4話
どうしたものだろうか。わたしは恐怖に押し切られている。街の路地裏で、忘れもしなしない相手が鋭利な笑顔を浮かべ、わたしを見つめていた。
遡る事、水曜の夕方。秋人くん達の映画の撮影から帰宅する際に、淳一くんから声をかけられた。
「美菜っち。ちょっといいかな」
「なんですか」
「ちょっと頼みたい事があって」
「いいですけど。わたしでいいんですか」
わたしの問いかけに、淳一くんは満面な笑顔で頷いた。わたしに頼みたい事ってなんだろうか。映画関係だと思うのだが。首を傾げていると、淳一くんが笑いながらわたしの肩を叩いた。
「美菜っち、そんな不安になんなくていいよ。ちょっと案内してほしい場所があって。美菜っちが適任かなと思って」
「わたしがですか」
「うん。実は次の作品のために、街に行こうと思ったんだけど。美菜っちって街から越してきた事を思い出してさ。嫌だよね」
心配する問いかけに、わたしは首を横に振った。頼ってくれているのに、断るだなんてできやしない。それにあの頃のわたしとは違う。そう思いがあった。だけれど、やはり胸に不安があった。中学時代のトラウマからフラッシュバックを起こしてしまうのではないか。それが恐かった。
「心配する事ないって、僕やあっきーだって一緒に行くし。心細かったら、鈴音だって呼ぶよ」
「大丈夫です。期待添えるかどうか分かりませんが」
「そんな構える事はないよ。遊びに行く感じでいいよ」
「はぁ」
中学を卒業して以来、二か月振りぐらいだろうか。なんだかもっと前のような気がする。そう感じるぐらい、あの町に馴染んでいたという事だろう。もともと住んでいた街よりも今住んでいる町の方が好きだ。あの町は、わたしのすべてを受け入れてくれる。だからあの街に足を運ぶ事はなかった。再び、この街に出向くとなると勇気がいる。
「安心しろ美菜。なんかあったら、俺達が支える」
背後から肩に手を置かれ、ドキッとした。彼にはいつも驚かされる。秋人くんだ。彼とは先日から恋人という関係となった。あまり実感は沸かないが。だけれど、彼とこうして関わりを持てるのが、すごく嬉しかった。
「もしかして僕はおじゃま虫かな」
「そんな事はないさ。お前の目線からの考えも知りたいからな」
「嬉しい事言ってくれるねぇ。じゃぁ、詳細はメッセージで送っとくね」
「わかりました」
二人に会釈し、帰路に着いた。
どんな理由があれども、外出に誘ってくれるのは嬉しいものだ。胸が躍る。でも男の子と出かけるのは緊張する。軽く溜息を吐いた。
「緊張するなぁ」
どこへ行けばいいのだろうか。やはり同年代の子達が行くようなお店をチョイスした方がいいと思うが。詳しい事は後でメッセージを送ってくれるらしいが、自分なりに考えておいた方がいいのかもしれない。わたしは再度、溜息を吐いた。
週末、わたし達三人は街へ来ていた。一度神社に集合して、駅まで自転車へ向かい、現在に至る。
久々の光景に、ドキドキしている。今回の事は両親には伝えていない。なにせ、心配性な両親の事だ。人前でも抱き締めかねない。そんなの二人に見られたくはない。もし見られてしまったら、恥ずかしくて穴に入りたいぐらいだ。もちろん秋人くんと交際し始めた事も伝えていない。絶対にお父さんが大騒ぎするのが目に見える。
「どぉ、美菜っち。久々の地元は」
「なんだか、とても久々に感じますかね」
「こないだのゴールデンウイークとかには帰ったりしなかったの? 何日か空いてたと思うんだけど」
「そうですね。あまり気が乗らなかったので。それに神社の手伝いもしたかったのもあります」
「そっか。美菜っち、巫女さんしてるとき、なんか活き活きしてる気がするよ」
そう言われると、凄く恥ずかしくなる。きちんとわたしを見ていてくれる人達がいるのは嬉しい事なのだが、ちょっぴり恥ずかしいモノだ。
「お前はもっとそうやって表情を出しとけよ」
