「真鳥とのことは、その……事情があって」
「……事情」
不本意だったことを強調したつもりなのに、先輩の表情は硬いままだ。
それは当然、仕方のないことで。
不意打ちとはいえ、嫌なら真鳥のそばから逃げ出せば良かったのだから。
……そうしなかった理由は、なぜだか思い出せない。
鈍い頭痛がして、何かに邪魔をされている気分だ。
話を終わらせようとするかのように、蓮先輩が立ち上がり、淡い紫に染まり始めた空へ視線を向けた。
「暗くなってきたね。……送るよ」
まだ先輩のそばにいたい気持ちはあったけれど。
未琴の言葉を思い出し、そんな雰囲気になる前に帰った方がいいのかもしれないと感じた。
だから素直にうなずき、部屋をあとにした。
未琴が言っていた、三井先輩との噂が本当なのかどうか。
これ以上、重い空気になるのは耐えられなくて、蓮先輩に確かめることはできなかった。
─────
side 蓮
─────
『ある、かもしれないです。……好きじゃない人となら』
結衣を自宅まで送り届けたあと、一人今日の出来事を思い返す。
好きじゃない相手なら、どうして真鳥を受け入れていたのか。
あのとき、結衣は彼からのキスを嫌がっているようには見えなかった。
それとも、中学卒業前の自分が結衣にしたことも含まれている……?
遠回しに自分のことも『好きじゃない』と拒否されている気がした。
彼女は自分との思い出も、絵のことも、すべて忘れている。
いや、忘れた振りをしているのか……。
だとしたら、もう結衣に近づくのはおしまいにしよう。
元々、結衣があの約束を忘れていたら、諦めようと思っていた。
あの絵を実際に見ても、少しも表情を変えず。
ただ、空の色を褒めてきただけだった。
さすがにショックは大きく、結衣にとって自分は、特別ではないのだと改めて思い知らされた。
自分の家に近づいてきた頃、見知った顔とすれ違った。
「――蓮。どうした? 暗い顔して」
軽く首を傾けて訊いてきたのは、千尋だった。買い物にでも出かけるところなのか、ラフな私服姿だ。
「デートの帰りなんだろ。それにしては悲壮な顔つきだな」
「……もう、終わりにしたんだ。結衣のことは」
千尋は一瞬、眼鏡の奥の目を見開き、それから皮肉げに笑った。
「また、諦めるんだな。中学のときみたいに」
「……そうだね。今度こそ忘れようと思う」
「意気地無し。ヘタレ」
「何とでも言って」
怒る気力もなく、千尋の傍らを通り抜ける。
それ以上、千尋は何も声をかけてこなかった。
アトリエに戻り、窓際の絵に白い布をかけ、この部屋から存在を隠す。
もう二度と続きを描くことのない、空の絵。
忘れ去られた約束は、果たされることはなく。
長年の自分の想いにも蓋をすることにした。
彼女との思い出を消すことなら、自分にも簡単にできると――
沈みそうになる心を奮い立たせて。
***
*
「蓮先輩、おはようございます」
朝、廊下ですれ違ったとき。
なるべく明るく声をかけたつもりだったのに、
「……おはよう」
先輩からは礼儀的な挨拶が返ってきただけだった。
いつもなら優しく微笑みながら声をかけてくれる。
けれど今日は、一瞬も笑顔を作らず、合いかけた目もすぐにそらされた。
温度の感じられないその目は、『おはよう』という言葉さえ返ってこないのでは、と危ぶむほど冷え切っていた。
(私……何か、したかな)
常に穏やかな蓮先輩から冷たくされることは、滅多にない。
だからよけいに、心に負った傷が深かった。
「蓮、おはよう」
聞き覚えのある声がして、そっと振り返ると、三井先輩へ向けて優しく微笑む蓮先輩の姿が視界に入った。
私へ向けた冷たい視線とは全く違う、優しい眼差し。
「ねぇ。今週末、一緒に美術館に行こうよ。蓮の好きそうな絵を見つけたんだ」
「美術館か。いいね」
まるで付き合いたてのように親しげに話す彼らは、すぐに私の視界から消えていく。
私が入る隙なんて、欠片もなかった。
やっぱり、未琴の言っていたことは本当だったみたいだ。
二人の関係はまだ、続いていると。
あの日、自宅のアトリエに誘ってくれたのは、ただの気まぐれで。
知らないうちに嫌な思いをさせてしまった私のことは、もう二度と誘ってくれることはないだろうと感じた。
教室に近づくにつれて、どことなく不穏な空気に変わっていく。
『ほら、あの子じゃない?』
『ああ、あの子ね……』
『柏木先輩と三井先輩の仲を引き裂いたくせに、沢本君のことも狙っているらしいよ』
『そんなふうに見えないのにね、サイテー』
『三井先輩、かわいそー』
廊下で顔を寄せ合う生徒たちは、私の方をちらちらと見て、眉をひそめたり嗤ったりしていた。
どうしてそんな噂が?と、首を傾げたくなった。
最近、沢本君とは挨拶すらしていないのに。
「おはよう、未琴」
「……ああ、おはよ」
ざわつく教室に入ると、未琴までもが、なぜかよそよそしく目をそらす。
普通に接してくれているのは、椎名さんくらいのものだった。
*
そっけない未琴の態度を寂しく思いながらも、放課後を迎える。
蓮先輩のいる美術室は気まずくて入れず。
そのまま帰ろうとしていたら、目つきの悪い沢本君に声をかけられた。
「白坂。ちょっと話があるから、一緒に帰るぞ」
「えっ……? ま、待って、やめてよ」
痛いぐらいに手首をつかまれ、裏庭へ連れて行かれる。
沢本君には何か、弱みを握られているような――嫌な感じがした。
何のために、私をこんな薄暗い場所に連れてきたのだろう。
私が沢本君のことも狙っている、という間違った噂を彼も耳にしたから?
