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霞む意識の中で、十夜の声を聞いた気がした。
次の瞬間、息堰き止められる苦しさと、私に圧し掛かる懸人さんの重みが、消えた。
「幸子! 無事かっ!?」
一気に肺に空気が流れ込む。私は盛大に噎せ込んで、苦しさにもんどりうった。
十夜が私を抱き起こし、しきりに背中を擦っていた。
「あぁ、幸子っ……幸子、よかった! ……よかったっ!!」
十夜に背中を擦られながら、どれほどそうしていただろう。
いまだ呼吸は荒く肩が上がっていたけれど、私は段々と落ち着きを取り戻していた。
「……十夜っ」
また十夜の温もりを感じられる事が、切ない程に嬉しかった。この温もりを手離したくなくて、縋る腕に力を篭めた。
「幸子」
十夜も私を抱く腕にキュッと力を篭めた。
苦しさじゃない、この瞬間の歓喜が、眦に新たな涙を滲ませた。
「……運命とは無情だね。どこまで巡っても、やはり私は永遠に幸福なゴールに行きつけない……」
十夜にしがみ付いたまま、目線だけ巡らせる。懸人さんは投げ飛ばされ、船壁を背に空虚に宙を見つめていた。
……今ならば分かる。懸人さんはいつも、一見すれば穏やかに笑っていた。けれどその瞳は過去に囚われて、今を映してはいなかった。
懸人さんはただ、過去の栄光に向かって微笑みを浮かべていたのだ。
「っっ、とにっ! 馬鹿をお言いじゃないよ!」
ピシャリと言い放ったのは、川から船縁にしがみ付くタツ江さんだった。
「っっと、どっこいしょっこらしょっ! そもそもね、幸福なゴールが用意されているなんて、ありゃしないよ! 神も人も、皆自分の未来は自分で切り拓くのさ! それが分からないから、お前さんはいつまでも貧しい心から脱却できないのさ!!」
十夜が慌てて手を差し伸べようとしたけれど、タツ江さんは盛大な水しぶきを散らしながら、自力で船に乗り上がった。
そうしてタツ江さんは一直線に懸人さんに向かうと、その横面を張り倒した。
「懸人、お前さんの両親がどれだけお前さんを想っていたか、分からない訳がないだろう!?」
「タツ江……」
私も十夜も、当の懸人さんまでもが、タツ江さんの勢いに圧倒されていた。
私の知る飄々としたタツ江さんとは、まるで別人を見ているようだった。
「両親や周囲の者がお前さんの嘆願に方々に手を尽くし、結果としてお前さんは阿修羅の道に落とされず、船頭のポストを宛がわれていたんだろうに。……だけどもう、ここまでだね。お前さんはやっぱり、最初から阿修羅の道に落とされて、魂の研鑽を積むべきだったのかもしれないね」
「ははははっ、今度こそ私は落ちるべきところまで落ちるのか。けれど私には似合いだろうよ? ははっ、ははははっ」
懸人さんの乾いた笑い声が、虚しく響く。
そんな懸人さんを、タツ江さんは目を細めて見下ろしていた。
「なぁに、心配おしじゃないよ。ここまで来たらどこまでだって、あたしが付き合ってやるさ? 懸人、今度こそ呪縛から、解き放たれる時さ。魑魅魍魎の跋扈する阿修羅の道にあっちゃ、そんな呪縛に思い悩む間もないだろうからね!」
「! は、ははっ! 阿修羅の道を共に行くと本気で言っているのか? ……タツ江、お前は昔から阿呆だ。いい加減に男を見る目を養え、目を覚ませ」
「なぁに、そんなのは分からんだろう? 阿修羅の道から還った時、お前さんは大化けしているかも知れないじゃないか」
阿修羅の道、それがどれ程の苦難を伴うものなのか、私は知らない。けれど同行を告げるタツ江さんに、悲壮感はなかった。
タツ江さんがまるで、後は任せろ、とでも言うように、私と十夜に向かって力強く頷いて見せた。
懸人さんはもう、何を言うでもなかった。ただ静かに、タツ江さんの腕に抱かれていた。
