「幸子ー? 帰れるか?」
最後のお客様と入れ替わるように、十夜が顔を出した。
結局、船の修繕に一日がかりとなった十夜は、パッと見にもげっそりと疲れ果てていた。
「お疲れ様でした。随分と損傷が大きかったんですね?」
十夜は手近な椅子を引くと、ドサリと腰掛けた。
「ああ、船底がざっくりとやられていた。なんとか今日中に終わらせられた。まったく、肉体労働は肌に合わん」
「ふふふっ。十夜ってば、この間は『頭脳労働は性に合わん』って言ってましたよ」
「……そうだったか?」
十夜はバツが悪そうに、苦笑してみせた。
接客と同時進行でほとんど後片付けは済んでいたのだが、私は気にせずに厨房で二人分のお茶を淹れた。
そうして残りの団子を皿にのせ、お茶と一緒に十夜に差し出した。
「? 後片付け、済んでいたんだろうに」
「たまにはいいじゃないですか。店でお茶を飲んで、少し一服してから帰りませんか?」
この段になっても、今日の一件を十夜にどう説明するか、どう伝えるか、……いまだ私の中で決めきれていなかった。
「いいな、ちょっと一息吐きたいところだったんだ。今日は昼飯も食ってなかったからな」
! 
「十夜、それなら甘いのだけじゃなくて何か出しましょうか?」
甘党の十夜は普段、お団子といったらきな粉とあんこだ。今も皿の上にはきな粉とあんこのお団子がのっている。
けれどお昼を食べていないなら、あり合わせで食事になるような物を出した方がいいかもしれない。
けれど十夜が、立ち上がりかけた私の腕をそっと掴んで引き留めた。
「幸子、これで十分だ。せっかくのお茶を温かい内に一緒に飲もう。その方がずっといい」
振り返れば、十夜の柔らかな眼差しがあった。濡れたような黒の奥、紫の煌きに魅せられて縫い付けられたみたいに目が逸らせない。
腕に伝わる十夜の温もりに、胸が切なく締め付けられる。十夜から向けられる微笑みに、労わりに、心が確かな熱を持つ。
私は静かに、立ち上がりかけた腰を下ろした。
「……はい」
この日は私も、十夜も、言葉数は多くなかった。二人静かに、お茶を啜っていた。
けれど十夜といる時に、会話というのは重要ではなかった。会話があっても無くても、そんなのはどうでもよかった。
十夜と会話がない事を気づまりには感じないのだ。
「さて、そろそろ戻るか」
湯呑みが空き、皿が空き、少ししたタイミングで十夜が告げた。
「はい、そろそろ帰りましょう」
店を出たところで、並んで歩く私と十夜の手が触れ合った。触れたその手を、十夜は当たり前のように握る。
ギュッと包み込まれた手のひらの温もりと力強さに、切ないほどの愛おしさが溢れた。
「……十夜は周囲の人に、恵まれてますね」
「どうしたんだ? 唐突に?」
十夜はキョトンとした顔をした。……やはり仁王さんは私と話しをした後、十夜には会わずに帰っていったらしい。
「いえ、ふと以前に聞いた、お酒好きの統括役の話が思い浮んだだけです。その方、お酒だけじゃなく、犬も好きだったんですね」
「ん? あぁ、そうだな。懸人からでも聞いたのか?」
曖昧に微笑んで、私は再び口を噤んだ。
……十夜には、悟志さんの事を伝えない。少なくとも今は、伝える事をしたくない。
今はただ、この愛しい温もりに包まれて、幸福の中を揺蕩っていたかった。




夕食を済ませ、重労働に疲れた十夜を先にお風呂に入れた。
十夜の後に湯を使い、寝室に上がろうとして、居間から漏れる明かりに気付いた。
「十夜……」
扉から覗き見れば、先にお湯を使った十夜が、寝室に上がらずにソファで船を漕いでいた。
騒ぐ鼓動を落ち着かせるように、ホゥっと大きく一息ついた。
「十夜、寝室で寝て下さい? ソファじゃ疲れが取れませんよ?」
扉から、声を掛けた。
「ん? 幸子か。分かってる……」
けれど十夜は返事ばかりで、一向に動く気配がない。
私は仕方なく扉を潜り、十夜の元に向かった。
「もぅ……十夜、ほぉら」
私は十夜の手をグッと引いて、ソファから重たい腰を上げさせた。
「疲れてる時は、一にも二にも睡眠です。今日はゆっくりおやすみなさい、十夜?」
立ち上がり、寝ぼけ眼で私を見下ろす十夜が、ハッとしたように目を瞠る。
「幸子、泣いていたのか?」
次の瞬間、十夜の美貌がドアップに迫ったと思ったら、目尻にふわりと柔らかな感触が落ちた。
認識した直後、私は弾かれたように顔を引かせた。
「や、やだ! 泣いてなんていませんよ?」
精一杯の笑みで取り繕って、咄嗟に十夜の背中に回る。そのまま階段に向かって、その背中を押した。
「もう十夜ったら寝ぼけて。ソファでうたた寝なんてするからですよ? ちゃんと寝室で寝て下さい? おやすみなさい!」
内心の動揺をひた隠し、急かすように、十夜を押す手に力を篭めた。
「……おやすみ、幸子」
振り返った十夜は物言いたげにも見えたけど、逆らわずに二階の寝室に向かって階段を上り始めた。
十夜が階段を上りきり、階段ホールの角を曲がって消えるまで見守って、私はへなへなとその場に膝を突いた。

