2話
四月、わたしは高校生になった。先日、入学式が終わり、本格的に新生活が始まったのだ。とは言え、わたしは知り合いがいるわけでもなく、そして話しかける勇気がなかったため、クラス一人浮いていた。クラスメイトの人達のだいたいが地元という事もあり、グループができていた。その中、わたしはひっそりと配布されたプリントの片隅に絵を描いていた。一つの精神安定剤みたいなものだろうか。だけれどスケッチブックやキャンバスに描く事だけはできなかった。保健室登校しているとき、何度か描こうとした事があった。イジメの記憶が蘇って、手が震えてしまう。最後に鉛筆を置いてしまっている。今は紙の片隅に落書き程度であったら描けるようにはなって来た。神社の手伝いが、良い心のリハビリになっているのかもしれない。黙々と絵を描いていると、前方から「可愛い絵だね」と可愛らしく澄んだ声で声を掛けられた。わたしは驚いて肩を震わせた。顔を上げると、そこにはお人形みたいに綺麗な少女がクスクスと笑いながらわたしの顔を覗かせていた。
「そんなに驚かないでよ」
「え、えっとえっと。ご、ごめんなさい」
驚きのあまりに、悪い癖が出てしまった。彼女は首を傾げながら「別に謝らなくていいのに」と呟いた。確かに対して謝る程の事はなかった。心臓がまだドキドキしていた。
「えーと確か浅倉さんだっけ」
「は、はい。あ、浅倉み、美菜です」
再び少女はクスクスと笑い始めた。胸の所が騒めいて、顔の血の気が引いていった。彼女もそれに気づいて慌てる様子を見せた。少し罪悪感があった。
「ごめん、浅倉さん。別に馬鹿にして笑ったわけじゃないよ」
悪気がないというのはわかっている。わたしも彼女の立場だったら同様な行動になっているだろう。だけれど胸の中に不安が残った。彼女は何度も「本当にごめんね」と謝り続けた。
「だ、大丈夫ですから。気にしないでください」
「本当に?」
わたしは首を縦に振り、彼女はホッとした表情を見せた。いちいち笑われる事を気にしていたらキリがないだろう。わたしは恐る恐る彼女に声を掛けた。
「あ、あの。あなたは…」
「あたし、雪村鈴音。鈴音でいいよ」
「す、鈴音さん」
「同い年なんだから、下の名前で『さん』は辞めてよ」
「じゃあ鈴音ちゃん」
「うーん、ギリギリオーケーかな」
彼女は複雑な表情を浮かべて、OKマークの輪っかを作った。わたしは胸を撫で下ろした。下の名前で呼ぶ事があまりいなかったから、緊張してしまう。まだ心臓がドキドキと踊っている。きっと顔も赤くなっているだろう。体が熱くなってきた。
「浅倉さんって本当に面白いね。ねぇ、これから美菜って呼んでいい」
「大丈夫ですよ」
彼女は笑顔を見せ、「やった」とガッツポーズをしていた。自然と表情筋が緩み、恥ずかしくて急いで口を押えた。
「ど、どうしたの」
「い、いえ。なんでもないです」
「変な人だね」
小さく溜息を吐き、再び笑顔を見せた。
なんだか彼女は不思議だ。自然と笑顔にさせられてしまう。もしかしたら彼女には、人を笑顔にさせる才能があるのかもしれない。
――なんだ普通に笑えば良かったんだ。
恥ずかしがる事なんて最初からなかった。わたしはフフッと笑った。鈴音ちゃんが嬉しそうに「美菜は、そういう風に笑うんだね」とまじまじと見つめた。なんだか面映ゆく感じる。
「あっ、顔が赤くなってる。かっわいい」
「やめてください。恥ずかしいので」
「照れてるの。このこの」
彼女はハイテンションで、わたしを突いた。近くにいたクラスメイトがなんだなんだと集まってきた。もう頭の中がパニックだ。性格上、あまり目立つ事は好きではなかった。寧ろ苦手だ。こういう時はどうしたらいいのだろうか。あたふたしていると、「この子、面白―い」という声が訊こえ、とても恥ずかしかった。きっと顔が真赤になっているだろう。
思いかけず、わたしは教室から逃げ出してしまった。クラスメイトのざわめきが遠くに感じた。
辿り着いたのは屋上であった。わたしは魂が抜けたように座り込み、一人泣いていた。恥ずかしいと苦しいという気持ちが混じり合っていた。そして逃げ出してしまった事への後悔。自分でそれをどう対処すればいいのかわからず、ただただ泣いていた。
