視界が灰色に塗られ、目の前の仁王さんの姿が霞む。仁王さんは必死に何事か問いかけているようだったけれど、その声も私の耳には遠く、届かない。
ぐらぐらと揺れているのは、私の思考なのか、体なのか……。灰色にとぐろを巻く闇が、私を包む。
灰色の闇の奥には、顔を見る事の叶わなかった男性の姿がある。
後姿しか見ていないのに、好感が持てた。どこか、郷愁を覚えた。
漏れ聞こえた生前の境遇も、悟志さんのそれに近かった。
なにより、私の心に明光となって差し込んだ、あの言葉! あれは他でない、悟志さん自身の言葉……!!
……私は、なんて薄情な女なんだろう。
閻魔帳があった? いいや、そんなのは言い訳にもならない。
他ならない悟志さんが、私のほんの数メートル先にいた。
歩み寄れば、触れられる距離。声を掛ければ、会話を交わせる距離。
こんなにも近く、悟志さんはいた。どうしてそれと、気付けなかった……。
どうして……。
灰色の闇が、私に牙を剥く。私という厭わしい存在を、真っ黒に塗りつぶす。
心が、闇に寝食される……。

「きゅーん、きゅーん」

耳にした瞬間、纏わりつく闇が遠ざかる。
「……コマ、ちゃん?」
見れば私の足に、コマちゃんがスリスリと擦り寄っていた。
「きゅん、きゅーん」
私を見上げるつぶらな瞳に誘われるように、ひと撫で、ふた撫でと、柔らかなコマちゃんの頭に手を滑らせる。
頭頂のふわふわとした毛は柔らかな感触を、側頭部のもくもくの渦巻きは優しい温もりを伝えてくる。私の荒ぶる心を静め、慰めて落ち着ける。
コマちゃんを撫でながら、どのくらいの間を置いたのかは分からない。十分か、二十分か、あるいはほんの一~二分であったのかもしれない。
「きゅーん?」
「コマちゃん、心配してくれてるの? ありがとう」
コマちゃんのおかげで、少なくとも表面上、平静を保てる程度には冷静になれた。
「仁王さん、……私にそれを告げる仁王さんの真意はなんでしょう?」
私は絞り出すような声で、仁王さんに問うていた。
「幸子さん、私は貴方と十夜があやふやな関係のまま、この地にある事が不安なのです。貴方の存在が知れ渡れば、必ず諍いの種になる。貴方を狙う男神が、波乱を起こす。そんな事態は目に見えている」
? 私を、男神が狙う? 
「あの、仁王さん、仰っている意味がよく分かりません」
「貴方の存在に感しては、私如きが言及してよいものか悩ましいのです……。とにかく、ここを出て中央の保護管理下に入る。あるいは、貴方と十夜が真に番い、夫婦となってしまうのも解決のひとつです。そうすれば虎視眈々と貴方を狙う男神も、あきらめざるを得ません」
やはり、仁王さんの言葉はよく、分からなかった。
「混乱、させてしまいましたよね。今すぐに結論を出す事は難しいかもしれません。けれど悟志という貴方の婚約者が、既に鬼籍に入っている事は事実です。だから、貴方の待つ十年という月日に意味はないのです。それを踏まえて、じっくりと、しかし早急に結論を出して欲しい。これを伝えたくて、私は今日、ここに来たのですから」
仁王さんの用件は十夜じゃなかった。最初から私に伝えるために、ここに来た……。

カラ、カラカラ。

入口の扉が、遠慮がちに開けられた。
暖簾越しに、入っていいものかと、戸惑いがちなお客様の気配が伝わってきた。
「幸子さん、お客様がいらっしゃったようですね。急に訪ねてきて、ぶしつけに言を重ねた事は謝ります。けれど天界の安寧の為に、どうしても伝えずにはおれなかったのです。どうもお邪魔しました」
仁王さんは早口に告げて頭を下げると、コマちゃんのリードを引いて入口に向かった。
「申し訳ありません。店主に無理を言って、狛犬とお邪魔をしておりました。私達はもう出ますので、中へお入りください」
仁王さんは入口で立ち竦むお客様に丁寧に頭を下げると、戸を引いてお客様を中に促した。
「あ、ほんとだイヌッコロ。あはは、なにこのイヌッコロ、ヘンな頭と尻尾でやんの」
お客様は、短いスカートを穿いて、太腿も露わな女子高生だった。
「キャン!」
コマちゃんは一声、不満そうに吠えて、女子高生の足元を通り過ぎた。
「なんだよなんだよ、店もうやってんじゃんね。だったら戸が開いたら、いらっしゃいの一声くらい掛けてよね。感じ悪いんだから。あ、アタシ、団子特盛ね」
女子高生はズンズンと店内へ進むと、ドッカリと中央のテーブル席に大股を開いて腰掛けた。

