3度目に、君を好きになったとき


「今の結衣が、自信を持って幸せに生きているなら、過去を知って嫌いになる理由はないから」


 蓮先輩は優しい眼差しを私に向けてくれた。

 ――だけど。


 “自信”


 その言葉が、なぜか心の奥に引っ掛かった。





 帰りの電車は混んでいたので、未琴たちとは席が離れる形で二人ずつ座ることになった。
 行きと同じで、蓮先輩の左隣の席。先程のことがあり、少しばかり気まずい。

 蓮先輩は本当に私の過去について知らないのだろうかと不安に襲われる。

 真鳥の言う“過去”が何を示しているのかは、わからない。
 ただ、蓮先輩に知られたくないことだと、それだけは感じ取っていた。

 もしかしたら。その“過去”があるから、私のことを後輩以上には見てくれていないのかも、とか。
 考えれば考えるほどマイナスな思考でいっぱいになっていく。

 蓮先輩に好かれるような自分になりたい。


「……結衣? 具合は大丈夫?」


 心配そうに顔を覗き込まれ、ハッと我に返る。

「……あ。大丈夫、です」


 慌てて笑顔を作り、窓の外へ顔を向けた。

 夕方になり、だんだん車内が冷えてきた感じがする。
 クシュッ、とくしゃみが出てしまい、恥ずかしさに顔を伏せる。

 好きな人のそばでくしゃみをしてしまったなんて……、嫌われたかと思うと悲しい。絶対、ポイントが下がった。


「結衣、寒いの? これ、羽織ってていいよ」


 気遣ってくれた蓮先輩が、自分の着ていたコートを脱ぎ、私の肩に掛けてくれる。

 一瞬、抱きしめられたような形になって、先輩の香りにふわりと包まれた。
 即座に顔が火照っていく。


「……ありがとうございます。でも、先輩は?」
「僕なら平気。こう見えて暑がりなんだ」


 冗談ぽく笑った蓮先輩は、リュックの中から何かを取り出した。

「これ、良かったらもらって」


 蓮先輩が渡してきたのは、動物園のロゴが入った紙袋。


「え……。いいんですか?」


 そっと中を開けてみると、小さなシロクマのぬいぐるみがついたチャームが出てきて、目を丸くする。


「可愛い。大切にしますね」


 さっそく自分のリュックにつけてみると、先輩が嬉しそうに笑った。


「うん、やっぱり結衣に似合ってる」
「本当ですか? 私は何も返せるものがなくて……すみません」


 こんなことなら、自分も先輩へのお土産を買えば良かったと後悔する。


「お返しとかは気にしなくていいよ。僕がただ、あげたかっただけだから」
「でも……」
「今日は結衣と絵が描けたから楽しかったし。また今度、一緒に描きに行けたらいいなとは思ってる」
「……はい。私で良ければ」


 小さくうなずくと、蓮先輩は安心したような笑顔を見せ、背もたれに体を預けた。

 それからは、しばらく会話が途切れ。
 先輩の貸してくれたコートの暖かさに包まれたまま、いつの間にか目を閉じていた――。





─────
side 蓮
─────



 電車に揺られながら、自分の隣で無防備に眠る結衣。
 その髪に……、頬に触れたいという気持ちが湧いてしまい、無理やり視線を引き剥がす。
 心を許している証なのだろうけれど、男の隣で眠るのはどうかと思う。

 そのうち、電車の揺れでこちらに倒れてきてしまい、結衣の頭が僕の肩にもたれかかってきた。
 一瞬、頭が真っ白になる。

 花のような甘い香りと、柔らかな感触……。

 ハッと我に返ったとき、斜め前の座席にいる千尋が意味深な笑みを浮かべて、こちらを振り返っていることに気づいた。
 からかわれていると思い、無視を決め込む。
 それでもまだ視線を感じるので、軽く睨んでやると、千尋は笑いをこらえながら前に向き直った。


 初めて結衣を好きになったのは、中学のときだった。

 放課後の美術室。
 無意識に彼女を目で追っていたら、千尋に指摘され、自分の気持ちに気がついた。


『お前さー。見すぎ。白坂のこと』
『……え?』


 呆れた目つきの千尋にそう言われるまで、それが恋愛感情だとは全く意識していなかった。

 目が合っただけで嬉しいとか。
 彼女が何を好きなのか、とか。
 ほんの些細なことが、いちいち気になっていた。


 二度目は、結衣からバレンタインのプレゼントをもらったときに。

 一度、中学卒業前にした告白を断られてから、彼女への気持ちに蓋をしていた。
 結衣を好きだと思う気持ちを、自分の中から消していたつもりだったのに。
 彼女に笑顔を向けられ、会話をするうちに、そばにいたいと思う気持ちがまた生まれていた。