秋人くんのその言葉にハッとした。どういう意味だろうか。その言葉の意味をすぐには理解をする事はできなかった。彼はわたしの頭を優しく撫で、言葉を続けた。
「さっきみたいに、笑顔を振りまけって事だ。自信を持て、美菜はもう独りじゃないだろ」
とてもシンプルな言葉なのに、凄く救われた気分になる。雲の一つもない笑顔を見せた。
「お二人さん。皆見ていらっしゃるぞ」
淳一くんの一言に、二人揃って顔を真っ赤に染めた。
わたし達は逃げるように歩き始めた。初めは淳一くんが行きたい所を詳細に書いてくれていたため目星がつけられていた。同年代が行きそうな飲食店やアミューズメント施設、洋服屋などを梯子行った。中学時代は、性格的な所もあるが、そういったお店は苦手であった。場違いと感じてしまっていたからだ。でもこうして誰かと一緒に出かけるというのは、とても不思議な感じだ。わたしは胸を躍らせた。今まで見えていなかった街並みがあると知り、楽しい。
「美菜、お前は行きたい店とかないのか」
秋人くんの何気ない質問に戸惑った。いざどこに行きたいかと訊かれると、緊張してしまう。確かに行きたいお店はあった。だけど馬鹿にされないかと心配になってしまう。
「大丈夫だ」
「じゃ、じゃあ。ほ、本屋さんに」
「了解」
彼は優しく微笑んだ。そんな彼に淳一くんが背中を叩いた。
「僕、少し席外すよ。二人の時間楽しみな」
そう言って、彼はどこかへ去って行ってしまった。急にどうしたのだろうか。首を傾げていると、秋人くんに手を繋がれ胸がドキッと跳ね上がった。
――どうしよう。手汗、大丈夫かな。
ドキドキが止まらない。緊張しまくりのわたしに彼が噴き出す。
「お前は面白いな。感情が豊かというか」
「でも噴き出すなんて、ひどいです」
「すまないな」
膨れるわたしに対して、いたずら気に秋人くんは笑った。
――この人には敵わないな。
彼の手を握り歩き始めた。
こうして握ってみると、男の子なんだなと改めて感じる。わたしの手よりも大きくて、細いのにゴツゴツした指が自身の手を包み込んでいた。だけれど恐いだなんて思わなかった。この人は決して人を傷つけたりはしないと知っているから。だから恋をしたのだろう。
「美菜はどんな本を読むんだ」
「ひ、秘密です」
「なんだそれ」
わたしが絵本のことが好きだと知っているのは、家族と芳成さん、そして絵里さんぐらいだろう。高校生にもなって、未だ絵本を買っているのはわたしぐらいだと思う。いずれにせよすぐに知られる事になのだれど。
「秋人くんは本って読んだりするんですか」
「まーな。推理小説とか読むな」
なんだか凄く似合う気がする。普段から大人っぽく感じているが、より大人なんだなぁと思ってしまう。それに比べて、わたしは子どもっぽいのかもしれない。どこか置いて行かれている気分だ。
本屋に着くと、わたしは児童書コーナーへ向かった。秋人くんは脚本の資料になりそうな本を探してくるという事で別行動となった。わたしは気になっていた本を取り、レジを済ませた。彼を探しにいると、思いがけない人物と出くわしてしまった。忘れもしない辛い思い出。
「す、…鈴木く…ん」
怯えるわたしに対し、疎ましそうな様子で「久しぶりだな。浅倉」と挨拶をしてきた。彼はあの頃から変わってない様子であった。他人を自分の玩具としか思っていない中学生の時のままであった。逃げるように店を飛び出した。
――どうしようどうしよう。
心がどんどん恐怖に支配されていく。あの頃のわたしとはまったく変わっていない。戦う術も無く、逃げ出す事しかできない弱くて泣き虫な自分のままだ。ひとけの無い路地裏に座り込んでいた。体の震えが止まらず、生きている心地がしなかった。
「お前、俺から逃げきれると思ったか」
その言葉に絶望させられてしまう。彼は脅すように壁を蹴り、言葉を続けた。
「あのときみたいに遊んでやるよ。どうせ、お前みたいな陰気臭い根暗なんか友達なんかいねぇだろ」
