西の空には夕焼けの色がまだ残っていたが、夕闇が辺りをおおいはじめた。海面はすでに暗くなり、水平線に近い辺りだけがきらめいていた。
「あ・・・・もう星が出ている」
 綾子の声で眼をやると、星がひとつ光っていた。空のどこをさがしても、見える星はまだひとつだけだった。空はよく晴れていた。数年前に眺めたきれいな星空が思い出された。
「このあたりでは、夜になると満天の星って感じになるんだ。天の川だってはっきり見えるしな」
「すてきじゃない、満天の星と天の川」絵里が声をあげた。
 絵里の希望に同意して、その夜はみんなで星を見ることにした。そのためにはひとまず旅館に帰り、食事をすませる必要があった。
 車の場所に向かいながら空を見わたすと、わずかな間に星がふえていた。拡がりはじめた雲はまだ西の空にとどまり、その夜のきれいな星空を予告していた。絵里と眺める夜空を想像していると、甘美な予感が胸を満たした。並んで歩いている絵里にその想いを伝えたかった。絵里をいとおしく想うとともに、その想いを抑えようとする僕の感情。互いに絡み合い、心の奥に留まっていたその想いが、すき間を見つけて流れ出ようとしていた。その力に押し流されつつあった僕には、流れの行きつく先が見えなかった。
 坂田と僕そして絵里と綾子のために、ふたつの部屋をとっておいたが、そのうちの一部屋に、4人分の食事が用意されていた。思いのほかに豪華な食卓だった。
 絵里がうれしそうな声をあげた。「こんな旅館に泊まってこんな食事をするなんて、すっかり感激だわ、わたしは」
「我らの旅の記念すべき最後の晩餐だからな。いい思い出になるよな、これも」
「この旅行を考えてくれた絵里さんと綾子さんに、お前と俺は感謝しなくちゃな」僕は坂田にビールを注ぎながら言った。「いい妹がいて幸せだぞ坂田」
「いい兄がいて幸せな妹ってとこね、わたしは。こんな旅行をしてみたいと言ったら、兄さんのおかげで実現できたんだもの」
 絵里の声がはしゃいでいた。僕は絵里にビールをついだ。絵里の視線を感じて顔をあげると、ビールを受けながら絵里は僕を見ていた。見つめ合った束の間に、僕も気持を絵里に伝えた。ときめく想いがわきあがり、幸福感が胸に拡がった。
 食事をおえて間もなく、僕たちは星を眺めるために旅館をでた。少なかったとはいえビールを飲んでいたので、車を使うことはできなかった。旅館からはかなりの距離があると聞かされたけれども、僕たちは海岸まで歩いて行くことにした。
 まだ宵の口といえる時刻だったが、街には騒音と呼べるほどのものはなかった。にぎやかな4人づれは目立ったことだろう。
 海に近づくにつれて人影は減り、歩いているのは僕たちだけになっていた。旅館で借りた懐中電灯で坂田が道を照らした。
 夕日を眺めた場所のあたりで、僕たちは暗い海に面して腰をおろした。絵里と綾子を内側にして、僕と坂田が両側にならんだ。僕の左が絵里だった。
 冷えた砂がここちよかった。夜の浜辺とは思えないほど、波がくだける音は穏やかだった。細くてするどい月が孤独に光り、星空のアクセントになっていた。月明かりとは呼べないほどに淡いその光が、砂浜をほの白く見せていた。
 僕は砂に寝そべった。星空が視野いっぱいに拡がった。絵里と綾子が、そして坂田も、僕に続いて仰向けになった。
 暗さになれた眼に天の川がはっきり見えた。絵里が感嘆の声をあげた。誰のものでもないその星空を、絵里に見せて自慢しているような気持になった。
 静かな夜の砂浜で、僕たちは声高に話した。いつもの生活の場から遠く離れて、いつものことを忘れる場所だった。夜の砂浜、満天の星、そして砂の感触。僕の横には絵里がいた。