二人の体を、禍々しい光の渦が包む。……これが二人との、一旦の別れになる。
「三途の川で出合った懸人さんに『ほほえみ茶屋』が死者の魂に癒しと潤いを与えているって言ってもらえて、救われた気持ちがしました。懸人さんの言葉で、私という存在がこの地に赦された気がしたんです」
居ても立っても居られずに、私は懸人さんに語り掛けていた。伝えずにはいられなかった。
「……お前はどこまでもお目出度い思考をする。だけど私は、そんなお前が疎ましかったよ」
……疎ましい。懸人さんに、いいや、血を分けた兄に告げられた言葉が胸を抉る。
けれど、『ほほえみ茶屋』が『ほほえみ』を提供していると言ってくれたのもまた、懸人さんなのだ。
人の心は、一方向から見るだけが真実じゃない。どちらもが、懸人さんの真実だ。
「懸人さん、私、待っていますから。『ほほえみ茶屋』でまた、懸人さんとお茶を飲む日を待っています」
「ははっ、なに? 十夜に相談もなく、そんな重要な約束をしていいのかい? 三途の川の管理者は要職だけど、更なる出世を考えた時、神威様の膝元というには物理的にも少々遠いよ」
「懸人さん、そもそも十夜という人を読み違えています。十夜は一見すれば野心家にも見えそうだけど、私の知る十夜は権力やそれに伴う富名声には無頓着です。少なくとも十夜は、三途の川の管理者を、出世の足掛かりとは考えていません。……なのでもし、私が十夜の伴侶になったとしても、私は先の言葉通り、十夜と一緒に三途の川で、懸人さんに逢える日を待っています」
「……神に嘘は禁忌だよ? そもそも私が阿修羅の道からいつ戻るかだって分からない、いや、永劫に戻らないかもしれない」
十夜なら、否やは唱えない。
隣りの十夜を見なくても分かる。十夜も私と共にこの地にある事を望んでくれる、そんな確信にも似た思い。
十夜と二人、この地で永劫の時を過ごす事は幸せ。もちろんずっと先、未来の事は分からない。
けれどその場所がどこであろうと、私と十夜は手を取り合って寄り添って、喜びと慈しみに満ちた日々が送れる。
「はい、今度は私が懸人さんを待っています! そうして三度目の正直、次に見えた時は、新しい関係で向き合ってみませんか?」
けれどこの問いかけに、懸人さんから答えを聞く事はできなかった。
抱き合う懸人さんとタツ江さんの全身が、すっぽりと渦に包まれたと思ったら、瞬きの後にはもう二人の影も形もなくなっていた。
まるで存在自体が夢まぼろしであったみたいに、二人の姿は消えてしまった。




懸人さんとタツ江さんが光の渦に呑まれて消えてしまっても、私は二人が消えたあたりに向かいずっと祈りを捧げていた。
「幸子」
十夜に肩を抱き寄せられて、私はずっと垂れていた頭を上げた。
見上げた十夜は、包み込むように優しい目で、私にそっと微笑んだ。
「なに、心配せずとも二人は大丈夫だ。もちろん阿修羅の道は長く険しい。けれど幸子の祈りが、阿修羅の道を行く二人の足元を照らす。祈りの燈火を頼り、懸人とタツ江婆はいつか三途の川に戻る。いつか来る未来、幸子は必ず『ほほえみ茶屋』で、二人と再会を果たす事になる」
十夜がくれたのは曖昧な慰めでなく、力強い断言。
「十夜……」
言葉にはきっと、魂が宿る。
十夜の言葉は言霊になって、私の胸にふんわりと沁み込んで居場所を作る。
そうすれば胸に巣食う不安が、瞬く間に昇華する。
代わって胸に満ちるのは、未来への優しい希望。
「はい。いつか来る未来のその日が、今から楽しみです」
「あぁ、そうだな」
十夜は当たり前のように同意して、笑みを深くして頷く。
そうして広い胸に、私をギュッと抱き締めた。
それは、いつか来る未来のその日を、十夜も私と共に待つと言う事。けれどそこに、僅かにでも十夜の妥協は含まれていないだろうか?
