「……幸子、……幸子」
翌朝は十夜に肩を揺り動かされて目覚めた。
「ん? ……十夜?」
「幸子、昨日は俺に付き合わせて寝不足にさせてすまなかったな」
……っ!!
弾かれたようにガバッと身を起こした。同時に昨夜の記憶も鮮明に蘇った。
「い、いえ!」
あまりの羞恥で私は顔から火が出そうだが、対する十夜は既に着替えも済ませてすっかり平常運転に戻っていた。
「俺がコーヒーを淹れておくから、幸子は着替えてくるといい」
「ねぇ十夜――」
「幸子、もういい時間だ。起きて、お茶屋を開けに行かねばならんぞ」
昨日の話を蒸し返そうと口を開いた私の言葉は途中、十夜によって意図的に断ち切られた。それは十夜からの、続く会話の拒絶。
「……うん! 『ほほえみ茶屋』を開けなきゃね」
けれど私は、十夜の言動を不満には思わなかった。だって今の私には、これ以上を望むべくもない。
十夜は今日も、『ほほえみ茶屋』を開けに行こうと言った。『ほほえみ茶屋』が、私の日常。
私の変わらない日常を、十夜が約束してくれる。
決断出来ずに悪戯に時が過ぎるのを待つばかり。そんな曖昧で宙ぶらりんの私には、これに甘える以外の手立てなどないのだ。
私は果たして後十年、悟志さんを待ち続けられるのだろうか。
悟志さんと十夜、せめぎ合う二つの想いに、心が押し潰されそうだった。


***


幸子の母親が訪れたあの日は、管理報告で天界にあがる予定になっていた。
けれど俺は、幸子と共に茶屋に残る事を選んだ。
それに対しては、欠片も後悔などしていない。けれど、もしかすれば近々に呼び出される事もあるかもしれないと予想はしていた。
ところが数日が経っても俺への呼び出しはなく、この上はもう何のお咎めもないのだろうと思い直していた。
ところが今日になって、管理者の統括役である仁王様から呼び出しが掛かった。
呼び出しは予想通りの事でもあり、それ自体はなんら特別なものではない。
しかしこのタイミングでの呼び出しというのはいささか腑に落ちず、向かう道中から嫌な予感がしていた。
違和感を抱えながらも、今更引き返す事も出来ず、俺は面談の席に向かった。そうして面談の席、俺を待ち構える人物を目にした瞬間、本気で三途の川に取って返そうかと思った。
何故、俺との面談の場に神威様が出てこられる!?
「十夜、久しいの。まぁ座ってくれ」
扉の前で無作法にも立ち尽くしたままの俺に、神威様は穏やかに微笑んで、向かいの椅子を指し示す。
内心の思いとは裏腹に、現実問題、俺がここから逃げ出す手段など残されてはいなかった。
俺はその場でひとつ息を吐くと、取り澄ました表情で神威様に頭を下げた。
「神威様、ご無沙汰しております。失礼いたします」
本来、管理報告の相手となるはずの仁王様は同席していなかった。
神威様と向かい合い、しばらくは形式通りの問答を繰り広げる。けれど本題がこれではない事など分かりきっていた。
案の定、一通り管理報告書を埋めた神威様は早々に書面を放り出すと、それまでとは打って変わった真剣な目を向けた。
「十夜、単刀直入に言う」
俺もまた、神威様から視線を逸らさなかった。
「其方の養う娘を、儂に預けてはくれぬか?」
あまりに予想外の神威様の言葉。俺は一瞬、返す言葉に詰まった。
「……何故、幸子を召し上げようとなさるのですか?」
問われた事に質問で返す無礼を、神威様は咎めない。
「あれの存在を不思議に思った事はないか? 人の身でありながら、何故あの娘は正気を保ったまま三途の川にとどまれる?」
そんな疑問は最初から持っていた。けれどその疑問に答えを求めれば、幸子との日常が崩れ去る。
だから俺に、幸子の存在を中央に問う選択肢など、初めからなかった。
最初の数年間、俺は中央からの追及に怯えて暮らしていた。幸子を留め置く事に異を唱えられるのではないか、幸子を連れていかれやしないか、そんな不安で戦々恐々としていた。
「ありません。幸子は、幸子です」
俺のはったりを神威様はどう思ったのだろう。神威様の目には、あるいは俺の虚勢とて、一目瞭然かも知れない。
「十夜、いかにも其方らしいな。其方のそういうところを儂は買っておるんじゃぞ」
神威様が俺に、好々爺とした笑みを向ける。
しかし直後、笑みは一転して険しく、引き締まったそれへと変わる。
「しかし十夜、あの娘をこのまま捨て置く事は、状況が許さなくなった。儂も実際に会うてみて分かった。あれは只人ではない。あれは我らと同じ、神の系譜に連なる者ぞ? あれは古の、我らの始祖に近い血を持つ女神ぞ」

