私は十夜から聞かされた、悟志さんの寿命を知っている。
あと十年、悟志さんは来ない。
だからおばさんの語る男性は、悟志さんではあり得ない。
きっとこれは、おばさんの見間違いか他人の空似だ。
それならば、どうして私は店を放り出して埠頭に向かおうとするのだろう?
どうしてこんなにも、胸が騒ぐのか?

「臨時便、定員につき出航いたします!」

転がるように店を出たところで、出航を告げる船頭の声が高らかに響き渡った。今日は懸人さんの漕ぐ定期運航便の四便だけでは回らずに、船が増便されている。
!!
臨時便の船尖に立つ見知らぬ船頭さんが、オールで船を漕ぎ始めるのを視界に捉えた。
「待って!! 待ってーーっ!!」
私は渾身の力で叫んでいた。
けれど乗船客のひしめく船に私の叫びは届かない。船頭さんはこちらに気付かず、ひと漕ぎ、ふた漕ぎと漕ぐ度に船が遠ざかる。
「行かないでーーっ!!」
縺れる足で埠頭に辿り着き、私は水際ギリギリまで身を乗り出して叫んだ。
けれど、船が止まる事はなかった。
私は祈るような思いで目を凝らし、ひしめく乗船客の中から先程の背広姿の男性を探した。
どこ!? どこにいるっ!?
すると人に埋もれるようにして一瞬、こちらに背を向ける白髪交じりの頭髪を捉えた。けれど一度視界に捉えたはずの後姿は、すぐに別の人影に重なって見えなくなった。
「悟志さん! 悟志さんっ!! 悟志さーーーーんっっ!!」
私は声の限りに叫んだ。
これまでの人生で上げた事がないくらい、声を張った。
すると件の男性が人の隙間から垣間見える!
男性がこちらを振り返る! あぁっ、男性の顔を一目、見せてっっ!!

!!

私は力なく、埠頭に頽れた。
遠ざかる船は、もう肉眼では見えなかった。……同様に、遠すぎる男性の顔もまた、見る事は出来なかった。
男性は最後の瞬間に確かにこちらを振り返った。けれどその顔を、見せてはくれなかった……。
埠頭に膝を突いたまま、私は何も考える事が出来なかった。

「幸子さん!? 一体どうしたの!?」
!!
肩を叩かれて、顔を上げた。
「け、懸人さん……」
上げた視界に、心配そうに私を覗き込む懸人さんの姿が飛び込んだ。
そうして懸人さんの後ろには、乗船を待って列を成す多くのお客さんがこちらを見つめていた。
「幸子さん、一体何があったの? 緊急事態なら、十夜を呼んで来ようか?」
! そうか!
管理者の十夜は、船を呼び止める術を持つのか……!
けれど懸人さんは、十夜を呼んで来ようかと、そう言った。十夜は、いない??
「……十夜は、どこに? ここにはいないんですか?」
「今日は続々と死者の魂が押し寄せていますからね。三途の川から魂があぶれてしまわないように、十夜は人界との境に誘導に向かいました」
答える懸人さんの額には、汗が滲んでいた。
「ねぇお兄さん、儂ら次の船にはちゃんと乗れるんだろうね?」
「って、アンタね! 皆こうして並んでいるんだよ? 割り込みをしないどくれよ!」
そうこうしている間にも、懸人さんに向かって埠頭の方々から声があがる。私は一度、ギュッと目を瞑った。
「懸人さん、お騒がせしてすいませんでした。私は大丈夫です。十夜を呼ぶ必要もありません」
そうして再び瞼を開けると、私は真っ直ぐに懸人さんを見つめて告げた。
力の抜けた足も踏ん張って、スックと立ち上がる。
「でも、……幸子さん本当にいいんだね?」
埠頭にいた懸人さんはきっと、取り乱した私の一部始終を見ている。
懸人さんは心配そうに眉を寄せ、再度確認をくれた。
「はい! 忙しいところすいませんでした!! 私も、お茶屋に戻りますね!」
私は懸人さんに頭を下げ、放って出てきてしまった『ほほえみ茶屋』に取って返した。
「さ、幸子さんっ」
懸人さんには取り繕ってみせた。けれど『ほほえみ茶屋』に戻る私の胸には、疑念ばかりがひしめいていた。
私は頭を振りかぶり、それら全てに蓋をした。