十夜の唇が触れたのは一秒にも満たないくらい、ほんの一瞬の出来事。
震える指先で、そっと目尻に触れる。
夢うつつの十夜が戯れに寄せた唇。けれど私にとってこの口付けは、ただの戯れでは済まなかった。
涙の痕を、十夜の口付けが塗り替える。
悟志さんの記憶を、十夜の温もりが上書く。
隠せない。隠しようなんかない。
……私は、十夜が愛おしい。十夜を、愛してる――。
『二つの愛を知って二倍に豊かな人生を送ったとは、よく言ったもんや!』
突如、脳内におばさんのチャキチャキの大阪弁が響き渡る。
!!
ニカッと豪快な笑みを残し、おばさんの残像はすぐに消えた。
私が実際に聞いたのはおばさんの声で、ならば脳内にフラッシュバックしたのも当然、おばさんの声のはず。
けれど今、私が心で聞いたのは、悟志さんの声で語られた、悟志さんの言葉だった。
とても、不思議な心地がした。
浴室で私は、悟志さんへの懺悔に涙した。
見送れなかった事を謝った。悟志さんだけを愛し続けられなかった事を謝った。移り気に十夜を想う、私の不義理を謝った。
だけど今、十夜を愛する想いが心にストンと落ちて、静かに胸に居場所をつくる。
「……悟志さん、貴方が大好きでした。だけど今、私は再び大好きと思える人に出会いました」
十夜への愛が、赦されていくようだった。
悟志さんと愛し合った日々を蔑ろにするんじゃない。悟志さんと愛し合った記憶と共に、新たな愛が芽吹く。
「新しい私の恋を、胸に同居させてもらいますね?」
悟志さんと育んだ、愛の記憶が思い出された。悟志さんと紡いだ愛は、互いの幸福を一番に願う優しさと慈しみに満ちた愛だった。
だからこんなにも深く狂おしいほどに悟志さんを愛した。
悟志さんならば、微笑みと共に十夜への愛を赦してくれる。今ならば、そんな確信にも似た思いがある。
三十年という時に固執するあまり、私自身が視野を狭くさせていた。
ひとつの愛に固執する事が、必ずしも誠実とイコールではない。愛はもっと寛容でいい。
十夜を愛する心は不義理でも、不実でもない。
悟志さんを愛した記憶はそのままに、十夜と紡ぐ新しい愛も育めばいい。
純粋に、もう一度愛せばいい……!
私は床から立ち上がると、ゆっくりと窓に向かった。カーテンを開ければ、窓の外には満天の星空が広がっていた。
粛々とした星の煌きに、悟志さんの姿が重なった。
「悟志さん……」
星々に悟志さんの冥福を祈り、静かに頭を下げた。
長い祈りを終えた後も私は窓辺に立ち、星が段々と移ろうさまを、いつまでも飽きずに眺めていた。そうして空が白む頃、私は窓の前を離れた。
いつもと同じソファの左端に腰掛ければ、すぐに微睡みが私を包み込んだ。そこで私は、何年振りかに悟志さんに逢っていた。
悟志さんは私の知る悟志さんじゃなく、還暦を迎えた老爺の姿になっていた。
だけど私に向ける穏やかな微笑みは生前に知る悟志さんとなんら変わりなかった。
私達はただ静かな笑みを交わした。そうして瞬きをした次の瞬間には、悟志さんの姿は朝霧に消えていた。
「悟志さん、どうか安らかに……」

カタンッ。
物音で振り返れば、居間の扉の前に十夜が立っていた。
「……十夜!」
「幸子、ソファで夜明かししては疲れが取れんぞ?」
十夜は大股でソファに歩み寄ると、私の隣、定位置の右側にドサリと腰掛ける。
「全く人にはベッドで寝ろと言っておいて、自分はソファで夜を明かすとはいい度胸だ」
そうして左端に座る私の肩をグッと抱き寄せた。
!!
気付いた時には、私は十夜の膝を枕にし、横寝に寝転がっていた。
猫の子でも撫でるように、十夜は膝上の私の頭を何度も往復させていた。
「まだ起きるには間があるからな。俺が枕を提供してやるから少し横になれ」
律してきた十夜への恋心。
もう、心に嘘は吐かない。
「十夜……」
だけど今は、十夜の温もりがあまりにも心地よく私を包んでしまうから……。
「じゃあ、少しだけ……」
トクン、トクン。
十夜と私、二人の鼓動が重なって、心地よい調べになって私を誘う。
十夜の温もりに包まれながら瞼を閉じれば、あっという間に意識は心地よい眠りの世界に沈んでいた。