3度目に、君を好きになったとき


「真鳥とのことは、その……事情があって」
「……事情」


 不本意だったことを強調したつもりなのに、先輩の表情は硬いままだ。


 それは当然、仕方のないことで。
 不意打ちとはいえ、嫌なら真鳥のそばから逃げ出せば良かったのだから。


 ……そうしなかった理由は、なぜだか思い出せない。

 鈍い頭痛がして、何かに邪魔をされている気分だ。



 話を終わらせようとするかのように、蓮先輩が立ち上がり、淡い紫に染まり始めた空へ視線を向けた。


「暗くなってきたね。……送るよ」


 まだ先輩のそばにいたい気持ちはあったけれど。
 未琴の言葉を思い出し、そんな雰囲気になる前に帰った方がいいのかもしれないと感じた。
 だから素直にうなずき、部屋をあとにした。


 未琴が言っていた、三井先輩との噂が本当なのかどうか。
 これ以上、重い空気になるのは耐えられなくて、蓮先輩に確かめることはできなかった。





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side 蓮
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『ある、かもしれないです。……好きじゃない人となら』


 結衣を自宅まで送り届けたあと、一人今日の出来事を思い返す。


 好きじゃない相手なら、どうして真鳥を受け入れていたのか。

 あのとき、結衣は彼からのキスを嫌がっているようには見えなかった。


 それとも、中学卒業前の自分が結衣にしたことも含まれている……?

 遠回しに自分のことも『好きじゃない』と拒否されている気がした。

 彼女は自分との思い出も、絵のことも、すべて忘れている。
 いや、忘れた振りをしているのか……。

 だとしたら、もう結衣に近づくのはおしまいにしよう。
 元々、結衣があの約束を忘れていたら、諦めようと思っていた。

 あの絵を実際に見ても、少しも表情を変えず。
 ただ、空の色を褒めてきただけだった。

 さすがにショックは大きく、結衣にとって自分は、特別ではないのだと改めて思い知らされた。



 自分の家に近づいてきた頃、見知った顔とすれ違った。


「――蓮。どうした? 暗い顔して」


 軽く首を傾けて訊いてきたのは、千尋だった。買い物にでも出かけるところなのか、ラフな私服姿だ。


「デートの帰りなんだろ。それにしては悲壮な顔つきだな」

「……もう、終わりにしたんだ。結衣のことは」


 千尋は一瞬、眼鏡の奥の目を見開き、それから皮肉げに笑った。


「また、諦めるんだな。中学のときみたいに」
「……そうだね。今度こそ忘れようと思う」
「意気地無し。ヘタレ」
「何とでも言って」


 怒る気力もなく、千尋の傍らを通り抜ける。
 それ以上、千尋は何も声をかけてこなかった。




 アトリエに戻り、窓際の絵に白い布をかけ、この部屋から存在を隠す。

 もう二度と続きを描くことのない、空の絵。

 忘れ去られた約束は、果たされることはなく。
 長年の自分の想いにも蓋をすることにした。


 彼女との思い出を消すことなら、自分にも簡単にできると――
 沈みそうになる心を奮い立たせて。






***


「蓮先輩、おはようございます」


 朝、廊下ですれ違ったとき。
 なるべく明るく声をかけたつもりだったのに、


「……おはよう」


 先輩からは礼儀的な挨拶が返ってきただけだった。
 いつもなら優しく微笑みながら声をかけてくれる。
 けれど今日は、一瞬も笑顔を作らず、合いかけた目もすぐにそらされた。
 温度の感じられないその目は、『おはよう』という言葉さえ返ってこないのでは、と危ぶむほど冷え切っていた。


(私……何か、したかな)


 常に穏やかな蓮先輩から冷たくされることは、滅多にない。
 だからよけいに、心に負った傷が深かった。



「蓮、おはよう」


 聞き覚えのある声がして、そっと振り返ると、三井先輩へ向けて優しく微笑む蓮先輩の姿が視界に入った。
 私へ向けた冷たい視線とは全く違う、優しい眼差し。


「ねぇ。今週末、一緒に美術館に行こうよ。蓮の好きそうな絵を見つけたんだ」
「美術館か。いいね」


 まるで付き合いたてのように親しげに話す彼らは、すぐに私の視界から消えていく。

 私が入る隙なんて、欠片もなかった。


 やっぱり、未琴の言っていたことは本当だったみたいだ。
 二人の関係はまだ、続いていると。

 あの日、自宅のアトリエに誘ってくれたのは、ただの気まぐれで。
 知らないうちに嫌な思いをさせてしまった私のことは、もう二度と誘ってくれることはないだろうと感じた。


 教室に近づくにつれて、どことなく不穏な空気に変わっていく。


『ほら、あの子じゃない?』

『ああ、あの子ね……』

『柏木先輩と三井先輩の仲を引き裂いたくせに、沢本君のことも狙っているらしいよ』

『そんなふうに見えないのにね、サイテー』

『三井先輩、かわいそー』


 廊下で顔を寄せ合う生徒たちは、私の方をちらちらと見て、眉をひそめたり嗤ったりしていた。

 どうしてそんな噂が?と、首を傾げたくなった。
 最近、沢本君とは挨拶すらしていないのに。


「おはよう、未琴」
「……ああ、おはよ」


 ざわつく教室に入ると、未琴までもが、なぜかよそよそしく目をそらす。
 普通に接してくれているのは、椎名さんくらいのものだった。




 そっけない未琴の態度を寂しく思いながらも、放課後を迎える。


 蓮先輩のいる美術室は気まずくて入れず。
 そのまま帰ろうとしていたら、目つきの悪い沢本君に声をかけられた。


「白坂。ちょっと話があるから、一緒に帰るぞ」

「えっ……? ま、待って、やめてよ」


 痛いぐらいに手首をつかまれ、裏庭へ連れて行かれる。
 沢本君には何か、弱みを握られているような――嫌な感じがした。

 何のために、私をこんな薄暗い場所に連れてきたのだろう。
 私が沢本君のことも狙っている、という間違った噂を彼も耳にしたから?

