調理室に入った彼は、早速冷蔵庫からトマト缶とひき肉とマッシュルームを、棚から塩とコンソメ顆粒とパスタ麺を取り出した。

「食材はこれを使っています」

「結構シンプルなのね」

 そう言って、懐から取り出した手帳に鉛筆でメモするアイナ。

 高校生でシャーペンでなく鉛筆を使っているというのは、かなり珍しい。だが不思議と違和感はなく、むしろ“ぴったり”だな、とユキオは思った。

(素朴で上品……最高だな……)

 それから彼は、底の深い鍋に水をたっぷりとため、塩を小さじで2杯入れた後に火をつけた。

「塩は小さじ2杯でいいの?」

「はい。……まあ、別に分量は適当なんですけどね。あと、火は強火で」

「なるほど……」

 ふむふむ、と頷きながらメモを取るアイナ。

「で、ここにパスタを入れます。この時に重要なのは、麺同士がくっつかないように、鍋の中でばらけさせることです」

 ユキオはそう言いながら、慣れた手つきで沸騰した鍋にパスタを入れた。

「ほら、こんな感じでばらけさせれば、麺がくっつかないんです。コツは、パスタの束を軽くひねってから鍋に入れることです」

「へえ、上手いわね」

 するとアイナが、鍋をのぞき込もうとして顔をグイ、と寄せてきた。

「……っ!」

 一気に顔が近付いてきたので、思わずどぎまぎするユキオ。アイナの黒髪から、ふわりとフローラルな香りが漂ってきた。

(い、いい匂いだ……!)

 こんなに異性が接近してくるなど、これまでの彼の人生ではほとんどなかった。しかもそれが憧れの生徒会長・榊原アイナなのだ。まさに、夢見心地と言った感じである。

 それからも彼は、アイナが近くにいるという事に浮足立ちながらも、懸命に料理を続けた。

 マッシュルームを包丁で綺麗にカット。フライパンでトマトとひき肉、そして先程切ったマッシュルームを加熱して混ぜ合わせ、そこに塩とコンソメ顆粒を一つまみ。これでミートソースは出来上がり。

 最後に茹で上がったパスタをお皿に盛り付け、その上からソースをかければ完成である。

「こ、これで完成です……!」

「凄いわ、ユキオ君。流石の手さばきね」

「いやあ、そんな……」

 ユキオは照れながら体をもじもじとさせた。他人からここまで褒められるのには慣れていない。

「実はね。私、料理が下手なの」

「えっ……本当ですか!?」

 ユキオは素直に驚いた。彼にとって、アイナは完璧超人。苦手なことなど一つもないのだろうと、勝手に思い込んでいた。

「昔から、異常に手が不器用で……7歳の誕生日プレゼントで着せ替え人形を貰った時も、たった1時間で壊してしまったの。その時の事はあまり覚えてないけど、親が言うには”人形の全関節が本来曲がってはいけない方向に曲がっていた”そうよ」

「へ、へぇ……確かにそれは不器用ですね……」

(ま、真顔で言うから冗談なのかどうか判別がつかない……)

 アイナのぶっ飛んだエピソードトークに困惑するユキオ。すると彼女は、艶やかな黒髪を揺らしながら口を開いた。

「だから、ユキオ君のこと本当に凄いと思う。憧れちゃうわ」

「憧れだなんて、そんな……」

 むしろ、あなたの方こそ僕の憧れです……そんな恥ずかしいセリフを押しとどめ、ユキオは恐縮する。

「さあ、食べましょ。せっかくだから、半分こで」

「いいですね、それ」

 そしてユキオとアイナは、出来上がったミートソーススパゲティを2人で分けて食べた。正直、ユキオは味が分からないくらい緊張していた。

(ど、どうしよう……何か、喋った方が良いのかな……)