 そして今日、半日一緒に過ごして、前よりも彼女のことを好きになったと自覚させられた。
 もっと笑顔が見たい。
 もっとそばにいて支えたい。
 自分のことを見てほしい――。

 数えあげれば、キリがない欲望。

 彼女の健気で純粋な目が、赤く染まる頬が。まるで自分のことを慕っている風に見せてくる。
 つい、勘違いをしてしまいそうになるくらい……。


 でも。過去に一度振られているのだからと自分を戒める。これ以上、結衣のことを特別な存在だと想わないように。
 結衣にとって自分は、ただの部活仲間。自分の絵を好きだと言ってくれているだけなのだと……。

 残念ながら結衣は“あのこと”すら忘れているのだから。



 もしかしたら、彼女は記憶の一部をどこかに置いてきたのかもしれないと、都合よく考えて。
 この旅行の前に、彼女の友人である永野未琴に確かめたこともあった。

 けれど。

『永野さん……最近、白坂さんは何かを忘れたりとか、そういうことが多くなっていない?』
『え? 健忘症とかそういうことですか? 全然、ありませんよ。いつもと変わらず、普通です。……何か結衣、変な行動とってましたか?』
『……いや。何もないならいいんだ』
『そうですか。でも結衣って。昔から忘れっぽいですからね』

 僕の悩みを吹き飛ばすように笑った永野未琴は、特に友人の変化を気にしていない様子で。
 やっぱり自分は結衣にとって、すぐに忘れてしまうほど、重要な存在ではないのだと再確認させられた。



 不意に、肩の辺りに感じていた重みがなくなり、微かに寂しさを感じる。


「あっ……すみません、私……!」


 かなり焦った様子の結衣は、狭い席だというのに窓際へ思い切り体を寄せ、僕から距離をあけた。


「いや、大丈夫だよ。よく眠れた?」
「……はい」


 うつむいた結衣の頬がうっすら赤い。
 恥ずかしそうなその様子に、心を持っていかれそうになる。

 動物園で目を輝かせる結衣は可愛すぎて、何かしてあげたい気持ちになった。だから、ついプレゼントを贈ったけれど。
 積極的に行きすぎて、引かれていないか不安になった。
 嬉しそうに受け取ってくれたのは社交辞令だとしたら。本当は、僕のことをどう思っているのだろう……。

 自分に気持ちが向いていないなら、もっと努力するしかない。
 これ以上好きになったら自分が傷を負う、という矛盾を抱えながらも。
 昔とは違い、このまま諦めるという選択肢は今の自分にはなかった。

「あの。上着、ありがとうございました」


 そろそろ降りる駅が近づいてきた頃、結衣は僕のコートを脱ぎ、手渡してきた。

 それをそのまま羽織ったら、コートに残っていた彼女の体温と仄かな香りが、自分の肩に移ってきて。感情が顔に出ないように目を伏せた。


「蓮先輩。また一緒にスケッチできるの、楽しみにしてますね」


 そう言って控えめに微笑んだ結衣は、本当に“あのこと”は忘れてしまったのだと切なく思いながら――


「……僕も、楽しみにしてる」


 笑顔を作った僕は、緊張を抑えながらも小さな勇気を振り絞り、結衣の髪をそっと撫でた。



***


 2年に進級し、私は未琴や椎名さん、真鳥と同じクラスになった。
 本音を言えば、真鳥とは別のクラスがよかった。
 この前のことがあるから、彼とはなるべく距離を置いていたい。
 私の過去を知る人なんて……。


「おはよー、白坂さん」


 ポンと肩を叩かれ、振り向くと椎名さんが爽やかな笑顔で立っていた。


「椎名さん。おはよう」


 出席番号順なので、席が私の前だ。仲の良い子が近くで良かった。
 椎名さんみたいな人気のある子が、こんな私と仲良くしてくれるなんて……とありがたく思ってしまう。

 真鳥とは席が離れることができたので、ひとまず安心。
 でも真鳥の方が後ろの席だから、見張られている感じがして居心地が悪い。


「結衣、緋彩(ひいろ)。一緒のクラス、よろしくね」


 私たちの背中に触れた未琴が、笑顔で声をかける。


「うん、よろしくね」
「よろしく、未琴」


 未琴と椎名さんが同じクラスなら、きっと大丈夫だよね。
 真鳥とも仲が良いみたいだし。
 何かあっても、助けてくれるはず。

 そう前向きに考え、私は一時限目の準備を始めた。