予感はあった。けれどそれを神威様に指摘されれば、ストンと胸に落ちてきた。
「女神がいかに稀な存在か、其方とて知っておろう? 幸子は然るべき男神と番わせる事になろう。どちらにせよ中央で預かる必要が出てきたのだ」
承諾できる訳がなかった。
悟志という男の亡霊にすら、醜い嫉妬の炎を燃やす俺だ。
幸子が別の男と番うなど、容認できるはずもなかった。
「神威様、受け入れられません。たとえ神威様の申し出でも、幸子を預ける事は、容認出来ません」
「うぅ~む、……半ば分かっていたとはいえ、さて困ったのう」
神威様は心底困惑した様子で、腕組みして唸る。
神威様ならば、俺の同意など得ずとも、幸子一人どうこうするなど容易い。
けれど神威様はそれをしない。しかし俺の拒絶を受けて、この後、最高権力者はどうでるか……。
「そこをなんとか、この通りじゃ。考え直してはくれんかの?」
「……」
まさか下手に出られるとは思っておらず、一瞬虚を突かれたが、無言を突き通す。
「力技は、したくないんじゃがなぁ?」
「……」
脅しを掛けられても、無言を突き通した。けれど不快感は隠しようもなく、眉間に皺が寄った。
「いや、すまん。今のは嘘だ。儂はそんな無体な真似は好かん。……しかし、上級神の中には強硬な考えをする者も多いのは事実だ」
神威様は表情を引き締めると、低く告げた。
「神威様、俺はどんな条件を突き付けられても幸子を渡す事はできません」
「……ふむ、あいわかった。儂の方でも手を回してみよう」
それは俺と幸子を現状のままに置き、強硬手段をとろうとする上級神に対して手を回すと、そういう意味だろうか。
「さて、面談はこれで終わりだ。十夜、帰ってよいぞ」
話は平行線のまま、けれど神威様はあっさりと俺を解放した。
深く腰を折って礼をとり、神威様の御前を後にする。
「十夜」
まさに扉が閉まりかけたその時、神威様が呼び掛けた。
「愛おしい娘ならば、手放すでないぞ。守り通すと決めたなら、守り抜け。……おっといかん、今のは年寄りの戯言だ」

慌てて振り向けば、神威様の真摯な瞳とぶつかった。目が合った瞬間、神威様は柔らかに微笑んだ。
「ではな」
神威様の微笑みの残像を残し、扉が閉まった。
大天神という立場を考えたなら、あり得ぬ言葉。けれど確かに、告げられた言葉。
神威様の胸の内は、俺には想像もつかなかった。