そんな事はない、わたしにだって友達はできた。それにわたしを好きだって言ってくれる人もいる。なのにそれが声にする事ができなかった。目の前の恐怖から、うまく体に力が入らない。
「今からあいつら、呼んでやるよ」
彼はポケットからスマホを取り出し、メッセージを開いた。
――お願い、やめて。
咄嗟に彼の手を掴んでいた。彼は一瞬ギロッと睨みを利かせたが、すぐに鋭利な笑顔を浮かべた。わたしの手を振り払い、胸ぐらに手をかけた。
「まぁいいや。お前一人、俺だけで十分だわな」
「嫌、やめて――」
わたしの言葉に耳を傾ける事も無く、彼は服を引き裂き胸元が露わとなった。魂が抜けたように座り込んだ。あのときと一緒だ。無理やり下着姿にされ写真を撮られたときも、叫ぶ事も泣く事なかった。ただ呆然とするしかなかった。彼は溜息を吐いた。
「相変わらず、貧相な体してんのな」
そう言いつつも、スマホをこちらに向けシャッター音を鳴らした。もうお終いだ。この先ずっとわたしはこの人から付きまとわれなければいけないのだ。どんなに過ごす場所を変えても、どんなに変える努力をしても無駄であった。最終的にこの人にすべてを壊されてしまう。これからもわたしは、彼の玩具として過ごさなければならない。すべてに絶望をしたそのとき「お前、何してんだ」と叫ぶ声がした。こんなところを誰にも見られたくはなかった。こっちに来ないでと願っていた。誰かがわたしに服を羽織らせ、彼から離れるよう誘導された。
「誰だよ、あんた」
「お前に名乗る者じゃないが。人の彼女を卑劣な事されるのは困んだよ」
この言葉に駆け付けたのが秋人くんなのだと気づいた。秋人くんはわたしを力強く抱きしめ、露わところを隠してくれていた。
「彼女? こんな陰気臭い女が? あんたの見る目ねぇんじゃね」
「お前は、こいつのどこを見ていた。確かに自信がなくてすぐに泣くし。よく喋る奴じゃねぇけど。こいつは誰よりも純粋で一生懸命な奴なんだよ。そういう所を見ていないお前に美菜を評価する資格はねぇよ」
怒りを露わにした秋人くんに対して、鈴木くんは気に食わない様子であった。中学時代も彼は先生達から怒られた事なんてなかった。鈴木くんはバレないようやるのが上手かったのだ。他生徒が訴えても訊き入れてくれなかった。その事もあり、わたしは彼の事を先生にも言ってはいない。
「くっだらな。もういいわ」
立ち去ろうとした彼に秋人くんが思いっきり殴り飛ばした。これまでに見た事のないぐらいの形相で彼に言葉を発した。
「約束しろ。今後一切美菜に手を出す事も近づく事もするんじゃねぇぞ。ましてや他の人にもだ。いいな」
鈴木くんは怖気づいたのか、ただ呆然としていた。そんな彼をよそにわたしへ「行くぞ」と声を掛けた。戸惑いながらも頷いて、羽織っていた服のチャックを閉め、彼に手を引かれながらその場を後にした。秋人くんには、いつも救ってもらってばかりだ。悔しくて情けなくて、泪がボロボロと流れてきた。彼を困らせてしまうのに、止める事ができなかった。
「お前は変わったよ。初めて会ったときよりも少しだけ強くなった」
「そんな事ないです。結局、やられっぱなしでした」
「抵抗していたじゃないか。きちんと嫌だ止めてくれって言えてたじゃない。あのときから強くなった」
「あのときって?」
「お前と初めて出会ったとき」
小さく「あっ」と呟いた。思い出したのだ。神社で彼に対して懐かしさを感じた理由も合点する。わたしは中学生の時に秋人くんと会っていた。路地裏で女子達から罵られていたわたしを助けてくれた男の子が秋人くんだ。あのときから彼はずっとわたしの事を知ってくれていたのだ。胸がギュッと締められてしまう。
「まさかおっちゃんの姪っ子とは思わなかったけどな」
彼はとびっきりの笑顔を浮かべ、わたしの頭を撫でた。彼の手は好きだ。太陽みたいに暖かく優しい。いつか彼のように誰かを救えるようになりたい。強く心に誓った。