「ねえ、少し歩いてみない」と綾子が言った。
「それもいいな。どうする松井」
「いいじゃないか、行ってきなよ」胸にさざなみを立てながら僕は言った。「おれは疲れたからここで待っている」
「私も疲れたから・・・・私もここに居ることにする」
 期待した通りの絵里の言葉だった。胸のさざ波がうねりはじめた。
 坂田と綾子はすぐに立ちあがり、波うちぎわへ向かって歩いていった。ふたりの足音は聞こえず、遠のいてゆく二人の声に、それまでは気にとめずにいた波の音がかさなった。
 空気がにわかに密やかになり、声高には話せなくなった。絵里とふたりになれて嬉しかったが、心の奥には不安があった。言葉をえらびながら話している自分の声が、我ながらぎこちないものに聞こえた。絵里の口調もゆるやかになり、その声はささやくように低くなった。
 僕は絵里の気持ちに応えたくなった。絵里はそれを待っているのだ。絵里の期待に応えてやりたい。今はまさにそのときなのだ。気持ちがそこまで高まったとき、いきなり心の隅に佳子が見えた。絵里に対する想いを口にだそうとしていた僕は、急いでそれに代わる言葉をさがした。
「綾子さんって、坂田にぴったりじゃないか」
「そう思うでしょ、やっぱり」と絵里が言った。「演奏会の帰りに話してくれたわね、新幹線に乗ったときに、隣の人と話をするのはどんな場合かって。兄さんたちは最初からうまくいったみたいね」
 絵里のその言葉を聞いて、僕はますます絵里の期待に応えてやりたくなった。
 自分の気持ちを表わす言葉が見つからないまま、僕は絵里の言葉を引きつぐようにして言った。
「棚から荷物を落とす方法・・・・試してみなかったのか」
 絵里は無言のままに体をおこし、ゆっくりと立ちあがった。絵里の無言を気にしつつ、僕は絵里の横にならんで立った。
 遠くの方にライトがあって、明かりの中に坂田と綾子らしい姿があった。静かな夜の浜辺だったが、彼等の声はとどかず、ここちよい風の中には穏やかな波の音だけがあった。絵里のシャツがほの白く見え、その肩先では髪が揺れていた。
 絵里は腰をおろすと、冷たい砂が心地よいと言いながら、手のひらを砂に押しつけた。僕が砂に腰をおろすと、それを待っていたかのように、絵里はゆっくりとした動作で身を横たえた。
「こうしていると、なんだかとても気持ちいい。このままずっとこうしていたい」
 つぶやくような絵里の声にうながされ、僕も砂の上にあお向けになった。
 星空を眺めながらの会話がふたたび始まった。絵里は短大時代の友人のことを話した。絵里の気持ちをはかりかねたまま、僕たちに関わりがあるとは思えないその話題につき合った。
 心なしか絵里の声が憂いをおびたものになり、口調には淋しさがやどりはじめた。無意味なことを話してはいられないと思った。絵里の気持ちに応えてやらなければならないのだと、何者かにけしかけられているような気持になった。
「あの演奏会で初めて会ってから、まだ二ヵ月も経っていないよな。こうしていると、不思議な気がしないか」と僕は言った。
「不思議というよりも、私はこうして星を見ていることが、なんだか夢のような気がする。松井さんと二人だけで・・・・こんな砂浜で・・・・」
 絵里のふるえる声が僕をゆさぶった。僕は体をおこして絵里を見た。絵里の表情はわからなかった。さらに顔を近づけると、絵里の息づかいを感じた。絵里は眼をとじていた。かすかな光の中で絵里がさびしげに見えた。そんな絵里がさらに僕をひきつけた。気配を感じた絵里が眼をあけた。絵里は大きく開いた眼をふたたび閉じた。僕は絵里にそっとキスをした。