ガタン、ガタンと船が揺れる。
聞かされずとも、その揺れ方で知れた。船はついに、対岸に接岸したのだ。
けれど船というのは、接岸したからといってすぐに下船できるものではない。係留するために、船を固定する必要がある。
長椅子の下から覗き見れば、懸人さんもロープを掛ける為、対岸の係船柱に向かって身を乗り出していた。
「あたしが懸人を下ろしたら、すぐに船を出すんだよ? いいね!」
タツ江さんが私に言い残し、懸人さんの背中に向かって駆け出した。
タツ江さんの手は、オールを握り締めていた。そうしてタツ江さんは大きく振りかぶったオールを、懸人さんの後頭部目掛けて振り下ろした。
「ァグッッ!!」
っ!!
オールは、気配に振り返った懸人さんの側頭部を直撃した。
オールで強打された懸人さんは、血を噴出させながら船縁に倒れ込んだ。けれど懸人さんはよろめきながらも鬼気迫った様相で身を起こし、反撃に打って出ようとする。
「っ、タツ江!? 何故、お前が私の邪魔をする!?」
けれど懸人さんが掴もうとしたオールを、寸前でタツ江さんが足蹴にして弾き飛ばす。
タツ江さんは、懸人さん目掛け何度もオールを振り下ろした。
「ッッ!! ァ、グアッッ!」
タツ江さんは血を流し、力なく船縁に沈んだ懸人さんを掴むと、渾身の力で船外に押しやろうとする。
「タ、……タツ江? っ、タツ江、やめろ? 何を、しているっ!?」
懸人さんは必死に船縁を掴んで最後の抵抗する。
「懸人、あたしは決めていたんだよ、今度あんたが道を違えるなら何としても、次こそはあたしが止めてやろうってね。だってさ、あたしとあんたの仲じゃないか。子供ながらに、だけど真剣な想いでもって将来を誓い合ったじゃないか。あんたはもう、忘れちまったかい?」
「タツ江、放せっ。お前に何が分かる、俺の何がっ!」
「……懸人、なんと言われようがあたしゃ今度こそ絶対に、あんたを放しゃしないからね」
懸人さんの悲痛な叫びが木霊する。だけど私には、静かに紡がれるタツ江さんの言葉の方が、心に重く響いていた。
バッシャーンッ!!
上がる水音。ついにタツ江さんが、懸人さんを船から引き摺り落とした。
バッシャーンッ!
けれど水音が、もうひとつ上がった。驚いて見れば、タツ江さんも懸人さんの後を追って川に飛び込んでいた。
タツ江さんの腕が、懸人さんを背後から抱き込むようにして抑える。懸人さんは船を掴もうと必死にもがくけれど、怪我で俊敏さを欠き、タツ江さんの腕を振り解けずにいた。
「お行きよっ? 早く船をお出しよ!?」
タツ江さんとの約束は、すぐに船を出す事。
けれどなかなか船を漕ぎ出そうとしない私に、タツ江さんが叫び、船を出そうと船腹を蹴った。
蹴られた事で、船はゆっくりと動き出す。船が二人から少し、また少しと遠ざかる。
このまま懸人さんに、……いや、兄に何も伝えぬまま別れていい訳がなかった。
私は弾かれた様に二人が落ちた船側面に身を乗り出した。
「……懸人さん、私のせいで苦しめてごめんなさい。だけど古の神代に赤ん坊だった私は、お兄さんに確かな絆を感じてた。輪廻の輪に落ちながら、恨みなんてなかった」
……夢は、夢じゃなかった。
夢は私の、かつての記憶。懸人さんと私は古の神代に、血を分けた兄妹だった。
「今だって、恨みには思ってない。だけど私はもう、輪廻には落ちたくない。私は十夜と一緒にいたいんです」
気付けば私は、懸人さんに語り掛けていた。
けれど私の言葉に、懸人さんはくしゃりと顔を歪めた。
「ふざけるな、ふざけるなっ! いつだってお前には幸福なゴールが用意されている! 古では私に与えられていた地位も将来の栄誉も、両親の愛情も全てお前が奪った! そうして人の身に落ちてなお、お前はまた十夜という伴侶を足掛かりに天界に君臨しようというのか!? 何故お前にはいつも栄光ばかりが付き纏い、私の手には何一つ残らない!?」
