5話

 絵本作家になりたい。そう決断してから一ヶ月が経った。徐々に人と話す事に慣れて、きちんと目を合わせられるようになってきた。以前のように、俯いて恐がってばかりのわたしでは無くなっていた。クラスでも友達が増え、一緒にお昼を食べたりお喋りをする事が多くなってきている。
「美菜ちゃん、最近明るくなったよね。入学した時よりも、話しかけやすくなったよ」
「そ、そうかな」
「うん。最初、目を合わせてくれなかったし。どこか他人行儀だったから、あたし達の事を恐いのかなって思ってたから」
「ごめんなさい」
「いーのいーの。もう済んだ事だよ」
 以前のようにクラスメイトに対して敬語で話す事は無く自然に話せるようになって、距離を縮められてきた。断然に息苦しさを感じる事はなかった。でもすぐに謝ってしまう癖がどうも抜けずにいた。クラスメイトの皆は、それも一つの個性として受け入れてくれている。
「で、彼氏とはどうなの」
「どうと言われても。凄く優しくしてくれし、ありがとうって伝えると顔を赤くする所がかわいいの」
「顔を赤くするのは似た者同士って事ね」
「そうだね」
 可笑しくて笑ってしまう。確かにわたしと秋人くんは似ている気がする。恥ずかしがり屋な所は、特にそうかもしれない。だけどそこが愛おしく感じていた。共有できる所があるからか。
「美菜、惚気んなぁ」
 鈴音ちゃんがわたしの脇を突きながら笑顔を見せた。かつて彼女も彼に好意を抱いていた。だけれど、秋人くんの想いに気づいてしまい身を引いたらしい。今回の事で、彼の想い人がわたしであった事がわかったのだけれど、彼女はいつも通りに仲良くしてくれている。わたしが彼と付き合い始めたとき、言ってくれた。
『おめでとう。親友として嬉しいよ』
 自分の事のように喜んでくれた。そしてわたしの事を親友として接してくれていた事がとても嬉しかった。彼女はわたしにとって初めてと親友と呼べる存在。これからもずっと彼女との関係を大事にしていきたい。
幸せすぎて、恐いぐらいだ。
「そういえば、美菜ちゃんの絵観たよ。凄いよ。あんな綺麗な絵初めて観た」
「ありがとう。そう言ってくれると頑張って描いた甲斐があるよ」
「なんか吹っ切れた感じだね。だからかな。美菜ちゃん、凄く明るくなったの」
 過去のトラウマから秋人くんが引っ張り上げてくれたおかげもあるが、同時に自分の夢を見つけたのが大きいだろう。あれからわたしは美術部へ入部をした。撮影と両立するのは大変であったが、とても充実していた。時に睡眠を忘れてしまっているもあった。楽しくて仕方がないのだ。わたしの世界が輝き始めていた。
「うん。今、凄く楽しいよ」
 満面な笑顔で言うと皆、「そっか」と微笑んだ。この一瞬一瞬がわたしにとって、かけがえのない宝物になっていくのだろうと思うと、ワクワクが止まらなかった。
「最近、美菜ちゃん男子からの人気出てきたよね」
「そーだね。時々話題に出てるの耳にするね」
 何の事だか分からず、首を傾げていると友達がクスクスと笑った。「美菜らしいけど」と鈴音ちゃんが呟いた。
「あんたがモテてるって事よ。一度付き合いたいって思われているの」
 いつの間にそんな事になっていたのだろうか。体が熱くなってきた。確かに同じクラスの男の子達とよく目が合うなと感じていた。それはわたしが俯いている事が減ったからだと思っていたが違うようだ。自分で言うにはおこがましい事だがマドンナ的存在として見られているとは、考えもしていなかった。赤くなった顔をすぐに隠した。

