書斎に入るなり良太が言った。「夢で見た通りだよ。俺は夢の中でほんとにこの部屋に来たんだ。そうとしか思えないよ」
「ここに来たって……良太さんの心が来たのかしら」
「夢ではこの部屋は明るかったんだ。抜け出した心で見るときは、夜でも昼間のように見えるのかも知れないな」
それからしばらく夢について語り合ったが、結局のところは、不可思議なこととして受け入れるしかなかった。
千鶴は立ち話をしていたことに気づいて、良太に椅子をすすめた。
千鶴は良太が置いた帽子をとって顔に近づけた。
「この前と同じ匂いだわ。良太さんの匂い」
「なあ、千鶴」と良太が言った。「芍薬の造花に千鶴の匂いをしみ込ませてくれないか。このつぎに来たとき、その造花をもらいたいんだ」
「造花に私の匂い………千人針のときみたいにすればいいのかしら」
良太が千鶴に腕をまわして、抱きよせながら千鶴の首すじにキスをした。良太の唇がゆっくりと千鶴の口へ近づいてくる。千鶴は体をまわして良太の唇を求めた。
長い口付が終わった。良太の膝に乗せられたまま、千鶴はしばし余韻のなかにいた。
耳元で良太の声がした。「千鶴の匂いがする。襟元から湧きだしてくるこの匂いだよ、造花につけて欲しいのは」
「わかったわ……用意しとくわね、私の匂いをつけた造花を」と千鶴は言った。
良太の腕のなかで幸せな気分にひたっていた千鶴は、ふいに不安をおぼえた。良太さんはしばらく黙ったままだ。どうしたことだろう。
良太の顔を見ようとして首をまわすと、いきなり抱きなおされた。良太の顔は一瞬見えただけであったが、良太が涙ぐんでいたような気がした。口付の幸せな余韻が瞬時に消えた。良太さんの眼に涙が。まさか、そんなはずはない。お母さんをまじえて話したとき、良太さんの笑顔はとても明るかったし、良太さんの声はいつも以上に陽気に聞こえる。
もういちど良太の顔を見ようとしたとき、耳元で良太の声がした。
「千鶴、しばらくこのままにしていよう。こうしていたいんだ」
千鶴は不安から逃がれたかった。良太さんはいつもと変わりがないはずだ。さっきの口付はこれまでと同じだった。
千鶴は言った。「お願い……もういちどパイナップルをして」
良太の唇が優しく千鶴の唇をなぞった。
良太の唇がはなれた。眼を開けると、いつもと変わらない良太の笑顔があった。
「どうしたんだい、千鶴」と良太が言った。
その声に千鶴は笑顔をもって応えた。
その午後、ささやかに過ぎる昼食をおえ、良太たちが居間で語り合っているところに、日曜日の仕事をすませた忠之が帰ってきた。
「精一杯がんばったんだが、こんな時間になってしまった」
「時間にゆとりがあるから、まだゆっくり話せるよ」
工場で食事をすませてきたという忠之といっしょに、良太は階段をのぼった。
忠之の部屋に入るとすぐに、良太は風呂敷をひらいてノートを出した。
「土浦に移ってから付けていた日記だ。これをお前に預かっていてもらいたいんだ」
「どういうことだ」
「おれに万一のことがあったら、出雲の家にとどけてくれ。この日記には遺書のつもりで書いたところがあるんだ」
「この家もいつ空襲でやられるかわからん。どげしたもんかな」
「お前のその鞄に入れておけばいいじゃないか。いつもそばに置いているから、空襲があっても無くさないですむだろう」
「書留で出雲に送ったらいいじゃないか」
「今は送りたくないんだ。おれが元気なうちに遺書なんか読まれたくないからな」
「わかった。預かっておく。遺書がいらなくなるように祈ってるぞ」と忠之が言った。
「ここに来たって……良太さんの心が来たのかしら」
「夢ではこの部屋は明るかったんだ。抜け出した心で見るときは、夜でも昼間のように見えるのかも知れないな」
それからしばらく夢について語り合ったが、結局のところは、不可思議なこととして受け入れるしかなかった。
千鶴は立ち話をしていたことに気づいて、良太に椅子をすすめた。
千鶴は良太が置いた帽子をとって顔に近づけた。
「この前と同じ匂いだわ。良太さんの匂い」
「なあ、千鶴」と良太が言った。「芍薬の造花に千鶴の匂いをしみ込ませてくれないか。このつぎに来たとき、その造花をもらいたいんだ」
「造花に私の匂い………千人針のときみたいにすればいいのかしら」
良太が千鶴に腕をまわして、抱きよせながら千鶴の首すじにキスをした。良太の唇がゆっくりと千鶴の口へ近づいてくる。千鶴は体をまわして良太の唇を求めた。
長い口付が終わった。良太の膝に乗せられたまま、千鶴はしばし余韻のなかにいた。
耳元で良太の声がした。「千鶴の匂いがする。襟元から湧きだしてくるこの匂いだよ、造花につけて欲しいのは」
「わかったわ……用意しとくわね、私の匂いをつけた造花を」と千鶴は言った。
良太の腕のなかで幸せな気分にひたっていた千鶴は、ふいに不安をおぼえた。良太さんはしばらく黙ったままだ。どうしたことだろう。
良太の顔を見ようとして首をまわすと、いきなり抱きなおされた。良太の顔は一瞬見えただけであったが、良太が涙ぐんでいたような気がした。口付の幸せな余韻が瞬時に消えた。良太さんの眼に涙が。まさか、そんなはずはない。お母さんをまじえて話したとき、良太さんの笑顔はとても明るかったし、良太さんの声はいつも以上に陽気に聞こえる。
もういちど良太の顔を見ようとしたとき、耳元で良太の声がした。
「千鶴、しばらくこのままにしていよう。こうしていたいんだ」
千鶴は不安から逃がれたかった。良太さんはいつもと変わりがないはずだ。さっきの口付はこれまでと同じだった。
千鶴は言った。「お願い……もういちどパイナップルをして」
良太の唇が優しく千鶴の唇をなぞった。
良太の唇がはなれた。眼を開けると、いつもと変わらない良太の笑顔があった。
「どうしたんだい、千鶴」と良太が言った。
その声に千鶴は笑顔をもって応えた。
その午後、ささやかに過ぎる昼食をおえ、良太たちが居間で語り合っているところに、日曜日の仕事をすませた忠之が帰ってきた。
「精一杯がんばったんだが、こんな時間になってしまった」
「時間にゆとりがあるから、まだゆっくり話せるよ」
工場で食事をすませてきたという忠之といっしょに、良太は階段をのぼった。
忠之の部屋に入るとすぐに、良太は風呂敷をひらいてノートを出した。
「土浦に移ってから付けていた日記だ。これをお前に預かっていてもらいたいんだ」
「どういうことだ」
「おれに万一のことがあったら、出雲の家にとどけてくれ。この日記には遺書のつもりで書いたところがあるんだ」
「この家もいつ空襲でやられるかわからん。どげしたもんかな」
「お前のその鞄に入れておけばいいじゃないか。いつもそばに置いているから、空襲があっても無くさないですむだろう」
「書留で出雲に送ったらいいじゃないか」
「今は送りたくないんだ。おれが元気なうちに遺書なんか読まれたくないからな」
「わかった。預かっておく。遺書がいらなくなるように祈ってるぞ」と忠之が言った。