大原ユキオには、コンプレックスがあった。
それは、ぽっちゃりとした自分の体型である。
顔も体つきもふっくらとしており、運動が苦手だったこともあって昔から同級生からは「のろま」と呼ばれていた。
ユキオは、自分に自信がない。
親は「自信を持て」と言ってくれたが、それでも彼のコンプレックスがなくなりはしなかった。
ダイエットしようと努力したことがあったが、長続きしなかった。誘惑に負けて、ドンドン美味しいものを食べてしまうのだ。
彼はそんな弱い自分に、心底嫌気がさしていた。
それから彼は、高校生になった。進学先は、家がある千葉県から少し遠い、東京の高校にした。なぜなら、ここには中学の頃の知り合いがあまりいないからだ。
この新しい環境で、もう一度頑張ろう。運動もダイエットも全然駄目だけど、それでも自分なりに頑張ってみよう。
ユキオはそう決めて、高校の制服に袖を通した。
部活は、料理部に入った。
理由は、ここでヘルシーな料理を作る方法を学べば、美味しく、かつ効率的に痩せることが出来ると考えたからだ。ここで思い切ってハードな運動部に入って痩せようとしないあたりがユキオの心の弱さなのかもしれないが、彼はそれだけ料理を作ることが好きだった。
部員の中で男子はユキオ1人だけ。周りの女子部員からは「クマちゃん」というあだ名をつけられ、ユキオの温厚な性格も相まってすぐに部に打ち解けることが出来た。
ユキオはこの高校で、暗い中学時代の過去を捨てて幸せに日々を過ごしていた。もちろん、自分の体型に対してのコンプレックスが完全になくなったわけではなかったが。
そして、ユキオが高校生になって3か月が過ぎ、あっという間に7月になった。
夏のうだるような暑さは、ぽっちゃり体型のユキオからすれば天敵とも言える。
「は~、暑いなぁ~」
放課後。いつものように料理部の部室である調理室に一番にやって来たユキオは、顔から大量の汗を流しながら部屋の窓を開ける。
外から聞こえてくるのは、練習中の野球部の叫び声と騒がしいセミの鳴き声。まさに夏の風物詩といった感じだ。
「まったく、調理室にもクーラーぐらい付けてくれないかなぁ~。このままじゃ僕、アイスみたいに溶けちゃうよ」
困り顔でそうぼやきながら、調理室を見渡すユキオ。長方形のキッチンが6つと、正方形のテーブルが2つ設置されているこの広々とした部屋は、残念ながら冷房が付いていない。この高校は公立なので、どうしても設備にそこまで予算がかけられないのである。
すると扉が開いて、中にぞろぞろと先輩部員が入ってきた。
「おっすクマちゃ~ん」
「今日も早いね、クマちゃん!」
テーブルにカバンを置きながら、口々に言ってくる先輩たち。対するユキオは人懐っこい笑顔を浮かべて、
「どうも! 今日もよろしくお願いします!」
と返した。
部員のメンバーたちは、皆優しい。ユキオのことを「クマちゃん」と呼んではいるが、だからといって必要以上に体型の事をいじってきたりはしないし、彼が作った料理の事を美味しいと褒めてくれる。
その時、部長である3年生の先輩が腰に手を当てて口を開いた。
「よし! 皆、ちょっと聞いてちょうだい~!」
彼女の名は西野ハルカ。快活な性格をしたショートカットの女性であり、多くの生徒から好かれている。
「昨日も言ったけど、今日は生徒会長がうちの部の“視察”に来る日よ。忘れてないわよね?」
「「「はーい」」」
この学校では、定期的に生徒会が各部活の活動を視察するという決まりがある。限られた予算内でちゃんと活動できているか、生徒会が直々にチェックするのだ。
そして今日、生徒会長が料理部の視察に来る。
もちろん、だからと言って別に何か特別なことをするというわけでもない……と、ユキオは思っていたのだが。
部長のハルカはニコリとほほ笑むと、
「せっかく生徒会長が来るんだから、何か料理を作ってあげましょうよ」
と言った。
「いいですねぇ、それ!」
部員の一人が同意する。
「とは言っても、流石にウチの部員全員分の料理を生徒会長に食べさせるわけにはいかないしなぁ……あっ、そうだ!」
するとハルカは、ユキオをビシッと指さして続けた。
「じゃあクマちゃん! 今回はあなたが、生徒会長をおもてなしする料理を作りなさい!」
「ええっ!? ぼ、僕がですか!?」
思わず仰天するユキオ。彼女はコクリと頷いた。
「そうよ。こういう機会なんだし、やっぱりフレッシュな新入部員が作った料理を食べさせてあげるのが一番だわ」
周りの女子部員たちも、納得したようにうんうんと首を縦に振る。
「悔しいけど、クマちゃんの作る料理は私のやつよりも美味しいし……」
「きっと、生徒会長も喜んでくれるはずね!」
「頑張って、クマちゃん!」
対するユキオは恐縮したように身を縮こませると、今にも消え入りそうな声で「が、頑張ります……」と答えた。
生徒会長は、3年生の女性である。ユキオは一度も話したことがないし、廊下ですれ違ったこともない。
だが彼にとって、生徒会長は憧れの人物であった。
というのも、入学式の際に生徒会長が新入生に向けて歓迎のあいさつを行ったのだが、その時の彼女の凛とした表情や佇まいは、自分にコンプレックスを持つユキオにとってはまさに太陽のような存在だったのだ。
自信に満ち満ちた生徒会長の姿を見て、自分もああなりたいと彼はその時思った。
(僕が……生徒会長に、手料理を振る舞う、か……)
噂によると、生徒会長はとてもクールな人らしい。果たしてこんな太っちょな自分が作った料理を食べてくれるだろうか?