三途の川に戻る道すがら、俺は視線を感じていた。
「用があるなら出てこい」
虚無の空間から現れたのは見知った二人だった。
「なんだ十夜、随分と威勢がいいな」
「上からの覚えがちょっと目出度いからって調子に乗るんじゃねえぞ」
どちらも同期にあたるが、我ら神に横の繋がりというものは無いに等しい。
「それで? 俺になんの用だ?」
二人は顔を見合わせると、ニヤニヤと厭らしい笑みを乗せ、気安い様子で俺の肩に腕を回してくる。
「……気安く触るな」
気色悪い二本の腕を、乱暴に払いのける。
「なんだよ、一番の出世頭は随分とツレねぇな」
役職を得られずいまだ中央で燻る同期は、早々に三途の川の管理者の役目を賜った俺を目の敵にしている。
三途の川の管理者は、神々全体で見ても上級の管理職だ。若輩の身にあっては異例の出世と言える。そして同期で役職を持つのは、いまだ俺一人だけだった。
「三途の川に使徒はいねぇし、魂だって三途の川に着いた時点じゃ、現世での没年齢を映してジジババばっかだからな。お前は外れクジで女日照りかと思ったんだがなぁ」
「婆連中の中から若い女見繕って、しっぽり懇ろにしてるなんてぇのは、想定外だよなぁ」
神という存在が皆、禁欲的な暮らしをしている訳ではない。
むしろ寿命や年齢に縛られない我々は、性には奔放といえる。情事の相手はもっぱら、補佐役の使徒だ。使徒はその名の通り、神がある場所に、補佐として存在する。
そうして死した魂も稀にその対象となるが、死した魂は三途の川を渡ればじきに魂の浄化が始まる。だから死した魂が相手という場合は、船の着岸直後にかどわかし、一時の情を分け合うという褒められたものではない行為だ。
「無駄話に付き合う暇はない。用がないなら俺は行くぞ」
難癖に付き合ってやる義理はない。俺は早々に去ろうとした。
「待てよ!」
再び腕を取られ、不快感に眉間に皺が寄る。
「お前が女神を囲っているという噂は本当か!?」
声高に叫ばれて、咄嗟に周囲に気を巡らせた。
幸運にもこの場には、愚鈍な同期ら以外の気配はなかった。
「おい十夜!」
「聞いてんのかよ!?」
煩わしく纏わりつく男達を神通力で弾き飛ばした。
「……俺は触るなと言わなかったか? お前たちに答えてやる義務はない」
弾き飛び、無様に尻もちをついて転がった二人を睥睨して告げる。
「ッテェ! テメェ、神通力を使いやがったな!?」
「チキショウ! 十夜テメェ、舐めくさりやがって!」
姦しく喚き立てる二人を残し、俺は今度こそその場を後にした。
「おい! 待てっ!」
表面上平静を装いつつ、内心では、既に幸子の存在が下級神にまで知れ渡っているのかと恐々とした。
取るに足らない下級神のちょっかいなどは、歯牙にもかけない。奴らには俺の結界を破る力はない。
けれど俺の居ぬ間に上級神が幸子を狙って来たら、そう考えれば体の芯から湧き上がる恐怖に震えた。
「逃げる気か!?」
背中に遠く男達のがなり声を聞きながら、幸子を失うかもしれない恐怖に俺は怯えていた。一刻も早く、幸子の元に戻りたかった。
俺は焦燥に急き立てられるように天界を後にして、三途の川へ、幸子の元へと急いだ。
同期の奴らばかりではない。昨今では神とは名ばかりで、神通力すら満足に使えぬ者がはびこっている。これは神々の世界にあって、最も憂慮されている事案だ。
何故、神の力が弱まっているか。それは簡単な事で、血が薄くなっているのだ。
太古の時代には男神と女神が当たり前に番い、子をなしていた。ところが時代の移ろいと共に段々と女神の出生数が落ちていった。
絶対数が圧倒的に少ない女神を宛がわれ、夫婦となれる男神は稀だ。あぶれた男神が使徒と番い子をなしても、生まれるのは男神ばかり。しかもその子は、半分しか神の血を受け継がない。
使徒とは神を補佐する役目であり、その本性は神とは異なる。
ちなみに死した魂とはその場限りの情事としかなりえず、そもそも子が出来る事はあり得ない。
このような事を繰り返すうち、純血の血は薄れ、太古とは比べ物にならぬほど神々の力は弱まった。
女神とは稀有なばかりでなく、純血の代名詞。
男神にとって、それも能力ある男神になればなるほど、幸子とは喉から手が出るほど欲しい存在なのだ。
「渡してなるものか!」
人だろうと、女神だろうと、幸子は幸子だ!
これまで当たり前に過ごしていた幸子との日常が、いかに得難く、いかに尊い物であったかを思い知る。けれど幸子が女神だったからといって、今更手放せる訳がない。
手放してやる、訳がない!
「幸子は、俺が守る!」
戦慄く拳をグッと握り締め、決意と共に遠ざかる天界を睨みつけた。

天界から帰宅して、逸る心のまま居間の扉を開けた。
居間に幸子の気配がある事は分かっていた。けれど実際に安らかな寝息を立てる幸子を目にして、まず感じたのは安堵。次いで、湧き上がったのは抑えきれない奔流のような情愛だった。
幸子は俺だけのもの! 渡してなるものか! そんな激情に突き動かされるまま、幸子をこの腕に抱き締めた。
腕に抱き締めた幸子は、柔らかで温かく、幸福の香りがした。
本気で今宵、幸子の身も心も俺のものにしてしまおうかと思った。悟志という過去の亡霊なんかより、俺が溺れる程に幸子を愛してやれる自信もあった。
けれど幸子の翳る瞳に、幸子の心の葛藤が透けて見えるようだった。いまだ幸子の胸に巣食う悟志の亡霊に、憎々しい思いが奔流のように吹き荒れる。
「幸子、お前は本当の俺を知らない……」
胸の内、醜い嫉妬の炎を燃やす俺を、幸子は想像すらしないだろう。
けれど幸子は知らなくていい。
腕に幸子を抱き締める僥倖は手放さぬまま、俺は狸寝入りを決め込んだ。
そうすれば俺の腕の中で、幸子は悟志を想って泣いた。
けれど漏れ聞こえる幸子の呟きから、悟志の亡霊がその立ち位置を低くし始めている事を知った。
幸子を抱き締めながら、俺は仄暗い笑みを浮かべていた。
やがて幸子の押し殺した嗚咽が止む。荒く早い呼吸が、ゆっくりと深いものへと変わる。
そっと覗き込めば、幸子は瞼を閉ざし、薄く開いた唇から微かな寝息を響かせていた。あどけない幸子の寝顔に、切ないほどの愛おしさが募った。
物言わぬ幸子の唇を、そっと啄んだ。