「うあぁっ!!」

懸人さんが突如、後ろのタツ江さんに襲いかかった。懸人さんが手負いという油断もあったのだろう、タツ江さんは突然の反撃に対応が遅れた。
強く殴られて、タツ江さんが後ろに傾ぐ。懸人さんを拘束していたタツ江さんの手が離れた。
「タツ江さん!」
懸人さんは追い縋ろうとするタツ江さんを振り払い、私の乗る船に迫った。
「っ! 船を、船を早くお出しよっっ!」
タツ江さんの悲鳴のような声に後押しされ、震える手でオールを掴んだ。
私はなんとか漕ぎ出そうとオールを振るってみたものの、素人が長く重たいオールを上手く扱えるはずもなく、もたついている内に懸人さんが泳ぎ着いた。
「っっ!」
私はオールを手放して、懸人さんと距離を取るように狭い船内を後ずさった。船縁に手を掛けた懸人さんは、一息で船内に乗り上がった。
ヒュッと、恐怖で喉が詰まる。
「お前が憎いよ。かつても憎いと思った。だけど今ほど、憎いと思った事はない」
向けられる憎悪が、ピリピリと肌を焼く。
全身濡れそぼち、頭から血を流しながら、懸人さんが、一歩、また一歩と距離を詰める。
私は同じだけ、這いずって後ろに逃げる。だけど私の背中が、ついに船壁に行きあたる。
「十夜と一緒にいたい? はははっ! させるものか……」
懸人さんは表情のない、能面のようだった。
私を見ているのに、見ていない。それはまるで、『ほほえみ茶屋』を訪れるお客様のようだった。
懸人さんの手が伸びる。
「っ、ぁぐっ!!」
避ける間もなかった。気付いた時には首を掴み上げられて、息堰き止められる苦しさに喘いでいた。
容赦のない力が締め上げる。血が、巡らない。呼気が止まる。
苦しさは熱を生む。
頭の中が真っ白に焼かれる。苦しさに宙を掻く手も熱く燃え尽きて、パタリと床に落ちた。
……あぁ、十夜。
消えゆく意識の狭間で思った。対岸に下ろされて、忘却の輪廻に巡るより、こうして十夜を想ったまま逝ける方が余程に幸せかもしれない。
だって私は、十夜を忘れたくなんてない。最期の瞬間まで、十夜だけを覚えていたい――。


***


天界に着くと、俺は祈りの間に駆けた。
「神威様、失礼いたします!」
逸る心のまま、挨拶とほとんど同時に重厚な両開きの扉を開け放つ。
「十夜、ようやっと来よったか」
神威様は俺の来訪を、待ち構えていたようだった。
「これを見よ」
俺を振り返り、神威様が手招く。
疑問に思いながらも神威様の身許に寄り、示されるままにその手元を覗き込む。
神威様の手のひらに置かれていたのは、歴代の大天神が脈々と繋いできた宝珠だった。
「神威様!!」
その宝珠に映し出される光景を目にした瞬間、俺は衝動的に宝珠を握った。
「っ!?」
しかし握り込んだ瞬間、映像が霧散する。
「これこれ十夜、握り込むでない。折角映る映像が消えてしまう」
!!
慌てて握り込んだ手を離す。
「す、すいません!」
息を呑んで何も映さなくなった宝珠を見つめていれば、しばらくしてまた、宝珠は映像を映し出す。
宝珠にはまさに今、俺が知りたくてたまらない幸子の現状が映し出されていた!!
幸子は両手を拘束された状態で揺れる船底に倒れていた。
「幸子っ!」
こちらから見る限り、幸子に大きな怪我は見受けられない。
俺が胸を撫で下ろしたのもつかの間、幸子に程近い客用の長椅子の下から、ズルリと何かが這い出て来た。
なんだ!?
神威様と二人、思わず宝珠に食い入るように顔を寄せた。
襤褸のムシロに包まれたそれは、……人? ……いや、あれは!
「タツ江婆!?」
懸人と幸子の乗る船には何故か、タツ江婆がいた。
ムシロを下げ、こちらに向かってニンマリと皺を深くして笑って見せるのは、タツ江婆その人だった。
タツ江婆が顔をクシャリと歪めて目を瞑る。
な、なんだ?
