***
あの日、幸子からの突然の拒絶に、目の前が真っ暗に塗りつぶされる思いがした。
けれど幸子は、のべつまくなしにそんな態度を取る事はしない。幸子の拒絶の裏には、何かしらの原因があるに違いなかった。
俺が一人寝の寝台で考えを巡らせるのも、今晩で二晩目。
けれどこの晩も、俺は結局答えに辿りつけぬまま、夜明けを迎えていた。
表面上はなんとか平静を取り繕いながら、いつも通り幸子を茶屋に送る。午前中は船の修繕の手配や、突然やって来たタツ江婆の応対やらをして過ごした。
午後からは、茶屋の脇の大木に寄り掛かり書類を手にしてみたが、集中力は散漫で一向に頭に入らない。そうして不毛なため息を繰り返している内に最終便の出航時刻となり、俺は幸子の迎えに茶屋の戸口を潜った。
そうして茶屋で、俺は予想を超える歓喜でもって、幸子の心を知る事になった。
幸子が俺に、心を寄せてくれている!!
幸子の心の吐露に、俺は狂喜乱舞した。
けれど幸子と想いを通じ合わせたはずの今宵も、俺は一人、寝台を温めていた。
幸子と心通わせて、けれどその先の新しい関係には踏み出せない。このジレンマが、俺を内側からジリジリと焼いていくかのようだった。
相愛の歓喜が、同時に焦燥となって俺を苛む。
幸子の心には、悟志に誓った三十年という年月が根底にある。
幸子の心に巣食う、悟志の亡霊が重く俺に圧し掛かる。
悟志という男の亡霊に、俺の想いが負ける気など更々無い。けれど幸子が一歩を踏み出すためには、悟志との決別は必須と思えた。悟志との決別が出来ない限り、幸子は身動きの取りようがない。
あと、十年……。立ちはだかる年月の壁は高く、姿が無い分だけ障壁は強大な脅威だった……。
姿の無い亡霊への尽きぬ嫉妬の炎に、俺はますます胸を焦がしていた。
狂おしいほどに滾る俺の心の内を、幸子は知らない。
「俺は二十年待てた。あと十年? ……待ってやるさ!」
呟きは夜の静寂に溶けた。
その翌朝、俺の元に、上流の堤防に亀裂が見つかったという第一報がもたらされた。
ちょうど今日で、太一様の襲撃から二週間が経っていた。この二週間の、最初の頃に二度、上級神が幸子を狙ってやって来ている。けれどそ奴らの神通力は太一様に遠く及ばず、俺の敵にはなり得なかった。
それ以降、幸子を狙う不届き者はパタリと来ない。
その裏には、太一様を退けた俺の神通力が天界で知れ渡ったのみならず、神威様の何某かの働きかけがあった事は間違いなかった。
……この状況ならば、幸子に付きっきりでいなくとも問題はないか。
四六時中幸子に付き従っていたために、職務に滞りが出始めていた。茶屋の近辺に張り付いていてはどうしたって、出来る仕事が限定される。
これまでは騙し騙しにきていたが、上流にある堤防の亀裂の確認となればそうもいかない。
「幸子、今日はどうしても外さねばならん。懸人にも一声掛けておくから、万が一、急ぎの用事があれば懸人を頼ってくれ」
幸子を茶屋まで送ったところで切り出した。
「ふふふ、ここ最近の十夜は随分と心配性ですよね。ここ三途の川で何があろうはずもないですよ? 二十年を暮らして思うんです、ここは変化というものから一番遠いところにあるような気がします」
「まぁ、三途の川が変化に忙しければ、死者の魂が落ち着いて乗船できんからな」
幸子は己がどれ程得難い存在か、思いもしない。
危機感を持ってもらうには、女神であるという事実を伝えるべきなのかと、これまで思い悩んできた。けれど伝える事で、いたずらに幸子の不安を煽る事は避けたかった。
「十夜、私はちゃんとここにいますよ? だから気を付けていってらっしゃい。閉店後はお迎え、待ってますから」
俺はたまに、思うのだ。
幸子は俺の憂いまで、全て見透かしているのではないかと。その上で、俺の欲しい言葉を言ってみせるのではないか?
