「え、待ってた?」
「――あっ、すみません図々しくて」
うっかり口走ってしまい、熱くなった頬を隠すために両手で口元を覆った。
「いや。結衣の本音を聞けたみたいで、嬉しいよ」
そっと先輩の方をうかがうと、さっきまでの翳りはなく、私に向かって優しく微笑んでくれていた。
もっと先輩の笑顔をそばで見ていたいな……
そんな思いが浮かぶ。
ベンチに座る私と蓮先輩の間は、子ども一人分空いていて。もう少し距離を縮めたいのに、その勇気がないのが悲しい。
そんなことをしたら、先輩、驚くだろうな。
嫌われたら困るので、もちろん実行はしない。
『好き』と伝えてみたい気もするけど、今の関係が心地よいから、まだ私だけの秘密だ。
「今度の土曜日、午後から空いてる?」
「午後ですか? 空いてます」
「良かったらピアノのコンサートに行かない? 親からチケットもらってるんだ」
「ピアノ……行ってみたいです」
ピアノのコンサートだなんて、蓮先輩らしくて妄想が広がる。
「音楽を聴いたら、結衣の絵の題材が浮かぶかなと思って」
蓮先輩がそこまで考えてくれているなんて、細やかな気づかいが嬉しい。
「……っていうのは口実で。ただ、僕が結衣を誘いたかっただけなんだよね」
「お誘い嬉しいです……、楽しみにしてますね」
私と同じで、先輩も少しは一緒にいたいと思ってくれているのだろうか。
「僕も楽しみにしてる。――もう暗くなってきたし、帰ろうか」
先に立ち上がった先輩が、私に手を差し出した。
恐る恐る、自分の手を重ねてみる。
――今度は、何も起こらなかった。
動物園のときと違って、過去の嫌な記憶が頭に流れ込んでくることはない。
あれは、単に偶発的な出来事だったのか。
先輩に手を引かれ立ち上がったあと、すぐにその温かい手は離されてしまう。少し寂しく思いながら、先輩の隣に並んだ。
「先輩は……前に忘れられない人がいるって、部活のときに話してましたよね」
「……うん」
「それなのに私と出かけて、大丈夫なんですか? その人に誤解されるかも」
不安に思いながら隣を見上げると、先輩は小さく笑顔を作って私の目を見た。
「それは、もういいんだ。大丈夫だから、結衣は何も気にしないで」
蓮先輩がそう言うなら、忘れられない人の存在はもう、先輩の中に無くなってしまったのだろうか。
それなら……問題ないのかな、私が隣にいても。
先輩がどういうつもりで誘ってくれているのかがわからないから。
しばらくは、そばにいてもいいのかな。
先輩に誰か、好きな人が現れるまで……。
*
「真鳥、ちょっと待って」
「……何、白坂」
(やっと捕まえた……!)
放課後、一人きりで廊下を歩く真鳥に、ようやく話しかけることができた。
教室に忘れ物でも取りに来たのか、サッカー部の青いユニフォームを着ている。
なぜかずっと、私を避けていた彼。
二人だけで話すのは動物園以来だ。
「私の過去について、教えてほしいの。この前、途中でやめたでしょ」
ひと気の少ない校舎の隅に誘い、真鳥を睨み上げる。
「過去、ね……」
真鳥は窓の向こうに広がるグラウンドへ目線をずらした。
「前にも言ったけど、別に知らないままでいいんじゃない? もともと、過去を忘れたいって言ったのは、白坂だよ?」
「……それでも知りたいんだ。私だけ知らないまま、呑気に学校生活を送れないよ」
深く溜め息をついた真鳥は、私へ向き直った。
「どうしてもって言うなら、教えてやれないこともない、けど」
「本当?」
「どうなっても知らないよ」
「……うん」
「それなら月曜の昼休み、空けておいて」
「わかった」
「――じゃあ俺、部活行くから」
素っ気なく話を終わらせた真鳥は、さっさと背を向け遠ざかっていった。
彼の後ろ姿を見送っていると、誰かの気配を感じ、そっと振り返る。
「――結衣?」
ちょうど階段を降りてきたのは、蓮先輩だった。
「今……、真鳥君といなかった?」
「……はい」
「前も一緒にいたね、彼に何か相談ごとでもあるの?」
動物園のときのことを言っているのだと思う。
あれは誤解されても仕方ない。
ただの同級生に額を触られているなんて、明らかに不審だ。
真鳥は『熱があるか確かめていた』と誤魔化したけど、はたから見れば、友達以上の関係と勘違いするだろう。
どう答えれば正解……?
