「何があったんですか」
「小学校6年の夏休みに、良太と宍道湖へ遊びに行ったんだよ。しじみ採りや魚釣に使う舟があったので、俺たちにも漕げたから無断で漕ぎだしたんだ。少し沖に出たところで、岸と舟の間を泳いで往復することにした。ほとんど同時に岸に着いたけど、舟にもどるときに俺は足がつってしまった。良太を呼んだけど、あいつは先に行ってしまった。いつものように、俺がふざけて叫んでいると思ったらしいんだ」
「それで、岡さんは溺れそうになったんですか」
「良太は舟にあがってから気がついたんだな、俺がただごとじゃないって。良太が舟で助けに来てくれたときには、ほんとに溺れるところだったんだよ」
「なんだか、すごい体験。楽しい思い出とは言えそうにないわね」
「どちらかと言えば楽しい思い出だよ、今になってみれば」
「他にもないかしら、良太さんとの楽しかった思い出」
 忠之が千鶴に笑顔を向けて、「それじゃあ、つぎは良太の失敗談にしようかな。何しろいっぱいあるからな」と言った。
 千鶴も笑顔で言った。「おもしろい失敗談なら聞きたいわね、いくらでも」
「冗談だよ」と忠之が言った。「あいつは、そんなに失敗ばかりする奴じゃないよ。もちろん人並みに失敗はするけどな」
 忠之が話し始めた。「6年生の遠足で、島根半島の山奥にある、古い寺へ行ったときのことだよ。弁当の包みを開いたあいつが変な声を出したんだ。どうしたのかと思ったら、良太は弁当を忘れて来ていたんだよ。おふくろさんが心をこめて作った弁当を、他の物と入れまちがえたんだな、うかつなことに。それで、どうしたと思う?」
「困ったわね良太さん、どうしたんでしょう」
「俺の握り飯を分けてやることにした。それしか考えようがないからな」
「なんだか小学生の岡さんもかわいそう」
「そうでもなかったんだよ。引率の先生のひとりが俺の親父だったんだけど、俺たちの傍を通りかかって、俺と良太のようすに気がついたんだ。それで、親父が自分の弁当を俺たちに分けてくれたんだ」
「岡さんのお父さん、今も先生をなさってるんでしょ」
「小学校で教えてるんだ。名前は国民学校に変わったけどな」
「それじゃあ次に、中学時代の思い出を聞かせてもらえます?」
「その次には、高校時代のことも聞きたいんだろ」
「ごめんなさい。つい図にのってしまって」
「いくらでも話すけど、また今度ということにしよう。もうこんな時間だから」
「あのー、もしかしたら」と千鶴は言った。「岡さんにはわかってたんですか、私と良太さんがこうなることが」
「こうなるって、何が?」忠之が驚いたような声を出した。「何がどうなったんだ」
「いえ、あのう」言いよどんでから千鶴は言った。「たとえば今日みたいに、良太さんとふたりで映画を見たり……」
「あれは、俺が」と言ったまま、忠之は口をつぐんだ。
「岡さんは、わざとに私たちをふたりだけにしたんですね」
「ラジオをなおす約束をしていたから、それを今日やることにしただけだよ」
「私と良太さんをふたりだけにするために?」
「それで……良かったんだろ?」
「岡さんのおかげで、今日はとても素敵な日になったわ」と千鶴は言った。「ほんとにありがとう。良太さんも岡さんに感謝してるはずよ」
「どうやらほんとに、おれは縁結びの神様になったようだな。どうみても神様という柄じゃないけど」
 忠之は満面の笑顔を見せて立ちあがり、サツマイモの残りを持つと、「それじゃ、おやすみ。今夜はいい夢を見られそうだな、千鶴さん」と言って書斎を出ていった。
 千鶴はそのまましばらく書斎に残り、良太と忠之の子供時代を想った。良太が生まれ育った出雲に行ってみたいと思った。