映像に、音声はなかった。
けれど歪めた顔を真顔に引き締めたタツ江婆の、「任せておけ」という声が、聞こえたような気がした。
映像がタツ江婆で埋め尽くされる。そうして映像は、完全に途切れてしまった。
「映像はここまでのようだな」
……宝珠の持つ、神通力の限界か。
けれど映像のお陰で知れた。船は今まさに三途の川の対岸に接岸しようとしている!
「神威様、幸子の元に向かいます!」
対岸に先回りで向かおうと駆け出した。すると神威様に腕を掴まれた。
「十夜待て、儂も同行しよう」
!?
それは、天界の最高権力者が口にするには、あまりにも予想外の言葉だった。しかし俺に否やなどあろうはずもなく、俺は神威様と共に対岸に向けて発った。
「神威様、懸人とは何者なのでしょう? あれとタツ江婆は、どういった関係にあるのですか?」
対岸に駆けながら、神威様に映像だけでは読み解けぬ燻る疑問を投げかけた。何故、あの場にタツ江婆があったのか? 
「神にあらず、人にあらず、そういう意味では使徒にも当て嵌まろう」
神威様の答えはまるで言葉遊びだ。
「のう十夜、タツ江は何者だ?」
「神格を剥奪された、あぶれ神ではないのですか? 何度注意しても盗み癖が抜けずに、役目を追われたと聞き及んでおりますが?」
「では十夜、何故タツ江は尊い女神の身でありながら、死に人の持ち物などを盗み続けた?」
……言われてみれば、おかしな話だった。確かに死に人の持ち物など、天界の物に比べれば取るに足らないガラクタにも等しい。
タツ江婆は何故、そんなつまらぬ物を盗み続けた……?
「! まさか、罪を受ける事こそが、望み!?」
あり得ない、けれどそうとしか考えられなかった。
神威様は鷹揚に頷いた。
「神の身を落とされたら、どうなる?」
「神性を奪われます。二度と神には戻れませんので、人として人界に下る事になります」
太一様が、まさにこれに相当する。
「では、人界に下る事を拒んだらどうなる?」
「天界の中央には残れませんが、……けれど例えば、三途の川のような現世との境界の地に暮らす事は可能です。まさに、タツ江婆がそれです」
ここでふと、思い至った。
「まさか、懸人も!? あれも、かつて神だったのですか?」
神威様は静かに俺を見つめていた。それこそが答えに他ならない。
「それもあれは、ただの神ではない。そういえば十夜、其方も遠く始祖の血を汲んでおったな。あれも同じじゃ」
告げられた衝撃の事実に目を見開く。
ならば懸人は、間違っても使途などではあり得ない! それも始祖の血脈なら、上級神!
「始祖の血筋の純血の神、当時は次代の天界を担う神と目されておった。本来、儂なんぞは足元にも及ばんよ。懸人は生まれた時から、タツ江を許嫁と宛がわれ、皆の期待と羨望を一心に受けておったさ。幼いながらに懸人自身、上昇志向で野心家だった。過ちさえ犯さねばさて、今頃はどうなていたかのう?」
「! それだけ将来を目されておきながら、何故懸人は道を違えてしまったのですか?」
「あれが十歳を数える頃、妹神が生まれたのだ」
! 神の夫婦が男兄弟を儲けるケースはままあれど、下に女児が生まれる例などとんと聞いた事がない。
「古の時代はまだ、女神の出生はそう珍しい事ではなかった。それでも始祖の血筋に女神が誕生した事は慶事だった。天界中が湧き、誰もが女神の誕生を誉めそやし、将来の明るい展望を語り明かした。けれど妹神の誕生により、懸人は家督の継承がなくなってしまった」
なるほど、天界きっての名家に稀有な女神が誕生したとなれば、家督は女神に婿を取って継がせる事になるだろう。
「だが、懸人にとって絶望はこれだけではなかった。懸人と共に将来を有望視され、期待を二分していた男神が、妹神の婿に選ばれてしまった。この婚約により事実上、天界の長の座は妹婿が最有力に躍り出る事になった」
「懸人は、妹神を殺めたのですね?」
「あれは妹神に嫉妬の炎を燃やし、禁忌に手を染めた。両親の目を盗み、妹神を人の輪廻の渦に投げ落とした。同胞の神を、それも血の繋がった妹神を弑した」
! 輪廻の渦、だと!?
