真珠湾攻撃の成功や、マレー沖海戦での戦果が伝えられたとき、良太は胸を躍らせながら新聞に見入った。開戦に至るまでの数カ月、新聞や雑誌の記事を読むたびに、日本に対するアメリカの態度に憤りを深めていたから、そのアメリカやイギリスに圧倒的な勝利をおさめたと知って、溜飲のさがる思いがしたのであった。無敵の連合艦隊を擁する日本が、満を持して開戦に踏み切ったのだから、必ずや勝算あってのことだろう。そのように、輝かしい日本の将来に想いを致したのであったが、その一方では大きな不安も覚えた。
 良太は答えた。「正直に言えば、文句なしにうれしかった。心配しなかったと言えば嘘になるけど」
「興奮して体が震えたよ。もちろん、俺もずいぶん不安だったけどな」
「さっきの話を聞いて心配したんだが、お前らもやっぱり日本人じゃないか。気にくわんところはあるけどな、政府や軍部を疑っているみたいだから」
「岡さんや良太さんが不安を感じたのは、日本では石油や鉄がとれないからでしょ。石油どころか、食料だって不足してるのに、このまま戦争が続いたらどうなるのかしら」
「心配するなって、千鶴ちゃん。日本には無敵の連合艦隊があるんだ。アメリカには機動艦隊とかいうのがあるそうだけど、そんなものが幾つあったって、連合艦隊で簡単につぶせるよ。日露戦争のときと同じで、アメリカだって講和に応じるに決まってる」
 沢田との議論はそれからもなお続いたが、忠之が終了宣言をして、その日の宴会はようやく終わりになった。

 それから数日たった日曜日に、良太と千鶴は忠之に誘われ、3人で映画を見にでかけた。目的の映画は、神田の大都館で上映中の、フランス映画レ・ミゼラブルだった。アメリカの映画は1年前から上映禁止だったが、ドイツやフランスの映画は上映されていた。
お茶の水駅まで来ると忠之が言った。「わるいけど、俺は映画をやめにして、友達の下宿へ行くことにする。うっかりしていたが、故障したラジオを見てやる約束をしていたんだ」
「ラジオを持っているとはカネ持ちだな、その学生」
「下宿屋のラジオだよ。ラジオをいじるのが俺の趣味だと話したら、なおしてやってくれと頼まれたんだ。ごめんな、俺のほうから誘ったのに」
 忠之はふたりを残して駅へ向かった。良太と千鶴は、忠之のとうとつな振る舞いにとまどったまま、足早に歩いてゆく忠之のうしろ姿を見送った。
 映画館は大入りだった。立ち見客に混じって映画を楽しみながらも、良太は体を接している千鶴を意識していた。
 良太がふと横を見ると、こちらに顔を向けていた千鶴がにっこりと微笑んだ。良太はあわてて眼をそらしたが、すぐに首をまわしてほほ笑みを返した。良太は思い切って千鶴の手をさぐり、軽くにぎった。千鶴が無言のまま握りかえした。握り合っている千鶴の手と、触れ合っている千鶴の体に気持ちが高ぶった。映画に意識を集中することができなくなったが、良太は千鶴の手を離さなかった。
 映画館を出てから、ふたりは暗くなりはじめた町を歩いた。声をおさえながらも千鶴は饒舌だった。千鶴の浮かれた声を良太はうれしく聴いた。
 千鶴と映画の余韻を楽しみたかったし、千鶴もまた明らかにそれを望んでいた。さいふの中身が乏しいうえに、あらゆる日用品の値上がりが激しいので、良太は切り詰めた生活を続けていたが、その日だけは特別だった。良太は千鶴をお汁粉屋に誘った。
 値段のわりには甘味の乏しいお汁粉であったが、そのようなひと時を千鶴と過ごせたことは、良太に大きな喜びをもたらした。

 千鶴は書きおえた日記帳をとじ、良太と過ごした一日をあらためて思い返した。甘味の乏しいお汁粉をすすりながら、冗談を口にしていた良太さんの笑顔。映画館の暗がりで、おずおずと手を触れてきた良太さん。予想外のなりゆきに胸を高鳴らせていると、いきなり手をにぎられた。私は夢中で良太さんの手をにぎり返した。あのとき、良太さんはどんな気持だったのだろう。私と同じように、幸せな気持ちだったにちがいない。良太さんは別れる間際まで、とても嬉しそうだった。
 廊下を歩いてくる足音が聞こえた。その足音がとまってドアが叩かれた。
 書斎に入ってきた忠之は、風呂敷包みを持っていた。