金曜日の夕方、バスを待っていると、大きなバッグを手にした坂田がやってきた。坂田はたくさんの洗濯物を持って、墨田区の両親の家に帰ろうとしていた。バスと電車を乗り継いで三鷹駅につくまで、僕は坂田といっしょに過ごすことになった。
「クラシック音楽のことだけどな、おれにも少しはわかるような気がしてきたぞ」
 電車の中でとうとつに、坂田が意外なことを口にした。しばらく前に坂田と話し合ったとき、クラシックには興味がないと聞かされたばかりだった。
「たった1週間でえらい変わりようだな」
「試聴用のCDの中にいいのがあるんだよ。試作中のアンプで聴いてみて、クラシックも案外いいものだと思ったよ。ラジカセで聴いてもわからないのかな、クラシックの良さというのは」
 寮の自分の部屋でクラシック音楽を聴いてみたいので、ボーナスが出たらオーディオ装置を買うつもりだ、と坂田は話した。初めてのボーナスが支給される日が近づいていた。多くのボーナスを期待できない新入社員だったけれども、僕たちにはそれが待ちどおしかった。
 クラシック音楽に興味を覚えたらしい坂田に、1週間ほど先の演奏会のことを話すと、坂田は僕といっしょに演奏会に行きたいと言いだした。入場券が手に入るかどうか分からなかったが、プレイガイドへ寄ってみるという坂田に、演奏会の名称や演奏曲目などを書いたメモ用紙を渡した。

 毎日のように資料や文献を自宅に持ち帰り、翌日の朝がつらくなるとわかっていても、夜おそくまでそれを調べた。仕事に熱中するそんな日々を過ごしながらも、佳子との週に1度のデートを欠かすことはなかった。
 そのようなデートをした土曜日に、佳子が僕の家を訪ねたいと言いだした。佳子がかけてきた電話に母が応じることも多かったから、母と佳子は以前から声を交わしていたことになる。親しく言葉を交わしてきたのだから、そろそろ会ってもよいではないか、と佳子は言った。いきなり聞かされた要望だったが、佳子の気持ちを思ってすぐに同意した。
 僕は佳子を家に連れてくることを母に伝えた。佳子のことを母に話したのは、それが初めてだった。佳子からの電話を取り次ぐことがあっても、母が佳子について問いただすようなことはなかったのだが、強い関心を抱いていたに違いなかった。
 母が言った。「急な話だけど、だいじょうぶ、明日の日曜日は、他に予定がないから」
「ごめん、勝手に決めてしまって。ケーキを作ってくれるとありがたいけどな」
「そう・・・・ケーキね。どんなのがいいだろうかね」母はうれしそうに言った。
 次の日の午後、車で佳子を迎えに行った。待ち合わせ場所は三鷹駅だった。
 助手席の佳子はどことなく心もとなさそうで、口数もいつになく少なめだった。佳子の気持をほぐしてやるために、僕は母のことを話した。母が佳子の訪問を喜んでいること。自慢のケーキで佳子を歓迎しようとしていること。僕がそのような努力をしても、佳子が冗舌になることはなかった。
 父と兄は午前中にでかけたので、家で待っていたのは母だけだった。
 居間に入るとすぐに僕はテレビをつけた。くつろいだ雰囲気を作るためにも、話題を見つけるためにも、テレビをつけておいた方が良さそうな気がした。
 緊張気味だった佳子がようやくうちとけてきた頃、母がケーキを運んできた。ふだんは緑茶しか飲まない母が、ケーキとともに出してきたのは紅茶だった。
 佳子の前にケーキを押しやりながら母が言った。
「こんなものを作ってみたけど、どうかしらね。滋郎が言うには、杉本さんにはこれがいいだろうって」
 ケーキのことが話題になった。母はそのケーキの作り方を佳子に教えはじめた。佳子の気持をほぐすための、母の気づかいに違いなかった。
 母をまじえて話し合ったあと、佳子の好きなショパンを聴くために、僕の部屋に佳子をつれて入った。
 僕たちは壁ぎわに敷いた座布団に腰をおろすと、スピーカーに向かって足を投げだした。
「もう少しで1年半ね、私たち」
 スピーカーに向ったままで佳子が言った。幻想即興曲が始まったところだった。
「おれは、あのときから何年も経ったような気がするよ。そんな気がしないか」
「そう言えばそうね、私もそんな気がする。どうしてかしら」
「いろんなことがあったからだろうな。しかも、大きなできごとが」
「ほんとにそうね。こうして滋郎さんの家に来ることもできたし」
 佳子がそっと僕の膝に手をおいた。その手をとって引きよせると、佳子は無言のまま軽く握りかえした。幻想即興曲はアレグロの部分が終わって、甘美なメロディに移ろうとしていた。