家に帰ってから部屋に籠り、スケッチブックを広げ、絵を描き始めた。ただ楽しくて夢中になって描いていた幼稚園生時代みたいに、筆を走らせていた。もう手が震える事は無くなかった。気づけば、もう明け方になっていた。床に散らばった絵の数々。胸のトキメキを感じながら、拾い上げた。そして思い出す。小さい頃に抱いた将来の夢を。今だからこそ、より強く叶えたいを願うのかもしれない。
――わたし、絵本作家になりたい。
わたしのような臆病な子を救いたい。秋人くんや淳一くん、絵里さん、そして芳成さんがわたしを前に進ませてくれたように誰かの背中を押せるようになりたい。やっと自分の目標を明確にする事ができた。
「美菜。一睡もしていないのか」
芳成さんの問いかけにビクッとしたが、わたしは微笑んで頷いた。
「芳成さん、わたし決めたよ。わたし絵本作家になりたい」
わたしの言葉に、優しく微笑み「僕の部屋に来なさい」と呼びかけられ付いていった。部屋の引き出しから、段ボール箱五箱ぐらい取り出し、開封する原稿用紙の束が出てきた。目を通すと、それらすべて芳成さんが書いた小説であった。純文学というものだろうか。わたしには難しく分からないものが多かった。
「僕はね。昔小説家になりたかったんだ。だけどなれなかった。なるという覚悟がもてなかった。だけどお前は僕じゃない。きっと大丈夫」
「だけど少し不安」
「大丈夫って言ったろう」
二人で笑い合った。それから芳成さんは小説を書いていた頃の話を訊かせてくれた。彼も小説が好きで書くのが楽しくて仕方がなかった。時に悩んだり苦しんだりもした。だけどそれは誰もが通る道だと彼は言う。誰もが夢のために必死で藻掻いたり足掻いたりする。きっと秋人くんや淳一くん、そして鈴音ちゃんも自分の夢のためにがむしゃらに努力をしている。わたしもやっとスタートラインに立つ事ができた。みんなが立つ勇気をくれたおかげだ。出口の見えない真っ暗なトンネルから、みんなが外へ導いてくれた。そのときの空は雲一つも無い晴天の空だった。
どうしたものだろうか。わたしは恐怖に押し切られている。街の路地裏で、忘れもしなしない相手が鋭利な笑顔を浮かべ、わたしを見つめていた。
遡る事、水曜の夕方。秋人くん達の映画の撮影から帰宅する際に、淳一くんから声をかけられた。
「美菜っち。ちょっといいかな」
「なんですか」
「ちょっと頼みたい事があって」
「いいですけど。わたしでいいんですか」
わたしの問いかけに、淳一くんは満面な笑顔で頷いた。わたしに頼みたい事ってなんだろうか。映画関係だと思うのだが。首を傾げていると、淳一くんが笑いながらわたしの肩を叩いた。
「美菜っち、そんな不安になんなくていいよ。ちょっと案内してほしい場所があって。美菜っちが適任かなと思って」
「わたしがですか」
「うん。実は次の作品のために、街に行こうと思ったんだけど。美菜っちって街から越してきた事を思い出してさ。嫌だよね」
心配する問いかけに、わたしは首を横に振った。頼ってくれているのに、断るだなんてできやしない。それにあの頃のわたしとは違う。そう思いがあった。だけれど、やはり胸に不安があった。中学時代のトラウマからフラッシュバックを起こしてしまうのではないか。それが恐かった。
「心配する事ないって、僕やあっきーだって一緒に行くし。心細かったら、鈴音だって呼ぶよ」
「大丈夫です。期待添えるかどうか分かりませんが」
「そんな構える事はないよ。遊びに行く感じでいいよ」
「はぁ」
中学を卒業して以来、二か月振りぐらいだろうか。なんだかもっと前のような気がする。そう感じるぐらい、あの町に馴染んでいたという事だろう。もともと住んでいた街よりも今住んでいる町の方が好きだ。あの町は、わたしのすべてを受け入れてくれる。だからあの街に足を運ぶ事はなかった。再び、この街に出向くとなると勇気がいる。
「安心しろ美菜。なんかあったら、俺達が支える」