消極的な性格のユキオは、とても緊張していた。
◆ ◆ ◆
10分後。ユキオがまな板と食材を取り出して料理の下準備をしていると、部室の扉がおもむろに開いた。
そして、生徒会長──榊原アイナが堂々と入室してくる。
(あっ、生徒会長だ……)
包丁を握る手を止め、思わずアイナの姿に見とれるユキオ。
彼女のその容姿は、まさに“完璧”と言えるものだった。手も足もモデルのようにすらりと長く、身長は170センチ。ユキオは165センチなので、彼女の方が背は高い。
髪は黒のストレート。美しく艶のある髪を腰のあたりまで伸ばしており、彼女が一歩足を踏み出す度にふわりと揺れる。
肌は陶磁のように白く、顔は端正に整っていた。眉はキリリと太く、彼女の意志の強さが表れているかのようだ。
「どうも皆さんこんにちは。生徒会長の榊原アイナです。本日は、調理部の活動内容を視察させていただきます。よろしく」
凛とした表情で、胸を張って言うアイナ。その声は透き通っており、部室中にはっきりと響き渡った。
「「「よろしくお願いします」」」
料理部の部員全員で、声を合わせて返す。
すると部長のハルカが一歩前へ出て、ニンマリと笑った。
「ちょっとちょっとアイナ! そういう堅苦しいの、抜きにしない?」
そしてアイナの方に歩み寄り、彼女の肩をポンポン、と叩く。
「やめてよハルカ。これは生徒会としての大事なお仕事なの」
ハルカの顔をまっすぐに見据え、凛とした表情のまま言うアイナ。
「も~アイナったら、いっつも真面目なんだから! そんなんじゃいつまでたっても彼氏なんかできないぞ!」
呆れたような口調でハルカが言うと、アイナは
「はいはい。ハルカはいつもそうやって調子のいいことばかり言って。勉強はちゃんとやっているの? 大学入試に向けて、しっかりやらないと。私と同じ大学に行きたいんでしょ? 今のままじゃピンチよ」
と冷静に返した。
「ん~、まあ勉強はこれからぼちぼちって感じだね!」
ユキオが以前ハルカから聞いた話によると、彼女は生徒会長のアイナと幼馴染なのだそうだ。だから昔からよく遊んでおり、今でも時々アイナに勉強を教えてもらっているらしい。
要するに、2人は親友なのである。
「ま、そんなことよりもアイナ!」
「なぁに?」
「今日は私達料理部から、ちょっとしたおもてなしがあるの!」
そしてハルカは、心底楽しそうな表情でユキオのことを指さした。
「あそこにいるウチの新入部員の子に、アイナのために料理を作ってもらうわ!」
それを聞いたアイナは、少しだけ目を見開く。
「あら……本当?」
予想外の事だったのか、その声色は少しだけ弾んでいた。
(生徒会長も、あんな顔するんだな……)
アイナの美しい顔にドキッとするユキオ。すると彼女は、しっかりとした足取りでユキオの方に歩み寄ってきた。その歩みはまるでモデルがランウェイを歩く時のようなウォーキングだ。ただただ優雅で美しい。
「あなたが今日料理を作ってくれる、ユキオ君?」
(うわっ……せ、生徒会長が僕に話しかけてくれた……!)
