「だ、誰か見てるかもしれないし、無理じゃない?」
「薄暗いし大丈夫だろ」
辺りを見回す私へ、真鳥が一歩近づく。
「俺だって、したくてしてるわけじゃないんだからな? 儀式だと思えば、きっと何も感じない」
「……そっか。儀式ね」
そう思えば、何とか我慢できなくもない。
「だから、この契約は女子限定にしてもらいたいね。男はムリ」
「あのー……、他の方法はないの?」
できることなら、好きでもない人にキスをされるのは遠慮したい。
「あるよ一応。でも、かなりの痛みを伴うからな……」
「痛み?」
(何だろう、すっごく気になる)
「精神的な苦痛、3日間悪夢を見て熱を出すっていう話だよ」
「痛いのは嫌だなー」
「じゃあ今回は優しくするよ。痛くない方法で――」
すぐそばまで近づいた真鳥が、私の左の頬に手を添える。
「まず練習してみようか。目を閉じて、一度頭の中を真っ白にしてから、忘れたい記憶をイメージして」
私は指示されたとおり、目を瞑り柏木先輩と三井先輩が寄り添う姿を思い浮かべた。
思い出したせいで、閉じた瞼に涙が滲んでくる。
先輩に抱いていた想いを、無くしてしまいたい……
そのとき、ふっと額に何か柔らかいものが触れ、私は目を開けようとした――。
目を開けたら、すぐそばに真鳥がいて私の二の腕を支えるように触れていた。
驚きのあまり後ずさる。
「気分はどう?」
真鳥は心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「立ちくらみでもしたの? 貧血? 白坂、いきなり倒れ込んできたから」
「あ……ごめん。もう大丈夫。気分は悪くないし」
なんだか、霧が晴れたようにひどくすっきりした気がする。
(私、真鳥と何をしに公園に来たのかな)
めまいがした直前の出来事を、よく覚えていなかった。
不審に思いながらも、その後は真鳥に家まで送ってもらい、家で安静にすることにした。
*
「ねえ結衣。真鳥、どうだった?」
一年生の廊下で未琴にそう聞かれたのは、次の日のことだった。
「え、真鳥……?」
「結衣が気に入りそうかと思って、まずは友達として紹介してみたの」
「どうって……昨日は家まで送ってもらっただけで」
「送ってもらっただけー?」
腕を組んだ未琴はどこか不満げに聞き返した。
「……あ、でも真鳥と会ったあとの私、何だか気分がすっきりした感じがしたよ。意外と癒し系なのかな」
「そっかぁ、良かった。結衣、もっと落ち込んでるかと思ったから。真鳥のこと紹介して良かったかな」
安心したように未琴は笑い、自分のクラスへ入って行った。
(落ち込む? ……私、何かあったかな)
考え込むも、頭の中に靄がかかったみたいに、それ以上探ることはできなかった。
美術室は校舎の北側にあり、窓からグラウンドを見渡せる位置にあった。
重いドアを開けて中に入っても何の気配もなく、まだ誰も来ていないようだった。
いつもの自分の席へ向かおうとしたとき、窓際に立て掛けられたキャンバスに気がついた。
そこには途中まで描かれた絵があった。
それを見て、すぐに誰の絵なのか私にはわかった。
柏木先輩の、空の絵だ。
水彩で描かれた、淡い水色と薄紫の繊細なグラデーション。
中学のときに美術部に入ってから、柏木先輩の描く絵がずっと好きだった。それは高校に入った今も変わらない。
「――白坂さん?」
優しく背後から呼びかける声にハッと我に返る。
「……あ。柏木先輩」
先輩に声をかけられて、振り向いた私は自然と笑顔になっていた。
「この絵、もうすぐ完成ですか?」
「うん。あと少しかな」
ベージュのブレザーを脱ぎ、椅子の背もたれに掛けた先輩は、絵の具やパレットの準備を始める。
白シャツにオリーブグリーンのニットを重ねたその姿もよく似合っていた。
私は空の絵だけでなく、目の前にいる先輩にも憧れを持っていた。
別に彼女になりたいとか、そこまでの想いではなくて。ただ時々一緒に絵を描き、話ができればという程度。
先輩にはファンの子がたくさんいるけど、私はそこには混ざれない。
気軽に話しかけに行けるその子たちみたいに、自分に自信があるわけではないし。先輩と並んでつり合いの取れるような見た目でもないから。
「最近、一緒にいる人……白坂さんの彼氏?」
思いがけないことを言われ、画材の準備をしていた手が止まる。
先輩の顔をちらりと見れば、いつもは涼しげな瞳が不安そうな色を宿して揺れていた。
「彼氏じゃないですよ、ちょっとした知り合いです」
「そっか……。じゃあ、これを渡しても怒られないかな」
先輩が渡してきたのは、綺麗にラッピングされた箱。
リボンには有名なケーキショップの名前がアルファベットで刻まれている。
思えば今日はホワイトデー。
一ヶ月前に義理チョコを渡した記憶は、何となくある。わざわざ、そのお返しを用意してくれたなんて。
「ありがとうございます。嬉しいです」
そっと受け取った私は笑顔でお礼を伝えた。先輩からもらった物なら、何でも嬉しいと思えてくる。
「――良かった。断られるかと思った」
ホッとしたように先輩が小さく息をつく。
(え……?)