ゴクリと、緊張に喉を鳴らした。
「……十夜、私は十夜の意見も聞かず、傲慢な独断をしてしまいました。だけど、この地に十夜が縛られる事はないんです。もし十夜が――」
「幸子」
興奮気味に言い募ろうとする私を、他ならない十夜自身が遮った。
そうして温かくて大きな手のひらが、そっと私の頬を包み込む。
間近にある十夜の瞳が、私だけを映していた。
「幸子の言葉が、まさに俺の心の代弁だ。俺はこの地で幸子と共にある事が望みだ。地位も中央での要職も、俺にとっては取るに足らない些末だ」
「十夜っ……!」
煌めく紫色の瞳が、滲む涙で霞む。
「幸子、幸子が無事でよかった!!」
けれど次の瞬間、私は十夜の懐に、視界ごとすっぽりと閉じ込められていた。
「十夜! 十夜っ!!」
ぎゅうぎゅうに抱き締められて、十夜の鼓動も体温も、その想いまでをも肌で感じた。
「幸子のいない『ほほえみ茶屋』を見て生きた心地がしなかった! 身が切られる思いだった! 俺はもう、二度と幸子を離さない!!」
胸に、歓喜が湧き上がる。歓喜は、奔流になって全身を駆け巡る。
「十夜っ! 十夜ともう会えないなんて絶対に嫌だった! 十夜の事、忘れたくなんてなかった! 十夜と離れたくなかった!! 十夜と引き離されるのが怖かった、怖かったっ!!」
圧倒的な歓喜と、巡るありとあらゆる激情のうねり。到底、抑える術などなかった。
十夜の胸に縋りつき、喚くように思いの丈をぶつけながら泣いた。
「幸子、離さない! もう一時だって幸子を離さない!」
けれど私をきつく抱く十夜の腕も、小刻みに震えていた。
「幸子を誰にだってやるものか! 俺と夫婦になって、生涯俺と共にあれ!! 受け止めてやる! あと十年、悟志の亡霊を心に飼っていてもいい、幸子が心に飼う悟志の亡霊ごと俺が受け止める!!」
熱く、狂おしいほどの激情が私を焼き尽くしそうだった。
「……十夜、愛してます。今この瞬間、十夜を愛する心に、悟志さんは介在しません。十夜への愛が全てです!」
「幸子っ!!」
十夜が勢いで、私を掻き抱いたまま持ち上げる。ふわりと体が宙に浮き、視界がグンッと高さを増した。
「っ、……!?」
そうして高さを増した視界にまず飛び込んだのは、十夜でも川でもない!
私を真っ青にさせたのは、生温い笑みを浮かべた好々爺!
目にした瞬間、歓喜も激情も吹き飛んだ。
「と、ととっ、十夜っ! 十夜っ!!」
一拍の間を置いて、私はバッシバッシと十夜の腕を叩きながら叫んだ。
私の素っ頓狂な叫びが周囲に木霊する。
「ん? ……あぁ、神威様がいらっしゃったか」
けれど、老爺を一瞥した十夜は、焦るどころか不満そうに呟いた。
私は十夜をせっついて、その腕から飛び降りる。
「十夜、少しは取り繕ってみせんか。そうあからさまに年寄りを邪険にするものではない」
「コホン。さて、何の事か分かりませんが、お待たせしてしまって申し訳ありませんでした。けれどそのように背後で待たれていませんと、声を掛けて下さればよかったでしょうに」
「……馬鹿を言うでない。儂の存在などほっぽり出して二人の世界に浸っておったくせに」
頬にボンッと朱が昇る。
それは単純に、二人の会話の応酬の中で語られた軽口に違いない。
けれど当事者の一人としては、それを言われてはぐうの音も出なかった。
とんでもない赤っ恥に、私は内心でもんどりうった。
「コホン。ところで神威様、俺はタツ江婆を頼むとお願いしたはずですが? タツ江婆が濡れ髪を貼り付けて妖怪の如く川面から上がってきた時は凍り付きました」
しかも漏れ聞こえる神威様という名は、天界の最高権力者の御名だ。
そうして私は、かつて神威様に会っている……。
羞恥に困惑までもが加われば、混乱が極まって、本気で火でも出てきそうだった。
「いやはや、あれには儂も驚いた。だが儂はタツ江の苦悩を知っていたからな、任せてくれと言われれば、とても手出しなど出来んかったよ」
とはいえ、神威様はすでに私と十夜の色事など気にもしていない様子で、今はタツ江さんについてどこか懐かしそうに語る。
天界の最高権力者である神威様は、タツ江さんに対して知るところも、思うところも多いようだった。
「タツ江……、そなた本当に男を見る目がない」
神威様は宙を見上げ、切ない瞳で呟いた。
その瞳から、その声から、ありありと滲むのはタツ江さんへの隠し切れない熱い思い。
そして神威様がタツ江さんに向ける思いは、天界の最高権力者としての気配りの範疇を逸脱した、もっと個人的な思いだ……。
「神威様……」
