*
一度力を抜いた体は鉛のように重く、膝をがくがくと震わせていた。
毎年体育の授業である持久走でも、これだけ長時間長距離を走ったことがない。日彩に比べると少しは運動ができる方だが、それでも一般的に見ると体力は無い方である。
それがいきなり酷使されたのだ。一歩一歩がたどたどしく、肩を使っての呼吸が収まらないのも無理はない。
ずっと流れていく地を見つめていた。時折塀にぶつかりながらも、なんとか良く知る扉の前に立つ。
震える手で鞄のチャックを摘み、鍵を取り出して差し込んだ。
扉を引く力も弱く、ガチャっと小さく金属が擦れる音を立てて、中に入った。天井にある電球が、私という存在を感知して光を注ぐ。
足元に現れた真っ黒な私が、私をじっと見つめている気がした。
弱い奴だと、指を差されながら笑われている心地になり、思わずそれを靴で踏み潰して家に上がる。
「あら永遠、帰ったなら一言声くらい掛けなさいよ……って、どうしたの?」
母がエプロン姿で、心配そうな表情を向けてきた。
無理もない。無理もない。
ただ自分に言い聞かせる。全速力で天然の冷たいドライヤーに当たった酷い髪と、頬に浮かぶ枯れかけの川の跡、真っ赤になっているであろう鼻や耳、ミイラのように震えた手足と、上下に揺れる肩。
「……ううん。大丈夫だよ」
何が大丈夫なのだろう、と口に出してから考える。だがその答えは見つからない。最早その問いすらどうでも良い。
私は母から体の向きを遠ざけ、二階にある自室へ向かおうとした。
『もうすぐ死ぬ』
突然、今朝の夢の映像が頭をよぎる。
どうして今日はこんなにもついていないのだろう。朝からおかしな夢を見て、日彩の凄さを思い知らされ、記憶の奥にしまっていた人物と再開していたことがわかって。
挙句の果てに、好きだったからと。
今日一日に私が抱えられる負荷の量は優に超え、ばらばらと腕の中からこぼれ落ちた。
やめて、これ以上私を追い詰めないでーー。
「ただいまー!」
階段の手すりをぎゅっと握った時、相変わらず元気な声が玄関から響いてきた。
学校が終わって疲れているはずなのに、本当に相変わらず明るくて、相変わらず幸せそうで……相変わらず羨ましい。
「おかえりなさい日彩。もうすぐご飯できるから、手洗いうがいしておきなさいよ」
母が背後でそれだけを言い残し、さっさと台所へ戻っていく。はーい、とこれまた陽気な声を弾ませながら、鞄に付けた学業御守の鈴の音が、ちりんちりんと近付いてきた。
「わ、びっくりした。どうしたのお姉ちゃん? そんなところで立ち止まって」
階段手前は死角になっていて存在を確認できなかったのか、私を見つけるや否や、大きな目がわざとらしく更に開く。
そんな表情も可愛らしい。
いいな。どうして同じ血が流れているのに、こんなにも違うのだろう。
「……日彩は幸せそうでいいよね」
黒いモヤの掛かった言葉が、口という煙突から溢れ出した。
そこでハッと我に返る。何でもない、とでも言ってそそくさと部屋に戻ればよかったんだ。
でもそれより早くに、彼女の言葉が返ってきてしまった。
「お姉ちゃんも、何事ももっと前向きに捉えたら幸せになれるよ!」
日彩は屈託のない笑みを浮かべて、私にそう言ったのだ。
私の汚い感情を纏った言葉を、皮肉とすら捉えず、どうすれば私が幸せに感じられるかを提案してしまう。その心の清らかさと、自分の醜さを無意識に比べてしまって、私はこのぶつけようのない感情を、どうしても内に留めておくことができなかった。
「日彩は本当にお気楽だよね……。そんなのだから、自分の悪いところにも気付かないのよ」
何がしたいのか、自分でもよく分からなかった。日彩を傷つけたいのだろうか。酷いことを言ってしまっている自覚はある。けれど、自分が受け止めきれなかった分の負荷を、誰かに押し付ける事しか、今の私には処理の仕方がわからなかったのだ。
日彩は一瞬瞳を揺らし、口角が下がる。ああ、日彩でもそんな表情をする事があるんだと思ったが、それは一瞬のことで、すぐに彼女は手札である様々な表情を展開させて見せた。
「うーん、確かにそれはそうだよね。前向きに捉えすぎるのも良くないけど、幸せを感じる一番の方法は、物事を前向きに捉えることだと思うよ! 私はもう少しダメなところも見直した方がいいけどね。教えてくれてありがとう!」
あはは、と軽く笑いのけてみせた彼女に、無性に腹が立った。
違う、そんなことを言って欲しいんじゃない。
ダメなところってどこだ。日彩のどこにダメなところがあるって言うんだ。日彩にダメなところがあるとするなら、私なんてダメなところしかないじゃないか。