背後から肩に手を置かれ、ドキッとした。彼にはいつも驚かされる。秋人くんだ。彼とは先日から恋人という関係となった。あまり実感は沸かないが。だけれど、彼とこうして関わりを持てるのが、すごく嬉しかった。
「もしかして僕はおじゃま虫かな」
「そんな事はないさ。お前の目線からの考えも知りたいからな」
「嬉しい事言ってくれるねぇ。じゃぁ、詳細はメッセージで送っとくね」
「わかりました」
二人に会釈し、帰路に着いた。
どんな理由があれども、外出に誘ってくれるのは嬉しいものだ。胸が躍る。でも男の子と出かけるのは緊張する。軽く溜息を吐いた。
「緊張するなぁ」
どこへ行けばいいのだろうか。やはり同年代の子達が行くようなお店をチョイスした方がいいと思うが。詳しい事は後でメッセージを送ってくれるらしいが、自分なりに考えておいた方がいいのかもしれない。わたしは再度、溜息を吐いた。
週末、わたし達三人は街へ来ていた。一度神社に集合して、駅まで自転車へ向かい、現在に至る。
久々の光景に、ドキドキしている。今回の事は両親には伝えていない。なにせ、心配性な両親の事だ。人前でも抱き締めかねない。そんなの二人に見られたくはない。もし見られてしまったら、恥ずかしくて穴に入りたいぐらいだ。もちろん秋人くんと交際し始めた事も伝えていない。絶対にお父さんが大騒ぎするのが目に見える。
「どぉ、美菜っち。久々の地元は」
「なんだか、とても久々に感じますかね」
「こないだのゴールデンウイークとかには帰ったりしなかったの? 何日か空いてたと思うんだけど」
「そうですね。あまり気が乗らなかったので。それに神社の手伝いもしたかったのもあります」
「そっか。美菜っち、巫女さんしてるとき、なんか活き活きしてる気がするよ」
そう言われると、凄く恥ずかしくなる。きちんとわたしを見ていてくれる人達がいるのは嬉しい事なのだが、ちょっぴり恥ずかしいモノだ。
「お前はもっとそうやって表情を出しとけよ」
秋人くんのその言葉にハッとした。どういう意味だろうか。その言葉の意味をすぐには理解をする事はできなかった。彼はわたしの頭を優しく撫で、言葉を続けた。
「さっきみたいに、笑顔を振りまけって事だ。自信を持て、美菜はもう独りじゃないだろ」
とてもシンプルな言葉なのに、凄く救われた気分になる。雲の一つもない笑顔を見せた。
「お二人さん。皆見ていらっしゃるぞ」
淳一くんの一言に、二人揃って顔を真っ赤に染めた。
わたし達は逃げるように歩き始めた。初めは淳一くんが行きたい所を詳細に書いてくれていたため目星がつけられていた。同年代が行きそうな飲食店やアミューズメント施設、洋服屋などを梯子行った。中学時代は、性格的な所もあるが、そういったお店は苦手であった。場違いと感じてしまっていたからだ。でもこうして誰かと一緒に出かけるというのは、とても不思議な感じだ。わたしは胸を躍らせた。今まで見えていなかった街並みがあると知り、楽しい。
「美菜、お前は行きたい店とかないのか」
秋人くんの何気ない質問に戸惑った。いざどこに行きたいかと訊かれると、緊張してしまう。確かに行きたいお店はあった。だけど馬鹿にされないかと心配になってしまう。
「大丈夫だ」
「じゃ、じゃあ。ほ、本屋さんに」
「了解」
彼は優しく微笑んだ。そんな彼に淳一くんが背中を叩いた。
「僕、少し席外すよ。二人の時間楽しみな」
そう言って、彼はどこかへ去って行ってしまった。急にどうしたのだろうか。首を傾げていると、秋人くんに手を繋がれ胸がドキッと跳ね上がった。
――どうしよう。手汗、大丈夫かな。
ドキドキが止まらない。緊張しまくりのわたしに彼が噴き出す。
「お前は面白いな。感情が豊かというか」
「でも噴き出すなんて、ひどいです」
「すまないな」
膨れるわたしに対して、いたずら気に秋人くんは笑った。
――この人には敵わないな。
彼の手を握り歩き始めた。