雲の上の存在が、今自分に話しかけている。夢見心地のユキオは、ニコリとほほ笑んで
「は、はいっ! そうですっ!」
と声を上ずらせながら答えた。
「よろしく頼むわね」
そう言ってぺこりと頭を下げるアイナ。3年生が、1年生にこうして丁寧に頭を下げるというのは中々出来ることではない。アイナが礼節を重んじる素敵な人物なのだという事を、ユキオははっきりと理解した。
(この人のために、僕は美味しい料理を作りたい……!)
そう思ったユキオは、力強く頷いた。
「はい、頑張ります!」
◆ ◆ ◆
彼は今まで、自分のためだけに料理を作ってきた。
しかし“生徒会長に美味しく食べてもらいたい”と考えながら作る料理は、とても心が弾んだ。
(誰かのために料理を作るのって、楽しいんだな……)
食材を包丁で切っているときも、パスタを鍋でゆでているときも、ユキオは緊張と興奮が入り混じった奇妙な感覚に包まれていた。
キッチンの前で懸命に頑張るユキオの姿を、部員一同固唾をのんで見守る。もちろん、アイナもしっかりと見守っていた。
それから10分後。
料理を完成させたユキオは、テーブルに着いたアイナのもとにおずおずと向かった。
「お、お待たせしました。ミートソーススパゲティです」
そう言って、彼女の前に熱々の料理が乗った皿を置くユキオ。
熟成されたトマトとジューシーなひき肉をたっぷり使ったこのミートソーススパゲティは、彼の一番の得意料理だ。
「ありがとう、ユキオ君」
ピンと背筋を伸ばした体勢で椅子に座ったまま、お礼の言葉を述べるアイナ。ただ椅子に座っているだけだというのに、その姿は絵になる。
(僕なんかとは大違いだ……)
ユキオは、途端に自分の劣等感に押しつぶされそうになった。完璧なスタイル・人間性をした彼女を前に、コンプレックスの塊である自分が情けなくなる。
ダイエットも長続きしない。勉強もさほど得意ではない。運動などもってのほか。
だが彼女はどうか。
生徒会長として活躍し、多くの生徒から支持を集めている。勉強もいつだってトップクラス。
(本当に、雲の上の人だな……)
彼がそんなことを思っていると、アイナは両手を合わせて「いただきます」と言った。
そしてフォークを手に取ると、慣れた手つきでパスタとソースを混ぜ合わせ、くるりと巻く。そのまま彼女は、一口食べた。
「……」
緊張の一瞬であった。
果たして彼女は、この料理を喜んでくれるだろうか?
絶対の自信をもって作ったが、それでもユキオは不安だった。
と、その時。
料理を食べたアイナの目が、ほんの一瞬ではあるがカッと見開かれた。
「……美味しいわ……」
その言葉を聞いた途端、思わず笑みがこぼれるユキオ。
「あ、ありがとうございます!」
(やった! 認められたんだ! 何のとりえもない僕が……生徒会長に、認められた!)
すると部長のハルカが、屈託のない笑みを浮かべて
「よかったじゃん、クマちゃん!」
と言った。
「は、はい! 嬉しいです!」
本当なら、ここで今すぐ小躍りしたいぐらいだ。
それからアイナは、黙々とユキオのお手製ミートソーススパゲティを食べ続けた。あくまでもクールな態度を崩すことなく、ひたすらに食べ進めていくアイナ。
そして料理部全員に見守られる中、彼女はあっという間に料理を平らげた。
「ご馳走様、ユキオ君。あなたの料理、とても美味しかったわ」
ユキオの目をしっかりと見ながらお礼の言葉を述べるアイナ。彼にとって、まさに夢のような一瞬であった。
「い、いえ……とんでもないです! 言ってくださったら、またいつでも作りますんで!」
(って、何言ってるんだよ僕! またいつでも作りますなんて……これじゃなんか馬鹿みたいだ!)