目の前の笑顔を崩したくなった。傷つけたかった。傷ついて欲しかった。
……ううん、傷ついて、私と同じ気持ちをわかって欲しかったんだ。
「私は前向きになんて捉えられないよ。幸せにだってなれない。日彩と私は違うんだから。私は日彩みたいに明るくないし、賢くもない。フレンドリーでもないし、強くもない。なりたくてもなれない……私は一生変われないの!!」
腹の奥底から湧き出る黒い泉が、どんどんいっぱいになって、氾濫のラインを超え、洪水になる。
大きな声となって日彩を呑み込んだ。
私の目論みはおおよそ叶った。日彩は傷ついていたと思う。今までに見たことも無いような悲しい表情を浮かべ、次第にそれは怒りにシフトしていた。
「お姉ちゃんが前向きに捉えたら良いだけじゃん! そんなの簡単に変えられるじゃん!」
日彩は私の数倍以上に声を張り上げる。悲しみと、苦しみと、怒りの合わさった、綺麗に通る声だった。
氷のような廊下が、つま先をどんどん蝕んでくる。
簡単に変えられる? 変えられるわけがない。変われるものなら今すぐ変わりたい。こんな自分、やめてしまいたい。
そう反論しようとするも、彼女の口は止まらなかった。
「人生一度きりなんだから、やりたいこと沢山やって、直したい部分は直していけばいいじゃん! 今は今しか来ないんだよ!? 変わりたいなんて口だけ。本当は一切変わる気も勇気もないから動けないだけなんでしょ!? だから行動にはしないんでしょ!? いつまでも言い訳ばっかりして可哀想な自分に酔って……ネガティブに浸るな!」
日彩は私を押しのけるように階段を駆け上がっていった。制服の袖で涙を拭う後ろ姿が残像として残る。
私は何も言えなかった。だって日彩の言ったことは全て正しかったから。
変わりたいと願って、私は何か自ら行動に移してみただろうか。ただ自分と日彩を比較して、日彩を羨んで、勝手に八つ当たりして。
可哀想な自分に酔っているとは、正にその通りだ。
それでも私の曇った感情は晴れなくて、ただ胸の中で助けを求める。
あれだけ酷い言葉をぶつけてみても、何もスッキリしない。加えて図星まで言われてしまう始末。
「もう嫌だ……」
自分なんて大嫌いだ。
どうしようも無い感情の暴走の行き着いた先は、彼女を傷つけた後悔しか残らなくて、私はまた自分に負荷を抱き締めさせたのだった。
一度力を抜いた体は鉛のように重く、膝をがくがくと震わせていた。
毎年体育の授業である持久走でも、これだけ長時間長距離を走ったことがない。日彩に比べると少しは運動ができる方だが、それでも一般的に見ると体力は無い方である。
それがいきなり酷使されたのだ。一歩一歩がたどたどしく、肩を使っての呼吸が収まらないのも無理はない。
ずっと流れていく地を見つめていた。時折塀にぶつかりながらも、なんとか良く知る扉の前に立つ。
震える手で鞄のチャックを摘み、鍵を取り出して差し込んだ。
扉を引く力も弱く、ガチャっと小さく金属が擦れる音を立てて、中に入った。天井にある電球が、私という存在を感知して光を注ぐ。
足元に現れた真っ黒な私が、私をじっと見つめている気がした。
弱い奴だと、指を差されながら笑われている心地になり、思わずそれを靴で踏み潰して家に上がる。
「あら永遠、帰ったなら一言声くらい掛けなさいよ……って、どうしたの?」
母がエプロン姿で、心配そうな表情を向けてきた。
無理もない。無理もない。
ただ自分に言い聞かせる。全速力で天然の冷たいドライヤーに当たった酷い髪と、頬に浮かぶ枯れかけの川の跡、真っ赤になっているであろう鼻や耳、ミイラのように震えた手足と、上下に揺れる肩。
「……ううん。大丈夫だよ」
何が大丈夫なのだろう、と口に出してから考える。だがその答えは見つからない。最早その問いすらどうでも良い。
私は母から体の向きを遠ざけ、二階にある自室へ向かおうとした。
『もうすぐ死ぬ』
突然、今朝の夢の映像が頭をよぎる。
どうして今日はこんなにもついていないのだろう。朝からおかしな夢を見て、日彩の凄さを思い知らされ、記憶の奥にしまっていた人物と再開していたことがわかって。
挙句の果てに、好きだったからと。
今日一日に私が抱えられる負荷の量は優に超え、ばらばらと腕の中からこぼれ落ちた。
やめて、これ以上私を追い詰めないでーー。
「ただいまー!」
階段の手すりをぎゅっと握った時、相変わらず元気な声が玄関から響いてきた。
学校が終わって疲れているはずなのに、本当に相変わらず明るくて、相変わらず幸せそうで……相変わらず羨ましい。
「おかえりなさい日彩。もうすぐご飯できるから、手洗いうがいしておきなさいよ」