 放課後は、いつも美術室いる。映画の撮影がない時は、基本的にそこで過ごしている。芳成さんに部活に入りたいと相談したら、快く承諾してくれた。神社の手伝いは休日のみとなった。
 美術部に入部して最初に驚いたのが、わたしに告白を仄めかした男子生徒が副部長を務めていた事であった。彼も驚いた様子ではあったが迎え入れてくれていた。わたしが秋人くんと付き合う事になってからも、いつも通りに話してくれ、胸を撫で下ろしていた。
「浅倉さん。毎日顔出してて偉いね」
「そうですか。でも好きな事しているだけなんです」
「そんな気がする。絵を描いている時の浅倉さんはいい顔しているよ」
「ありがとうごさいます」
 わたしは一礼し、視線をキャンバスへ戻した。「短期間でここまで人って変わるもんなんだねぇ」と呟いて彼は自分の絵に取り掛かっていた。彼が描いた絵を初めて観た時、凄く綺麗な絵だなと感動した事を覚えている。普段の彼から想像ができないくらい、とても繊細で色鮮やかな風景が描かれていた。きっと彼の目には世界が輝いて見えているのだろう。わたしもこの町に来て、見える世界が変わった。地面ばかりだった世界が、たくさんの人と出会ってどんどん広がっていった。だからこそ、また絵を描けるようになった。わたし自身の世界も輝き始めた。少しづつではあるが前へ進んで行けている。時に立ち止まっても、手を引いてくれる人がいる。だから安心して前を向いていられるのだ。
 自分の夢のために、絵を描き始めた。

 長いようで短かった映画の撮影が終わりを告げようとしていた。残すシーンは、義父の転勤によって少女が町から引っ越す事になり、少年と再会を約束する場面だ。離れ離れになってしまうが想いが通じ合い、お互いの幸せを願って終わりになる。ハッピーエンドではあるのだけれど、どこか切なく感じた。
 今日が撮影最後という事もあるが、秋人くんの姿が見られなかった。淳一くんの話しでは用事があって、遅刻するとの事であった。わたしがしゅんとしていると、男子生徒が肩を組んで「そんな顔してたら、アタックしたくなっちゃうなぁ」と茶化してきた。わたしは首を横に振って「ごめんなさい。わたし大切にしたい人がいるので」と笑顔で告げた。「知ってるよ。もう大丈夫だね」と背中を叩いた。確かに今落ち込んでいる場合ではない。わたしは顔を上げ、一気に息を吐いた。撮影を始めた時よりは緊張はしていない。全体が清明に見えている。この町に来た頃とは違うのだなと感じる事ができた。カバンから台本を取り出し、台詞の確認を行った。こうして皆と集まる事が減ってしまうのだなと思うと、少し寂しく感じてしまう。大変ではあったが、とても楽しかった。このおかげで、わたしはだんだんと人と関わる事による恐怖が無くなっていった。喋る事が下手なわたしに、不満を漏らす事無く、優しく耳を傾けてくれていた。ここの人達に対して、怯える事なんて無いのだなと胸が軽くなっていった。
「美菜っち、もう行けるかい」
 淳一くんの声掛けに、わたしは迷う事無く頷いた。「いい目するようになったねぇ」と淳一くんがクスリと笑った。わたし達はそれぞれ配置に付いた。本番となると緊張はする。だけど程よい緊張だ。淳一くんの「3・2・1。スタート」で撮影が始まった。
「『あなたと出会えて、本当に良かった。またこうして笑えるようになった。ちゃんと寂しいって思えるようになった。だからさようならなんて言わない。また会えるって信じているから』」
「『俺もお前の事を決して忘れはしない。お前と過ごした季節を、お前が見せたたくさんの感情を絶対に忘れはしない』」