校舎の壁により行き止まりになったその空間で、私と沢本君は向き合う。
手首はまだ離してくれない。
「白坂。柏木先輩だけでなく、俺のことも狙ってるんだって?」
意地悪な笑顔で、彼が私を見下ろす。
「……違うよ、それはみんなが誤解してるだけで、」
手首をつかんでいない方の手が、私の頬をゆっくりとなぞる。
「こんなに、うまくいくとは思わなかったな……」
彼の目元が愉しげに歪んでいく。
「沢本君が、噂をばらまいたの……?」
こわごわ尋ねた私に、クッと彼は肩を震わせた。
「このまま『俺と付き合い始めた』って噂を流したら、終わりだな」
沢本君は勝ち誇ったように笑った。
「さすがにもう、嫌われるだろ。お前の大好きな柏木蓮先輩に」
蓮先輩に、嫌われる……。
それは私にとって、一番避けたい出来事だ。
この世の終わりと言ってもいいくらいの――。
「おとなしく、俺と付き合っておけよ」
「……付き合わない」
沢本君を睨むようにして断ると、彼の表情がみるみるうちに歪んでいった。
「じゃあ、ばらすからな。蓮先輩に。あのことを」
「あのこと……?」
哀しげな目をした沢本君が、私の首に手を伸ばした。
手のひらで首筋をなぞり、感触を確かめるように柔く圧をかける。
「本当に白坂は、俺の言うことを聞かないな」
首にかかる両手に、それほど力は入っていない。
いつ、力を込めて絞められるか。
その緊張感だけがあった。
以前も、今とほぼ同じ状況になったことがあった気がする。
あれは確か、中学生のときに……。
「どうしたら、あいつのことを忘れる? ここまでしても、忘れないなんてな」
彼の指が私の喉の上を滑る。
「俺のことは無視して、自分だけ幸せになろうとするなんて。都合がよすぎるんじゃないか?」
「無視……?」
「中学のときに――先輩たちに殴られてる俺のことを、見て見ぬふりをして逃げていったことがあったよな」
霞がかった記憶の向こうに、彼が言ったその光景が浮かび上がる。
複数の生徒に囲まれ、髪の毛を鷲掴みされている彼と、一瞬だけ目が合って――。
「そのことを、あいつにばらされたくなかったら。俺と付き合うって言えよ……」
懇願すら感じさせる瞳で、彼が私を見下ろす。
「お前、あの日俺がイジメられていたことを知ったから、俺に見向きもしなかったんだろ」
沢本君の目元には、卑屈な笑いが見え隠れしている。
「そりゃあ、こんな嫌われてる男より、誰からも好かれてる、あの先輩の方がいいよなぁ」
違う、いじめられていたからってわけじゃない。
そう言いたかったのに、喉がかすれて声が出なかった。
「よく考えたら、俺たち似ているな――嫌われ者同士」
一歩前に詰めてきた彼の制服が、私の体に当たる。もう、逃げ場がない。
「お気の毒さま。あの女に目をつけられたばっかりに」
「……あの女、って?」
沢本君はスッと目をそらし、話をはぐらかすように私の髪を弄び始めた。
「白坂。俺にあんなことまでされて……あいつに知られたら、困る秘密ばかり持ってるな」
意地悪く笑った沢本君は、低く耳元で囁いた。
きっと私が色々と忘れているせいで、彼の指す言葉の意味は、ほとんど思い当たらなかったけれど。
ただ、これだけは言える。
「秘密を知られて、嫌われたとしても……それでも私は、蓮先輩が好き。先輩の絵が好き」
もう、嫌われてもいい。
充分、先輩のそばにいられたし、たくさん幸せをもらった。
何より、自分が嫌われるよりも、先輩を好きな気持ちを消したくない。
ただ、先輩を好きでいたい。
永遠に片想いだとしても。
「……もしかして。沢本君も、同じなの?」
ふと、私は不穏な色をした彼の瞳を覗き込んだ。
「私みたいに、過去の秘密を知られて、人に嫌われてしまうのが怖かったの?」
沢本君はギクリとした様子で表情を強張らせる。
「そんな過去があるからって、私は嫌わないよ」
「……は?」
憑き物が落ちたように、彼は聞き返した。
「だったら……何であのとき、見て見ぬふりをした?」
見て、見ぬふり……?
「――それは違うよ、沢本」
不意にアルトの声が響いた。
沢本君が私のそばから一歩離れ、声の主を睨みつける。