千鶴が記した文字にしっかり眼を通してから、はがきを取り出して宛名を書いた。千鶴の誕生日を祝うはがきであろうと、祖父の古風な名前を記すしかなかった。
 良太はペンを握りなおして、文面に文字をつづった。
〈元気で誕生日をお迎えのことと思う。おめでとう。歌集を手にしている君の姿を想像しながら、詩集に君が記した文字を懐かしく読んだ。机に飾られている芍薬の花を想った。心のうちであのパイナップルを味わっていると、懐かしい匂いが思い出された。当方はいよいよ本格的に飛行訓練を開始。すこぶる元気で励んでいるゆえ御安心を。君と御家族および忠之の御健康を祈っています。〉
 良太は書きおえたはがきにざっと眼を通してから、日記用のノートをとりだした。飛行訓練にあけくれる日々を過ごすうちに、日記をつけない日が多くなっており、数日ぶりに記す日記であった。
〈………歌集に眼を通している千鶴の気持ちを想いつつ、藤村詩集に千鶴が記してくれた文字を読む。そのあと千鶴に誕生日を祝う葉書を書く。
 本日も離着陸訓練。二十分足らずのこの訓練を幾度も受けて、どうにか要領を掴んだ。現在の状況を思えば信じがたいが、ひと月あまり先には単独飛行を可能とすべく計画されているらしい。舞鶴で飛行適との判定結果を知らされたときには、おそらく何かの間違いであろうと思ったものだが、どうやら俺は本当に操縦員としての資質に恵まれているらしい。いまは教官の言を信じて、自信をもって努力しなければならない。技量に自信なくば空戦での勝ち目はない。十全なる技量を身につけるべく全力を尽くさねばならない。〉

 その日、千鶴は動員先の製薬会社から帰ると、まだ明るさの残っている庭に出て、数本の芍薬の花をとった。家族からは朝のうちに誕生日を祝う言葉をかけられたが、特別なことをしてもらう予定はなかった。19歳の誕生日を祝う大切な行事は、書斎で良太の写真を眺めることと、良太が記してくれた文字を読むことだった。
 千鶴は書斎に入ると花瓶に芍薬を活け、机から2枚の写真を取りだした。土浦ではじめて会った二ヶ月前に、良太が渡してくれた写真だった。
 坊主頭でほほ笑む良太の写真を見ると、土浦の国民学校で語り合った日のことが思い出された。
 じっくり写真を眺めてから、与謝野晶子の歌集をとって62ページを開き、余白に記されている文字を読んだ。〈誕生日おめでとう。千鶴の誕生日を祝うことが………〉
歌集をひろい読みしていると、横にならべた椅子には良太がいて、藤村の詩集を開いているような気がした。千鶴はとなりの椅子に手をふれた。良太と交わしたキスが思いだされた。

 良太は次の日曜日に外出が許されるらしいと知って、できるものなら浅井家を訪ねたいと思った。浅井家で数時間を過ごしても、決められた時間までには充分に帰隊できる距離だった。東京は外出許可区域外だったから、規律違反が露見した場合には、厳しい制裁を覚悟しなければならなかったが、知恵を絞ればうまくやれそうだった。
 千鶴と忠之の在宅を確実なものにしたかったので、良太は訪問を示唆するはがきをだした。検閲に多少の時間がかかっても、土曜日までには届くはずだった。

 日曜日の朝、千鶴は書斎の机に芍薬の花を飾った。前日の午後に届いた良太からのはがきに、日曜日の外出に際して、麦とサツマイモの畑が見られそうだし、好きな芍薬の花も楽しめそうだと記されていた。良太の訪問を示唆する暗号に違いなかった。
 昼食の準備をしていると、待ちこがれていた良太の声が聞こえた。千鶴は台所からとびだして玄関に向かった。
 千鶴は声をあげた。「おかえりなさい、良太さん」
 軍服姿の良太が笑顔で言った。「あいかわらず元気だな、千鶴は」
「みんなで待っていたのよ、良太さん。早くあがってちょうだい」
 良太が靴をぬいでいる間に家族が玄関に現れ、にぎやかな会話が始まった。
 居間に向かいながら良太が言った。「忠之はどうしたのかな」
「日曜日だけど今日もお仕事ですって。この頃は帰りも夜中になることが多いのよね」と千鶴は言った。「岡さんから手紙を預かっているけど、書斎に行ってからでいいわね」
 良太が白布で包んだ物をさしだして、「隊で支給されたカリントウとビスケット。みやげの代わりにと思って」と言った。
「いつもの海軍のお弁当とはちがうと思ったら、今日はお菓子なのね」
「じつは東京は外出許可の区域外なんだ。弁当を腰につけたままだと予備学生だとわかるから、友達にやってしまったんだよ、腹具合がわるいから食わないということにして」