 少年はそう言って、少女を力強く抱きしめた。母親が呼ぶ声で少年は抱きしめた手を緩め笑顔を見せる。少女は何も言わず、ただ泣くのを堪え少年を見つめた。そして少女は笑った。再会する事を願って。
 「カット」という声がかかり、映像の確認が行われた。わたしは息を呑んだ。きちんと堪える表情ができていただろうか。淳一くんのいつに増しての真剣な表情。ドキドキが止まらなかった。チェックが終わると、淳一くんが、わたしの方を見て、ニカッと笑った。
「美菜っち、お疲れ様。撮影お終いだよ」
 その言葉に力が抜けて、その場に座り込んでしまった。そんなわたしに皆が一斉に笑った。悪い気はしないけれど、なんだか恥ずかしい。真赤になった顔を隠した。一人一人がわたしの頭を撫でに来ていた。
 撮影が終わっても秋人くんは姿を見せなかった。一緒に撮影を終えたかった。だけど彼は来なかった。どうしたのだろうか。心配であった。事故にあってしまったのではないのか。不安が募っていった。俯いていると、淳一くんがわたしの肩に手を置いた。
「美菜っち、今から神社に行ってきな」
「どうして…ですか」
「あっきーが神社に呼んでほしいって、メッセージが来てた」
 わたしは自転車を走らせた。早く彼に逢いたい。きちんと最後までやりきったと彼に伝えたい。自分でも、もうあの頃のわたしではないと自信を持って言えるようになった。だから、これからは支えられるだけじゃなくて支えて行きたい。必死でペダルを漕いだ。どこまでも続く田んぼ道、この先に彼が待つ花園神社がある。そこで彼と出会い恋をした。そして彼もわたしに恋をしてくれた。こんな奇跡があるだろうか。だからこそ、この想いを大切にして行きたい。
「秋人くん‼」
 自転車を置き、走って鳥居を括り抜け彼の姿を見つけた。今までにないくらい大きな声で彼の名前を呼んだ。わたしの声に気づいた彼の顔はとても緊張しているようであった。
「み、美菜。今日はお前に伝えたい事がある。訊いてくれるか」
「実はわたしも秋人くんに伝えたい事があるの」
「なんだ?」
「わたし、ずっと秋人くんに救ってもらってばかりでした。中学生の時もこっちに引っ越して来てからもずっと。だからこれからわたし、もっともっと強くなって、秋人くんの事を支えられるようになりたいです。まだ頼りないわたしですけど、ずっと…ずっとわたしと一緒にいてくれませんか」
 言いたい事を全て吐き出すと、彼は何喰わず噴き出した。
――なんて不謹慎な。
頬を膨らませると、前振りなくわたしを抱きしめた。いきなりな事ですぐに理解ができなかった。
「リスみたいな顔されたら、抱きしめられずにはいられないだろう」
 リスみたいな顔って…。別にリスは嫌いではないけれど。秋人くんの顔を覗かせると、彼は真剣な顔で「お前に会わせたい人がいるんだ」と告げられた。誰だろうか。首を傾げると彼が「出てきて大丈夫です」と社務所に向けて叫んだ。すると見知った達が顔を出し駆け寄ってきた。
「父さんと母さん。…どうして――」
「彼に言われたの。強くなったあなたに会ってほしいって。心のどこかで会いたがってるからって」
 母さんが泪をこぼしながらわたしを抱きしめた。久々な感触、懐かしい暖かさ。わたしも泣きだしてしまった。本当は心のどこかで会いたいと思っていた。その恋しさを、芳成さんや絵里さんで誤魔化していたのかもしれない。二人も何も言わず、甘えさせてくれていた。感謝してもしきれないだろう。わたし達の無く声が境内に響き渡って行った。