「私も直ぐに声掛けしなかったのはごめんなさい。だけど、若い娘さんがパンツ丸出しではしたない! 足は、閉じて座る!」
さすがにギョッとして、気付けば注意していた。
「はぁ~。オバサン知らないの? コレ、見せパンってーんだよ?」
! み、見せパン??
え? それよりも、オ、オバサンって私!?
「そ、それでも! 足おっぴらいて座っていい理由にはなりません! そんな事してたら、悪い人に狙われちゃうかもしれないでしょう!?」
動揺しまくりのまま、それでも何とか取り繕って、ぴちぴちの太腿をペチンと叩いた。
「やだオバサン、マジウケる~」
女子高生は何故か高らかに笑っていた。私にはウケる要素が一体どこにあったのか、分からなかった。
ともあれ、女子高生の勢いは凄まじい。
そのパワーが、僅かにでも気を抜けば闇に引き摺られそうな私の意識を、現実に留め置く。今というこの瞬間に、集中させる。
……あ、仁王さん達は……。
慌てて戸口に視線をやれば、いつの間にか戸口はピタリと閉まっており、仁王さんとコマちゃんの姿は既になかった。
「ねーオバサン、団子まだぁ?」
「あ! はぁい、すぐにお持ちします」
急かされるまま厨房に向かい、注文品の団子特盛を手に戻ってくれば、女子高生はピタリと足を閉じてお行儀よく座って待っていた。
……なんだかんだで、素直ではあるんだよね。
「なにこの団子、チョーウマイんだけど!?」
女子高生は目の前の特盛の団子を、目を丸くして頬張った。
「おかわりもあるから、ゆっくり食べて」
「え! マジで~!?」
女子高生は、一人で三人前を平らげ、三人分の姦しさだ。
「オバサンの団子屋、マジチョーヤベェし! アタシ、皆に言っ……」
けれど帰りがけ、女子高生の言葉が不自然に途切れた。
「どうかした?」
怪訝に思って問えば、女子高生は小首を傾げていた。
「……ダメだ。皆って、誰だ? おかしいな、なんか急に思い出せなくなっちゃった。……うぅ~んと、まぁいっか! オバサンの団子うめぇしな、アタシが言って回らなくても十分人気店だよな!」
あっけらかんと言って、女子高生は高らかに笑った。
これまでに、悲惨な死を連想させる魂との出会いは何度かあった。今回は、決してそれには当てはまらない。
なのに目の前の邪気の無い笑顔に、改めて死というものの重みを感じた。
「そんじゃーね、オバサン!」
「よい船旅を」
くるりと背を向けて、勢いよく女子高生が走り出す。するとスカートがピラリと翻り、パンツが覗いた。
『見てんじゃねぇバーカ!!』
ピンクのパンツのおしり側、デカデカと書かれた見せ文字(?)に、女子高生がいなくなった店内で、私は一人お腹を抱えて爆笑した。
なるほど! 見せパンというのはなかなか天晴なパンツだった!

カラカラカラ。

「邪魔するぜ」
「はーい、いらっしゃいませ……!」
い、入れ墨!!
「ねーちゃん、団子な」
「は、はい! た、たたた、ただいまお持ちします!」
「ははっ、ねーちゃん俺ぁ別に取って食いやしねぇぜ」
そうして女子高生の次は、気のいいヤクザさんがご来店。
この二人を皮切りに、この日はぞくぞくと個性派のお客様が訪れた。
おかげで仕事中、闇が私を引き摺り込む事はなかった。目の前のお客様への応対で、一日が過ぎていった。