くわえていた指をはなして千鶴が言った。「それなら私は神様にお願いするわ。どんなことがあっても、良太さんを無事に私のところへ還してくださいって」
「大丈夫だよ、おれは運がいいから」
「約束して」
「約束する。還ってこなければ、他の約束もはたせなくなるからな」
「必ず生きて還ること。私と幸せに暮らすこと。良太さんの故郷を見せてくれること。いっしょに出雲の星空を見ること。ほんとね、いっぱい約束してくれたわね、良太さん」
「出雲の星空か……」
「良太さんと眺めること、楽しみにしてるの」
千鶴が机の引き出しをあけ、ノートを出してせわしなくめくった。
「この日は映画の姿三四郎を見た日よ。帰り道で話したこと、覚えてるでしょ」
「もちろん覚えてるよ」
ノートをめくった千鶴が、日付をさして笑顔をむけた。
「この日のこと、覚えてます?」
良太は千鶴に軽くキスをしてから言った。「覚えているよ、もちろん。はじめてパイナップルを食った日だ」
千鶴が含み笑いした。
「そうよ、そのこと、ここに書いてあります。今日はじめて良太さんと……」
「そのあとに書いてあるんだろ、出雲の星を見る約束をしたこと」
「やっぱり良太さん、よく覚えてるじゃない」
「なんと言ったって、初めてパイナップルを食った日だからな」と良太は言った。「あのことも書いたんだろ、この間のパイナップルのこと」
千鶴がにこやかな笑顔を見せた。
良太は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。「なあ、千鶴」
「なあに、良太さん」千鶴が甘えた声で応じた。
良太は千鶴を抱きよせた。
「これからはパイナップルだよ、これは」
良太は千鶴に顔を近づけた。良太はすぐに唇をはなすつもりだったが、千鶴がそれを許さなかった。
書斎でのひとときが過ぎ、良太が自分の部屋に引きあげてから、千鶴は日記をつけるためにノートをひらいた。
千鶴は日付を記しただけでペンをおき、何から書きはじめようかと考えた。まず書くべきは、千鶴の故郷を見て廻る計画のことだったが、良太の提案も面白いと思った。これからは、口付のことをパイナップルと呼ぶことになった。良太さんと書斎に入れば口付をしないではいられない。それがすっかり習慣になったが、鎌倉を訪れた日の夜の、あの口付は特別だった。
千鶴は鎌倉を訪ねた日の日記を開いた。そのページを開いただけで、その夜のことが思いだされた。口付をしているうちに、甘美な感覚が全身に拡がるように感じられ、むしろ不安をおぼえて思わず唇をはなした。気がつくと、私を抱いている良太さんの手が、シャツの内側で私にふれていた。恥ずかしいとは思わなかったし、不安もまったく感じなかった。良太さんを見ているだけで安心できた。
静かな夜だった。良太と忠之いずれの部屋からも、物音は聞こえなかった。千鶴はペンをにぎった。
千鶴は日記を書きおえて書斎をでると、音をたてないようにドアを閉め、把手に手をかけたまま耳をすました。すぐ目の前が良太の部屋だった。中からは何も聞こえなかった。千鶴は静かな足取りで階段に向かった。
階段を降りたところで千鶴の足がとまった。あと戻りして良太さんの部屋に入ってみたい。もしもそんなことをしたなら、どんなことになるのだろうか。
そのとき部屋の戸があく音がして、忠之の声が聞こえた。「おい良太、ちょっと話したいことがあるけど、いいかな」
忠之の呼びかけに応える良太の声が聞こえた。千鶴は思った、私にしかできないことがあるように、岡さんが良太さんのためにしてあげられることがある。岡さんがいてくださってほんとうに良かった。
「大丈夫だよ、おれは運がいいから」
「約束して」
「約束する。還ってこなければ、他の約束もはたせなくなるからな」
「必ず生きて還ること。私と幸せに暮らすこと。良太さんの故郷を見せてくれること。いっしょに出雲の星空を見ること。ほんとね、いっぱい約束してくれたわね、良太さん」
「出雲の星空か……」
「良太さんと眺めること、楽しみにしてるの」
千鶴が机の引き出しをあけ、ノートを出してせわしなくめくった。
「この日は映画の姿三四郎を見た日よ。帰り道で話したこと、覚えてるでしょ」
「もちろん覚えてるよ」
ノートをめくった千鶴が、日付をさして笑顔をむけた。
「この日のこと、覚えてます?」
良太は千鶴に軽くキスをしてから言った。「覚えているよ、もちろん。はじめてパイナップルを食った日だ」
千鶴が含み笑いした。
「そうよ、そのこと、ここに書いてあります。今日はじめて良太さんと……」
「そのあとに書いてあるんだろ、出雲の星を見る約束をしたこと」
「やっぱり良太さん、よく覚えてるじゃない」
「なんと言ったって、初めてパイナップルを食った日だからな」と良太は言った。「あのことも書いたんだろ、この間のパイナップルのこと」
千鶴がにこやかな笑顔を見せた。
良太は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。「なあ、千鶴」
「なあに、良太さん」千鶴が甘えた声で応じた。
良太は千鶴を抱きよせた。
「これからはパイナップルだよ、これは」
良太は千鶴に顔を近づけた。良太はすぐに唇をはなすつもりだったが、千鶴がそれを許さなかった。
書斎でのひとときが過ぎ、良太が自分の部屋に引きあげてから、千鶴は日記をつけるためにノートをひらいた。
千鶴は日付を記しただけでペンをおき、何から書きはじめようかと考えた。まず書くべきは、千鶴の故郷を見て廻る計画のことだったが、良太の提案も面白いと思った。これからは、口付のことをパイナップルと呼ぶことになった。良太さんと書斎に入れば口付をしないではいられない。それがすっかり習慣になったが、鎌倉を訪れた日の夜の、あの口付は特別だった。
千鶴は鎌倉を訪ねた日の日記を開いた。そのページを開いただけで、その夜のことが思いだされた。口付をしているうちに、甘美な感覚が全身に拡がるように感じられ、むしろ不安をおぼえて思わず唇をはなした。気がつくと、私を抱いている良太さんの手が、シャツの内側で私にふれていた。恥ずかしいとは思わなかったし、不安もまったく感じなかった。良太さんを見ているだけで安心できた。
静かな夜だった。良太と忠之いずれの部屋からも、物音は聞こえなかった。千鶴はペンをにぎった。
千鶴は日記を書きおえて書斎をでると、音をたてないようにドアを閉め、把手に手をかけたまま耳をすました。すぐ目の前が良太の部屋だった。中からは何も聞こえなかった。千鶴は静かな足取りで階段に向かった。
階段を降りたところで千鶴の足がとまった。あと戻りして良太さんの部屋に入ってみたい。もしもそんなことをしたなら、どんなことになるのだろうか。
そのとき部屋の戸があく音がして、忠之の声が聞こえた。「おい良太、ちょっと話したいことがあるけど、いいかな」
忠之の呼びかけに応える良太の声が聞こえた。千鶴は思った、私にしかできないことがあるように、岡さんが良太さんのためにしてあげられることがある。岡さんがいてくださってほんとうに良かった。