こんなとき、誰に相談をいいのだろうか。わたしは一人の少年の顔が頭の中に過った。秋人くんだ。だけれど、彼に相談する事なんてできなかった。いくら知り合いだからといって、そんな甘えるわけにはいかない気がした。誰にも相談が出来ず、独り泣いていた。
「お前、本当によく泣くな」
呆れた男の子の声。だけれど、どこか暖かい。顔を見ずとも、声の主がわかった。秋人くんだ。わたしは振り返る事が出来ず、その場で座り尽くしていた。彼は何も言わず、わたしの隣に座りパソコンを開いた。ただ沈黙の時間が流れ、キーボードの音だけが訊こえていた。それだけなのに、とても安心する。
「秋人くん、今から話す事は独り言ですから、訊き流してくださいね」
秋人くんキーボードを打ちながら「ああ」と返事をしてくれた。わたしは一呼吸していから話し始めた。
「今日、わたしが描いた絵を可愛い絵だねって言ってくれた子がいたんです。恥ずかしかったけれど、嬉しいって気持ちもありました。だけどわたし、その子から逃げ出しちゃったんです。その子のおかげでクラスに溶け込めたのに。わたし、駄目なんです。たくさんの人に囲まれて見られるのが。中学時代の事を思い出してしまって…」
話していく内にみるみると泪が浮かび、零れていった。本当に惨めで恥ずかしい。わたしは彼に背を向けた。何度も泣いている顔を見られたくはない。わたしは必死で泣く声を我慢した。そのときだった。秋人くんは懐かしそうにそして切なそう表情を浮かべながら口を開いた。
「俺さ、中二のときに脚本家の夢を、ガラ悪い奴からからかわれててさ。すげー悔しかったんだ。でさ一回脚本のコンクールに送ったんだ。見事に落選したけど。その事を知ったそいつがさ、俺を晒しものにして笑ったんだ。他の奴らの何も言わず笑ってた。俺も言い返せなくて、ただ耐えてだけだった。そんなときに言い返してくれたのが、淳一だった。そん時、なんて言ったと思う」
「なんですか」
「僕の大事な相棒を馬鹿にするなだって。あいつ、目立ってたけど話した事なかったからさ。衝撃的だったよ。それから俺達、仲良くなってさ、一緒に作品創るようになったんだ」
彼はとても嬉しそうだった。彼には淳一くんという味方がいてくれたのが救いだったのだろう。わたしにはそのような人がいなかったから、少し羨ましい。部活動で仲が良かった子も、イジメの標的にされるのを恐れてわたしから距離を置くようになった。もちろん、それが当たり前の反応だったのかもしれない。だけどわたしは誰かに助けてほしかった。心のどこかでそれを望んでいた。わたしは悲しみの淵にいた。
――そういえば。
わたしは一度だけ、顔見知りではない男の子から助けてもらった事があった。顔は覚えていない。学校から帰宅しているときに、わたしは上位層の子達から化粧品を万引きするよう強要され、わたしは拒否をしたのだ。その子達は人目が付かない場所へ連れていき、わたしを罵った。わたしは言い返せず、ずっと終わるのを待っていた。
『お前ら、そこで何している』
思いがけない展開で、みんな『やば』と呟きつつ、逃げていった。わたしはその場で座り込み呆然としていた。そのときは泣く事はなかった。多分、少し感情がマヒしていたのだろう。男の子から『大丈夫』と訊かれたが、わたしは答えられなかった。泣く事も言葉出す事のないわたしに男の子は戸惑っていただろう。それなのに彼はわたしの事を優しく包み込み、頭を撫でてくれた。何故だが、その人を拒否する事はなかった。ただただ力無く、彼の胸に項垂れていた。見ず知らずの男の子なのにとても安心していた。この人なら大丈夫、心のどこかでそういう気持ちがあったのだろう。その人とはきちんとお礼もせずに別れてしまっていた。彼は今どこで何をしているのだろうか。
「わたし、そろそろ行きますね」
「大丈夫なのか」
「正直、不安しかありません。だけど、勇気出してみます」
「そうか」
彼はそれ以上の事は言わなかった。わたしは軽く会釈をし、屋上をあとにした。早く鈴音ちゃんと友達になりたい。初めてのこんな気持ちになったかもしれない。教室に急いだ。また彼女が仲良くしてくると淡い期待を抱いて。
教室前に着くと、美鈴ちゃんが気まずそうな表情を浮かべて立っていた。速足を緩め、「あの!」と声をかけた。彼女は驚いて、ビクッとしていた。わたしはあまり声を張るタイプではない事もあって、恥ずかしくて鈴音ちゃんの顔を見る事ができなかった。