こういう時に気の利いた一言も返せない自分に嫌気がさしながらも、それでも彼は幸せであった。
「あら、本当? それじゃ、また今度作ってもらおうかしら」
するとアイナは、いたずらめいた笑みを見せた。
「あ、あはは……」
(生徒会長……いい顔するなぁ……)
いつもクールな生徒会長がふと見せたその笑みを、ユキオはしっかりと心に刻み込んだ。
「それじゃ、私はこれで失礼するわ」
「あら、もう行っちゃうの?」
ハルカが聞くと、アイナは頷きながらゆっくりと立ち上がった。
「ええ。ほかにも視察する部があるから。とりあえず、ここは問題なし。料理も美味しかったしね」
「ユキオ君はうちのエースだからね! 当然よ!」
まるで自分の事かのように、自慢げに胸を張るハルカ。アイナは呆れたような顔で
「はいはい。それじゃ料理部の皆さん、これからも頑張ってね」
と言って、部屋を後にした。
一瞬の静寂の後、調理室の中が一気に騒がしくなる。
「いやー、やっぱりアイナさんってかっこいいよね~」
「私、来年のバレンタインはアイナさんにチョコ渡しちゃおうかな~!」
「あっ、それいい! 料理部の皆でチョコ手作りしようよ!」
口々にそう言って笑う部員達。調理部はユキオ以外全員女子なので、こうなった時の姦しさは中々のものである。
そんな喧騒の中、ユキオは早速後片付けを始めた。アイナが食べ終わった皿とフォークを持ち、キッチンのシンクに持っていく。
皿洗いまできっちりとこなしてこそ、立派な料理部の姿なのである……そんなことを、部長のハルカもよく言っている。確かにその通りだ。
食器洗い用のスポンジに洗剤をしみこませながら、彼はふとフォークに視線を落とした。
(会長が使ったフォーク……会長が使った、フォーク……)
口を付けたら、間接キスだな。
そんな変態じみた考えが、一瞬ユキオの脳内をよぎる。だが彼はすぐに頭をブンブンと横に振り、その思考を振り払った。
(い、いかんいかん……僕は何気持ちの悪いことを考えているんだ……)
そして彼は、必死に無心の状態になって皿洗いをした。
◆ ◆ ◆
翌日、昼休み。いつものように自分で手作りした弁当を食べ終えたユキオは、教室で本を読んでいた。
周りの同級生たちは、皆友人と楽しそうに談笑している。昨日見たテレビが面白かったとか、長年付き合った彼氏と別れたとか、新発売のゲームがどうとか。
愉快そうに喋りあう同級生たちの事をうらやましく思いながらも、黙々と読書するユキオ。彼は孤独であった。
するとその時、教室のドアがガラガラと音を立てて開いた。
「……?」
話すのをやめて、教室にいた誰もがドアの方を見つめる。
そこにいたのは──生徒会長の、アイナであった。
(あっ、生徒会長……どうしたんだろう、こんなところに)
視線を本からアイナの整った顔に移すユキオ。すると彼女は、信じがたい一言を口にした。
「大原ユキオ君は、いるかしら」
その瞬間、クラス全員が一斉にユキオの方を向いた。
「え、えっと……ここですけど……」
おずおずと手をあげるユキオ。
「ああ、ユキオ君。ちょっと話があるの。いいかしら」
「えっ!? あ、は、はい!」
彼は若干テンパりながらも立ち上がり、読んでいた本をカバンにしまった。そして、クラス全員の無言の視線を一身に浴びながら、アイナと共に教室を後にする。
……その後、教室中が“なぜあの生徒会長が、クラスで一番冴えないユキオに用があるんだ!?”という話題で持ちきりになったことは言うまでもない。
「ごめんなさいね、急に呼び出しちゃって」
「いえ、全然かまいません……それで、どういう用件でしょうか?」
廊下に出たユキオが聞くと、彼女は驚くべきことに
「ちょっと、調理室まで来てくれない?」
と言った。
「えっ!? ど、どうしてですか?」
挙動不審になりながら叫ぶユキオ。
「実はね、ユキオ君……」
そこで彼女は一旦言葉を止め、少しだけ口角をあげて続けた。
「私……ユキオ君に昨日の料理の作り方を教えてほしくって」
「え……」
本当に。
本当に、夢のようだった。
(あの生徒会長が……僕に、料理を教えて欲しいだなんて……)
何度も言うが、彼にとってアイナは雲の上の存在である。だがそのアイナが、彼に料理を教えて欲しいと頼んできている。ほんの少しだけ、彼女と同じステージに立てたような気がして、誇らしかった。
「迷惑……だったかしら?」
「ま、まさか!」
食い気味に否定するユキオ。
「い、行きましょう! 昨日作った時の材料が残っているので、すぐにでも作れますよ!」
「うん。ありがとう、ユキオ君」
アイナは凛とした表情で言った。
それは、ぽっちゃりとした自分の体型である。
顔も体つきもふっくらとしており、運動が苦手だったこともあって昔から同級生からは「のろま」と呼ばれていた。
ユキオは、自分に自信がない。
親は「自信を持て」と言ってくれたが、それでも彼のコンプレックスがなくなりはしなかった。
ダイエットしようと努力したことがあったが、長続きしなかった。誘惑に負けて、ドンドン美味しいものを食べてしまうのだ。