「幸子」
「!」
衝動のまま幸子を腕に抱き寄せて、柔らかな唇に口付けた。
幸子は口付けを解いた後も、真っ赤な顔をして固まっていた。あどけない幸子の表情に、一層愛おしさが募った。
「幸子、いってくる」
名残惜しく腕を解くと、俺は開店前の茶屋に幸子を残し、亀裂の報告を受けた上流の堤防に向かった。
堤防の亀裂を一目見て、俺は眉を顰めた。
報告があれば、まずは管理者である俺が出向く。これまでも幾度となく欠損箇所の確認をしてきたが、経験上、今回の亀裂が経年劣化とは思えなかった。
俺の目には人為的に力を加え、意図的に堤防を損傷させているように見えた。
「……悪質な悪戯か? あるいは……」
一瞬よぎったのは、俺を呼び寄せる為の何者かの罠。
「いや、この時間ならば懸人もまだ出航前だ。何があろう筈もない」
埠頭と『ほほえみ茶屋』は目と鼻の先だ。
何かあれば懸人が駆け付け、俺へも報せを寄越す。
「仕方ない。早々に修繕を始めるか……」
俺は特大のため息を吐くと、まずは広範囲に渡る亀裂の確認をし始めた。
そうして詳細の確認が済むと、施工業者へ連絡し、およその見積もりを取り、修理の日程を調整した。同時に必要な部分には神通力で補強を施し、最低限の強度を保たせる。
「全く、本来、こんな肉体労働は俺の領分じゃないというのに」
三途の川の管理者の実体は、管理者とは名ばかりの何でも屋だ。
結局全ての補強を終えたのは、昼も回ってからだった。
俺は、足早に『ほほえみ茶屋』へ取って返した。けれど『ほほえみ茶屋』を目前に、俺は違和感に首を捻った。
……なんだ?
『ほほえみ茶屋』を中心に、雑多とした気配が溢れていた。そのひとつひとつを見れば、なんの変哲もない死者の魂だ。
けれどいかんせん、その数が多すぎた。
多くの気配の中から幸子の気配を探るが、雑多とした気配に埋もれてか、見つけ出す事が出来ない。
焦る心のまま、『ほほえみ茶屋』に走った。
「どいてくれ!」
急く心のまま、軒先まで溢れる人を掻き分けて、茶屋の中に足を踏み入れた。
「幸子? 幸子!? いないのか幸子!?」
厨房に向かって呼び掛けたが、幸子の姿はない。
厨房の中、調理台はあんこや醤油ダレの垂れ零しで、汚れ切っていた。銀のバットに保存されている団子は一本も残っておらず、あんこや醤油ダレの空容器、シュガーポットまでが無造作に転がっていた。
きな粉は残りがある状態で数袋が破かれて、乱雑に放り投げられている。
戸棚は開け放たれたままで、使用済みの皿や湯呑みが無造作にシンクに山積みになっている。
この惨状を一目見れば、とても幸子が切り盛りしていたとは思えなかった。
「ここの店主はどうした!?」
俺は隣にいた中年女性の腕を掴んで問い質した。焦りから、どうしても口調が険を帯びる。
「えぇ? あたしゃ朝一番からここに居るけど、ここに店の者なんていやしないよ? こういうセルフスタイルって流行りなのかね? だけどあたしゃ好かないね。対面式の接客の方が寛げるって、兄さんも思わないかい?」
けれど女性は臆するふうもなく、おっとりとした口調で答えた。
聞かされた女性の言葉に、全身から血の気が引く。目の前の光景に紗が掛かり、怒りで真っ赤に塗り替えられる。
けれどなけなしの理性が、冷静さを失うなと、俺を律する。
「朝一番と言ったな? 何故、朝から二便あった船に乗らなかった? 何故、ここにとどまっている?」
埠頭に船はなかった。昼を回った今の時分なら、二便目が間もなく対岸に到着する頃だ。
「兄さん、阿呆な事をお言いじゃないよ? 今日は朝から、船なんか出とらんがね。だからこうして皆、ここの茶屋で足止めをされているんじゃないさ。あたしはいいよ、早くからいたから団子を食って待っていたからね。後から来た者はお茶も団子も完売で、文句たらたらさ」
動悸は一層早く、怒りで全身が小刻みに震えていた。
「確認するが、貴方が朝一番にここに来た時、既に埠頭に船はなかったのだな?」
「だから言ってるじゃないさ。船なんか出ていないって。あたしゃ船なんて見てもいないよ」
女性が嘘偽りを言う理由はない。
お茶屋の状況にも、一致している。ならば女性の語る内容が、事実なのだろう。
「そうか、ありがとう。最後にひとつ、頼まれてくれ。これから迎えの船を寄越させる。ここにいる全員を、漏れなく船に乗せてくれないか?」
俺に、猶予はなかった。
「随分と無茶を言うね。一体何人いると思ってるんだい。そりゃ、おいそれと頷くには大仕事だよ? ……でもそうだね、兄さんあんたいい男だね。いい男の頼みじゃ、無下にもし難いんだけど、でもねぇ~」
迷っている時間はなかった、俺は女性の生前の姿を透かし見る。
これかっ!