 スパゲティを頬張りながらそんなことを考えていると、先にアイナが話しかけてきた。

「ねえ、ユキオ君」

「はひぃっ!」

 びっくりしてしまい、思わず声が裏返るユキオ。彼は恥ずかしさのあまり、顔を赤面させた。

「す、すいません……それで、なんでしょう……?」

「ユキオ君って、彼女とかいるの?」

「えっ!?!? い、いませんいません! 僕なんか、そんな」

 首をブンブンと横に振り、必死に否定するユキオ。そんな彼の姿を見て、彼女はこらえきれなくなったかのようにプッ、と吹き出した。

「ウフフ……どうしたのよ、ユキオ君……」

「えっ?」

 アイナがここまで笑うなんて、ユキオは思ってもみなかった。しかも、笑わせたのは彼自身だ。

「ごめんなさい。なんていうか、必死な君が面白くて」

「い、いやあ……どうも……」

「でも、彼女がいないなら問題ないわね。今度の日曜日、私とデートしない?」










 その発言を聞いた途端、ユキオはパスタをフォークに巻き付けたまま数秒固まった。そして、今しがた彼女が言った言葉を脳内で反芻させる。

(今度……日曜日……私と……デート……しない……?)

「……え?」

 訳が分からなかった。あの生徒会長が、自分にデートのお誘いをしてきている。何度理解しようと試みても、まるで言葉の意味が分からない。

(でーと……? え……? デートって……え?)

「嫌……かしら……?」

 眉をひそめ、伏し目がちに聞いてくるアイナ。彼女のそんな顔を見せられて、拒否できるような男性がこの世にいるだろうか。いや、いない。

 そしてユキオは、やっとの思いで言葉をひりだした。

「い……行きましょう」





      ◆    ◆     ◆





 前日は、緊張して全く眠れなかった。

 どんな服を着ていけばいいか、どこへ連れて行けばいいか、どんなことを話せばいいのか。ユキオはデートなど一度もしたことがないので、そんな様々な疑問が頭の中で縦横無尽に暴れまわり、結果眠れなかったのである。

(色々と考えたけど……やっぱり、下手に着飾らないでいつもの自分で行こう!)

 そう考えた彼は、普段通りのジーパンに半袖のTシャツ、黒のリュックサックという格好で、待ち合わせ場所である新宿駅の東口へと向かった。

「はぁ……ど、動悸がおさまらない……!」

 心臓がバクバク鳴るのを自覚しつつ、東口に佇むユキオ。時刻は午前9時50分。待ち合わせ時間は10時だ。

(よーし……まだ待ち合わせまで10分あるから、それまでに昨日考えた“デート中に話すトークテーマ”についておさらいしておこう! まずは、好きな小説家について聞く! その次に、好きな映画! その次は、えーっと……好きなスイーツ! それから……)

 と、その時。

 ユキオの前に、颯爽と一人の美女が現れた。

 身長は彼よりも高い、170センチ。手足はスラリと長く、艶やかなストレートの黒髪は腰のあたりまで伸びている。清楚な白いワンピースを身にまとっており、雑誌の中で華麗にポーズをとるモデルが、突然目の前に飛び出してきたとしか思えない状況だった。

 そう──榊原アイナである。

「お待たせ、ユキオ君」

 いつものように、凛とした表情で彼女は言った。無表情なのだが不思議と冷たい感じはなく、むしろ芯が一本まっすぐ通った真面目で誠実な人だとすぐに分かる……そんな、魅力にあふれた顔だ。