こうして握ってみると、男の子なんだなと改めて感じる。わたしの手よりも大きくて、細いのにゴツゴツした指が自身の手を包み込んでいた。だけれど恐いだなんて思わなかった。この人は決して人を傷つけたりはしないと知っているから。だから恋をしたのだろう。
「美菜はどんな本を読むんだ」
「ひ、秘密です」
「なんだそれ」
わたしが絵本のことが好きだと知っているのは、家族と芳成さん、そして絵里さんぐらいだろう。高校生にもなって、未だ絵本を買っているのはわたしぐらいだと思う。いずれにせよすぐに知られる事になのだれど。
「秋人くんは本って読んだりするんですか」
「まーな。推理小説とか読むな」
なんだか凄く似合う気がする。普段から大人っぽく感じているが、より大人なんだなぁと思ってしまう。それに比べて、わたしは子どもっぽいのかもしれない。どこか置いて行かれている気分だ。
本屋に着くと、わたしは児童書コーナーへ向かった。秋人くんは脚本の資料になりそうな本を探してくるという事で別行動となった。わたしは気になっていた本を取り、レジを済ませた。彼を探しにいると、思いがけない人物と出くわしてしまった。忘れもしない辛い思い出。
「す、…鈴木く…ん」
怯えるわたしに対し、疎ましそうな様子で「久しぶりだな。浅倉」と挨拶をしてきた。彼はあの頃から変わってない様子であった。他人を自分の玩具としか思っていない中学生の時のままであった。逃げるように店を飛び出した。
――どうしようどうしよう。
心がどんどん恐怖に支配されていく。あの頃のわたしとはまったく変わっていない。戦う術も無く、逃げ出す事しかできない弱くて泣き虫な自分のままだ。ひとけの無い路地裏に座り込んでいた。体の震えが止まらず、生きている心地がしなかった。
「お前、俺から逃げきれると思ったか」
その言葉に絶望させられてしまう。彼は脅すように壁を蹴り、言葉を続けた。
「あのときみたいに遊んでやるよ。どうせ、お前みたいな陰気臭い根暗なんか友達なんかいねぇだろ」
そんな事はない、わたしにだって友達はできた。それにわたしを好きだって言ってくれる人もいる。なのにそれが声にする事ができなかった。目の前の恐怖から、うまく体に力が入らない。
「今からあいつら、呼んでやるよ」
彼はポケットからスマホを取り出し、メッセージを開いた。
――お願い、やめて。
咄嗟に彼の手を掴んでいた。彼は一瞬ギロッと睨みを利かせたが、すぐに鋭利な笑顔を浮かべた。わたしの手を振り払い、胸ぐらに手をかけた。
「まぁいいや。お前一人、俺だけで十分だわな」
「嫌、やめて――」
わたしの言葉に耳を傾ける事も無く、彼は服を引き裂き胸元が露わとなった。魂が抜けたように座り込んだ。あのときと一緒だ。無理やり下着姿にされ写真を撮られたときも、叫ぶ事も泣く事なかった。ただ呆然とするしかなかった。彼は溜息を吐いた。
「相変わらず、貧相な体してんのな」
そう言いつつも、スマホをこちらに向けシャッター音を鳴らした。もうお終いだ。この先ずっとわたしはこの人から付きまとわれなければいけないのだ。どんなに過ごす場所を変えても、どんなに変える努力をしても無駄であった。最終的にこの人にすべてを壊されてしまう。これからもわたしは、彼の玩具として過ごさなければならない。すべてに絶望をしたそのとき「お前、何してんだ」と叫ぶ声がした。こんなところを誰にも見られたくはなかった。こっちに来ないでと願っていた。誰かがわたしに服を羽織らせ、彼から離れるよう誘導された。
「誰だよ、あんた」
「お前に名乗る者じゃないが。人の彼女を卑劣な事されるのは困んだよ」
この言葉に駆け付けたのが秋人くんなのだと気づいた。秋人くんはわたしを力強く抱きしめ、露わところを隠してくれていた。
「彼女? こんな陰気臭い女が? あんたの見る目ねぇんじゃね」
「お前は、こいつのどこを見ていた。確かに自信がなくてすぐに泣くし。よく喋る奴じゃねぇけど。こいつは誰よりも純粋で一生懸命な奴なんだよ。そういう所を見ていないお前に美菜を評価する資格はねぇよ」