俺は女性の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「対岸についたら、貴方のために選りすぐりの美男との酒宴を用意する。シャンパンでタワーも出来る。貴方が、主役だ」
「! ふふふふふっ、分かったよ~。ここにいる全員を、来た船に乗せりゃいいんだろ? ふふふふふっ、あたしゃ憧れてたんだよね、いい男にちやほやしてもらって、美味しいお酒でパァーっといい思いするのにね」
これは生前、厳粛な夫に抑圧されて暮らしてきた彼女の願望。ホスト通いを夢見ながら、結局夫や子供達への義理立てで見送ってきた女性は、しがらみを無くした今、トロンとした瞳で快諾した。
「恩に着る! 後は任せた!」
「分かってるよ。兄さんも約束を違えちゃ嫌だからね」
神に二言はない。
深く頷いて、俺は人垣を縫って『ほほえみ茶屋』を後にした。
埠頭に向かうと、空の船乗り場で緊急連絡用のボタンを押した。
このボタンを押したのは、俺が管理者となってから初めてだった。
「十夜、何があった?」
ボタンは直ぐに統括役の仁王様に繋がった。
「仁王様、船頭の懸人が定期運航を放り出し、船で行方をくらましました。本日、一便も船が出ておらず、三途の川は渡航を待つ人々で溢れています。緊急で大型船を一隻手配していただきたい」
「相分かった。船は緊急の扱いですぐに向かわせよう」
仁王様は即答した。
繋げたままの通信を通し、仁王様と部下のやり取りが漏れ聞こえた。
「十夜、大型のジェットフォイルを出航させたから、じきに着くだろう」
「仁王様、ありがとうございます」
ふと、かつて幸子に言われた言葉を思い出した。
俺は周囲の人に恵まれていると、幸子はそう言ったのだ。まさにその通りだった。
「時に十夜、船に懸人は単独か? 幸子さんは、茶屋にいるのか?」
「いいえ、幸子も行方が知れません。状況を鑑みれば、懸人が幸子を連れ去ったとみて間違いないでしょう」
天界の上級神でも、身の程知らずの同期らでもない。
危険はもっと、身近に潜んでいた。日々顔を合わせ挨拶を交わし、こちらの懐に入りながら、懸人は虎視眈々と幸子を狙っていた!
確かな違和感はあったのだ。なのに何故、俺は違和感を違和感のままに捨て置いたのか!
後悔が、我が身をジリジリと焼き尽くす。
「……そうか、船の捜索にすぐに人員をあてる。十夜、其方はもう一度三途の川を捜索してみろ。出航したと見せかけて、そちらに潜んでいる可能性もあるかもしれん」
「いいえ仁王様、俺には分ります。三途の川に幸子はいません」
仁王様の助言に、俺は首を横に振る。
俺はそれなりの神通力を自負している。その神通力を、こんなにも研ぎ澄ませた事は無い。幸子の気配を求め、全神経を集中させた。
断言できる、幸子は三途の川にはいない!
「仁王様、そちらに神威様はおられますか?」
「あぁ、今は祈りの間におられる」
管理者の責任は重々承知している。けれどこのままここで手をこ招いていても、幸子の手掛かりは掴めない。
「仁王様、こちらは万事つつがなく全員を乗船させる手筈ができております。俺は今から、そちらに向かいます。どうしても神威様に、直接伺いたい。俺は今から、天界に向かいます」
ここにいては、現状は打破できない。
幸子の行方は、追えない!
「十夜、本来なら緊急事態の三途の川を管理者が不在にするなど容認できる事ではない。けれどお前は、止めても来るのであろうよ」
「申し訳ありません。ご迷惑を、おかけいたします」
「はははっ、今に始まった事ではなかろう。十夜、其方が三途の川の管理者の役職に就き、私が統括せねばならんとなった時に、とうに腹は括っていたさ」
頭が下がる思いだった。
「仁王様、また後ほど、お会いする事になるかと思います。一旦これで、失礼いたします」
仁王様との通信を切ると、俺は天界に向かって駆けた。
「幸子……、どうか、どうか無事でいてくれ!」
神の身でありながら、慢心した己を呪う。そうして祈らずにはいられない。
何でもいい、どんな存在でもいい、どうか幸子を無事に俺に返してくれ!!
そうして幸子が無事であったなら、俺は今度こそ幸子を離さない。何者にも、悟志という男の亡霊にも、幸子を渡してなるものか!
時のあってない三途の川で、三十年という時の括りに縛られて過ごす事こそが、出だしからして間違っているのだ。
己の心に正直になればいい、その上で幸子の心を乞えばいい。それを敢えてしなかったのは、悟志を大義名分にし、臆病に言い訳を重ねて逃げていたから。
亡霊に囚われて、足踏みしていたのは俺だ。
俺の想いを告げ、心を繋ぐ。女神だろうと、人だろうと構わない。今度こそ俺は、幸子に正面から向かい合う!!