「おはようございます、先輩!」

 満面の笑みで挨拶を返すユキオ。彼女と会う寸前まで“最初はこんなことを話そう”と沢山考えていたのだが、それはもう完全にすっ飛んでしまった。

 するとアイナは、腰に手を当てて

「せっかくのデートなんだから、その“先輩”ってやつ、やめない?」

と言った。

「え? でも、じゃあ何て呼んだら……」

「アイナでいいわよ」

 即答するアイナ。しかしユキオは首をものすごい勢いで左右に振りまくった。

「い、いやいやいやいや! 僕なんかが、そんな……」

 その瞬間、彼女がフフッと優しく微笑む。

「ねえ、ユキオ君。その“僕なんか”っていうの、今日は禁止ね」

「え?」

「私、今日はあなたと楽しくおしゃべりしたいの。そんな時に“僕なんか”なんて言われたら、興ざめしちゃうわ」

「……そ、そっか……そう、ですよね……」

 なんだかむず痒い思いになり、頭をポリポリとかくユキオ。

「分かりました、その言葉は言いません! でも、いきなり先輩の事を呼び捨てなんてできませんよ」

 するとアイナは、ほほ笑んだ表情のままでこう言った。

「じゃあ、“アイナさん”でいいわよ」

「はい……アイナ、さん……」

「うん。それでよろしい!」

 少しおちゃらけて返すアイナ。いつもクールな彼女の休日の姿を目の当たりにして、ユキオは今にも全身の血液が沸騰しそうなくらい体が熱くなるのを感じた。

 夏の日差しが、そんなユキオとアイナを力強く照らしていた。





      ◆    ◆     ◆





 アイナが「前からずっと観たかった映画がある」ということで、2人は早速映画館へ向かった。

 彼女が見たかった作品。それは、元FBIである筋肉ムキムキのアメリカ人が、世界滅亡をもくろむテロリストの計画を阻止するために闘うという、爆発満載のアクション映画であった。

(意外だな……アイナさん、こういう映画が好きなんだ……)

 勝手なイメージで“ハートフルな映画を好むのだろう”と考えていたユキオは、度肝を抜かれた。

 それから2人はその映画を鑑賞したわけだが……実のところ、ユキオは全く映画に集中することが出来なかった。

 それもそのはず。

 映画館の暗闇の中で、すぐ隣には私服のアイナが座っているのだ。彼女のかぐわしい香りが常に漂ってきて、しかも少し体を揺らせば彼女の肩が自分の肩にぶつかる。ユキオは上映中ずっと気が気ではなかった。

 上映終了後、映画館を出たアイナはいつもの無表情で、しかし瞳をキラキラと輝かせながら「あの俳優のアクションが最高だった」「銃撃戦のシーンのカメラワークが素晴らしかった」と早口でまくし立てる。

 さっぱり話が分からないユキオは、「なるほど」「たしかに」「その通りですね」などと相槌を打つことしかできなかったが、それでも幸せであった。

 こんなに楽しそうなアイナの姿を独り占めできているのだから、幸せでないはずがない。

「特にラストのあのシーンが良かったわよね」

「え、どのシーンですか?」

「ほら、あれよ。主人公が敵の親玉の眉間をハンドガンで撃ちぬいて、返り血を浴びながら楽しそうにダンスを踊るシーン」

「……あ、ああ! あのシーンですか! よ、良かったですよね!」

(そ、そんな猟奇的なシーンあったっけ……!? 全然覚えてないぞ……!)

「本当に素晴らしいシーンだったわ」

 無表情で、しかし目を輝かせながら言うアイナ。かなり独特な感性にも思えるが、それを早口で語る彼女の姿もまた可愛らしい。

 これが俗に言うギャップ萌え、なのだろうか。

「それじゃ、そろそろお昼ごはんにしましょうか。どこで食べる?」

 彼女がそう言うと、ユキオは待ってましたと言わんばかりにニコリと屈託のない笑みを浮かべて返した。

「実は、お弁当作って来たんです。公園で食べませんか?」

 するとアイナは、呆けたように数秒ぽかんと口を開ける。そしてうっすら微笑むとこう言った。

「いいわね! 私、ユキオ君のお弁当食べたいわ!」

 そして2人は、そこから徒歩で5分進んだところにある大きな公園へとやって来た。公園と言っても遊具があるわけでなく、整備されたランニングコースや芝生、青々と茂る木々や涼し気な池などが目に優しい、植物公園である。

 今日は日曜日なので家族連れも多く来ており、のどかな雰囲気に包まれていた。

 木陰には、木製のベンチが設置されている。あそこなら夏のまばゆい日差しが差し込まないだろうと考えたユキオは、

「あそこで食べましょう」

と提案した。

「ええ、そうね」

 コクリと頷くアイナ。

 早速ベンチのもとまでやって来たユキオは、懐から取り出したハンカチで座面を拭くと、そこを彼女に差し出した。

「ど、どうぞ」

「ありがとう。優しいのね」

「いえ、そんな……」

 そして2人は、隣り合ってベンチに座る。周りを取り囲む木々の枝には小鳥たちが泊まっており、美しいさえずりを奏でていた。

「頑張って、お弁当作ったんです。お口に合えばいいですけど……」

「ユキオ君が作ったものなら、全部美味しいに決まってるわ」

 ストレートな誉め言葉に、ユキオは思わず耳まで赤くなる。木陰にいるのに、まるで直射日光を浴びているかのように体が火照った。

 彼はリュックから、2人分のお昼ごはんが入った大きめの2段弁当を取り出す。ベンチの座面において蓋をパカリと開けると、アイナは「まあ、凄い……」と感嘆の声を上げた。

 1段目には、おかかや梅干し、野沢菜などの具材を詰めたおにぎりが6つ。そして2段目は、ウィンナー、卵焼き、ミートボール、焼き鮭、ほうれん草のおひたしといった定番の品をカラフルに詰め合わせている。

