「あと、その体型も。私、結構好きよ……可愛くて」
「えへへ……あ、ありがとうございます」
ユキオは、顔から火が出そうなほど、照れくさかった。
そして2人は、付き合うことになった。
◆ ◆ ◆
ユキオには、コンプレックスがあった。
それは、自分のぽっちゃりとした体型だ。
顔も体つきもふっくらとしており、運動が苦手だったこともあって昔から同級生からは「のろま」と呼ばれていた。
ユキオは、自分に自信がなかった。
だが、1人の女性が変えてくれた。
だから今のユキオは、自分の事が好きだ。
そしてそれ以上に──榊原アイナの事が、大好きだ。
これからもそれは、きっと変わらない。