第6章 若葉の季節

4月1日、米軍による沖縄上陸作戦が始まり、日本の一角が地上戦の場となった。その日、第十四期予備学生出身の特攻隊要員は、学生教程を修了することになった。良太は思った。どうやら、俺は特攻隊員として沖縄へ出撃することになりそうだ。出撃命令が下されるのも、そう遠くはないという気がする。
 それから間もなく良太は外出許可を得た。
 その日、良太は吉祥寺駅で電車をおりた。前日の電報で到着予想時刻を知らせておいたので、改札口には千鶴と忠之の姿があった。
 3人は駅から20分ほどの道のりを忠之の下宿に向かった。
「ここは三鷹というところだが、東京の一角とは思えない景色だろうが」
「いい所じゃないか、空襲を受ける心配もなさそうだし」
「俺の下宿は安全だが、工場はいずれやられるだろう。間に合わせの工場だけど」
「三軒茶屋という所にも畑があるそうだけど、こんな雰囲気のところか」
「家のすぐ近くにも畑があるの。私も千恵と一緒に農業奉仕をしてるのよ」と千鶴が言った。
 忠之の下宿は畑にかこまれていた。忠之に案内されて良太と千鶴は母屋をたずね、老夫婦とその息子の嫁に挨拶をした。その家では、小さな子供ふたりを含めた五人がくらしており、夫婦の息子は出征中とのことだった。
 庭のはずれに建てられた離れ座敷が、忠之がくらしている部屋だった。鶏が遊んでいる庭をよこぎり、3人は忠之の部屋へ向かった。
 隠居部屋だったというその部屋は、簡素ながらもよくできていた。部屋には小さな食卓があり、数冊の専門書と忠之自製の電気スタンドが置かれていた。
「会社の仲間がここを紹介してくれたんだ。ここには食い物があるし、歩いて工場に通えるから助かるよ。何しろ忙しくてな」
「今日は午前中しか休みがとれないというけど、ここには何時頃までいられるんだ」
「わるいけど、もうすぐ出かけなくちゃならん。俺がいなくても遠慮することはないぞ。お前らの食事はここに運んでもらうことになってるけど、手伝ってあげてくれないか」
「世話をかけることになったな。それで、お前がここに帰ってくるのは何時頃だ」
「今夜も遅くなると思うから、お前と話すのはこれで終わりだ」
「そうか………それは残念だけど、お前のお陰で今日はいい外出日になったよ」
「この部屋をあの書斎の代わりに使ってくれ。ここがお前と千鶴さんのために役立ってくれたら、俺も嬉しいよ」
まもなく忠之は出勤し、良太と千鶴のふたりだけになった。
「田舎道を歩けるせっかくの機会だから、そのあたりを歩いてみないか」と良太は言った。
「私は………ここで良太さんと話していたいけど」
「いいじゃないか、景色を見ながら話し合うのも」
「お願い、良太さん。書斎のときと同じにして」
 千鶴の口調はいつもと変わらず穏やかであったが、その声には力があった。
「わかった、ここで話そう」と良太は言った。
 壁を背にして千鶴の横に腰をおろすと、待ちかねていたように千鶴がもたれかかった。すぐにも千鶴の期待に応えたかった。良太は千鶴を抱きよせた。
キスがおわると、良太は千鶴の首筋に唇をうつした。千鶴の匂いは書斎のときと変わらなかったが、畳の上で抱く千鶴の上半身は軽かった。
「結婚して、良太さん」と千鶴が言った。
 それまでに幾度も聞かされていた千鶴の言葉だったが、良太はその時その声を、はじめて耳にしたかのような気持ちで聞いた。良太は千鶴の顔をのぞいた。眼を閉じている千鶴を見ながら、この千鶴と結婚できたらどんなにか良かっただろうにと思った。
「お願い、良太さん、結婚して」千鶴が眼を閉じたままくり返した。
「好きだよ、千鶴。千鶴がいてくれて良かった」
「良太さんお願い、結婚してちょうだい」
 良太は千鶴を抱きしめた。俺たちは結婚などできるわけがないのだ。俺が死んでも、お前はしっかりと生きてゆかなければならない。それを願って渡したあのノートだが、お前は読んでくれただろうか。谷田部に来てくれたとき、読むようにとすすめたのだが。
「千鶴、あの日記を読んでくれたか」と良太は言った。
 千鶴が眼をあけた。その眼にいきなり涙がもりあがり、あふれて頬に流れた。良太はうろたえた。俺はあのとき、特攻要員としての俺を理解してもらいたいと思って、不安を覚つつも日記を読むようすすめたのだが、やはり読ませるべきではなかった。
「ごめんな、千鶴、約束通りに幸せにしてやれなくて」と良太は言った。
「幸せにして………幸せにしてちょうだい」
 良太ははっとした。いまの俺にもできるのか、千鶴を幸せにしてやることが。千鶴は俺にそれを求めている。
「わかったよ、千鶴、結婚しよう」と良太は言った。