絵里のしぐさはひかえめだった。おずおずと僕に応える絵里が、このうえなくいとおしく思われた。僕は絵里を抱きしめた。絵里は僕に腕をまわしていたが、その手は少しも動かなかった。
 僕は顔をはなして絵里を見た。絵里がそっと眼をあけた。かすかな光の中で僕を見ていた絵里が、ふいに体を起こそうとした。僕は絵里の背中をささえて起こしてやった。
 僕たちは体を寄せ合って、ささやくような声で話した。絵里の抑えた声が幸せな想いを伝えてきたが、その口数はむしろ少なくなった。 絵里の肩に腕をまわすと、絵里は体をあずけるように傾けてきた。絵里の手を握ると砂がついていた。砂の付着した手の感触を、なぜかとても新鮮なものに感じた。その感触を確かめるようにもういちど握ると、絵里もそれに応えて握りかえした。何かに遠慮しているかのように、絵里のしぐさはやわらかく、そしておずおずとしていた。
 穏やかにくりかえす波の音にまじって、坂田と綾子の声が近づいてきた。絵里の手をはなして立ちあがると、坂田と綾子の姿が影のように見えた。
 絵里がしづかに立ちあがり、僕の横にならんだ。背中についた砂をはらい落としてやると、絵里はささやくような声で「ありがとう」と言った。
坂田の声が伝わってきた。「遅くなったな。そろそろ帰ろうか」
 その呼びかけに僕は声を返した。浜辺の静寂を破ったその声は、夜気のかなたへ瞬時に消えた。僕は絵里をうながし、坂田たちに向かって歩きだした。
 懐中電灯の明かりをたよりに、僕たちは旅館への道をたどった。街灯のある道に入ってから、並んで歩く絵里のようすをうかがった。快活に話している絵里の表情は、海岸へ向かった時と変わらなかった。僕もまた、自分でも不思議に思えるほど、何ごとも無かったかのように振る舞っていた。坂田と綾子の二人にも、変わったところは見られなかった。
 僕たちが旅館に着いたときには、予定していた時刻を1時間ちかくも過ぎており、部屋にはすでにふとんが敷いてあった。
 急いで風呂に入ってから、一つの部屋に集まって話し合った。絵里はひときわ快活だった。僕もまた浮かれたようにふるまっていた。坂田と綾子はそしらぬ顔をしていたけれども、僕と絵里のそのような変化に気づいていたことだろう。
 話し合いが終わるとすぐに、絵里たちは部屋を出ていった。坂田との会話はしばらく続いていたが、間もなく灯りを消して寝床に入った。
 寝床に身を横たえて眼をつむると、その時を待っていたかのように、浜辺での絵里とのことが甦ってきた。淡い光の中でも一瞬光った絵里の瞳が、そして、心のうちの喜びを伝えてきた絵里のしぐさと絵里の体の感触が、なまなましい程にはっきりと思い出された。
 甘美な想いにふけっていると、胸の奥からいきなり佳子が現われた。佳子は悲しみにうちひしがれていた。佳子がいたわしかった。佳子をしっかりと抱き締めてやりたかった。佳子を悲しませるようなことをしたくないと強く思った。
 急速にひろがり始めた不安の中で、佳子に対する気持ちを考えてみた。考えるまでもなかった。いつにも増して佳子をいとおしく思った。それならば、絵里は自分にとってどんな存在だろう。そのこともまた、考えるまでもないことだった。絵里もまた僕の心のなかに座を占めていた。それどころか、絵里は始まったばかりのときめく想いの中にいた。不安な想いが次第につのり、いつまでも寝つけなかった。
 つぎの朝、無邪気なほどに明るい絵里の笑顔が僕を迎えた。喜びに輝く絵里の瞳はうれしかったが、たちまち佳子のことが思いだされて、前夜からの思案の流れに引き入れられた。絵里の期待に応えてやりたいと思う気持ちと、それを抑えなければならないという意識が、僕に不安と混乱をもたらしていた。僕はそのような不安を抱えたまま、明るくふるまう絵里と向き合うことになった。
 時間にゆとりがあったので、ゆったりと準備を整えてから旅館を出た。その日は朝から曇っていたが、まだ雨の心配はなさそうだった。
