その日曜日、東京駅で知人を見送ってきた忠之が、浅井家に帰りつくなり良太の部屋にやってきた。
「話には聞いていたけど、東京駅の辺りはすごいことになってるぞ。あちこちで出陣する仲間を励ましているんだが、校歌や軍歌で励ますだけじゃなくて、最期には胴上をするんだ。出雲へ発つときにはお前もやってもらえよ、いい思い出になるから」
「俺はいやだな、そういうのは。お前と千鶴に見送ってもらうだけで充分だよ」
「そうか、お前がそう思うなら、その方がいいだろう。いい思い出になると思うんだけどな」と忠之が言った。「ところで、県人会での壮行会はどうする。せっかくだから、出席してみたらどうだ」
「この家でもう一度壮行会をやってくれるというんだよ、次の土曜日に。俺にはそれで充分だけど、せっかくだから出席させてもらおうかな、県人会のほうにも。県人会にはほとんど出席しなかったけどな」と良太は言った。
 その夜、良太が書斎に入って腰をおろすと、千鶴が二冊の書物をさしだした。島崎藤村の詩集と与謝野晶子の歌集だった。
「この詩集を良太さんにあげようと思って」
「藤村の詩集か」良太は詩集を手にして言った。「ありがたくもらって行くよ。海軍でも本は読めるらしいから」
「良太さんの誕生日のページを開いてみて。4月7日だから47ページよ」
 47ページを開くと、余白にはインクで文字が記されていた。
〈良太さんお誕生日おめでとうございます。書斎の机の上に花を飾ってお祝いをしています。飾ってあるお花は沈丁花です。良太さんが与謝野晶子歌集の47ページに書いてくださった言葉を読んでいます。良太さんの口付が思い出されます。良太さんどうか元気でがんばってください。千鶴は良太さんのお帰りを待っております。〉
 良太は千鶴に腕をまわした。
「いいことを考えてくれたな。来年の誕生日に俺はどこに居るかわからないけど、千鶴とこの部屋に居るつもりになってこれを読むことにするよ」
「良太さんの誕生日に飾るお花、沈丁花でいいかしら。4月の初めに咲いてる花で庭にあるのは沈丁花と雪柳だけど」
「沈丁花がいいな。俺は好きだよ、沈丁花の匂い」と良太は言った。
「よかったわ、気に入ってもらえて」と千鶴が言った。「つぎは私の誕生日の62ページよ」
「千鶴の誕生日は6月2日だったな」
 62ページの余白にも文字が記されていた。
〈今日は千鶴の誕生日です。私は良太さんが与謝野晶子の歌集に書いてくださった言葉を読んでいます。机の上には芍薬があります。良太さんは見えないけれど、良太さんは私の肩に腕をまわしています。良太さんと誕生日の口付をします。良太さんに誕生日を祝っていただいて私は本当に幸せです〉
「千鶴の誕生日には必ずこれを読むからな、千鶴がこの部屋に居ると想いながら」と良太は言った。
 千鶴が与謝野晶子の歌集を取りあげて、その47ページを開いた。
「ここに何か書いてちょうだい。良太さんの誕生日には、私はこの椅子に腰かけて、良太さんが書いてくださった言葉を読むの」
「想像しただけでも嬉しいよ、そんなふうにして千鶴が誕生日を祝ってくれると思うと」
 良太はしばらく考えてから、千鶴のペンを使って言葉を記入した。
〈今日は良太の誕生日。この書斎で千鶴に誕生日を祝ってもらえてとても嬉しい。いつもの花瓶に沈丁花があり、いつものように隣の椅子には千鶴が居る。いつものように千鶴と口付を交わした。抱き合っていると千鶴の匂いがする。千鶴よ誕生日を祝ってくれてありがとう〉
 千鶴が良太の横から文字を読み、「私って、そんなに匂いがあるのかしら」と言った。
 良太は千鶴の首すじに顔をよせ、「おれは千鶴の匂いが好きなんだ。かすかな匂いだけど」と言った。
 良太は歌集の62ページを開き、千鶴の誕生日を祝う言葉を書きいれた。
〈誕生日おめでとう。千鶴の誕生日を祝うことができて本当に嬉しい。机の上の芍薬がとてもきれいだ。今日は千鶴の誕生日だから特別の口付をしよう。これまでに交わしたどんな口付よりもすばらしい口付を。良太はいつも千鶴の幸を祈っている。〉
 千鶴はその言葉を声にして読み、「私たちの誕生日のための宝物だわ、この歌集」と言った。
「千鶴のおかげで俺にも宝物の詩集ができたけど」良太は千鶴を抱きよせた。「一番大事な宝物は千鶴だよ」
 良太は千鶴を膝に乗せ、その穏やかな笑顔に顔を近づけた。