二十分ほど経って、再び音が鳴った。画面にはしっかりと“上原くん”の文字が刻まれている。
「も、もしもし」
「あっ、永遠? 今、家の、前に、着いたんだけど……」
 上原くんは明らかに息を切らしていた。文章を途切れ途切れに細かく呟き、酸素を補っていることがわかる。本当に飛んできてくれたんだ。
「って、今更だけど、迷惑だったよな。ごめん、俺、永遠が泣いてると思ったら、体が勝手に……」
「ううん、そんなことないよ」
 私は玄関の扉を開けた。もうすっかり日は沈み切っており、開けた瞬間から冷凍庫のような空気が顔に刺さる。コートを羽織っていなければ、凍死してしまいそうなほどだ。
 上原くんは、インターホンの前で自転車のハンドルを片手で握り、耳にスマホを当てた状態で立っていた。玄関前の電灯に照らされ、口元まで覆われたネックウォーマーの隙間から、煙突のように白い息が上がっている様がよく見える。
「と、永遠……」
 耳元と実際の声がほぼ同時に聞こえたあと、電話は切られた。上原くんは自転車を停め、私のもとへ駆け寄る。急いで来たことがよくわかるほど、髪は乱れ、上着のチャックも開けっ放しだった。
「……大丈夫か?」
 気を遣ってくれたのか、二段ほどある玄関の階段を挟んで一定の距離を保ったまま一言そう問う。息をする度に白くなる眼鏡のレンズ越しに見つめられるも、私は俯いてしまった。
「言いたくなかったら言わなくていい。帰ってほしいなら帰る。でも、少しでも話したいと思うなら、俺はいくらでも聞く気でいるから。もちろん、一人の同級生として」
 凍てつく空気を介して、言葉の温かみが私を包み込んだ。過去に虐められた相手に相談するなんておかしいことは分かっている。相談するという行為が、果たして正しいか間違っているかと言われると、きっと正しくはないのだと思う。
 それでも、最早私が頼れる相手は、目の前にいる彼のみだったのだ。
 私は涙ながらに、この二日間の出来事を話した。そして夢のことも。
 日彩が羨ましくて、嫉妬して当たってしまったこと。二日間話さないまま、仲直りもできていないこと。今朝受験に行く前に訴えた不調のこと。そして先程あった症状や、救急車で運ばれ、今は意識が戻ったこと。夢の内容が現実に影響しているのだとしたら、怖くてたまらないことなど。
 私たちはいつの間にか、二人並んで階段に腰かけていた。グレーのセラミックタイルの隙間には細かい砂粒が身を寄せ合うように詰まっている。冷えた接触部分に熱が奪われ、冬に溶けていった。それでも上原くんは文句一つ言わず、ただただ静かに頷いていてくれる。そして全てを話し終わると、ようやく口を開いた。
「辛かったな。話してくれてありがとう。俺が中学の取材に誘ったばかりに、そんなことになってしまってごめん」
 私たちは、同じ地面を眺めていた。決して互いを見ることなく、雨風にやられた地に向かって語り掛けるように。
 ふと、膝前で組んだ彼の手が見えた。その指先は真っ赤に染まっていて、爪の血色も悪い。そんな手を擦って温めようともせず、上原くんは続けた。
「無責任なこと言っちゃいけないってわかってるけど、妹はきっと大丈夫。心配するなとは言わない。これでもかってくらい心配して、それで妹が無事治って帰ってきたら、あぁ良かったって泣いて喜べばいい」
 視界の端が音を立てて動いた。赤い右手が冷たいタイルに触れ、膝が少しこちらを向いている。そのままゆっくりと視線を上げると、相変わらずの表情で私の瞳を貫いていた。どちらからともなく透明だった空気に白い色を付け、二人の間に壁を作る。また彼の視界を遮るように、レンズが曇った。
「それでも辛くてどうしようもなく不安になったら、俺が支えるから。俺以外にも、吉岡だって大賀だっている。いくらでも頼っていいから。一人じゃないから。だから大丈夫だ」
 上原くんは目を逸らさなかった。大丈夫だなんて、何も知らないくせに言うのは無責任だと思っていたけれど、今の私には、その『大丈夫』が支えであり、救いの手のように思えた。不安で仕方のなかった私に、根拠もなく大丈夫だと言ってくれる存在がいることが、こんなにも安心できるものだとは知らなかった。
「うん……。ありがとう。ちょっと落ち着いた」
 その言葉を聞いてか、上原くんは安心したようにほっと肩の力を抜いていた。ぎゅっと、また膝を抱える腕に力を込める。よくこんな寒い中、夜遅くにも関わらず来てくれたものだ。本当に昔の上原くんとは別人のよう。
「そういえば……どうして電話してきたの?」
 私は小さくそう聞いた。日彩に何かあったということは知る由もないし、こんなにも私にとって都合よく電話が掛かってくるのはおかしいだろう。馬鹿な妄想だけれど、やはり上原くんは未来から来た人物なのではないかと疑ってしまいそうになる。
 上原くんはそれを聞くと、再び地面に視線を滑らせた。ネックウォーマーで顔のほとんどを覆い隠すように、それをつまんで持ち上げる。体と同じ向きに合わせた横顔からは、眼鏡のないそのままの彼の瞳があった。
「その……謝りたかったんだよ。二日前のこと。永遠、あのあと走っていっただろ? 多分耐えられなかったんだろうなって。急に昔虐められていた相手に、好きだったとか言われたら困惑するし、嫌だったよな。本当にごめん」
 わざと距離を取るように、上原くんは座り直した。空気が動かされて冷気が掠る。
 何を言うことが正解なのだろう。過去のことはもう過去のことだと、許すと? それともやはり許せないから、もう関わるなと? 