彼はそんな弱い自分に、心底嫌気がさしていた。
それから彼は、高校生になった。進学先は、家がある千葉県から少し遠い、東京の高校にした。なぜなら、ここには中学の頃の知り合いがあまりいないからだ。
この新しい環境で、もう一度頑張ろう。運動もダイエットも全然駄目だけど、それでも自分なりに頑張ってみよう。
ユキオはそう決めて、高校の制服に袖を通した。
部活は、料理部に入った。
理由は、ここでヘルシーな料理を作る方法を学べば、美味しく、かつ効率的に痩せることが出来ると考えたからだ。ここで思い切ってハードな運動部に入って痩せようとしないあたりがユキオの心の弱さなのかもしれないが、彼はそれだけ料理を作ることが好きだった。
部員の中で男子はユキオ1人だけ。周りの女子部員からは「クマちゃん」というあだ名をつけられ、ユキオの温厚な性格も相まってすぐに部に打ち解けることが出来た。
ユキオはこの高校で、暗い中学時代の過去を捨てて幸せに日々を過ごしていた。もちろん、自分の体型に対してのコンプレックスが完全になくなったわけではなかったが。
そして、ユキオが高校生になって3か月が過ぎ、あっという間に7月になった。
夏のうだるような暑さは、ぽっちゃり体型のユキオからすれば天敵とも言える。
「は~、暑いなぁ~」
放課後。いつものように料理部の部室である調理室に一番にやって来たユキオは、顔から大量の汗を流しながら部屋の窓を開ける。
外から聞こえてくるのは、練習中の野球部の叫び声と騒がしいセミの鳴き声。まさに夏の風物詩といった感じだ。
「まったく、調理室にもクーラーぐらい付けてくれないかなぁ~。このままじゃ僕、アイスみたいに溶けちゃうよ」
困り顔でそうぼやきながら、調理室を見渡すユキオ。長方形のキッチンが6つと、正方形のテーブルが2つ設置されているこの広々とした部屋は、残念ながら冷房が付いていない。この高校は公立なので、どうしても設備にそこまで予算がかけられないのである。
すると扉が開いて、中にぞろぞろと先輩部員が入ってきた。
「おっすクマちゃ~ん」
「今日も早いね、クマちゃん!」
テーブルにカバンを置きながら、口々に言ってくる先輩たち。対するユキオは人懐っこい笑顔を浮かべて、
「どうも! 今日もよろしくお願いします!」
と返した。
部員のメンバーたちは、皆優しい。ユキオのことを「クマちゃん」と呼んではいるが、だからといって必要以上に体型の事をいじってきたりはしないし、彼が作った料理の事を美味しいと褒めてくれる。
その時、部長である3年生の先輩が腰に手を当てて口を開いた。
「よし! 皆、ちょっと聞いてちょうだい~!」
彼女の名は西野ハルカ。快活な性格をしたショートカットの女性であり、多くの生徒から好かれている。
「昨日も言ったけど、今日は生徒会長がうちの部の“視察”に来る日よ。忘れてないわよね?」
「「「はーい」」」
この学校では、定期的に生徒会が各部活の活動を視察するという決まりがある。限られた予算内でちゃんと活動できているか、生徒会が直々にチェックするのだ。
そして今日、生徒会長が料理部の視察に来る。
もちろん、だからと言って別に何か特別なことをするというわけでもない……と、ユキオは思っていたのだが。
部長のハルカはニコリとほほ笑むと、
「せっかく生徒会長が来るんだから、何か料理を作ってあげましょうよ」
と言った。
「いいですねぇ、それ!」
部員の一人が同意する。
「とは言っても、流石にウチの部員全員分の料理を生徒会長に食べさせるわけにはいかないしなぁ……あっ、そうだ!」
するとハルカは、ユキオをビシッと指さして続けた。
「じゃあクマちゃん! 今回はあなたが、生徒会長をおもてなしする料理を作りなさい!」
「ええっ!? ぼ、僕がですか!?」
思わず仰天するユキオ。彼女はコクリと頷いた。
「そうよ。こういう機会なんだし、やっぱりフレッシュな新入部員が作った料理を食べさせてあげるのが一番だわ」
周りの女子部員たちも、納得したようにうんうんと首を縦に振る。
「悔しいけど、クマちゃんの作る料理は私のやつよりも美味しいし……」
「きっと、生徒会長も喜んでくれるはずね!」
「頑張って、クマちゃん!」
対するユキオは恐縮したように身を縮こませると、今にも消え入りそうな声で「が、頑張ります……」と答えた。
生徒会長は、3年生の女性である。ユキオは一度も話したことがないし、廊下ですれ違ったこともない。
だが彼にとって、生徒会長は憧れの人物であった。
というのも、入学式の際に生徒会長が新入生に向けて歓迎のあいさつを行ったのだが、その時の彼女の凛とした表情や佇まいは、自分にコンプレックスを持つユキオにとってはまさに太陽のような存在だったのだ。
自信に満ち満ちた生徒会長の姿を見て、自分もああなりたいと彼はその時思った。
(僕が……生徒会長に、手料理を振る舞う、か……)
噂によると、生徒会長はとてもクールな人らしい。果たしてこんな太っちょな自分が作った料理を食べてくれるだろうか?