「秋人くん、見苦しい所を見せてしまって申し訳ない」
 父さん深々と頭を下げるに対し、秋人くんは「とんでもない」と宥めていた。わたしも母さんも顔を真赤にして座っていた。こうしてみるとやはりわたしは母さんに似ているのだなと感じた。
「それで秋人くん、折り入って話しなのだが。君は美菜とどこまで考えているんだ」
 父さんの事だから、訊くだろうと予想はできていた。まぁどこの父親でも同じなのだろうが。秋人くんは父さんと目を逸らせる事はせず、まっすぐな視線を向けていた。正直、秋人くんはどこまで考えているのだろうか。少し不安であった。
「僕は美菜さんと結婚したいと考えています。正直、将来に不安を感じてしまう時はあります。ですが、美菜さんと一緒なら。一緒にいてくれるなら、僕はどんなに壁にぶつかっても大丈夫って思えるんです。だから、だから僕に美菜さんを――」
「もういい。君の気持ちはわかった」
 秋人くんの言葉に、父さんは俯いた。なんというか、とても複雑そうな表情であった。当たり前なのかもしれない。わたし達はまだ高校生だ。結婚という言葉が出てきたのだから、戸惑うのは当然と言えば当然だ。正直な所、わたしも驚いていた。秋人くんが、そこまで考えているだなんて思っていなかったから。秋人くんの顔を見ると、同時に彼と目が合いドキッとした。彼はフッと笑った。わたしは視線を父さんに目を向け、自分の気持ちを告げた。
「父さん、わたしね。ここに来て良かったって思う時があるの。この町に来て、前よりも笑えるようになったの。息苦しさを感じる事が無くなったの。そう思えるの彼のおかげなの」
 父さんは何も言わなかった。ただわたし達を見つめていただけであった。気持ちが追いつかないのだろう。言葉をあまり発する事がなかった娘からも言われて、どう言葉にするればいいのかわからないのだろうか。内向的な娘で悩む事があっただろう。だけどこの町に来て、表情や声音が変わった娘を父さんはどう思うのだろうか。しばらく沈黙が続いた。最初に口を開いたのは芳成さんであった。
「認めてやってもいいんじゃないか。秋人は悪い奴じゃない。美菜はこいつのおかげで強くなれた。きちんと自分の足で立っていられるようになったんだぞ」
「兄貴。でもなぁ」
「自分の娘が傷つくのか恐いか。もう十分美菜は傷ついて来ただろう。だからこれからどんなに傷ついても大丈夫だ」
「そうだけれど」
「愚か者、自分の娘を信じてやらなくてどうする。お前だってたくさん傷ついたって、立ち上がって来れただろう。大丈夫だ。信じてやれ。こいつはもうどんなに傷ついても、自分の足で立ち上がる事ができるさ」
 芳成さんは、父さんの背中を二度叩いた。
 父さんは俯いて、
「俺は恐かったんだ。また美菜が傷つくのが。あのときみたいに自分の殻に閉じこもってしまうんじゃないかって。離れている間も不安しかなかった。だけど今日、お前を見て、安心した自分がいるんだ。もうあの頃の内気でか弱い娘じゃなくて、きちんと芯のある強い娘になったんだなって」
 泪を溢しながら気持ちを口にした。泣く父さんを初めてみた。いつも穏やかな表情を浮かべている父さんだから衝撃だった。暖かい手がわたしを優しく撫でる感触した。秋人くんだ。彼はわたしに優しく微笑んだ。彼の笑顔はとても安心する。わたしの凍り付いた心を溶かしてくれるぐらい暖かい。泪を流すわたしに対して「お前は本当によく泣くな」と笑顔で囁いた。また言われてしまった。もう言われたくないのに。
「秋人くんのせいですから」
「そうか」
 それ以上は何も言わず、わたしの泪を拭った。彼を前にすると、いつも気が緩んでしまう。だからこそ、惹かれるのかもしれない。わたしはとびっきりの笑顔を浮かべた。
――彼に恋をして良かった。
 心の底からそう思う。いつも太陽みたいに暖かく優しい。そして時に子どもっぽいところもあるけれど、大人な男の子。わたしの初恋の人。
「さて、今日は馳走だ。絵里くん、手伝ってくれるかい」
「当然よ。芳成さんだけに任せてたらキッチンが地獄絵図になる」
 絵里さんの一言に、芳成さんは苦い表情を浮かべた。二人の会話はなんだか和む。皆、心の底から笑みを浮かべた。
 それから出てきた芳成さんの料理は本当においしかった。いつも作ってくれるものもおいしいけれど、今までよりも凝っているからだろうか。頬が落ちそうであった。ご飯を食べた後は、両親と話しをした。神社の手伝いをしている事、秋人くん達と映画を創っている事、そしてまた美術部に入った事、たくさん話しをした。父さんも母さんも終始笑顔であった。こんな風に話せる日が来るだなんて、あの頃のわたしには想像は付かなかった。両親との会話にすら覚束なかったわたしは、もうどこにもいない。まだまだ頼りないけれど、自分の足で歩けるようになった。自分の夢を見つけられた。時に躓いたり挫けてしまう事もあるだろう。だけど、きっと大丈夫。もうわたしは独りじゃない。秋人くんや芳成さんや絵里さん、そして両親の存在がきっと立ち上がれるきっかけになるだろう。その度、わたしは笑顔でいられるようになろう。いつか誰かの笑顔を作れるようになるために――。

 夢を見た。
 とても幸せな夢だ。どこまでも続く青い空の下、わたしは草原で横になっていた。隣に秋人くんが気持ちよさそうに眠っている。幸せそうな寝顔がとても愛おしく感じた。わたしはクスリと笑い、目を瞑った。この幸せをいつまでもずっと続けばいい。心の底からそう願う。
 目が覚めると、美術室で頬杖を突いて微笑む彼が座っていた。もう驚く事はない。わたしは笑みを溢した。
「とても幸せそうな寝顔していたな」
「はい、とても幸せな夢を見ていました」
「そうか。どんな夢だったか訊きたい所だが、もちろん秘密なんだろ」
 優しく微笑む彼に対し、いたずらげに頷いた。
 彼は今、脚本のコンクールに向けて執筆を行っていた。しばらく会えない日があったが、決して寂しいとは思わなかった。お互いに夢向けて、それぞれやるべき事をする一歩一歩を歩き始めた。わたしは一つの絵を描き始めていた。それは彼に対する想いも交えていた。

 その絵の名前は、

「明日、君に花束を贈ろう」