……だってそう、私は他でもない閻魔帳に書かれた悟志さんの寿命を知っているのだ。
「アンタ!! ちゃんと会えたんか!?」
『ほほえみ茶屋』に戻る道すがらで、埠頭に向かうおばさんと行き会った。おばさんは私に気付くと、駆け寄ってきた。
「それが、どうやら人違いだったみたいです」
天界で嘘は禁忌。だけどこれは嘘じゃない。
私は男性の顔を見ていない。けれどあの男性は、悟志さんではあり得ないのだから。
「なんやて!? 人違い! そ、そら堪忍な!!」
おばさんは謝りながらも、少し釈然としない様子だった。
「いいえ。よい船旅を」
私は会釈して、今度こそおばさんを見送った。
そう、どんなに釈然としなかろうが、これが閻魔帳に書かれた事実だ!
おばさんにじゃなく、私は自分自身に強く言い聞かせた。

奇しくも『ほほえみ茶屋』の繁忙が、後押しした。息吐けぬほどの忙しさが、疑念を深堀る隙を与えない。
そうしてなんとか最後のお客様を見送って、長かった今日の営業に幕を下ろした。
遠く船頭の出航の声を聞きながら、私は精根尽き果てていた。
それくらい、今日という日は忙しかった。
……忙しい最中、私の勘違いで懸人さんには本当に申し訳ない事をした。
一日の終わりには本気でそう、思えるようになっていた。
なにより「勘違い」、それが見送った男性の真実なのだ。
「後で懸人さんに謝らなくちゃ。私ってばほんと、何を焦ってたんだろう? だって悟志さんが来るのはあと、十年先って知ってるのに……」
苦笑と共に呟いて、私は大きく一息吐き出した。
「ともあれ、今日はよく働いた……」
先にも言ったように、ここ三途の川にあって身体的な疲労という概念はない。
けれど心は疲弊する。
一般的に大きな仕事をやり切った時は、疲労感とそれを上回る達成感がある。
だけど『ほほえみ茶屋』の繁忙は、必ずしもそれに該当しない。
多くのお客様を送り出した後は、どうしても胸に寂寥感が募る。不慮の事故や災害で、志半ばで生を断たれた多くの魂を思えばやりきれなかった。
私は窓の外、沈みゆく夕日に視線をやった。
夕暮れ時は一般的に、あの世とこの世が交わると認識されている。三途の川に暮らし、現実的にそんな事象がない事を、私は既に知っている。
けれどやはり黄昏時に、一抹の寂しさが過ぎるのは、亡者らの念がそうさせているのだと思わずにはいられない。
事実、多くを見送った今日の夕日は、ひどく目に眩しくて、心の奥が締め付けられる。
沈みゆく夕日に向かい、私は静かに黙とうした。

長く手を合わせ、伏せていた顔を上げた時、夕日は完全に沈んでいた。
「! 十夜……」
隣にはいつの間にか十夜がいた。私に寄り添って、静かに手を合わせる十夜の姿があった。
「幸子、今日は大変だったろう」
閉じていた瞼を開け、合掌を解いた十夜は、静かな笑みをのせて私の肩をそっと叩いた。
「十夜も、お疲れ様です」
「ふむ、今日はお互い大忙しだったな……」
十夜の笑みの裏に、色濃く疲労感が滲む。
そんな十夜を目の当たりにすれば、つくづくあの時呼びに行かなくて良かったと、心の底から安堵した。
「けれど何とか無事に全員を送り出す事ができました」
弔いが、死者の魂に彩を添えると聞かされた。ならば私に出来るのは、精一杯の祈りを添えて見送る事だ。
「十夜、申し訳ないですがこの流れだと明日も多くのお客様がいらっしゃると思います。なので団子の仕込みも多めにします。よかったら……」
「よし、明日の仕込みは俺も手伝おう」
! 私が最後まで言いきる前、十夜はサッサと厨房に回ると団子粉に手を伸ばす。
本当は、よかったら先に帰って休んでくれと、私はそう続けるつもりだった。
「幸子、すまんが俺は作り方が分からん。指示をくれないか?」
!!
「は、はいっ!」
私は敢えて、十夜に甘える事にした。
日は沈む。けれど翌朝、また新たな日の出を迎える。
断ち切られた死は絶望じゃない。新たな生へのスタートラインだ。
死者の魂が少しでも明るく輝けるスタートを切れるように、祈りと共に団子粉を捏ねた。
団体のお客様はそれから数日間、途切れる事が無かった。