怒りを露わにした秋人くんに対して、鈴木くんは気に食わない様子であった。中学時代も彼は先生達から怒られた事なんてなかった。鈴木くんはバレないようやるのが上手かったのだ。他生徒が訴えても訊き入れてくれなかった。その事もあり、わたしは彼の事を先生にも言ってはいない。
「くっだらな。もういいわ」
立ち去ろうとした彼に秋人くんが思いっきり殴り飛ばした。これまでに見た事のないぐらいの形相で彼に言葉を発した。
「約束しろ。今後一切美菜に手を出す事も近づく事もするんじゃねぇぞ。ましてや他の人にもだ。いいな」
鈴木くんは怖気づいたのか、ただ呆然としていた。そんな彼をよそにわたしへ「行くぞ」と声を掛けた。戸惑いながらも頷いて、羽織っていた服のチャックを閉め、彼に手を引かれながらその場を後にした。秋人くんには、いつも救ってもらってばかりだ。悔しくて情けなくて、泪がボロボロと流れてきた。彼を困らせてしまうのに、止める事ができなかった。
「お前は変わったよ。初めて会ったときよりも少しだけ強くなった」
「そんな事ないです。結局、やられっぱなしでした」
「抵抗していたじゃないか。きちんと嫌だ止めてくれって言えてたじゃない。あのときから強くなった」
「あのときって?」
「お前と初めて出会ったとき」
小さく「あっ」と呟いた。思い出したのだ。神社で彼に対して懐かしさを感じた理由も合点する。わたしは中学生の時に秋人くんと会っていた。路地裏で女子達から罵られていたわたしを助けてくれた男の子が秋人くんだ。あのときから彼はずっとわたしの事を知ってくれていたのだ。胸がギュッと締められてしまう。
「まさかおっちゃんの姪っ子とは思わなかったけどな」
彼はとびっきりの笑顔を浮かべ、わたしの頭を撫でた。彼の手は好きだ。太陽みたいに暖かく優しい。いつか彼のように誰かを救えるようになりたい。強く心に誓った。
家に帰ってから部屋に籠り、スケッチブックを広げ、絵を描き始めた。ただ楽しくて夢中になって描いていた幼稚園生時代みたいに、筆を走らせていた。もう手が震える事は無くなかった。気づけば、もう明け方になっていた。床に散らばった絵の数々。胸のトキメキを感じながら、拾い上げた。そして思い出す。小さい頃に抱いた将来の夢を。今だからこそ、より強く叶えたいを願うのかもしれない。
――わたし、絵本作家になりたい。
わたしのような臆病な子を救いたい。秋人くんや淳一くん、絵里さん、そして芳成さんがわたしを前に進ませてくれたように誰かの背中を押せるようになりたい。やっと自分の目標を明確にする事ができた。
「美菜。一睡もしていないのか」
芳成さんの問いかけにビクッとしたが、わたしは微笑んで頷いた。
「芳成さん、わたし決めたよ。わたし絵本作家になりたい」
わたしの言葉に、優しく微笑み「僕の部屋に来なさい」と呼びかけられ付いていった。部屋の引き出しから、段ボール箱五箱ぐらい取り出し、開封する原稿用紙の束が出てきた。目を通すと、それらすべて芳成さんが書いた小説であった。純文学というものだろうか。わたしには難しく分からないものが多かった。
「僕はね。昔小説家になりたかったんだ。だけどなれなかった。なるという覚悟がもてなかった。だけどお前は僕じゃない。きっと大丈夫」
「だけど少し不安」
「大丈夫って言ったろう」
二人で笑い合った。それから芳成さんは小説を書いていた頃の話を訊かせてくれた。彼も小説が好きで書くのが楽しくて仕方がなかった。時に悩んだり苦しんだりもした。だけどそれは誰もが通る道だと彼は言う。誰もが夢のために必死で藻掻いたり足掻いたりする。きっと秋人くんや淳一くん、そして鈴音ちゃんも自分の夢のためにがむしゃらに努力をしている。わたしもやっとスタートラインに立つ事ができた。みんなが立つ勇気をくれたおかげだ。出口の見えない真っ暗なトンネルから、みんなが外へ導いてくれた。そのときの空は雲一つも無い晴天の空だった。