食事をおえた3人は稲村ケ崎をめざした。時間に充分ゆとりがあったので、途中で長谷の大仏に立ちより、極楽寺にもより道をした。ようやく海辺に着いた3人の前には、穏やかな相模の海が拡がっていた。
良太は辺りを見まわした。三浦半島や伊豆半島の山並も、七里ヶ浜のかなたにそびえている富士山の姿も、戦争が始まる前と変わらないはずだった。景色に戦争のかげりは見られなくても、この穏やかな海のかなたで熾烈な戦争が戦われている。このまま戦争が長びいたなら、山河が姿をとどめようとも、日本の姿は大きく変わるかもしれない。
感慨にふけっていると千鶴の笑い声が聞こえた。日本が敗けるようなことになったら、日本人は喜びを失い、千鶴も笑い声を忘れるかも知れない。俺が出征してゆくのは、千鶴を、子供たちを、この国に住む人すべてを護るためだが、そのために俺には何ができるというのだろうか。
「どうかしたのか、良太。また考えこんでるな」と忠之が言った。
「鎌倉に来てよかったよ。八幡宮などにも参拝できたし、こんな景色も眺められるし」
「よかったわ、喜んでもらえて」
「よかったな、良太。千鶴さんのお陰でいい一日になったじゃないか」
「鎌倉は俺たちが訪ねるのに一番いい場所だったという気がする。ありがとう。今ここでお前たちにお礼を言わせてもらうよ」と良太は言った。
その夜、読書をしていると壁がたたかれた。良太は書物をおいて立ちあがり、となりの書斎に向かった。
千鶴の横に腰をおろすと、千鶴の前にはノートが置かれたままになっていた。
「疲れただろう。今日は随分と歩かせてしまったからな」
「大丈夫よ、私は。子供の頃から坂道を歩いているもの。学校へ通うのだって帰りには坂を登るわけだし」
「子供の頃の千鶴は、俺よりも身体を鍛えていたのかも知れないな。俺の故郷には坂道がないんだ。斐伊川の近くで田圃ばかりが拡がってるんだよ」
「早く行って見たいな、良太さんの故郷」
「戦争が終ったらすぐに行こうな」と良太は言った。「日記は終わったんだろ」
「ちょうど書き終わったとこなの。どんなことを書いたと思います?」
「今日の鎌倉のことだろ」
「そうよ、鎌倉のこと。鶴が岡八幡宮でのことも書いたわ」千鶴が笑顔を向けた。「良太さんには見せてあげてもいいけど、どうかしら」
鶴岡八幡宮でのこととは、良太と千鶴の婚約のことに違いなかった。
良太と千鶴はすでに婚約しているような間柄であったが、そのことが良太の負担になりつつあった。厳しい戦況を思えば、生還を期待することはできない。婚約などしていようものなら、千鶴を幸せにできるどころか、むしろ悲しい思いをさせる結果になるような気がした。千鶴と婚約する資格があるとは思えなかった。
実質的には婚約していようと、言葉による明確な婚約は避けたい。そう思いながらも、良太は千鶴との結婚をしばしば夢想した。それだけでなく、ときおり良太は妄想にとらわれた。妄想の世界で良太は千鶴と裸で抱きあった。書斎で抱きよせる千鶴の体が、妄想の世界に良太を引き入れることもあったし、ときには、千鶴が同じ屋根の下に居ることを意識するだけでも、良太は妄想の世界に引きよせられた。妄想からぬけだしたあとでは、気恥ずかしさとうしろめたさに似た感情を抱くことになったが、千鶴の明るい笑顔を眼にすると、気持のかげりはたちまちにして消え、千鶴の笑顔に対して笑顔をもって応えることになった。良太は夢想と妄想の世界で千鶴を抱き、現実の世界で千鶴と語りあい、そしてキスを交わしていた。
良太は千鶴の笑顔に向かって答えた。「千鶴の日記も見せてもらいたいけど、今はちょっと相談したいことがあるんだ」
「相談って、どんなこと?」
「つぎの日曜日のことだよ」
「もう決めたの?行き先」千鶴が声をはずませた。
「まだだけど、今のうちに決めておいた方がいいからな、相談しようと思って」
「鎌倉も良かったけど、この次はもっと楽しみましょうね。良太さんとふたりだけで」
「千鶴のおかげで、きょうは楽しかったよ。ありがとうな」
「鶴が岡八幡宮ではびっくりしたわね。岡さんにいきなり言われたんだもの、お前等はまだ婚約していないのかって」と千鶴が言った。「私の同級生が結婚したのよ。相手の人は学徒出陣する人ですって。私たちも結婚できないかしら、良太さんが出征するまでに」
良太は思った。できるものなら今すぐにでも千鶴と結婚したい。千鶴と結婚できればどんなにいいだろう。とはいえ俺は出征する身だ。戦死するようなことになったら、千鶴を悲しませるだけでなく、千鶴に厳しくてつらい人生を強いることにもなりかねない。生還を期待できない俺には千鶴と結婚する資格はない。