「幸子、か! 懸人の妹神とは、幸子なのですね!? それで幸子は女神でありながら、人として生を受けているのですね!?」
「そうだ、懸人の妹神は幸子さんに間違いない。幸子さんは神の御霊を持ったまま輪廻の渦に落とされた。だから人として餞別され、人の世に生まれいずるまでに、かように長い時間が掛かった。同胞を、それも稀有な女神を弑した罪は重い。けれど懸人は幼年であった事と両親初め、多くの嘆願により神格の剥奪のみで許された。けれど今回、再びの凶行。今度こそ、あれは阿修羅の道に落ちるぞ」
阿修羅の道……。神であれば、それを行く痛みと重みを知らぬ者はいない。
決して懸人に同情は出来ない。
けれど幼い胸の内を激情で滾らせる懸人を想像すれば、苦い思いも湧き上がる。
「……神威様、ひとつ分からないのです。懸人は弑した幸子の魂を待ち、長い時を船頭として過ごしました。それは憎しみでなく、幸子への情からだったと思うのです。それが何故、懸人は再び巡り逢えた幸子を狙うに至ったのでしょう?」
「分らんのか? お前じゃよ、十夜? 若輩と侮る周囲の目を隠れ蓑に、力を付け、着実に神としての格を上げていく、お前さんじゃ。そんなお前と幸子さんが、想い合ってしまったからだ」
俺と幸子が想い合い、それと懸人の凶行がどうして繋がるのか、俺にはまるで分らなかった。
「懸人は神性を無くしても、本能で其方の能力を読み取っておる。あれは妹神の誕生によって栄光に破れた。二度と己が手には出来ないと知りながら、それでも妄執を捨てきれなかったのだ。幸子さんがお前と番い、天界に君臨する。そんな未来は懸人にとって、とても許容できん悪夢だったのだろう」
「……神威様、俺には正直分りかねます。太一様も、そうだ。何故、皆意味もない妄執に憑りつかれ、身を滅ぼしてしまうのでしょう?」
神の身で、男女に関わらず兄弟という存在を持てたなら、それはどれほどに得難くどれほどに尊い事か。
もし俺に弟妹があったなら、嫉妬などつまらぬ感情など持つ余地もない。俺の持てる全てで、慈しむに違いない。
「意味もない、そう言い切れぬから皆、憑りつかれてしまうんじゃよ。十夜、権力や名声に固執せぬお前こそが、きっと一番強い。権力や名声、そんな虚像に固執すれば、それは弱さだ」
……権力も名声も、そんな物はどれも取るに足らない。俺が唯一固執するとすれば、それは幸子、ただ一人だ。
「十夜、お前は意外と分かりやすいな。のう十夜、以前儂が、幸子さんを中央で預からせて欲しいと言ったのは、取り消すぞ」
神威様は俺に、柔らかな眼差しを向けた。
「そもそも其方が幸子さんに他の男神を宛がうなど、許すはずもなかったのだ。しかし元はと言えば、お前が煮え切らん態度だったのがいかんのだぞ。さっさとお前達が夫婦となっていれば、こうも天界を騒がせる事も無かった」
「それに関しては、返す言葉もございません。けれど神威様、今度こそ俺は幸子と夫婦になります。幸子は誰にも、渡しません」
「幸子さんの了承も取らぬ内からまた、随分と大きく出たものじゃな。……いや、了承はもう間もなく得られるのか。さて、まずは其方の嫁子を無事に助け出さんとな」
神威様は柔らかな表情から一転、引き締まった表情で眼下を見下ろした。俺と神威様は対岸の上空に差し掛かっていた。
懸人の渡し船を、遠く視界に捉えた。
なんだ!?
異変は、すぐに知れた。
船体が不自然に大きく揺らぎ、川面からは水しぶきが上がる。
急く心のまま距離を縮めていけば、水しぶきの正体が知れた。川面からタツ江婆が顔を出し、必死で船に追い縋ろうとしていた。
!!
船内の幸子の状況に、胸が騒いだ。
「神威様、タツ江婆をお願いいたします!」
俺はタツ江婆を神威様に任せ、船内の幸子の元に駆けた。

船内の光景は、悪夢だった。
懸人に首を絞められる幸子の姿を目にすれば、全身の血が沸騰した。身が焼かれるほどの、激情の嵐が駆け巡った。
「幸子ーー!!」