3度目に、君を好きになったとき


「だ、誰か見てるかもしれないし、無理じゃない?」
「薄暗いし大丈夫だろ」


 辺りを見回す私へ、真鳥が一歩近づく。


「俺だって、したくてしてるわけじゃないんだからな? 儀式だと思えば、きっと何も感じない」
「……そっか。儀式ね」


 そう思えば、何とか我慢できなくもない。


「だから、この契約は女子限定にしてもらいたいね。男はムリ」
「あのー……、他の方法はないの?」


 できることなら、好きでもない人にキスをされるのは遠慮したい。


「あるよ一応。でも、かなりの痛みを伴うからな……」
「痛み?」


(何だろう、すっごく気になる)


「精神的な苦痛、3日間悪夢を見て熱を出すっていう話だよ」
「痛いのは嫌だなー」
「じゃあ今回は優しくするよ。痛くない方法で――」


 すぐそばまで近づいた真鳥が、私の左の頬に手を添える。


「まず練習してみようか。目を閉じて、一度頭の中を真っ白にしてから、忘れたい記憶をイメージして」


 私は指示されたとおり、目を瞑り柏木先輩と三井先輩が寄り添う姿を思い浮かべた。
 思い出したせいで、閉じた瞼に涙が滲んでくる。


 先輩に抱いていた想いを、無くしてしまいたい……


 そのとき、ふっと額に何か柔らかいものが触れ、私は目を開けようとした――。




 目を開けたら、すぐそばに真鳥がいて私の二の腕を支えるように触れていた。
 驚きのあまり後ずさる。


「気分はどう?」


 真鳥は心配そうに私の顔を覗き込んでいた。


「立ちくらみでもしたの? 貧血? 白坂、いきなり倒れ込んできたから」
「あ……ごめん。もう大丈夫。気分は悪くないし」


 なんだか、霧が晴れたようにひどくすっきりした気がする。


(私、真鳥と何をしに公園に来たのかな)


 めまいがした直前の出来事を、よく覚えていなかった。


 不審に思いながらも、その後は真鳥に家まで送ってもらい、家で安静にすることにした。







「ねえ結衣。真鳥、どうだった?」


 一年生の廊下で未琴にそう聞かれたのは、次の日のことだった。


「え、真鳥……?」
「結衣が気に入りそうかと思って、まずは友達として紹介してみたの」
「どうって……昨日は家まで送ってもらっただけで」
「送ってもらっただけー?」


 腕を組んだ未琴はどこか不満げに聞き返した。


「……あ、でも真鳥と会ったあとの私、何だか気分がすっきりした感じがしたよ。意外と癒し系なのかな」
「そっかぁ、良かった。結衣、もっと落ち込んでるかと思ったから。真鳥のこと紹介して良かったかな」


 安心したように未琴は笑い、自分のクラスへ入って行った。


(落ち込む? ……私、何かあったかな)


 考え込むも、頭の中に靄がかかったみたいに、それ以上探ることはできなかった。



 美術室は校舎の北側にあり、窓からグラウンドを見渡せる位置にあった。
 重いドアを開けて中に入っても何の気配もなく、まだ誰も来ていないようだった。

 いつもの自分の席へ向かおうとしたとき、窓際に立て掛けられたキャンバスに気がついた。
 そこには途中まで描かれた絵があった。
 それを見て、すぐに誰の絵なのか私にはわかった。

 柏木先輩の、空の絵だ。

 水彩で描かれた、淡い水色と薄紫の繊細なグラデーション。

 中学のときに美術部に入ってから、柏木先輩の描く絵がずっと好きだった。それは高校に入った今も変わらない。


「――白坂さん?」

 優しく背後から呼びかける声にハッと我に返る。


「……あ。柏木先輩」

 先輩に声をかけられて、振り向いた私は自然と笑顔になっていた。


「この絵、もうすぐ完成ですか?」
「うん。あと少しかな」


 ベージュのブレザーを脱ぎ、椅子の背もたれに掛けた先輩は、絵の具やパレットの準備を始める。
 白シャツにオリーブグリーンのニットを重ねたその姿もよく似合っていた。

 私は空の絵だけでなく、目の前にいる先輩にも憧れを持っていた。
 別に彼女になりたいとか、そこまでの想いではなくて。ただ時々一緒に絵を描き、話ができればという程度。

 先輩にはファンの子がたくさんいるけど、私はそこには混ざれない。
 気軽に話しかけに行けるその子たちみたいに、自分に自信があるわけではないし。先輩と並んでつり合いの取れるような見た目でもないから。