「ユキオ君って、本当に料理が上手いのね。尊敬しちゃうわ」

 弁当箱をのぞき込みながら呟くアイナ。

「私、手が不器用だから……本当に料理が下手なのよ」

「あはは……」

 そういうギャップもまた、彼女の魅力である。

 そして2人は声を合わせて「いただきます」と言うと、仲良く弁当を食べ始めた。アイナは一口食べるごとに「美味しい」「これ、とても味が染みてて最高よ」などと褒めてくるので、ユキオはむず痒くて仕方がなかった。





      ◆    ◆     ◆





 弁当を食べ終わった2人は、最初と同じように声をそろえて「ごちそうさまでした」と言った。

「本当に美味しかったわ、ユキオ君。ありがとう」

 ユキオの目をまっすぐ見据えて伝えてくるアイナ。ユキオは恥ずかしさのあまり、思わずそっぽを向いてしまった。

 ──と、その時。

 彼女はいつもの凛とした声で、おもむろにこう言ってきた。

「私とお付き合いしてください。ユキオ君」

「……え?」

 あまりにも唐突に告白されたユキオは、彼女の顔をまじまじと見つめた。アイナは相変わらずの無表情であり、その瞳は揺るぎない。

「……」

 数秒の沈黙。ユキオにとって、アイナから告白されるという事は“全くの予想外”というわけではなかった。休日に2人きりでデートをしているのだから、むしろそういう流れにならない方が不自然である。

 だが──ある意味で、恐れていたことが起きてしまった、とも言える。

「……無理ですよ、そんな……」

 ユキオは、揺れ動く感情の中で、必死に声を絞り出した。

「え?」

「分かってるでしょ、アイナさん……僕みたいな人間、あなたとは釣り合わないんですよ……」

 するとアイナが、眉間にしわを寄せる。

「何を言っているのよ……」

「だって……“僕なんか”こんなにデブで、運動も駄目で、勉強もできなくて……アイナさんとは、真逆の人間だし……」

 ユキオは言ってしまった。

 “僕なんか”と。

 それを聞いたアイナは、クールな表情を崩して悲しそうな顔になった。

「ユキオ君。私だって、完璧じゃないのよ。さっきも言ったけど、手が不器用で料理が下手なの。でもあなたはとても料理上手じゃない。それって、凄い事なのよ」

「でも……僕、やっぱり無理ですよ! アイナさんみたいに綺麗な人となんて、僕……僕……!」

「ユキオ君……」

 ユキオは、コンプレックスの塊のような人間だ。自分の太っちょな体型も、運動神経のなさも、頭の悪さも、全て嫌いだ。

(アイナさんと一緒にいる時間は、とても楽しい。本当に楽しい。でも……)

 それと同じくらい、劣等感に苛まれ、押しつぶされそうになる。

 やはり、釣り合っていないのだ。自分の隣を歩く彼女は、あまりにも美しすぎるのだ。

 ユキオは空になった弁当箱をあたふたとリュックに詰め込むと、バッと立ち上がった。

「すいません……やっぱり、僕!」

 そう言うとユキオは、アイナに深々と頭を下げると、背を向けて走り去ってしまう。

「えっ、ちょっと……」

 背後からアイナの慌てた声が聞こえてきたが、振り返ることなくユキオは走った。

(どうしてなんだよ、アイナさん……どうして……どうして……)





(“僕なんか”を好きになっちゃったんだよ……!)





 ユキオは、走るのが苦手だ。それでも、アイナから逃げようと必死で走った。

 それから電車に乗って千葉の自宅に帰るまで、彼は何度も頭の中で“僕なんか”という言葉を繰り返した。