3度目に、君を好きになったとき


「え、待ってた?」
「――あっ、すみません図々しくて」


 うっかり口走ってしまい、熱くなった頬を隠すために両手で口元を覆った。


「いや。結衣の本音を聞けたみたいで、嬉しいよ」


 そっと先輩の方をうかがうと、さっきまでの翳りはなく、私に向かって優しく微笑んでくれていた。

 もっと先輩の笑顔をそばで見ていたいな……

 そんな思いが浮かぶ。


 ベンチに座る私と蓮先輩の間は、子ども一人分空いていて。もう少し距離を縮めたいのに、その勇気がないのが悲しい。
 そんなことをしたら、先輩、驚くだろうな。
 嫌われたら困るので、もちろん実行はしない。

 『好き』と伝えてみたい気もするけど、今の関係が心地よいから、まだ私だけの秘密だ。


「今度の土曜日、午後から空いてる?」
「午後ですか? 空いてます」
「良かったらピアノのコンサートに行かない? 親からチケットもらってるんだ」
「ピアノ……行ってみたいです」

 ピアノのコンサートだなんて、蓮先輩らしくて妄想が広がる。


「音楽を聴いたら、結衣の絵の題材が浮かぶかなと思って」


 蓮先輩がそこまで考えてくれているなんて、細やかな気づかいが嬉しい。


「……っていうのは口実で。ただ、僕が結衣を誘いたかっただけなんだよね」
「お誘い嬉しいです……、楽しみにしてますね」


 私と同じで、先輩も少しは一緒にいたいと思ってくれているのだろうか。


「僕も楽しみにしてる。――もう暗くなってきたし、帰ろうか」


 先に立ち上がった先輩が、私に手を差し出した。
 恐る恐る、自分の手を重ねてみる。

 ――今度は、何も起こらなかった。

 動物園のときと違って、過去の嫌な記憶が頭に流れ込んでくることはない。
 あれは、単に偶発的な出来事だったのか。


 先輩に手を引かれ立ち上がったあと、すぐにその温かい手は離されてしまう。少し寂しく思いながら、先輩の隣に並んだ。


「先輩は……前に忘れられない人がいるって、部活のときに話してましたよね」
「……うん」
「それなのに私と出かけて、大丈夫なんですか? その人に誤解されるかも」


 不安に思いながら隣を見上げると、先輩は小さく笑顔を作って私の目を見た。


「それは、もういいんだ。大丈夫だから、結衣は何も気にしないで」


 蓮先輩がそう言うなら、忘れられない人の存在はもう、先輩の中に無くなってしまったのだろうか。

 それなら……問題ないのかな、私が隣にいても。
 先輩がどういうつもりで誘ってくれているのかがわからないから。
 しばらくは、そばにいてもいいのかな。

 先輩に誰か、好きな人が現れるまで……。






「真鳥、ちょっと待って」
「……何、白坂」


(やっと捕まえた……!)


 放課後、一人きりで廊下を歩く真鳥に、ようやく話しかけることができた。
 教室に忘れ物でも取りに来たのか、サッカー部の青いユニフォームを着ている。

 なぜかずっと、私を避けていた彼。
 二人だけで話すのは動物園以来だ。


「私の過去について、教えてほしいの。この前、途中でやめたでしょ」


 ひと気の少ない校舎の隅に誘い、真鳥を睨み上げる。


「過去、ね……」


 真鳥は窓の向こうに広がるグラウンドへ目線をずらした。


「前にも言ったけど、別に知らないままでいいんじゃない? もともと、過去を忘れたいって言ったのは、白坂だよ?」
「……それでも知りたいんだ。私だけ知らないまま、呑気に学校生活を送れないよ」


 深く溜め息をついた真鳥は、私へ向き直った。


「どうしてもって言うなら、教えてやれないこともない、けど」
「本当?」
「どうなっても知らないよ」
「……うん」

「それなら月曜の昼休み、空けておいて」
「わかった」
「――じゃあ俺、部活行くから」


 素っ気なく話を終わらせた真鳥は、さっさと背を向け遠ざかっていった。
 彼の後ろ姿を見送っていると、誰かの気配を感じ、そっと振り返る。


「――結衣?」


 ちょうど階段を降りてきたのは、蓮先輩だった。


「今……、真鳥君といなかった?」
「……はい」
「前も一緒にいたね、彼に何か相談ごとでもあるの?」


 動物園のときのことを言っているのだと思う。
 あれは誤解されても仕方ない。
 ただの同級生に額を触られているなんて、明らかに不審だ。

 真鳥は『熱があるか確かめていた』と誤魔化したけど、はたから見れば、友達以上の関係と勘違いするだろう。

 どう答えれば正解……?