「最近、一緒にいる人……白坂さんの彼氏?」


 思いがけないことを言われ、画材の準備をしていた手が止まる。
 先輩の顔をちらりと見れば、いつもは涼しげな瞳が不安そうな色を宿して揺れていた。


「彼氏じゃないですよ、ちょっとした知り合いです」
「そっか……。じゃあ、これを渡しても怒られないかな」


 先輩が渡してきたのは、綺麗にラッピングされた箱。
 リボンには有名なケーキショップの名前がアルファベットで刻まれている。

 思えば今日はホワイトデー。
 一ヶ月前に義理チョコを渡した記憶は、何となくある。わざわざ、そのお返しを用意してくれたなんて。


「ありがとうございます。嬉しいです」


 そっと受け取った私は笑顔でお礼を伝えた。先輩からもらった物なら、何でも嬉しいと思えてくる。


「――良かった。断られるかと思った」


 ホッとしたように先輩が小さく息をつく。


(え……?)

 先輩からのプレゼントを断るはずなんてないのに、と私は首を傾げた。



「白坂さん、今日は何を描くの?」
「私は……、今は特に描きたいものがなくて。悩んでいるところです」
「それなら、今度一緒に題材を探しに行こうか」


 柏木先輩はおっとりとした口調で提案する。


「題材、ですか?」
「そう。いろんな場所に行けば、刺激を受けて良い絵が描けるかもしれない」
「いいですね、私も探しに行ってみたいです」
「春休みでも良ければ、行ってみようか」
「はい。楽しみにしてます」


 頷いた私に向けて、嬉しそうに目を細め甘く微笑むものだから、頬がさらに熱を持つ。

 光の加減でセピア色に見える、サラサラとした癖のない髪。ゆっくりと瞬きをする、涼しげな切れ長の瞳。
 見つめれば見つめるほど、心音が速まっていく。


(でも、先輩は彼女がいるはずなのに、いいのかな……?)


 甘い空気を、そんな小さな疑問が破る。
 二人きりで、という意味ではなかったのかもしれない。他にも部員はいるのだし。


「白坂さん……」


 私の頬の辺りへ手を伸ばし、先輩が何かを言いかける。
 指先が頬へ届きそうになったとき――。


「こんな所でイチャつくなよ」


 刺々しい声で美術室に入ってきたのは、凝ったデザインのシルバーフレームの眼鏡をかけ、冷たい目をした千尋(ちひろ)先輩だった。

 私は慌てて柏木先輩から距離を置く。
 けれど柏木先輩は焦った様子は見せず、微笑みながら千尋先輩を振り返った。


「千尋、羨ましいって正直に言っていいんだよ?」
「阿呆か。こっちは彼女と別れたばっかりだっていうのに、見せつけるな」
「また別れたんですか?」


 呆れた私は思わず口を挟む。

「千尋先輩のことだから、明日にはまた別の彼女ができていそうですよね」


 知的で真面目そうな見た目によらず、彼女がいない時期がほとんどなく。常に切れ目なく彼女がいるタイプだった。


「そういうお前は、生まれてから一度も彼氏がいた試しがないんだったな?」


 あっさり切り返され、への字口になる。


「私のことは放っておいてください」


 柏木先輩の前で何も経験がないとバラされるなんて、恥ずかしすぎる。
 当の柏木先輩は気にする様子はなく、空の絵の続きを描き始めていた。


「お前、手に持ってるの何?」


 目ざとく私の手の中にあるプレゼントを指差し、千尋先輩が聞いてくる。


「な、何でもないです」
「まさか男からホワイトデーのお返し、もらったとか?」


 一瞬だけ柏木先輩の方へ視線を流し、意地悪く笑う。

「どうせ義理だろ、本気にするなよ」
「わかってます、私のこと好きな人なんて、いるわけないですもんね」


 喧嘩になりそうな勢いを、穏やかな声が遮る。


「――ほんと、二人は仲が良いよね」


 振り向けば、柏木先輩がまた筆を止め私たちを静観していた。


「こういうのは、仲が悪いというのでは……?」


 私が首を傾けると、先輩は小さく微笑んだ。どこか寂しそうなその笑顔に、胸がちくりと痛む。


「千尋といるときの白坂さんって、自然体だなと思って。素でじゃれ合っている感じがして、楽しそう」


 言われてみれば、柏木先輩といるときは緊張してしまうから、うまく自分を出せないけど。千尋先輩とは兄妹のような感覚で、普通に喧嘩までできてしまう。


「馬鹿言うな。こいつとは、じゃれ合ってるわけじゃないからな」


 辛辣な千尋先輩の言葉に私は肩をすくめ、プレゼントを鞄にしまうために、そっとその場を離れた。

3度目に、君を好きになったとき

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