紅い夕陽が美術室の窓から零れ、柏木先輩の髪をセピア色に淡く溶かしていた。

 いつもは優しげな先輩の顔が、今は微かに強張っている。
 思い詰めたように視線を床に向け、一呼吸したあと、私の目を見つめた。


「好きなんだ、白坂(しらさか)さんのこと」
「……え?」


 思いがけない告白に私は目を見開く。


「白坂さんが美術部に入ってきたときから、好きだった」


 先輩の真摯な想いに応えたいと思うのに、私の口から出てきたのは――


「ごめんなさい、私……」


残酷な断りの台詞だった。


「……そっか」


 先輩は切なく微笑むと私の方に手を伸ばした。


「それなら最後に……触れてもいい? そうすれば白坂さんのこと、忘れられそうだから」


 低く遠慮がちに囁かれ、私は視線を揺らす。

 先輩は春から伯王(はくおう)高校へ行ってしまうから。私が同じ高校を目指さない限り、再会することはもうないだろう。
 嫌だと断ればきっと、先輩は優しいからそれ以上は求めてこないはず。
 けれど私にはそれを断る理由はなかった。

 一度ためらったあと、冷たい指先が頬へ静かに触れ、先輩の整った顔がそっと近づいた。

 私の額に、一瞬だけ掠めるように唇が触れる。
 指先と同じで、冷えた――柔らかな唇。

 私の瞳から涙が零れ落ちていく。
 一体何の涙だろう。自分でもわからない。


「じゃあ、元気で。……幸せになってね」


 背を向けて去って行く先輩は、一度も振り返ることはなかった。
 その背が見えなくなるまで、ずっと私は先輩のことを見送っていた。







(……なんで私、先輩のこと振ってるの?)


 聞き慣れたアラームの音で夢から覚めた途端、まず始めに思ったのはそれだった。

 先輩は傷ついて切なそうな目をしていたのに。夢の中とはいえ、どうして断ってしまったんだろう。

 あのとき、先輩からの告白にうなずいていれば。先輩は優しく笑ってくれたかな。

 私の大好きな……、彼の本当の笑顔が見たかった。



 登校中、ぼんやりと今朝の夢について考え込む。

 あれはきっと、中学のときの夢だ。
 先輩は黒の学生服を着ていたし、私も紺色のセーラー服を着ていた気がする。

 でも私は、今まで先輩に告白された覚えなんてないし。ただ、私の願望が夢に出てきただけなのだと思う。

 だって先輩は……


「おはよう、白坂さん」


 爽やかな声がして振り向けば、澄んだ青空を背景に、柏木蓮先輩が立っていた。
 今度は紛れもなく現実の世界の先輩だ。

 ベージュのブレザーにオリーブグリーンのチェック柄のパンツがよく似合っていて、中学のときよりさらに大人っぽくなっていた。


「おはようございます、柏木先輩」


 私と目が合うと優しく微笑んでくれて、ドキリと胸の奥が音を立てる。
 彼の澄んだ瞳を見ていると、夢の中でキスをされてしまったことに罪悪感が生まれた。

(先輩。夢の中で勝手に汚してしまってごめんなさい)

 隣に並んだ先輩は、ふと何かに気づいたように私のことをじっと見つめてくる。


「あれ? 白坂さん、髪の毛はねてる」
「えっ、寝癖?」


 慌てて髪に手をやると、偶然先輩の手に触れてしまい、さらに慌てる。
 ちょうど先輩も、私の髪に手を伸ばしていたのだった。


「わ……、すみません」
「ちょっとごめんね」


 軽く断りを入れた先輩は、何を思ったのか私の後ろの髪を数回すいて、はねている部分をわざわざ直してくれた。


「もう大丈夫だよ」
「ありがとうございます……」


 触れられたことが恥ずかしくて、下を向く。癖のあるセミロングの髪が顔の横に垂れ、私の表情を隠してくれた。

 少しの間、学校までの道を一緒に歩くことになり、話題はほとんど部活のことについてだった。
 それでも、私にとっては特別な時間。


「蓮、おはよう」


 校舎が見えてきたとき。門の前で人を待っている様子の女子生徒が柏木先輩に声をかけ、小さく手を振った。


「――じゃあ、また放課後に」


 先輩は私にそう告げ、その女の人と一緒に歩き出す。


「あ、……はい」

 ほら、やっぱり今朝のはただの夢だった。私の勝手な妄想。
 先輩には、美人で優しい彼女がいる。

 確か中学のときからその彼女と仲が良くて。私の入り込む隙なんて、どこにもない……。

 しかも、夢では私が先輩を振ったとか。そんなことが起こり得るわけがなかった。
 たとえば、罰ゲームとして先輩が告白してきたのだとしても。私は即座にOKするはず。

 ずっとずっと、出会ったときから大好きな先輩なのだから。


(先輩が彼女よりも、私のことを好きになってくれるなんて――そんな夢みたいなこと、現実に起こるわけないよね……)


 門のそばで咲く桜が散っていく姿を、二人は仲が良さそうに眺めている。
 そんな二人の後ろ姿を視界の隅に置き、私は密かな想いを心の奥底に閉じ込めた。


 ――それから数ヵ月が過ぎたとき。

 柏木先輩が彼女と別れたという噂が、一年の教室にまで流れてきた。
 私はそれを複雑な思いで聞いていた。



 今日の校内は普段と違う雰囲気で、男女ともどこかそわそわとして落ち着きがない。

 私もそんな中の一人で。
 ずるいけれど、先輩が彼女と別れている隙にバレンタインのチョコを渡そうと考えていた。

 それは私だけではなくて、他の女子も同じだった。
 美術室の一角で、先輩の周りに群がる女の子達。代わる代わる、先輩へプレゼントを渡している。


「柏木先輩。これ、チョコなんですけど、良かったら受け取ってください」
「……ありがとう」


 少し困ったように笑う蓮先輩は、それでも断ることはせずに快く受け取っている。
 私も先輩に渡すため、勇気を出して本命チョコを用意していた。
 他のファンの子に混じって手渡す予定だから、たぶん本命とは気づかれないはず。

 手紙には勇気がなくて『好きです』と書けなかった。だからただ『先輩の絵が好きです。これからも頑張ってください』と添えただけだった。
 これなら、自分の絵に憧れているのかな、程度だと思う。