良太が唇をはなすと、千鶴は良太の胸に頬をおしあてた。千鶴の髪に手を触れながら、良太は口にすべき言葉をさがした。
「さっき千鶴さんが言ったみたいに、俺も千鶴さんともっと幸せになりたいよ」
「うれしい」千鶴がいかにも嬉しそうな声をだした。「良太さん……もっともっと幸せになりましょうね、私たち」
 窓からの風があっても暑かった。良太はうちわで千鶴に風を送りつづけた。遠くに見える欅の梢が揺れていた。空は明るかったが、午後も遅い時刻になっているはずだった。
 千鶴が良太の胸から頬をはなして、「明日の夕方に東京を発って、出雲に着くのはあさっての夕方だったわね」と言った。
「忠之が昨日の夕方に乗ったのと同じ列車だ。忠之はもうすぐ家に着くはずだよ」
「行ってみたいわ、出雲へ。良太さんについて行きたい」
 良太は千鶴を出雲につれて行きたいと思った。とはいえ、学生が女をつれて旅行できるような状況にはなかったし、千鶴の家族が許すとも思えなかった。
「戦争が終わったらいっしょに行こう。ふたりで出雲を見てまわりたいな」
「良太さんが遊んだところや、お弁当なしで遠足に行った所も見たいわね」
「忠之がしゃべったのか、そんなことまで」
「私がせがんだの、岡さんに。良太さんの子供の頃のことを聞きたいって。それで話してくださったのよ、岡さんが溺れそうになったことや、遠足のことなど」
「驚いたな、まったく」
「ごめんなさい、勝手なことをして。岡さんには約束してもらったの、良太さんのことをもっと話してもらうこと」
「どうして知りたいんだろう、俺の子供の頃のことなど」
「岡さんから次に聞かせてもらうのは、良太さんの中学時代のことなの」
「なんだか、心配になってきたよ。その次は高校時代なんだろう?」
「良太さんがいやならやめるけど、岡さんに話してもらうこと」
「いやというわけじゃないけど、どうして知りたいんだろ、そんなことを」
「もっと知りたいんだもの、良太さんのこと」
「俺は千鶴さんの子供の頃のことに、そんなに興味がないな」
「出雲生まれと東京生まれでは感じ方が違うのかしら。それとも、男と女で興味の持ち方が違うのかしら」
「千鶴さんと出会ったのも、こうして話し合うのもこの家の中だから、千鶴さんがどんなふうに育ったのか、何となくわかるような気がするんだ。多分そのためだよ」
「私は良太さんの家も、家の近くの風景も知らないし、子供のころに遊んだ場所も、想像さえできないのよ。だから岡さんに聞いたんだけど、ごめんなさいね、勝手なことをして。何かの拍子に聞かせてもらうことになったの」
「忠之なら、俺のことを面白がってしゃべるよ。もしかしたら、俺よりも忠之に聞いた方が、千鶴さんには面白いかも知れないな」
「よかったわ、お許しをもらえて。約束通りに岡さんが話してくださったら、良太さんに報告した方がいいかしら」
「もしも自分の子供時代のことを忘れたら、千鶴さんに聞くことにするよ。責任重大だぞ、何十年も覚えておかなくちゃならんからな」
「何十年も先の私たち……どんなふうに暮らしてるのかしら」と千鶴が言った。
 廊下に足音が聞こえて、開いたままになっていた入り口に、千鶴の母親が現れた。
 良太は立ちあがり、「珍しいものをご馳走になりました」と言った。
「畑であんなにお世話になってるのに、パイナップルしか差しあげられなくて」
「でも良かったわ、パイナップルがまだ一缶だけ残っていて」
「ねえ、千鶴」と母親が言った。「夕食を森山さんにも食べていただきたいから、手伝ってちょうだい」
 その夜、良太は浅井家の家族と共に食卓についた。
 千鶴ははしゃぐように快活だった。千鶴の母親がときおり良太に眼を向けた。書斎での良太と千鶴に何があったのかと、そのまなざしが問いかけていた。
 千鶴の祖父が言った。「森山君、ときには、こんなふうにして飯を食うのもいいもんだろう」
「おかげで久しぶりの賑やかな食事です。僕には豪勢な晩飯ですし」
「遠慮しないで食ってもらいたいよ。野菜はみんな君が汗をながして手伝ってくれたものだし、千鶴が世話になっていることだしな」