蓮先輩には特に、私の過去のことは知って欲しくない気がする。
もし過去を知られて嫌われたらと思うと、ショックで寝込みそうだから。なるべく隠したままにしておきたい。
私自身も知らない、過去を。
「未琴のことで……、ちょっと相談があって」
「永野さんのこと?」
「はい。だから何でもないんです」
真鳥とは、何もない。
暗に伝えるためのセリフは、早口になっていた。
「そっか……。ごめん、詮索しすぎた。あのとき、真鳥くんが結衣の過去について、何か弱みでも握っているのかと思ったから」
「弱み……」
「少し心配になっただけなんだ、本当にごめん」
「――蓮?」
眉を下げ、済まなそうに謝罪する蓮先輩の台詞に、誰かの声が被さる。
「急にいなくなったと思ったら、こんなところにいたんだね」
現れたのは蓮先輩の元恋人、三井先輩だった。
「二人って……、付き合ってるの?」
険しい目つきをした三井先輩が、私たちへ詰め寄る。
「付き合ってはいないよ」
先に答えたのは蓮先輩だった。
「僕がただ、大切にしているだけ」
三井先輩がハッと息を呑む。
「蓮……。その子のこと、まだ忘れてなかったんだね」
悔しそうに唇をかみ、私のことを一瞬睨みつけた。
二人の事情を知らない私は、何も言えず下を向く。
蓮先輩は肯定も否定もせず、沈黙を保っていた。
「ねえ、蓮。考え直してよ。その子にいつまでも関わってたら、あとで後悔することになるよ?」
その言葉に、胸が小さく痛む。
私の過去のことで後悔なんてさせたくない。
それに。蓮先輩には過去を知られたくない。知られたら、きっと嫌われる。なぜかそう確信した。
私は、先輩から離れた方がいいの……?
「白坂さん……だったよね。私、あなたに良くない噂があるの、聞いちゃった」
ドク……と、心臓が重く揺れる。
「あんな目に遭ったはずなのに、どうしてまだ蓮のそばにいるの? お願いだから、蓮に近づかないでくれる?」
真正面から見据えられ、この場から逃げ出すことは許してくれそうもなかった。
「わかるでしょ? あなたがそばにいると蓮は迷惑するの。周りからも嫌われて、」
「――結衣。行こう」
何かを言いかけた三井先輩を遮り、蓮先輩が私の手首を引いた。
普段とは違う強引な力が、三井先輩のきつい口調と視線から逃してくれる。
「蓮!」
そう呼び止めた彼女が追ってくることはなく、私たちはそのまま無言で校舎をあとにした。
*
「三井の言ったことは気にしなくていいから」
「……はい」
手首をそっと放した先輩が、前を向いたまま、私の半歩先をゆっくりと歩く。
たぶん蓮先輩は、私が自分の過去を隠したがっていると知っている。
三井先輩の発言から、そう感じた。
――自分の体から抹消したいほどの出来事。
そのほとんどは、自分の頭の中に封じ込められているはずだけど。
私だけが忘れたからといって、他の人の記憶から消えたわけではない。
私以外の人が覚えている限り、その過去はなくならないんだ。
破れた教科書。
沢本君の冷たい眼差し。
私の首にかけられた手。
あの記憶の断片から、私はたぶん中学のとき、周囲から疎まれていた。
もしくは、いじめられていたのだと思う。
だから三井先輩は、そんな女と蓮先輩が一緒にいることに反対している。
イメージを悪くして迷惑をかける――最悪、蓮先輩までもが嫌われてしまうからと。
隣を静かに歩く蓮先輩は、どこまで知っているのだろう。
まだ一緒にいてくれるということは、三井先輩から全てを聞かされてはいない……?
もし、未琴や椎名さんにも私のよくない噂が耳に入ったら。きっと私のそばから去っていくだろう。
蓮先輩や千尋先輩も、当然のように……。