消極的な性格のユキオは、とても緊張していた。
◆ ◆ ◆
10分後。ユキオがまな板と食材を取り出して料理の下準備をしていると、部室の扉がおもむろに開いた。
そして、生徒会長──榊原アイナが堂々と入室してくる。
(あっ、生徒会長だ……)
包丁を握る手を止め、思わずアイナの姿に見とれるユキオ。
彼女のその容姿は、まさに“完璧”と言えるものだった。手も足もモデルのようにすらりと長く、身長は170センチ。ユキオは165センチなので、彼女の方が背は高い。
髪は黒のストレート。美しく艶のある髪を腰のあたりまで伸ばしており、彼女が一歩足を踏み出す度にふわりと揺れる。
肌は陶磁のように白く、顔は端正に整っていた。眉はキリリと太く、彼女の意志の強さが表れているかのようだ。
「どうも皆さんこんにちは。生徒会長の榊原アイナです。本日は、調理部の活動内容を視察させていただきます。よろしく」
凛とした表情で、胸を張って言うアイナ。その声は透き通っており、部室中にはっきりと響き渡った。
「「「よろしくお願いします」」」
料理部の部員全員で、声を合わせて返す。
すると部長のハルカが一歩前へ出て、ニンマリと笑った。
「ちょっとちょっとアイナ! そういう堅苦しいの、抜きにしない?」
そしてアイナの方に歩み寄り、彼女の肩をポンポン、と叩く。
「やめてよハルカ。これは生徒会としての大事なお仕事なの」
ハルカの顔をまっすぐに見据え、凛とした表情のまま言うアイナ。
「も~アイナったら、いっつも真面目なんだから! そんなんじゃいつまでたっても彼氏なんかできないぞ!」
呆れたような口調でハルカが言うと、アイナは
「はいはい。ハルカはいつもそうやって調子のいいことばかり言って。勉強はちゃんとやっているの? 大学入試に向けて、しっかりやらないと。私と同じ大学に行きたいんでしょ? 今のままじゃピンチよ」
と冷静に返した。
「ん~、まあ勉強はこれからぼちぼちって感じだね!」
ユキオが以前ハルカから聞いた話によると、彼女は生徒会長のアイナと幼馴染なのだそうだ。だから昔からよく遊んでおり、今でも時々アイナに勉強を教えてもらっているらしい。
要するに、2人は親友なのである。
「ま、そんなことよりもアイナ!」
「なぁに?」
「今日は私達料理部から、ちょっとしたおもてなしがあるの!」
そしてハルカは、心底楽しそうな表情でユキオのことを指さした。
「あそこにいるウチの新入部員の子に、アイナのために料理を作ってもらうわ!」
それを聞いたアイナは、少しだけ目を見開く。
「あら……本当?」
予想外の事だったのか、その声色は少しだけ弾んでいた。
(生徒会長も、あんな顔するんだな……)
アイナの美しい顔にドキッとするユキオ。すると彼女は、しっかりとした足取りでユキオの方に歩み寄ってきた。その歩みはまるでモデルがランウェイを歩く時のようなウォーキングだ。ただただ優雅で美しい。
「あなたが今日料理を作ってくれる、ユキオ君?」
(うわっ……せ、生徒会長が僕に話しかけてくれた……!)
