千鶴は強い不安にかられて言った。「もしも露見したらどうなるのかしら」
「そんな心配はないんだ、しっかり考えたうえで動いているから」
「ここには何時頃までいられるのかな」と祖父が聞いた。
「一時半までに出れば、充分に間に合います」
「だったら、まだ早いけど、お食事にしましょうか」と母が言った。
 昼食をおえるとすぐに千鶴は良太と書斎に入り、椅子をならべて腰をおろした。
「いいじゃないかこの芍薬の花。千鶴の誕生日にもこんなふうにして飾ったんだな」
「ここで歌集をひらいていたら、となりに良太さんが居るような気がしたのよ。良太さんはどんなことを考えたのかしら」
「この部屋で千鶴はどんな気持でいるんだろうと思った」
「私はいま、どんな気持だと思います?」
「久しぶりに会えて嬉しい」
「それから?」
「この次の外出日にも何とかして会いたい」
「それって、もしかしたら良太さんの気持?」
「千鶴もそんなふうに思ってるんだろ」
「もちろん私も同じ。でも、それだけだと思います?」
「戦争が早く終わってほしい」
「もちろんそうよ、今すぐに終わってほしい、こんな戦争」と千鶴は言った。
 千鶴は忠之の置き手紙をとりだし、一枚の便箋に書かれたそれを良太に渡した。
 手紙を読んでいる良太の横で、千鶴は与謝野晶子の歌集を開いたが、すぐに良太の声が聞こえた。
「鉛筆をかしてくれないか、返事を書きたいんだ。この裏に書くから便箋はいらない」
 良太が鉛筆を走らせる音を耳にしながら、千鶴はふたたび歌集に眼をおとした。 
「忠之が帰ってきたらこれを渡してくれ」と良太が言った。「さっきも話したけど、俺がここに来たこと、はがきなどに絶対に書くなよ。この手紙にも念を押しておいたけど」
 千鶴は受けとった便箋を引き出しに入れると、良太に向けて首をまわした。
「お願い、良太さん」と言い終わらないうちに、良太の顔が近づいてきた。
 良太の唇が千鶴の唇を優しくなでた。千鶴は良太にしがみつき、すすんで良太の舌をもとめた。
 良太の唇がはなれた。眼をあけると、輪郭のぼやけた良太の顔が見えた。良太が千鶴の体を抱きなおした。千鶴の眼が良太の顔をはっきりととらえた。良太の顔がふたたび近づいてきて、千鶴に軽くキスをした。良太はつづいて千鶴の首すじに唇をあて、そのまま千鶴を抱いていた。
 耳元で声がした。「千鶴の匂いがする。好きだよ、この匂い」
 千鶴は思った、私の匂いをもっと嗅いでもらいたい。良太さんが望むかぎり匂いを送り出してあげたい。
 ふたたび声がした。「ありがとう、千鶴」
 その声が千鶴をひときわ幸せな気持ちにした。千鶴は良太の胸に頬をつけ、「ありがとう、良太さん」と応えた。
 軍服の胸に頬をつけていると、良太の鼓動が伝わってきた。小さいながらも確かに聞こえるその音が、千鶴にはかけがえなく貴重で、いとおしいものに思えた。良太さんはこうして生きておいでだ。私もこうして一緒に生きている。
 言葉を交わしながらも、それからしばし、千鶴は良太の胸から耳を離さなかった。
 母親の声が聞こえて、出発時刻がせまっていることを報せた。それから間もなく居間に移ると、時計はすでに一時半をさしていた。
 千鶴は良太といっしょに家を出て上野駅へ急いだ。その道は子供の頃から通いなれた道であり、友達や千恵といっしょに、上野公園や動物園まで歩いた道だった。
 不忍池の近くで良太が立ちどまり、「千鶴、ここで別れよう」と言った。
「駅までついて行きたいけど、いけないかしら」
「駅までふたりで行くと目立って危ないから、ここで別れたほうがいいんだ」
「この次はいつ会えるかしら」
「約束はできないけど、うまくゆきそうなら、今度みたいにはがきで報せるよ。はっきりとは書けないが、千鶴にはわかるように書くからな」
 良太は「それじゃ」と言って軽く手をあげると、背中をみせて歩きだした。
 千鶴は道ばたの樹の下に立ち、良太のうしろ姿を見送った。足早に歩いていた良太がふり返り、手をあげて大きくふった。千鶴は両手をふって応えた。ふたたび背を向けた良太は、すぐに建物の陰にかくれた。