良太は辺りを見まわした。三浦半島や伊豆半島の山並も、七里ヶ浜のかなたにそびえている富士山の姿も、戦争が始まる前と変わらないはずだった。景色に戦争のかげりは見られなくても、この穏やかな海のかなたで熾烈な戦争が戦われている。このまま戦争が長びいたなら、山河が姿をとどめようとも、日本の姿は大きく変わるかもしれない。
感慨にふけっていると千鶴の笑い声が聞こえた。日本が敗けるようなことになったら、日本人は喜びを失い、千鶴も笑い声を忘れるかも知れない。俺が出征してゆくのは、千鶴を、子供たちを、この国に住む人すべてを護るためだが、そのために俺には何ができるというのだろうか。
「どうかしたのか、良太。また考えこんでるな」と忠之が言った。
「鎌倉に来てよかったよ。八幡宮などにも参拝できたし、こんな景色も眺められるし」
「よかったわ、喜んでもらえて」
「よかったな、良太。千鶴さんのお陰でいい一日になったじゃないか」
「鎌倉は俺たちが訪ねるのに一番いい場所だったという気がする。ありがとう。今ここでお前たちにお礼を言わせてもらうよ」と良太は言った。
その夜、読書をしていると壁がたたかれた。良太は書物をおいて立ちあがり、となりの書斎に向かった。
千鶴の横に腰をおろすと、千鶴の前にはノートが置かれたままになっていた。
「疲れただろう。今日は随分と歩かせてしまったからな」
「大丈夫よ、私は。子供の頃から坂道を歩いているもの。学校へ通うのだって帰りには坂を登るわけだし」
「子供の頃の千鶴は、俺よりも身体を鍛えていたのかも知れないな。俺の故郷には坂道がないんだ。斐伊川の近くで田圃ばかりが拡がってるんだよ」
「早く行って見たいな、良太さんの故郷」
「戦争が終ったらすぐに行こうな」と良太は言った。「日記は終わったんだろ」
「ちょうど書き終わったとこなの。どんなことを書いたと思います?」
「今日の鎌倉のことだろ」
「そうよ、鎌倉のこと。鶴が岡八幡宮でのことも書いたわ」千鶴が笑顔を向けた。「良太さんには見せてあげてもいいけど、どうかしら」
鶴岡八幡宮でのこととは、良太と千鶴の婚約のことに違いなかった。
良太と千鶴はすでに婚約しているような間柄であったが、そのことが良太の負担になりつつあった。厳しい戦況を思えば、生還を期待することはできない。婚約などしていようものなら、千鶴を幸せにできるどころか、むしろ悲しい思いをさせる結果になるような気がした。千鶴と婚約する資格があるとは思えなかった。
実質的には婚約していようと、言葉による明確な婚約は避けたい。そう思いながらも、良太は千鶴との結婚をしばしば夢想した。それだけでなく、ときおり良太は妄想にとらわれた。妄想の世界で良太は千鶴と裸で抱きあった。書斎で抱きよせる千鶴の体が、妄想の世界に良太を引き入れることもあったし、ときには、千鶴が同じ屋根の下に居ることを意識するだけでも、良太は妄想の世界に引きよせられた。妄想からぬけだしたあとでは、気恥ずかしさとうしろめたさに似た感情を抱くことになったが、千鶴の明るい笑顔を眼にすると、気持のかげりはたちまちにして消え、千鶴の笑顔に対して笑顔をもって応えることになった。良太は夢想と妄想の世界で千鶴を抱き、現実の世界で千鶴と語りあい、そしてキスを交わしていた。
良太は千鶴の笑顔に向かって答えた。「千鶴の日記も見せてもらいたいけど、今はちょっと相談したいことがあるんだ」
「相談って、どんなこと?」
「つぎの日曜日のことだよ」
「もう決めたの?行き先」千鶴が声をはずませた。
「まだだけど、今のうちに決めておいた方がいいからな、相談しようと思って」
「鎌倉も良かったけど、この次はもっと楽しみましょうね。良太さんとふたりだけで」
「千鶴のおかげで、きょうは楽しかったよ。ありがとうな」
「鶴が岡八幡宮ではびっくりしたわね。岡さんにいきなり言われたんだもの、お前等はまだ婚約していないのかって」と千鶴が言った。「私の同級生が結婚したのよ。相手の人は学徒出陣する人ですって。私たちも結婚できないかしら、良太さんが出征するまでに」
良太は思った。できるものなら今すぐにでも千鶴と結婚したい。千鶴と結婚できればどんなにいいだろう。とはいえ俺は出征する身だ。戦死するようなことになったら、千鶴を悲しませるだけでなく、千鶴に厳しくてつらい人生を強いることにもなりかねない。生還を期待できない俺には千鶴と結婚する資格はない。