11月に入ってまもなく、良太はみやげの米を持って東京へ向かった。
 混雑している列車の中で、良太は東京での生活を想った。わずかな期間とはいえ、千鶴と同じ屋根の下で暮らす日々が始まろうとしていた。
 浅井家に着いてみると、千鶴と忠之はまだ帰宅していなかった。
 良太は畑の手入れをすることにして庭に出た。芽を出したばかりの麦を眺めていると、畑をつくった頃のことが思い出された。良太は願った。この畑が浅井家に少しでも多くの恵をもたらしてほしい。
 うしろの方で千鶴の声がした。「おかえりなさい、良太さん」
 良太はふり返り、千鶴の笑顔に向かって手をあげた。
 千鶴は歩みよるなり、「書斎で話さない?」と言った。
「こんな時間だと、千恵ちゃんが入ってきたりしないかな」
「大丈夫よ、入室禁止のはり紙をしとけば」
「お母さんが心配するぞ、千鶴たちは書斎で何をやってるんだろうって」
「冗談よ、良太さん。千恵は絶対に入ってこないわ。あのこ、案外おませさんだから」
「それじゃ、書斎で話そうか」と良太は言った。「先に行ってるよ」
 書斎で新渡戸稲造の〈武士道〉を読んでいると千鶴がきて、「岡さんが帰られたわ。出雲でのことを聞きたいって。どうします?」と言った。
 千鶴との語らいを夕食後にまわして、良太は書物を置いて書斎を出た。階段をおりると、忠之は千鶴の祖父と縁側に並んで庭を見ていた。
「やっぱり甲種だったな、良太」と忠之が言った。
「お前と違って俺は眼がいいからな」
「それで、うまいぐあいに海軍の方に決まりそうか」
「俺が決めるわけじゃないからな、どうなるか、まだわからんよ」
「決まるのはいつ頃だ」
「もうすぐのはずだよ。家のほうから電報で報せてくることになっている」
「たのんだよ、森山君。帝国海軍を頼りにしてるんだからな」と千鶴の祖父が言った。
「がんばりますよ、まかせてください」
「それにしても、連合艦隊はどうしてるんだろうな。どこで何をやっとるのか、近ごろは新聞を見てもさっぱりわからん」
「大きい声では言えないことですが」と忠之が言った。「アメリカの電探は性能がいいので、連合艦隊も苦労してるみたいですよ」
 良太はそのことを忠之からすでに聞かされていた。電探すなわちレーダーの技術に遅れをとったことが、日本のとくに海軍を苦況に追い込んでいた。
「わしの友達もそんなことを話していたんだが、岡君も研究しているのかな、電探を」
「まだ無理ですよ、大学に入って1年ですから」と忠之が言った。「そういった方面の工場で働けば、少しは役に立てそうな気はしていますが」
「忠之、お前、やっぱり工場へ行くことにしたのか」
「残る俺たちは工場へ行くことになったんだ。飛行機や兵器の方へ行きたがる者もいるけど、俺は電探を作る会社で働きたいと思ってるんだ。今月中には行き先が決まることになっている」
「お前なら立派な電探が作れるだろうな。たのむぞ、忠之」と良太は言った。
 千鶴の祖母の声が聞こえた。「あの椎の樹、やっぱり切るしかないのかしら」
「もったいないが、枝を切り詰めることにしたよ」
「畑の日当たりは良くなるけど、庭がもっと淋しくなるわね」と千鶴の母親が言った。
 それから間もなく、良太は忠之といっしょに2階の部屋に移った。
「そうか、こっちにいるのはあと2週間ほどか」と忠之が言った。「講義なんか、もう受けなくてもいいだろうに」
「受けたい講義がまだあるんだ。今のうちに読んでおきたい本もあるから、これからの学生生活も案外と忙しくなりそうだよ」
「お前自身のために時間を使ったらどうなんだ。もうすぐ出征するんだぞ」
「もうすぐ出征するから本を読むんだ。今のうちに読んでおきたいものがあるからな」
 良太は書物の名前をいくつか挙げた。
「こんな雑談で時間を使わせちゃわるいみたいだな」
「お前と話すのは無駄だとは思わん。これまで通りにしてくれ」
「それよりもな、千鶴さんのことを考えろ。書斎で話し合うのもいいだろうが、ときにはいっしょに出かけろよ。あさっての日曜日は丁度いい機会じゃないか」
「じつはな、おれも考えていたんだ。どうだ、お前もいっしょに出かけないか」
「俺がいっしょでどうするんだよ。千鶴さんと二人で行け」
「千鶴とは14日の日曜日に出かけようと思ってる。千鶴にはまだ話していないけど」
「そうか、それなら千鶴さん、喜ぶぞ。だけど、あさってはどうして3人なんだ。千鶴さんと二人の方がいいだろうに」
「いいから付き合えよ。もしも俺が死んだら、千鶴とふたりで俺の思い出話ができるんだぞ。良太がまだ生きていた頃に3人であそこを訪ねたことがあったな」
「わかった、わかった。付き合うよ。それで、どこへ行くんだ」
「まだ決めていないから、いっしょに考えてくれ」
「そういうことは、こっちに詳しい千鶴さんに相談した方がいいと思うな」
「もちろん、千鶴にも相談するつもりだ」と良太は言った。