 校舎の壁により行き止まりになったその空間で、私と沢本君は向き合う。
 手首はまだ離してくれない。


「白坂。柏木先輩だけでなく、俺のことも狙ってるんだって?」


 意地悪な笑顔で、彼が私を見下ろす。


「……違うよ、それはみんなが誤解してるだけで、」


 手首をつかんでいない方の手が、私の頬をゆっくりとなぞる。


「こんなに、うまくいくとは思わなかったな……」


 彼の目元が愉しげに歪んでいく。


「沢本君が、噂をばらまいたの……?」


 こわごわ尋ねた私に、クッと彼は肩を震わせた。


「このまま『俺と付き合い始めた』って噂を流したら、終わりだな」


 沢本君は勝ち誇ったように笑った。


「さすがにもう、嫌われるだろ。お前の大好きな柏木蓮先輩に」

 蓮先輩に、嫌われる……。

 それは私にとって、一番避けたい出来事だ。
 この世の終わりと言ってもいいくらいの――。


「おとなしく、俺と付き合っておけよ」
「……付き合わない」


 沢本君を睨むようにして断ると、彼の表情がみるみるうちに歪んでいった。


「じゃあ、ばらすからな。蓮先輩に。あのことを」
「あのこと……?」


 哀しげな目をした沢本君が、私の首に手を伸ばした。
 手のひらで首筋をなぞり、感触を確かめるように柔く圧をかける。


「本当に白坂は、俺の言うことを聞かないな」


 首にかかる両手に、それほど力は入っていない。
 いつ、力を込めて絞められるか。
 その緊張感だけがあった。

 以前も、今とほぼ同じ状況になったことがあった気がする。
 あれは確か、中学生のときに……。


「どうしたら、あいつのことを忘れる? ここまでしても、忘れないなんてな」


 彼の指が私の喉の上を滑る。


「俺のことは無視して、自分だけ幸せになろうとするなんて。都合がよすぎるんじゃないか?」

「無視……?」
「中学のときに――先輩たちに殴られてる俺のことを、見て見ぬふりをして逃げていったことがあったよな」


 霞がかった記憶の向こうに、彼が言ったその光景が浮かび上がる。

 複数の生徒に囲まれ、髪の毛を鷲掴みされている彼と、一瞬だけ目が合って――。


「そのことを、あいつにばらされたくなかったら。俺と付き合うって言えよ……」


 懇願すら感じさせる瞳で、彼が私を見下ろす。


「お前、あの日俺がイジメられていたことを知ったから、俺に見向きもしなかったんだろ」


 沢本君の目元には、卑屈な笑いが見え隠れしている。


「そりゃあ、こんな嫌われてる男より、誰からも好かれてる、あの先輩の方がいいよなぁ」


 違う、いじめられていたからってわけじゃない。

 そう言いたかったのに、喉がかすれて声が出なかった。


「よく考えたら、俺たち似ているな――嫌われ者同士」


 一歩前に詰めてきた彼の制服が、私の体に当たる。もう、逃げ場がない。


「お気の毒さま。あの女に目をつけられたばっかりに」
「……あの女、って?」


 沢本君はスッと目をそらし、話をはぐらかすように私の髪を弄び始めた。
「白坂。俺にあんなことまでされて……あいつに知られたら、困る秘密ばかり持ってるな」


 意地悪く笑った沢本君は、低く耳元で囁いた。

 きっと私が色々と忘れているせいで、彼の指す言葉の意味は、ほとんど思い当たらなかったけれど。
 ただ、これだけは言える。


「秘密を知られて、嫌われたとしても……それでも私は、蓮先輩が好き。先輩の絵が好き」


 もう、嫌われてもいい。
 充分、先輩のそばにいられたし、たくさん幸せをもらった。
 何より、自分が嫌われるよりも、先輩を好きな気持ちを消したくない。

 ただ、先輩を好きでいたい。

 永遠に片想いだとしても。



「……もしかして。沢本君も、同じなの?」


 ふと、私は不穏な色をした彼の瞳を覗き込んだ。


「私みたいに、過去の秘密を知られて、人に嫌われてしまうのが怖かったの?」


 沢本君はギクリとした様子で表情を強張らせる。


「そんな過去があるからって、私は嫌わないよ」
「……は?」


 憑き物が落ちたように、彼は聞き返した。


「だったら……何であのとき、見て見ぬふりをした?」


 見て、見ぬふり……?


「――それは違うよ、沢本」


 不意にアルトの声が響いた。
 沢本君が私のそばから一歩離れ、声の主を睨みつける。