母が昨晩遅くに帰ってきたとき「日彩の容態は今のところ安定しているから、永遠は気にせず、いつも通り明日は学校に行きなさい」と、日彩の部屋のタンスを漁りながら話した。本当は、授業を放棄してでも日彩の見舞い行きたかったけれど、大変な状況の母にこれ以上わがままを言って負担を掛けるのは良くないと思い、私は私の義務をこなした後、一目散に病院へと向かった。
 今日は映画研究部も活動日ではなかったはずだ。それに、上原くんは事情を知っているから、とやかく言われることはないだろう。
 教室の扉を抜けた瞬間から、私は足を止めることなく走り続けた。以前よりも太陽の傾く速度が遅く、日はまだ白い。まだ肌に当たる風は痛いほど冷たい冬のはずなのに、徐々に春の訪れを感じさせていた。
 病院の場所は日彩が小さいころから変わらない、通いなれた大学病院だった。家からだと少し距離があるため、大抵車で向かっていたが、学校から行くと歩いて二十分ほどで辿り着く。つまり走ったら十五分……いや、十分で日彩に会える計算になるはずだ。
 肩に掛けた鞄が何度も滑り落ちてくるのを、右手で必死に抑え、左手は前へ前へと風を漕ぐ。息をする回数がだんだんと増えてきたところで、大きな横断歩道が見え、枠の中に閉じ込められた光る赤い人に強制停止を命じられた。
 足を止めると一気に全身が疲労感に包まれ、走っている時よりも何故か暑い。体の右側に寄った七時間分のノート類が無駄に重く、重力に従わせてコンクリートに落とした。
 目の前をカラフルな乗り物が行き来する。形やスピードまでもが多種多様で、人の代わりに歩いているのだと思うと何だか不思議な気分になった。昔の人は、まさか生き物以外に動くものが生まれて、それを足として活用している世の中になるなんて想像もしていないだろうな、と酸素の回らないぼんやりとした頭で考える。そんなことを考えているうちに赤い人が変身し、青く光って私たちを迎え入れた。
 私は倒れた鞄の持ち手を掬うように拾い上げ、そのまま地面を蹴る。コンビニも、ドラッグストアも、カラオケも、飲食店も、皆私の視界から風と共に一瞬で流れていった。
 やがて近づいてくる大きなビルのような建物。敷地内の木から解放されたらしい葉が、かさかさと地面で踊っていた。私は自動ドアに吸い込まれ、息を切らしながら病室を尋ね、向かう。病院のエレベーターに入ると、思わず備え付けの手すりに寄りかかってしまった。日彩に会うまでに息を整えなければと、誰も見ていないことをいいことに、わざと大げさに肩で呼吸する。
 少しずつ落ち着いてきたところでエレベーターが開いた。病室は確か二人部屋になっていると聞いた気がする。ちらちらと患者の名前が書かれた部屋を辿って行くと、『前田日彩』の文字が目に入り、スライド式の扉に手を掛けた。すると、自分が力を掛けるよりも先に扉が動き、向こう側から人が出てきて思わずぶつかりそうになる。
「あ、すみませ……なんだ、永遠じゃないの」
 反射でお互い一歩下がったものの、顔を上げるとそれはいつもより少し疲れた顔をした母だった。お父さんにプレゼントしてもらったというお気に入りの長財布だけを片手に持って出ていこうとしていることから、病院内のコンビニか自販機に飲み物でも買いに行くのだろうと推測できる。
「学校終わったから……。日彩は?」
「日彩は左側のベッドよ。お母さん、ちょっと飲み物買ってくるから、その間日彩と話してあげて」
 母はそのまま病室を後にした。私は覗き込むような姿勢で部屋を見回すと、右側のベッドは空っぽで、左側には半分ほどカーテンがかかっており、入り口からは見えない構造になっていた。
 私はそろりと中に侵入し、本当にそこにいるのが日彩なのか確かめるべく、勇気を出してカーテンの向こう側に顔を覗かせる。足音はほとんど立てていなかった。
 そしてゆっくりと人型の像が、白いカーテンの奥から現れる。そこには少し背中が持ち上げられたベッドで、だらりと体を預け、窓の外を見つめる日彩がいた。
「ひ、日彩……?」