雲の上の存在が、今自分に話しかけている。夢見心地のユキオは、ニコリとほほ笑んで
「は、はいっ! そうですっ!」
と声を上ずらせながら答えた。
「よろしく頼むわね」
そう言ってぺこりと頭を下げるアイナ。3年生が、1年生にこうして丁寧に頭を下げるというのは中々出来ることではない。アイナが礼節を重んじる素敵な人物なのだという事を、ユキオははっきりと理解した。
(この人のために、僕は美味しい料理を作りたい……!)
そう思ったユキオは、力強く頷いた。
「はい、頑張ります!」
◆ ◆ ◆
彼は今まで、自分のためだけに料理を作ってきた。
しかし“生徒会長に美味しく食べてもらいたい”と考えながら作る料理は、とても心が弾んだ。
(誰かのために料理を作るのって、楽しいんだな……)
食材を包丁で切っているときも、パスタを鍋でゆでているときも、ユキオは緊張と興奮が入り混じった奇妙な感覚に包まれていた。
キッチンの前で懸命に頑張るユキオの姿を、部員一同固唾をのんで見守る。もちろん、アイナもしっかりと見守っていた。
それから10分後。
料理を完成させたユキオは、テーブルに着いたアイナのもとにおずおずと向かった。
「お、お待たせしました。ミートソーススパゲティです」
そう言って、彼女の前に熱々の料理が乗った皿を置くユキオ。
熟成されたトマトとジューシーなひき肉をたっぷり使ったこのミートソーススパゲティは、彼の一番の得意料理だ。
「ありがとう、ユキオ君」
ピンと背筋を伸ばした体勢で椅子に座ったまま、お礼の言葉を述べるアイナ。ただ椅子に座っているだけだというのに、その姿は絵になる。
(僕なんかとは大違いだ……)
ユキオは、途端に自分の劣等感に押しつぶされそうになった。完璧なスタイル・人間性をした彼女を前に、コンプレックスの塊である自分が情けなくなる。
ダイエットも長続きしない。勉強もさほど得意ではない。運動などもってのほか。
だが彼女はどうか。
生徒会長として活躍し、多くの生徒から支持を集めている。勉強もいつだってトップクラス。
(本当に、雲の上の人だな……)
彼がそんなことを思っていると、アイナは両手を合わせて「いただきます」と言った。
そしてフォークを手に取ると、慣れた手つきでパスタとソースを混ぜ合わせ、くるりと巻く。そのまま彼女は、一口食べた。
「……」
緊張の一瞬であった。
果たして彼女は、この料理を喜んでくれるだろうか?
絶対の自信をもって作ったが、それでもユキオは不安だった。
と、その時。
料理を食べたアイナの目が、ほんの一瞬ではあるがカッと見開かれた。
「……美味しいわ……」
その言葉を聞いた途端、思わず笑みがこぼれるユキオ。
「あ、ありがとうございます!」
(やった! 認められたんだ! 何のとりえもない僕が……生徒会長に、認められた!)
すると部長のハルカが、屈託のない笑みを浮かべて
「よかったじゃん、クマちゃん!」
と言った。
「は、はい! 嬉しいです!」
本当なら、ここで今すぐ小躍りしたいぐらいだ。
それからアイナは、黙々とユキオのお手製ミートソーススパゲティを食べ続けた。あくまでもクールな態度を崩すことなく、ひたすらに食べ進めていくアイナ。
そして料理部全員に見守られる中、彼女はあっという間に料理を平らげた。
「ご馳走様、ユキオ君。あなたの料理、とても美味しかったわ」
ユキオの目をしっかりと見ながらお礼の言葉を述べるアイナ。彼にとって、まさに夢のような一瞬であった。
「い、いえ……とんでもないです! 言ってくださったら、またいつでも作りますんで!」
(って、何言ってるんだよ僕! またいつでも作りますなんて……これじゃなんか馬鹿みたいだ!)
