県人会による壮行会は、神田の小さな料理屋でおこなわれた。
送られる側は良太の他にひとりだけであり、送る側の6人は、満二十歳以下の学生と忠之のような理科系の学生だった。良太は県人会に1回しか出席していなかったので、忠之のほかに憶えている学生はふたりだけだった。
幹事役の学生が自慢げに予告していただけあって、料理はかなりぜいたくであり、酒も多かった。
良太はいつになく深く酔い、仲間たちと共に放歌高吟し、酔いにまかせて出陣の抱負を声高に語った。ときおり忠之が声をかけた。「良太、飲みすぎるなよ」
宴会がおわる頃になって忠之が言った。「あのな良太、俺はあいつ等の寮へ寄ってから帰ることにした。奥さんか千鶴さんに伝えてくれ、帰りが遅くなるって」
2時間ほどの壮行会で良太はすっかり酔ったけれども、浅井家まで歩いて帰ることはできそうだった。
壮行会が終わったあと、良太はひとりで浅井家へ向かった。途中の坂道をのぼっていると、酔った頭にさまざまな想いが去来した。この1年の間に、この道をどれだけ往復したことだろう。千鶴に会いたくなれば、雨の日であろうと浅井家に向かったものだが、今ではあの2階でくらし、いつでも千鶴と会い、語り合うことができる。学生生活の最期を、幸運なことにあの家でくらすことになった。
良太は浅井家に帰りつくと、玄関に出てきた千鶴に、忠之の帰着が遅くなることを伝えた。2階への階段をのぼりかけると、千鶴の声が追いかけてきた。
「良太さん、だいぶ酔ってるみたいだけど、今夜も書斎で話します?」
「こんなに飲んだのは久しぶりだけど、大丈夫だよ」と良太は言った。「あとで書斎にきてくれないか」
良太はすぐにふとんを敷いたが、まだ寝るわけにはいかなかった。酔っていようと、書斎での千鶴とのひと時を欠かしたくなかった。
良太が書斎へ向かおうとしたところへ、千鶴が千人針の布を持ってきた。
「これが良太さんの千人針。私があと一針縫うだけでできあがるの」と千鶴が言った。
良太は縫い付けられた赤い糸をなでながら、「俺を千鶴のところへ無事につれ戻してくれる千人針だな」と言った。
「もちろんよ。こんなふうにして」と言って千鶴は未完成の千人針を良太の体に巻きつけた。「この千人針が良太さんを守ってくれるのよ」
「そうやって巻きつけたままで縫ってくれないか、千鶴が縫ってくれる最後のひと針」
千鶴が良太を見つめ、こくんとうなづいた。
「そうよね、私もそんなふうにして縫いたい」
良太は布を腰に巻いてふとんに横たわり、頬杖をついて千鶴をながめた。千鶴は膝のうえにかがみこむようにして、針に赤い糸を通そうとしている。千鶴がはいているスカートは、いつもの地味なものから花柄模様に変わっている。灯火管制用の遮光幕でかこわれた電灯の光が、スポットライトのように花柄を照らしている。千鶴が糸を通しおえて身をずらすと、光のなかに膝頭が見えた。
送られる側は良太の他にひとりだけであり、送る側の6人は、満二十歳以下の学生と忠之のような理科系の学生だった。良太は県人会に1回しか出席していなかったので、忠之のほかに憶えている学生はふたりだけだった。
幹事役の学生が自慢げに予告していただけあって、料理はかなりぜいたくであり、酒も多かった。
良太はいつになく深く酔い、仲間たちと共に放歌高吟し、酔いにまかせて出陣の抱負を声高に語った。ときおり忠之が声をかけた。「良太、飲みすぎるなよ」
宴会がおわる頃になって忠之が言った。「あのな良太、俺はあいつ等の寮へ寄ってから帰ることにした。奥さんか千鶴さんに伝えてくれ、帰りが遅くなるって」
2時間ほどの壮行会で良太はすっかり酔ったけれども、浅井家まで歩いて帰ることはできそうだった。
壮行会が終わったあと、良太はひとりで浅井家へ向かった。途中の坂道をのぼっていると、酔った頭にさまざまな想いが去来した。この1年の間に、この道をどれだけ往復したことだろう。千鶴に会いたくなれば、雨の日であろうと浅井家に向かったものだが、今ではあの2階でくらし、いつでも千鶴と会い、語り合うことができる。学生生活の最期を、幸運なことにあの家でくらすことになった。
良太は浅井家に帰りつくと、玄関に出てきた千鶴に、忠之の帰着が遅くなることを伝えた。2階への階段をのぼりかけると、千鶴の声が追いかけてきた。
「良太さん、だいぶ酔ってるみたいだけど、今夜も書斎で話します?」
「こんなに飲んだのは久しぶりだけど、大丈夫だよ」と良太は言った。「あとで書斎にきてくれないか」
良太はすぐにふとんを敷いたが、まだ寝るわけにはいかなかった。酔っていようと、書斎での千鶴とのひと時を欠かしたくなかった。
良太が書斎へ向かおうとしたところへ、千鶴が千人針の布を持ってきた。
「これが良太さんの千人針。私があと一針縫うだけでできあがるの」と千鶴が言った。
良太は縫い付けられた赤い糸をなでながら、「俺を千鶴のところへ無事につれ戻してくれる千人針だな」と言った。
「もちろんよ。こんなふうにして」と言って千鶴は未完成の千人針を良太の体に巻きつけた。「この千人針が良太さんを守ってくれるのよ」
「そうやって巻きつけたままで縫ってくれないか、千鶴が縫ってくれる最後のひと針」
千鶴が良太を見つめ、こくんとうなづいた。
「そうよね、私もそんなふうにして縫いたい」
良太は布を腰に巻いてふとんに横たわり、頬杖をついて千鶴をながめた。千鶴は膝のうえにかがみこむようにして、針に赤い糸を通そうとしている。千鶴がはいているスカートは、いつもの地味なものから花柄模様に変わっている。灯火管制用の遮光幕でかこわれた電灯の光が、スポットライトのように花柄を照らしている。千鶴が糸を通しおえて身をずらすと、光のなかに膝頭が見えた。