 蓮先輩には特に、私の過去のことは知って欲しくない気がする。
 もし過去を知られて嫌われたらと思うと、ショックで寝込みそうだから。なるべく隠したままにしておきたい。
 私自身も知らない、過去を。


「未琴のことで……、ちょっと相談があって」
「永野さんのこと?」
「はい。だから何でもないんです」


 真鳥とは、何もない。
 暗に伝えるためのセリフは、早口になっていた。


「そっか……。ごめん、詮索しすぎた。あのとき、真鳥くんが結衣の過去について、何か弱みでも握っているのかと思ったから」
「弱み……」
「少し心配になっただけなんだ、本当にごめん」
「――蓮?」


 眉を下げ、済まなそうに謝罪する蓮先輩の台詞に、誰かの声が被さる。


「急にいなくなったと思ったら、こんなところにいたんだね」


 現れたのは蓮先輩の元恋人、三井先輩だった。


「二人って……、付き合ってるの?」


 険しい目つきをした三井先輩が、私たちへ詰め寄る。
「付き合ってはいないよ」


 先に答えたのは蓮先輩だった。


「僕がただ、大切にしているだけ」


 三井先輩がハッと息を呑む。


「蓮……。その子のこと、まだ忘れてなかったんだね」


 悔しそうに唇をかみ、私のことを一瞬睨みつけた。
 二人の事情を知らない私は、何も言えず下を向く。
 蓮先輩は肯定も否定もせず、沈黙を保っていた。


「ねえ、蓮。考え直してよ。その子にいつまでも関わってたら、あとで後悔することになるよ?」


 その言葉に、胸が小さく痛む。
 私の過去のことで後悔なんてさせたくない。

 それに。蓮先輩には過去を知られたくない。知られたら、きっと嫌われる。なぜかそう確信した。

 私は、先輩から離れた方がいいの……?

「白坂さん……だったよね。私、あなたに良くない噂があるの、聞いちゃった」


 ドク……と、心臓が重く揺れる。


「あんな目に遭ったはずなのに、どうしてまだ蓮のそばにいるの? お願いだから、蓮に近づかないでくれる?」


 真正面から見据えられ、この場から逃げ出すことは許してくれそうもなかった。


「わかるでしょ? あなたがそばにいると蓮は迷惑するの。周りからも嫌われて、」
「――結衣。行こう」


 何かを言いかけた三井先輩を遮り、蓮先輩が私の手首を引いた。
 普段とは違う強引な力が、三井先輩のきつい口調と視線から逃してくれる。


「蓮!」


 そう呼び止めた彼女が追ってくることはなく、私たちはそのまま無言で校舎をあとにした。





「三井の言ったことは気にしなくていいから」
「……はい」


 手首をそっと放した先輩が、前を向いたまま、私の半歩先をゆっくりと歩く。
 たぶん蓮先輩は、私が自分の過去を隠したがっていると知っている。
 三井先輩の発言から、そう感じた。

 ――自分の体から抹消したいほどの出来事。
 そのほとんどは、自分の頭の中に封じ込められているはずだけど。
 私だけが忘れたからといって、他の人の記憶から消えたわけではない。

 私以外の人が覚えている限り、その過去はなくならないんだ。


 破れた教科書。
 沢本君の冷たい眼差し。
 私の首にかけられた手。


 あの記憶の断片から、私はたぶん中学のとき、周囲から疎まれていた。
 もしくは、いじめられていたのだと思う。

 だから三井先輩は、そんな女と蓮先輩が一緒にいることに反対している。
 イメージを悪くして迷惑をかける――最悪、蓮先輩までもが嫌われてしまうからと。


 隣を静かに歩く蓮先輩は、どこまで知っているのだろう。
 まだ一緒にいてくれるということは、三井先輩から全てを聞かされてはいない……?


 もし、未琴や椎名さんにも私のよくない噂が耳に入ったら。きっと私のそばから去っていくだろう。
 蓮先輩や千尋先輩も、当然のように……。