こういう時に気の利いた一言も返せない自分に嫌気がさしながらも、それでも彼は幸せであった。
「あら、本当? それじゃ、また今度作ってもらおうかしら」
するとアイナは、いたずらめいた笑みを見せた。
「あ、あはは……」
(生徒会長……いい顔するなぁ……)
いつもクールな生徒会長がふと見せたその笑みを、ユキオはしっかりと心に刻み込んだ。
「それじゃ、私はこれで失礼するわ」
「あら、もう行っちゃうの?」
ハルカが聞くと、アイナは頷きながらゆっくりと立ち上がった。
「ええ。ほかにも視察する部があるから。とりあえず、ここは問題なし。料理も美味しかったしね」
「ユキオ君はうちのエースだからね! 当然よ!」
まるで自分の事かのように、自慢げに胸を張るハルカ。アイナは呆れたような顔で
「はいはい。それじゃ料理部の皆さん、これからも頑張ってね」
と言って、部屋を後にした。
一瞬の静寂の後、調理室の中が一気に騒がしくなる。
「いやー、やっぱりアイナさんってかっこいいよね~」
「私、来年のバレンタインはアイナさんにチョコ渡しちゃおうかな~!」
「あっ、それいい! 料理部の皆でチョコ手作りしようよ!」
口々にそう言って笑う部員達。調理部はユキオ以外全員女子なので、こうなった時の姦しさは中々のものである。
そんな喧騒の中、ユキオは早速後片付けを始めた。アイナが食べ終わった皿とフォークを持ち、キッチンのシンクに持っていく。
皿洗いまできっちりとこなしてこそ、立派な料理部の姿なのである……そんなことを、部長のハルカもよく言っている。確かにその通りだ。
食器洗い用のスポンジに洗剤をしみこませながら、彼はふとフォークに視線を落とした。
(会長が使ったフォーク……会長が使った、フォーク……)
口を付けたら、間接キスだな。
そんな変態じみた考えが、一瞬ユキオの脳内をよぎる。だが彼はすぐに頭をブンブンと横に振り、その思考を振り払った。
(い、いかんいかん……僕は何気持ちの悪いことを考えているんだ……)
そして彼は、必死に無心の状態になって皿洗いをした。
◆ ◆ ◆
翌日、昼休み。いつものように自分で手作りした弁当を食べ終えたユキオは、教室で本を読んでいた。
周りの同級生たちは、皆友人と楽しそうに談笑している。昨日見たテレビが面白かったとか、長年付き合った彼氏と別れたとか、新発売のゲームがどうとか。
愉快そうに喋りあう同級生たちの事をうらやましく思いながらも、黙々と読書するユキオ。彼は孤独であった。
するとその時、教室のドアがガラガラと音を立てて開いた。
「……?」
話すのをやめて、教室にいた誰もがドアの方を見つめる。
そこにいたのは──生徒会長の、アイナであった。
(あっ、生徒会長……どうしたんだろう、こんなところに)
視線を本からアイナの整った顔に移すユキオ。すると彼女は、信じがたい一言を口にした。
「大原ユキオ君は、いるかしら」
その瞬間、クラス全員が一斉にユキオの方を向いた。
「え、えっと……ここですけど……」
おずおずと手をあげるユキオ。
「ああ、ユキオ君。ちょっと話があるの。いいかしら」
「えっ!? あ、は、はい!」
彼は若干テンパりながらも立ち上がり、読んでいた本をカバンにしまった。そして、クラス全員の無言の視線を一身に浴びながら、アイナと共に教室を後にする。
……その後、教室中が“なぜあの生徒会長が、クラスで一番冴えないユキオに用があるんだ!?”という話題で持ちきりになったことは言うまでもない。
「ごめんなさいね、急に呼び出しちゃって」
「いえ、全然かまいません……それで、どういう用件でしょうか?」
廊下に出たユキオが聞くと、彼女は驚くべきことに
「ちょっと、調理室まで来てくれない?」
と言った。
「えっ!? ど、どうしてですか?」
挙動不審になりながら叫ぶユキオ。
「実はね、ユキオ君……」
そこで彼女は一旦言葉を止め、少しだけ口角をあげて続けた。
「私……ユキオ君に昨日の料理の作り方を教えてほしくって」
「え……」
本当に。
本当に、夢のようだった。
(あの生徒会長が……僕に、料理を教えて欲しいだなんて……)
何度も言うが、彼にとってアイナは雲の上の存在である。だがそのアイナが、彼に料理を教えて欲しいと頼んできている。ほんの少しだけ、彼女と同じステージに立てたような気がして、誇らしかった。
「迷惑……だったかしら?」
「ま、まさか!」
食い気味に否定するユキオ。
「い、行きましょう! 昨日作った時の材料が残っているので、すぐにでも作れますよ!」
「うん。ありがとう、ユキオ君」
アイナは凛とした表情で言った。