母が背後でそれだけを言い残し、さっさと台所へ戻っていく。はーい、とこれまた陽気な声を弾ませながら、鞄に付けた学業御守の鈴の音が、ちりんちりんと近付いてきた。
「わ、びっくりした。どうしたのお姉ちゃん? そんなところで立ち止まって」
階段手前は死角になっていて存在を確認できなかったのか、私を見つけるや否や、大きな目がわざとらしく更に開く。
そんな表情も可愛らしい。
いいな。どうして同じ血が流れているのに、こんなにも違うのだろう。
「……日彩は幸せそうでいいよね」
黒いモヤの掛かった言葉が、口という煙突から溢れ出した。
そこでハッと我に返る。何でもない、とでも言ってそそくさと部屋に戻ればよかったんだ。
でもそれより早くに、彼女の言葉が返ってきてしまった。
「お姉ちゃんも、何事ももっと前向きに捉えたら幸せになれるよ!」
日彩は屈託のない笑みを浮かべて、私にそう言ったのだ。
私の汚い感情を纏った言葉を、皮肉とすら捉えず、どうすれば私が幸せに感じられるかを提案してしまう。その心の清らかさと、自分の醜さを無意識に比べてしまって、私はこのぶつけようのない感情を、どうしても内に留めておくことができなかった。
「日彩は本当にお気楽だよね……。そんなのだから、自分の悪いところにも気付かないのよ」
何がしたいのか、自分でもよく分からなかった。日彩を傷つけたいのだろうか。酷いことを言ってしまっている自覚はある。けれど、自分が受け止めきれなかった分の負荷を、誰かに押し付ける事しか、今の私には処理の仕方がわからなかったのだ。
日彩は一瞬瞳を揺らし、口角が下がる。ああ、日彩でもそんな表情をする事があるんだと思ったが、それは一瞬のことで、すぐに彼女は手札である様々な表情を展開させて見せた。
「うーん、確かにそれはそうだよね。前向きに捉えすぎるのも良くないけど、幸せを感じる一番の方法は、物事を前向きに捉えることだと思うよ! 私はもう少しダメなところも見直した方がいいけどね。教えてくれてありがとう!」
あはは、と軽く笑いのけてみせた彼女に、無性に腹が立った。
違う、そんなことを言って欲しいんじゃない。
ダメなところってどこだ。日彩のどこにダメなところがあるって言うんだ。日彩にダメなところがあるとするなら、私なんてダメなところしかないじゃないか。
目の前の笑顔を崩したくなった。傷つけたかった。傷ついて欲しかった。
……ううん、傷ついて、私と同じ気持ちをわかって欲しかったんだ。
「私は前向きになんて捉えられないよ。幸せにだってなれない。日彩と私は違うんだから。私は日彩みたいに明るくないし、賢くもない。フレンドリーでもないし、強くもない。なりたくてもなれない……私は一生変われないの!!」
腹の奥底から湧き出る黒い泉が、どんどんいっぱいになって、氾濫のラインを超え、洪水になる。
大きな声となって日彩を呑み込んだ。
私の目論みはおおよそ叶った。日彩は傷ついていたと思う。今までに見たことも無いような悲しい表情を浮かべ、次第にそれは怒りにシフトしていた。
「お姉ちゃんが前向きに捉えたら良いだけじゃん! そんなの簡単に変えられるじゃん!」
日彩は私の数倍以上に声を張り上げる。悲しみと、苦しみと、怒りの合わさった、綺麗に通る声だった。
氷のような廊下が、つま先をどんどん蝕んでくる。
簡単に変えられる? 変えられるわけがない。変われるものなら今すぐ変わりたい。こんな自分、やめてしまいたい。
そう反論しようとするも、彼女の口は止まらなかった。
「人生一度きりなんだから、やりたいこと沢山やって、直したい部分は直していけばいいじゃん! 今は今しか来ないんだよ!? 変わりたいなんて口だけ。本当は一切変わる気も勇気もないから動けないだけなんでしょ!? だから行動にはしないんでしょ!? いつまでも言い訳ばっかりして可哀想な自分に酔って……ネガティブに浸るな!」
日彩は私を押しのけるように階段を駆け上がっていった。制服の袖で涙を拭う後ろ姿が残像として残る。
私は何も言えなかった。だって日彩の言ったことは全て正しかったから。
変わりたいと願って、私は何か自ら行動に移してみただろうか。ただ自分と日彩を比較して、日彩を羨んで、勝手に八つ当たりして。
可哀想な自分に酔っているとは、正にその通りだ。
それでも私の曇った感情は晴れなくて、ただ胸の中で助けを求める。
あれだけ酷い言葉をぶつけてみても、何もスッキリしない。加えて図星まで言われてしまう始末。
「もう嫌だ……」
自分なんて大嫌いだ。
どうしようも無い感情の暴走の行き着いた先は、彼女を傷つけた後悔しか残らなくて、私はまた自分に負荷を抱き締めさせたのだった。