「どうしたんだ、松井。今朝はいやに静かだな」車を運転していた坂田がいきなり声をかけてきた。
 浜辺での絵里とのことを思い返していた僕は、その声に応じて口をひらいた。
「俺たちはついていたな、天気が良くて」
「それじゃ、運が良かったことを神様に感謝してくれ、お前が代表して」
 坂田はそのまま口を閉じた。絵里と綾子が天候に恵まれたことを話題にしはじめた。僕の意識はふたたび絵里に向かった。うしろの席から僕を見ている絵里の心のうちを想った。絵里はどのような気持ちで、昨夜のことを思い返しているのだろうか。今朝の絵里はとても幸せそうだ。絵里をもっと幸せな想いにしてやりたいけれど、そんなことをしていたならば、佳子との仲がおかしくなるにちがいない。佳子を悲しませるようなことはしたくない。これから自分はどうしたらよいのだろうか。
 車を神域わきの駐車場におき、参道を歩いて神殿に向かった。僕には3度目の参拝だった。宗教心という程のものを持たない僕も、神域のかもしだす雰囲気につつまれると、さすがに少しは厳粛な気分になった。
 本殿の前で写真を撮ることになり、坂田が三脚にカメラをセットした。セルフタイマーをセットしている坂田を見ていると、不意に浜辺での絵里とのことが思いだされた。
 シャッターがおりそうになったとき、絵里が体をよせてくる気配がした。絵里の気持ちを推し量りつつ、絵里との交際のゆく末を思った。
 細長くつらなった建物の前で綾子が言った。
「ここは神様のアパートみたいね」
 僕は出雲の神在月について話した。陰暦の神無月には全国の神々が出雲に集まるというので、出雲ではその月を神在月と呼ぶのだが、意外にも坂田はそれを知っていた。
「そういうことなら、この建物はやっぱり、出雲に来た神様たちが泊まるホテルかも知れないわね。だけど」と綾子が言った。「神無月とか神在月という呼び方、誰が最初に考えたのかしら」
「そうだよな、全国の神様をここに呼ぼうとしても、断られたらそれっきりだしな」
「ほんとだ、坂田。おもしろいぞ、それは。出雲の神在月ってさ、日本中の合意があったわけだろ。どうやって合意を取りつけたんだろう」
「朝廷かどっかが決めたんじゃないのかな」
「だったら、出雲じゃなくて、奈良か京都に神様を集めてもよかったんじゃないかしら」と絵里が言った。
「出雲風土記っていうのがあるよな。そこにでも書いてあるんじゃないのかな、そのいきさつが」と僕は言った。「おれはその中身を知らないけどさ」
 出雲風土記という古い書物にどのようなことが記されているのか、4人のうちにそれを知る者はなかった。
 それからおよそ1時間が経ったころ、僕たちは坂田が運転するレンタカーで出雲市へ向かっていた。
 レンタカーを返してから出雲市駅に行くと、特急やくもが発車するところだった。
 次の特急やくも号は1時間後だった。僕たちは切符を買ってから駅を出て、隣接するデパートに入った。大社町の店でみやげ物を買った絵里と綾子は、そのデパートでも買物をした。彼女たちが用事をすませてから、デパートの食堂で昼食をとった。4人ともに、出雲のわりご蕎麦を選んだ。時間に追われながらの食事をおえて、僕たちは駅に向かった。
 座席指定券の2枚は隣り合った座席のもので、あとの2枚は互いに離れた席のものだった。絵里とふたりだけになることを避けたかったので、隣り合った座席を坂田と綾子にすすめた。出雲市駅が始発の特急やくもは、座席の多くが空席だった。不安な気持をかかえたまま、僕は絵里のとなりの席に腰をおろした。
 絵里は快活に話しかけ、明るく笑いながら体をよせてきた。絵里が見せはじめたそのような振る舞いはうれしかったし、絵里の体が触れるたびにときめくような想いがしたけれども、その一方で、僕の不安はますます強まっていた。絵里との会話のあいまに佳子のことを思った。佳子を悲しませるようなことはしたくないと思った。