その言葉を口にしたとき、良太を縛っていたものがほどけていった。良太は千鶴と結婚したいと思った。俺は千鶴のためを思って自分を抑えてきたが、特攻要員の俺に対して千鶴が心からそれを願っているのだ。千鶴のその願いに応えるべきだ。
 良太は千鶴をあおむけにした。千鶴は眼を閉じている。良太は千鶴にキスをした。
 ふん切りがつかないままに軽いキスを続けていると、建物の外からいきなり声が聞こえた。「海軍さん」
 千鶴から顔をはなすと、ふたたび外で声がした。
「お食事の用意ができましたが、どうされますか。すぐにお持ちしましょうかね」
 良太は大きな声で、「お世話になりますが、お願いします」と応えた。「千鶴、食事を運ぶのを手伝おう」
 千鶴といっしょに母屋へ行くと、布で覆われたふたつの膳が、縁側の板のうえに並んでいた。
 若いその家の嫁が鍋を持ってあらわれた。
「お世話になります。向こうへ運ぶのは我々でやりますから」
「そうですか。それでは、お願いしますね。すぐにお茶を持ってきますから」
 膳を忠之の部屋に運んでから、もういちど縁側までもどると、味噌汁の鍋にならべて薬缶や急須などが置かれていた。
 良太と千鶴は久しぶりに白米の飯を味わった。豊富な野菜や豆の料理が、良太に故郷の家の食卓を思いださせた。大きな卵焼きが千鶴を感激させた。忠之が特別に依頼したに違いないその料理を、良太と千鶴は感謝しつつ口にはこんだ。
 お茶をいれている千鶴の幸せそうな笑顔を見ると、特攻隊に志願したことを悔いる気持が、心の隅を一瞬ながらよぎった。
「もうすぐ良太さんの誕生日よね」と千鶴が言った。「良かったわ、造花と与謝野晶子の歌集をリュックに入れておいて。誕生日の沈丁花は造花になったけど」
 千鶴が布袋から厚紙でできた箱をとりだし、畳のうえでふたを開いた。箱の中には沈丁花と芍薬の造花があった。
 千鶴が抱いて寝たという造花には、匂らしいものが微かに残っているだけであったが、良太には嬉しい贈り物だった。
 良太の帽子を手にした千鶴が、「この沈丁花、いただけないかしら」と言った。
 良太は帽子の中から造花をはずし、千鶴にわたした。
「これもリュックに入れとくわ。書斎にあったもので残ったのは、リュックに入れといたものだけなの。良太さんからのはがきや帳面といっしょに、歌集と造花も入れておいたのよ。書斎にあったもので他に残ったのは雛人形だけ」
「焼けてしまったんだな、あの書斎も、あの机と椅子も」
「書斎とちがってここは畳の部屋だけど、こうしていると畳の上もいいわね」
 身をよせてきた千鶴に腕をまわすと、すぐにも千鶴を抱きたくなった。その想いが良太をけしかけたが、良太にはまだ迷いがあった。たしかに千鶴はそれを望んでいるが、ほんとうに千鶴にとって好ましいことであろうか。俺は千鶴の人生に対して責任を負うことができないのだ。
 まだ12時前だから時間は充分にある。気持ちを落ち着けるには散歩が良さそうだ。今なら千鶴も賛成するような気がする。
「膳を運ぶついでに、その辺を散歩してみないか。時間はたっぷりあるんだから」
「お腹がいっぱいになったから、少しだけ歩いてみましょうか」と千鶴が応えた。
 ふたりは膳などを縁側まではこび、感謝の気持ちを言葉にして伝えた。その家の家人に見送られるようにして、ふたりは庭を横ぎり、満開の桜の下を通って道に出た。
 ふたりは畑の中の道を歩いた。歩きながら見まわすと、満開の桜がそこかしこに見えた。良太は咲き誇る桜を見ながら、自分は桜の季節に生まれ、桜の花とともに散ることになったのだと思った。
 千鶴と並んでそぞろ歩いていると、良太のなかに留まっていた想いが徐々に強まり、千鶴の横顔にしばしば眼を向けさせた。千鶴がそれを望んでいるのだ。その願に応えてやるべきではないか。さもなければ千鶴に悔が残るかも知れない。
 散歩からもどったふたりは、ふたたび隣りあって腰をおろした。良太は千鶴を抱きよせた。迷はすでにぬけだしていた。良太には千鶴を抱きたいという気持しかなかった。
 キスを続けていると千鶴から力がぬけた。良太は畳の上に千鶴をよこたえ、シャツのボタンに手をかけた。千鶴にとっては無論のこと、良太にもそれは初めての経験だった。
 千鶴を気づかいながら進めるうちに、どうやら無事にことがおわった。
 感謝の気持ちを抱きつつ、良太は千鶴にキスをした。良太と千鶴は抱きあったまま、穏やかに唇を触れあっていた。