 私が声をかけると、目だけが瞬きと共にこちらに動く。その瞳はいつもの元気いっぱいの日彩ではなかった。キラキラと輝いて、陽の光をこれでもかというほど吸い込んでいた瞳孔は、まるで生きる希望すら失ってしまったかのような影だけが落ちて見える。
 瞳だけではない。全身からそう映し出しているのだ。布団を被っていてほとんど目に入ることがないはずなのに、元々の細い体付きに加え、更に力のない貧相な棒のように思える。まるで綿菓子を食された後の割り箸だ。隠されているからこそ、そうして私の中に思い浮かぶのだろう。
「あぁ、お姉ちゃん……」
 ふふ、と微笑んだ彼女は無理をして笑っているようにしか思えない。自分が辛い時にまで笑おうとする日彩が少し怖いくらいだった。
「大丈夫? 検査の結果はどうだったの?」
 私は横に置いてある、背もたれのない丸い椅子に腰を下ろし、肩から鞄をどさりと床に付ける。
 私は喧嘩のことを差し置いて、現状の話に持っていった。確かに謝りたい気持ちはあったが、姉妹喧嘩で毎回仲直りをするという家庭の方が少ないのではないかと思う。大抵の場合、次の日の朝にはお互いケロッとした表情を交わすものだ。少なくとも、これまで私の家庭はそうだった。日彩の明るい性格のおかげで、喧嘩なんて小さい頃以来だけれど。
 日彩はより一層笑おうとしているのがわかった。笑おうとしている、いや、笑っているのに笑っていない。目が死んでいるとはこういうことかと、初めて目の当たりにした瞬間だった。
「ギラン・バレー症候群だって」
 体の一切を動かすことなく、日彩はそう呟いた。聞きなれない病名に、私は上手く反応することができない。それは死に至る病気なのか、どういった症状が出るのかなど、私は何も知らなかったのだ。
「ギラン、バレー? それってどういう病気なの? ちゃんと治るの?」
 日彩の表情は相変わらずで、全体的に生気がない。ただ安心させようとしているのか、無意識なのか、口元だけ不自然に上がったまま話し続けている彼女は、見ていていたたまれなかった。
「私もさっき調べてもらったことを聞いただけだから、詳しくはまだわかっていないけど、とりあえず致死率は二、三パーセントだから大丈夫だよ。大丈夫、うん、死ぬことはないから。死ななければどうにでもなるからね」
 私に話しかけていることはわかっていたのに、日彩はまるで自分に言い聞かせているようだった。きっと、不安で仕方がないのだろうと思う。不安だからこそ、自分で自分を安心させようと必死なのだ。だから辛くても苦しそうでも、無理した微笑みを浮かべることの理解ができた。
「そっか。それならちょっと安心した。他には何か聞いてないの?」
「症状に個人差があるらしいんだけど、主に力が入らないくらいの筋力低下やしびれ、酷いと呼吸困難になることもあるらしいよ。あとは、ピークに達するまでは急速に悪化するんだって」
 だらりと垂れた腕を見て、なるほど、とその情報に納得する。
 でも、それは死ぬようなものでは無いと彼女は言った。では何故、こんなにも落ち込んでいるのだろう。いつもの彼女であれば、「なんとかなるよ!」とでも言って、今よりもっと明るく自然に振る舞っているのではないだろうか。
 それとも、単に久々の入院と受験疲れも加わって、心身が一時的に病んでいるだけなのだろうか。それに“だけ”という言葉を付けるのはあまり好ましくないと思うけれど。
「そうなんだ……。じゃあ、受験終わってからで本当に良かったね」
「うん……」
 少しでも慰めようと、ポジティブに捉えたことが良くなかったのかもしれない。日彩はすっかり気力を無くしていた。
「他にも何かあるなら聞くよ。日彩、何か我慢してたり隠してない?」
 その時、はっとした日彩の表情と共に、ベッドが小さく揺れだした。地震かと思い、慌てて窓から離れようとするも、私の立つ地面は至って冷静なのか体を震わす気配はない。見間違いかと彼女を見るも、やはりそこだけは揺れていた。よく見ると、脚の覆われた布団から派生されているらしい。
