僕にはつき合っている女がいるということを知って、絵里はむしろ気楽に僕に接することができたのかも知れない。絵里は内気な性格に見えたが、その日ははじめから、思ったよりもうちとけた態度を見せていた。そのわけがわかったような気がした。
「そうだろな、たぶん。一般論的にどうとかいうことは、少しも考えなかったからな」
 絵里がうなづいたのを見て僕は続けた。「もしかすると、僕のようなのは一般論的には対象外じゃないのかい」
「でも結果的には松井さんを好きになった人が現われたわけでしょう」
「そうか、やっぱりおれって一般論的じゃないんだ」
「ですけど、松井さんってすてきですよ」絵里はにこやかな笑顔を見せて言った。
 絵里にしてはずいぶん大胆な言葉だと思った。同時に僕はここちよくくすぐられたような気持になった。
「僕のことはもういいよ。それよりも、絵里さんがボーイフレンドを見つけるための方法を考えようよ」
「教えてもらえるとうれしいですけど」絵里が再びにこやかな笑顔を見せて言った。「どうしたらいいんでしょう、早く見つけるためには」
 コーヒーカップを口にはこんだ絵里は、唇をかるく触れただけですぐにそれを離した。僕はそんな絵里を見ながら、絵里のために役に立ちそうな話をしてやろうと思った。
「だいぶ前に新聞か雑誌にでていた話なんだけどな、これは。東京駅で新幹線に乗ってから、隣り合った乗客どうしがどんな会話をするのか調べたんだよ。大学の心理学研究室だったと思うけどな、それをやったのは」
 僕がいきなり話題を変えたので、絵里はとまどったような表情を見せた。
「調べてみたらわかったんだよ、どんな条件があれば乗客どうしで話をするかってことが。それがどんな場合なのか想像できるかい」
「そうねえ・・・・・・私が新幹線に乗ってる場合を想像して・・・・」
 絵里は手にしたコーヒーカップに眼を落とし、ほんのしばらく考えてから言った。
「酔っぱらった隣の人から話しかけられたり・・・・棚にあげようとした荷物を落してあやまることだってあるけど、そういうのとは違うわよね、いくらなんでも」
 絵里をからかうような口調で僕は言った。「絵里さんって、案外おもしろいことを想像するんだな」
「想像だったらいいけど、誰かさんが、ほんとに荷物を落とした話なのよね、これって」
 その言い方がおもしろくて僕が声にだして笑うと、絵里自身もおかしそうに笑った。すっかりうちとけている笑顔だった。
「教えてあげようか」と僕は言った。
「その条件ってむつかしいものですか」
「そうなんだ、むつかしいんだよ。だから隣どうしで話をするのはめずらしいんだ」
「そうね、ずっと並んでるのに、話なんてしないわね」
「隣り合ってる人のどちらかが、先に座席についているわけだよな。そこへ隣の人がくるわけだ。それでさ、1分以内にどっちかの人が隣へ声をかければいいんだよ。ちょっと声をかけるだけでいいらしいよ。そうするとだよ、それから後で互いに話をすることがあるんだってさ。隣り合ってから1分以上も話をしない場合には、大阪までお互いにひと言もしゃべらないそうだよ」
「そういうことだったの。そう言われてみれば、わかるような気がする、その話。おもしいことを研究するわね、大学の先生も」絵里は感心したように言った。
「案外とおもしろいよな、心理学の研究というのも。とにかく、そういうわけだからさ、男と女の間だって、出会ってから1週間なのか、あるいは半年なのかわからないけど、その間にきっかけを作ればいいと思うよ」
「あ・・・・・・やっとわかったわ。どうしてそんなことを話してくださるのかと思ったら、そういうことなの」絵里は明るい笑顔を見せた。「その話をもっと早く聞いておけば、ボーイフレンドができてたかも知れないわね。でも良かったわ、いま聞かせてもらったから、今後の参考にさせてもらいます」
「ずっと同じ職場で働いている人とどうにかなりたかったなら、変化を起こすようなことをしたらいいんじゃないかな。棚から荷物を落としたら会話が始まるんだからさ。今からでも間に合うよ、きっと」
「そうね、これからは最初がかんじんだって心がけときます。それでもうまくいかなかったら、荷物を落とすやり方をためしてみます」
 絵里はおどけたような口調で言った。僕たちは声を合わせて笑った。そんなときでさえも、絵里の笑い声は遠慮がちに聞こえた。絵里のやわらかいアルトの声と、つつましやかながらも明るい話しぶりが、その笑い声とともにとても好ましかった。
 演奏会からの帰りではあったが、僕たちは音楽についてはあまり話さなかった。絵里が音質の良いヘッドホンを買うつもりだと話したとき、ついでのように音楽のことを少しだけ話題にした。
 気がついたときにはずいぶん時間が経っていた。両親が心配しているかも知れないからと、絵里は店から自宅に電話をかけた。僕はテーブルについたまま、電話に向かっている絵里を見ていた。絵里の体がときどき小刻みにゆれた。絵里が話し終えるまで、笑いながら話している絵里の後ろ姿から眼を離すことができなかった。
 店を出たときには霧雨が降っていた。ふたりとも傘を持っていなかったので、地下鉄駅の入口を目指して懸命に歩いた。
「私は今までデートをしたことがないんです。だから、今日は私とデートをしたことにしてくださいね」息をきらしながら絵里が言った。
 息をきらしながらも、絵里は明るい笑顔を見せていた。絵里にいとおしさを覚えながら、その笑顔に向かって僕は答えた。
「もちろんデートだよ。今日のは最高のデートじゃないか」
「松井さんは、休みの日にはいつもデートするんですか」
「たまに会うだけだよ。せいぜい日曜日に会うくらいかな」
 佳子との親密な仲を知らせるべきなのに、僕はそのことを隠そうとした。そんな自分を意識して気持ちが少しかげった。
 地下鉄駅の改札口を入ったところで、僕たちは再会を約す言葉を口にして別れた。僕たちにはその日が二度目の出会いだったが、ふたりをつつむ雰囲気は、すでに親密なものになっていた。僕は心の隅でふわふわと揺れるものを抱えて家に向かった。
 家に帰り着くとすぐに自分の部屋に入った。家族の者としゃべったり、テレビを見たりするよりも、ひとりで静かにしていたい気分だった。
 腹ばいになって夕刊の見出しを追っていると、別れぎわに絵里が口にした言葉が甦ってきた。演奏会のことを感謝したあとで、絵里は「迷惑でなかったらですけど、ヘッドホンを買うときに、松井さんに相談にのってもらえたらと思って」と言った。僕は「遠慮しないでなんでも相談しなよ。迷惑だなんて少しも思わないから」と答えた。僕は思った。絵里はこれから、いろんな相談を持ちかけてきそうな気がする。あの笑顔で頼まれたなら、応じないわけにはいかないだろう。喫茶店でのひとときが、絵里の笑顔と声を伴って思いだされた。