十夜も神威様の思いに触れたのははじめてのようで、掛ける言葉に窮していた。
場が水を打たように、シンと静まり返る。
けれど、そんな沈黙を破ったのは、神威様だった。
「ところで幸子さん、儂の事を覚えておるじゃろうか?」
「は、はい! 神威様は以前『ほほえみ茶屋』にいらっしゃっていただいていますよね? 満席で、テイクアウトをしていただきました」
神威様に水を向けられて、慌てて答える。
「おや、覚えていて下さったのですね。大変美味しいお団子で、あの味が忘れられません」
「なんと! 神威様が幸子の団子を買っていたとは初耳ですね。神威様がどこぞから幸子を見て女神と判断した事は聞かされていましたが、まさか団子の持ち帰りまでしていたとは知りませんでした。三途の川にいらっしゃったなら、俺にも一声掛けて下さればよかったものを。神威様もお人が悪い」
十夜は苦虫を噛み潰したような顔をして、不満そうに零した。
「ほっほっほっ。十夜は、儂が出向いていけば何用で来たのかと、邪険にするじゃろうに。そうそう幸子さん、仁王も同じ事を言っておったから、今度また仁王と訪ねさせていただきます」
「仁王様まで『ほほえみ茶屋』に来ているのですか!?」
十夜は仁王さんも来ていると聞かされて、驚きの声を上げる。
「仁王様は物見遊山で足を運ぶ方じゃない……。幸子、赤銅色の濃い肌に、灰色の短髪の客に覚えはないか?」
「……十夜、言おうかどうか随分と迷ったんです。私は仁王さんに会っています」
「! もしや仁王様から、何か厳しい事を言われたのではないか?」
十夜は私の肩に手を置いて、心配そうに窺い見た。
「いいえ、むしろ仁王さんは十夜が閻魔帳を不当に呼び寄せた罪に目を瞑って、私に選択肢を示してくれました」
「閻魔帳の件が、バレていたのか……」
十夜が目を瞠り、気まずそうに小さく呟く。
忍び笑いを聞き付けて、十夜の斜め後ろに視線をやれば、神威様が肩を震わせて笑っていた。
けれど一瞬絡んだ神威様の目は、笑っていない。
その目から、神威様が私の状況を理解しているのだと知った。
「……十夜は、閻魔帳の正確性を知っていますか?」
「ほとんど100%に近い」
唐突な私の問いに、十夜は即答した。
「ふふふっ。そうですね、ほとんど100%。まさに、その通りです」
「幸子?」
私はひとつ息を吐いてから、ゆっくりと瞼を閉じた。
そうして再び瞼を開き、十夜の目をしっかりと見つめて告げる。
「閻魔帳の正確性は厳密には99.9%。1000人に1人は閻魔帳の寿命を違えるそうです」
十夜の目が、グッと大きく見開かれる。
「十夜、悟志さんはもう、亡くなっています」
口にした瞬間、十夜の表情が固まった。
まるで、時が止まったかのようだった。
十夜の唇が小さく戦慄いて、何事か話そうとしているようだった。けれど震える唇は、声を紡げない。
「……99.9%にあぶれちゃうって、なんだか逆に凄いですよね。仁王さんに聞かされた時は涙が止まらなかったけど、今は素直に受け止めているんです。だから十夜、私はもう何を理由にもしません。私の想う心に従えばいいって、分かっているんです」
「……幸子、俺は知識として1000人に1人が閻魔帳の寿命を違える事を知っていた」
十夜の声は掠れていた。
そうして、悲壮感の篭る声だった。
十夜は、震える拳をグッと握り締めた。
「けれどまさか、それに悟志が当て嵌まるなど思いもせず……。これは俺の、慢心だ。幸子――」
「謝らないで下さい」
十夜の続く言葉を、私は明確な意図をもって遮った。
「だってこれは、誰のせいでもない。もちろん、十夜のせいでもありません。待つ事を決めたのは、他ならない私です。そしてなにより、その時間こそが私と十夜の縁を結んでくれました」
見開かれた十夜の目。
「……幸子には、敵わない」
その目の奥の紫が、萌ゆるような鮮やかさで煌く。
「そんなふうに言われてしまっては、俺の心の葛藤も全てが意味をなさん。俺が安易に謝罪を重ねる事にもまた、なんの意味もない。ならば幸子、俺が約束できるのは、これから先の未来だ。俺は一生涯、幸子に愛を尽くす。幸子、俺の妻になって欲しい」
思い悩み、葛藤に苦しんだ二十年。
けれど二十年の時が、私と十夜の縁となって実を結んだ。
二十年という年月がキラキラと眩い記憶となって、悟志さんの優しい記憶の隣に、スッと居場所を作った。
「はい、十夜。私も十夜に一生涯をかけて、愛を伝えます」
「幸子!!」
十夜は躊躇わず、再び私を腕に抱き上げた。
神威様はそんな私達を、目を細めて見つめていた。