 日彩は自分の脚元を見つめ、今にも泣きそうな顔になっていた。自分では抑えようもないのかもしれない。自分の体なのに自分でコントロールできない恐ろしさは、きっと経験した人にしかわからないのだろう。
 痺れた脚で立ち上がった時のようにガクガクと震えるのは、ベッドに入っていても同じようだった。
 ようやく揺れが収まったところで、日彩は泣き出した。普段弱さを見せない分、その姿は昨日に続いて衝撃的で、守ってあげたい気持ちを掻き立てる。
 日彩は、夜中も震えでなかなか眠れなかったと言った。寝ている間ですらこのようなことが起きては、たまったものではないだろう。
 私は日彩の背中をゆっくりとさすった。何と声を掛けていいかわからなかったからだ。我ながらずるいと思う。でも下手に言葉を掛ければ、かえって日彩を傷つけ兼ねない。それだけは避けたかった。
「それにね……。私、入院だから卒業式も出られないんだ」
 嗚咽と鼻をすする音に紛れさせて、吐き出した。涙を袖で何度も拭う彼女に、ああ、それが日彩の一番の苦しみかと悟る。受験が終わっていたことは不幸中の幸いだが、この時期、日彩にとって大切なことは山ほどあるはずだ。きっと、小学校、中学校と長い間一緒に過ごしてきた友達と高校進学とともにバラバラになってしまうからこそ、最後まで一緒にいたい思いが人一倍強かったのだろう。
 卒業式なんてこれから何度もある、と言えばその通りかもしれない。でも、その時、その場所で、そこで出会った仲間と共に卒業できるのは、人生で一度きりだ。例え同じ名称の式が今後存在しようと、二度と同じものにはならない。たった一度きりの、かつ最後のチャンス。
 卒業式に対して、私は特に思い入れがなかった。だって、何事も無く式を迎えられるのが当たり前だったから。仲の良い友達もいない、卒業したくないほどの思い出もない。この場所から次のステージに進むだけ。乗り越えなければならない、ただの締め切り付きの課題。
 でも、それは奇跡だったんだ。皆、当たり前のようにその場に集まって、当たり前のように歌を歌い、当たり前のように笑顔で校門を出ていくことは。
 当たり前なんかじゃない。一生に一度だけの瞬間(たからもの)だ。
「卒業式……。そっか、最後なのにね……」
 迷った末に出た言葉はこれだけだった。日彩の涙は止まることを知らないよう。
 きっと、私が知らないうちに色々我慢して耐えてきたこともあったのかもしれない。いつも笑顔で優しく、周りに気を遣える日彩は、涙を見せて人を困らせることはない。そんな彼女が私の前では自分をさらけ出して泣いてくれるのが、少しだけ嬉しかった。同時に、中学生らしくないこれまでの彼女の大人びた考え方に、胸が締め付けられた。
 いつの間にそんなに成長してしまったのだろう。まだそんな風に周りのことを第一に考える思考にならなくていい。中学生らしく我儘を言っていればいい。
 そう思うと共に、妹に気を遣わせてまで、大人気なくストレスをぶつけてしまった自分を情けなく思った。
「もう抱え込まなくていいよ。私が全部聞くから。他にも何かあったら、すぐに吐き出していいからね」
 我ながら臭いセリフだと思った。でも、これは本心だった。どうか日彩が元気を取り戻しますように。どうかもう一度、心から笑ってくれますように。
 大切なたった一人の妹を、助けたい一心だった。
 日彩が少し落ち着いた後、リハビリが大変らしいということや、後遺症も残るかもしれない不安を語ってくれた。今まで自由に動くことのできていた体を、上手く動かせない恐怖。
 そして、何より卒業式に出席できないことが一番辛いと。絶対に嫌だと言った。
 どうして、と呟く彼女の口から続きの言葉は出てこなかったけれど、その先は容易に想像できた。自分だけできない、自分だけ上手くない、自分だけ友達がいない、自分だけ他とは違う、そんな思いを抱えてきた私だからこそわかったのかもしれない。
 そんな時、私はどうして欲しかっただろう。他人にどうあって欲しかっただろう。日彩のために私は何ができるだろう。
 暮れゆく空の下、ぼんやりとそんなことを考えながら、誰もいない家へと足を進めていた。