良太は千鶴をひざに抱きあげ、千鶴の顔を見つめた。半ば閉じられている千鶴の眼にうながされ、良太は千鶴に顔を近づけた。
 いつもと変わらないキスを終えると、良太は千鶴の首筋に唇を移した。いつもと変わらない千鶴の匂いがした。
 ふたりは間もなく階下にうつり、昼食の食卓についた。浅井家が心をつくして用意した食事であった。
食後の歓談がおわると玄関前に全員があつまり、良太と沢田を中央にした記念写真が撮られた。全員そろっての撮影がおわると、千鶴の祖父が良太と千鶴をならばせて、ふたりだけの写真を撮った。
 予定していた時刻になった。良太は浅井家の人びとに別れを告げ、千鶴と忠之そして沢田に伴われて東京駅に向かった。
 電車が東京駅に近づいたとき、忠之がとうとつに言った。
「あのな良太、東京駅や宮城前では見送りの学生ですごいことになってるはずだ。帝大生の集まっているところにお前も顔を出してみないか」
「おれはこの4人で話し合っているだけでいいよ。お祭騒ぎは性に合わん」
「俺と沢田はプラットホームまでは見送らないからな。たっぷり千鶴さんと別れを惜しんでくれ。その前に、大学の連中と思いきり気勢をあげるのもいいと思うんだがな。それほど時間はかからないはずだ」
 良太は忠之の勧めを受け入れることにした。
 東京駅に着いた4人は駅を出て、学生たちが群がっているあたりに近づいた。学生たちの集団がそこかしこで歌をがなりたて、万歳を叫んでいた。踊りまわっている集団は、壮行にかこつけて騒ぎを楽しんでいるように見えた。
 帝大生の集団はすぐに見つかった。忠之が話をつけるや良太は集団の中に引きこまれ、激励の歌の嵐につつまれた。良太はその歌に声を合わせた。たちまち気分が高揚し、良太は軍歌に声をはりあげた。いくつかの歌をうたい終えると、声を合わせて万歳を叫んだ。忠之を含めた周りの者が良太を抱え上げ、胴上げが始まった。
 胴上が終わると忠之が言った。「もういいだろう。千鶴さんが待ってるぞ」
「おかげで面白い体験ができたよ」と良太は言った。「お前が言ったように、いい思い出になる。ありがとうな、忠之」
 4人は駅舎に入り、別れの言葉を交わしながら改札口に向かった。
 発車時刻までにはゆとりがあったけれども、良太は忠之と沢田に改札口で別れを告げ、千鶴とふたりでプラットホームへ向かった。
 プラットホームについたふたりは、発車までの時間を壁を背にして過ごした。
 良太の快活な語りかけに千鶴が笑顔で応えたとき、良太は千鶴に顔をよせて言った。
「千鶴、そんなふうに笑ってくれると嬉しいよ」
「ごめんなさい。うっかりしてて」千鶴が笑顔で言った。
「それでいんだよ。千鶴にはいつも笑顔でいてほしいんだ」
「わかったわ、約束する。めそめそしたりしないから」
 発車時刻が近づいた。
 良太は千鶴の横に体をよせて、トランクの陰で千鶴の手をにぎった。
「千鶴がいてくれたおかげで、最良の学生生活になった。ありがとうな、千鶴。これからは、戦争がもっと大変なことになると思うけど、元気でがんばってくれよな」
「良太さんもがんばってね。体に気をつけて」
「それじゃ行くよ」と良太は言った。
 千鶴が体をまわし、良太に向きなおって言った。「必ず無事で還ってきて。良太さんの無事を祈りながら待っているから」
 千鶴の眼に涙がにじみ、すぐにあふれて頬をつたった。
 千鶴はモンペのポケットからハンカチを取りだし、涙をふきながら言った。「ごめんなさい、泣いたりして」
「いいんだよ、千鶴。泣いたっていいんだ。だけど、これからは、めそめそしてはだめだぞ。明るく元気な千鶴でいてくれよな」と良太は言った。
 良太は千鶴の手をにぎったまま、涙をためたその眼から、千鶴の願をしっかり受け取った。良太は心の内に誓った、俺は千鶴のこの願に応えなければならない。なんとしてでも千鶴のところに帰らねばならない。