「本当ならすぐにでも謝るべきだったんだろうけど、連絡する方が永遠にとってストレスになるかもとか、色々悩んでた。俺には永遠を想う資格も、本当ならこうして話す資格もない。だけど、だからこそ、ほんの少しの償いとして永遠の支えになれたらと思ってる」
 隣の家についていたオレンジ色の温かみを含んだ電気が、ふと切れた。急に辺りが暗くなった気がする。
 私は現実から目を逸らすように俯いた。暗くてほとんど見えないけれど、自分の着ているニットの網目模様を、繊維の一つ逃さないように視線でなぞる。
「永遠の正直な気持ちを聞かせてくれないか。嫌ならもう関わらない。永遠の気持ちや感情が、全部正解だから」
 私の気持ちって何だろう。
 意味もなく凍えた両手を擦り、沈黙を誤魔化す。悴む手をいくらすり合わせようと、感覚のない物同士、熱を帯びることはない。
 私は上原くんに対してどう思っているのだろう。昔虐めてきた憎い人か、それとも関わりたくない人だろうか。確かに暴力こそなかったものの、今にまでつながる深い傷痕となった原点は彼だ。それをそう簡単に許せるかと言われたら、そんなことはない。でもーー。
 風が強く吹いた。髪の毛が持ち上げられ、視界が遮られる。上原くんも、それに抗うように目を細く閉じた。今なら、風の勢いと共に言えると思った。
「過去のことを、許すことはできないよ。でも、今の上原くんが昔の上原くんじゃないってことはわかる。友達もいない私の支えになろうと、こうして話を聞いてくれたことも、嬉しかった。そう、嬉しいって思ったの。だから……関わってほしい……です」
 気恥ずかしくて、自信のない言い方の結論になってしまったが、それを聞いた彼は驚いたように抱えていた膝の手を放し、姿勢が伸びる。私もそれにつられてか、上原くんを瞳の中にしっかりと捉えてしまった。左手で、開いた口を隠すような表情を見て、本当に驚いていたのだということがよくわかる。
「本当に? 俺、結構覚悟してたからさ。えぇ、まじか、そっかぁ……」
 そのまま彼はまた膝を抱え、今度は深く顔をうずめる。そこで鼓膜に触れるか触れないか際どいほど小さな声で「良かった」と呟いたのがわかった。
 今は今しかないと、日彩に教わった。今を大切に生きていかないといけないと。いつまでも過去に囚われることが悪いわけではないかもしれない。でも私は、過去に囚われている自分から変わりたいと思った。変わりたいのなら、行動しなければ、何も変わらない。自分の望みを叶えるためには、辛いことにも向き合っていかなければ。
 人は皆、変われないと思っていた。でも現に、上原くんは変わった。そして今、私も変わろうとしている。人は学び、成長する生き物だ。過去をやり直すことはできなくても、これからを変えていくことはできる。上原くんも、私も。
「じゃあ、そろそろお母さんも一旦帰ってくるかもしれないから」
 私は少し自分の熱で温かくなった階段から離れ、上原くんの方を見る。上原くんも同じく立ち上がり、自転車の方へ向かった。
「何かあったらいつでも言えよ」
 ガチャンと右足で自転車のスタンドを蹴り上げながらそう言った。私はインターホンの隣に並び、その様子を見守る。
「うん、ありがとう。またね」
 上原くんはほんのり口角を上げ、自転車にまたがりペダルを踏んだ。彼から風が生まれ、まっすぐ伸びた道を流れるように走り、角を曲がって見えなくなる。
 これで良かったのかはまだわからない。でも、少なくとも勇気を出して、変わろうと一歩踏み出すことのできた自分は嫌いじゃないと思えた。