先輩からのプレゼントを断るはずなんてないのに、と私は首を傾げた。
「白坂さん、今日は何を描くの?」
「私は……、今は特に描きたいものがなくて。悩んでいるところです」
「それなら、今度一緒に題材を探しに行こうか」
柏木先輩はおっとりとした口調で提案する。
「題材、ですか?」
「そう。いろんな場所に行けば、刺激を受けて良い絵が描けるかもしれない」
「いいですね、私も探しに行ってみたいです」
「春休みでも良ければ、行ってみようか」
「はい。楽しみにしてます」
頷いた私に向けて、嬉しそうに目を細め甘く微笑むものだから、頬がさらに熱を持つ。
光の加減でセピア色に見える、サラサラとした癖のない髪。ゆっくりと瞬きをする、涼しげな切れ長の瞳。
見つめれば見つめるほど、心音が速まっていく。
(でも、先輩は彼女がいるはずなのに、いいのかな……?)
甘い空気を、そんな小さな疑問が破る。
二人きりで、という意味ではなかったのかもしれない。他にも部員はいるのだし。
「白坂さん……」
私の頬の辺りへ手を伸ばし、先輩が何かを言いかける。
指先が頬へ届きそうになったとき――。
「こんな所でイチャつくなよ」
刺々しい声で美術室に入ってきたのは、凝ったデザインのシルバーフレームの眼鏡をかけ、冷たい目をした千尋先輩だった。
私は慌てて柏木先輩から距離を置く。
けれど柏木先輩は焦った様子は見せず、微笑みながら千尋先輩を振り返った。
「千尋、羨ましいって正直に言っていいんだよ?」
「阿呆か。こっちは彼女と別れたばっかりだっていうのに、見せつけるな」
「また別れたんですか?」
呆れた私は思わず口を挟む。
「千尋先輩のことだから、明日にはまた別の彼女ができていそうですよね」
知的で真面目そうな見た目によらず、彼女がいない時期がほとんどなく。常に切れ目なく彼女がいるタイプだった。
「そういうお前は、生まれてから一度も彼氏がいた試しがないんだったな?」
あっさり切り返され、への字口になる。
「私のことは放っておいてください」
柏木先輩の前で何も経験がないとバラされるなんて、恥ずかしすぎる。
当の柏木先輩は気にする様子はなく、空の絵の続きを描き始めていた。
「お前、手に持ってるの何?」
目ざとく私の手の中にあるプレゼントを指差し、千尋先輩が聞いてくる。
「な、何でもないです」
「まさか男からホワイトデーのお返し、もらったとか?」
一瞬だけ柏木先輩の方へ視線を流し、意地悪く笑う。
「どうせ義理だろ、本気にするなよ」
「わかってます、私のこと好きな人なんて、いるわけないですもんね」
喧嘩になりそうな勢いを、穏やかな声が遮る。
「――ほんと、二人は仲が良いよね」
振り向けば、柏木先輩がまた筆を止め私たちを静観していた。
「こういうのは、仲が悪いというのでは……?」
私が首を傾けると、先輩は小さく微笑んだ。どこか寂しそうなその笑顔に、胸がちくりと痛む。
「千尋といるときの白坂さんって、自然体だなと思って。素でじゃれ合っている感じがして、楽しそう」
言われてみれば、柏木先輩といるときは緊張してしまうから、うまく自分を出せないけど。千尋先輩とは兄妹のような感覚で、普通に喧嘩までできてしまう。
「馬鹿言うな。こいつとは、じゃれ合ってるわけじゃないからな」
辛辣な千尋先輩の言葉に私は肩をすくめ、プレゼントを鞄にしまうために、そっとその場を離れた。