「あの! あの!」
上手く言葉を発する事ができず連語いると、彼女から「ごめんね」と謝罪を告げ、言葉を続けた。
「本当にごめん。あたし、楽しくなりすぎちゃって美菜の事が見えてなかった。美菜と仲良くなれると思ったら、嬉しくなって、はしゃいじゃったの。だからごめんなさい」
必死に謝る彼女に、わたしは首を横に振った。謝るのはわたしの方だ。逃げ出してしまった事で、彼女を傷つけた。そして彼女に謝らせてしまっている。内心、最低な人間だと感じた。わたしは顔を上げ、彼女と目を合わせた。
「謝る方なのはわたしの方です。せっかく話しかけてもらったのに、わたし恥ずかしくなて、どうしたいいのかわからなくなっちゃったんです。だからと言って、逃げていいってわけではないのに、本当にごめんなさい」
私が深く頭を下げると、彼女は不意にクスクスと笑い始めた。わたしは驚いて顔を上げると、彼女は悪意のない笑顔を見せていた。すぐに状況が呑み込めず、焦ってしまう。
「ごめんごめん。笑うタイミングじゃないよね」
「そ、そうですよ。少し傷つきました」
「だよね。でもおかしくてつい」
再び笑顔を見せた。おかしな人だというのが、彼女への印象になっていった。そのせいもあり、ついつられて笑い出してしまった。二人で笑い合っていると、周囲の視線が集まっていた。お互いに頬を赤く染め上げるが、それでもおかしくて笑い続けた。
「美菜、今日はいい事でもあったのか」
リビングでスマホを見ていると、芳成さんが頬杖を突きながら尋ねてきた。たわいのない質問なのに、この人だと何故か心の中を覗かれているようだ。だけど悪い気はしない。わたしは、控え目に「うん」と頷いた。
「芳成さん、わたし友達できたよ。鈴音ちゃんって言う、とても明るい子なの。って知ってるか」
「すずね? すずねすずね…。ああ、雪村さんとこのおてんば娘か」
おてんば娘って、わからない気もしないけれど。確かに明るくて、どことなくおっちょこちょいな子だ。それが初めてできたわたしの友達だ。なんだかわたしの心に今までなかった色が塗られた気がする。少しだけ心が躍った。
「楽しく過ごせそうでよかったな」
「うん。わたし、ここに来てよかった気がする」
「そうか」
芳成さんは短く返事をしてから「風呂に入ってくる」と告げリビングをあとにした。
静まりくるリビング、再びスマホを見始めた。画面には今日交換した鈴音ちゃんの連絡先が映っている。未だに信じられない。だけどこの真実に嬉しさは感じて、心なしにはにかんでしまう。飛び跳ねたいくらいだ。初めて笑い合える友達ができ、わたしの胸は躍っている。こんな感じは初めてではないだろうか。わたしの世界がキラキラとし始めた。そのとき、ピコーンと通知音が鳴った。秋人くんからだ。内容は映画の脚本が完成したという報告と放課後に映像研究会の部屋に来てほしいという連絡であった。さっきまでの違うドキドキを感じた。
翌朝やけに早く起きてしまい、わたしは近所を散歩する事にした。どこまでも続く畑道。そこから香ってくる土の匂いは、どこか切なく心地よさがあった。わたしはその曖昧さが好きだ。なんだか違う世界に来た気がするから。わたしは進める足を止め、目を閉じた。そして想像をするのだ。もしもこの田舎町が不思議の国のアリスのような世界だったら。その想像の世界で、わたしは胸を躍らせ駆け出した。人の言葉を可愛らし気に話すウサギや茶会を開く帽子屋、道案内をしてくれるチェシャ猫が愛くるしく、キラキラしている。わたしはこの瞬間が好きだ。小さい頃はよくやっていたが、年齢を重ねる事にする事が少なくなって気がする。そう考えると少し寂しくなった。
スマホで時間を確認すると、もうすぐ神社の手伝いの時間であった。のんびりしすぎてしまった。朝の神社の手伝いは、ここに来てからのルーティンだ。わたしは慌てて足を走らせた。
放課後、わたしは鈴音ちゃんと一緒に映研の部室へ向かっていた。どうやら鈴音ちゃんもエキストラで頼まれていたらしい。知人がいるというのは嬉しいが、少し照れくささがある。
「にしても、美菜が主役をやる事になっていたとは。そういう役やりたがるタイプではないと思ってたけど」
「最初は断ったんですけど。わたし、引っ込み思案の性格を直したいという気持ちがあって。それで…」
「そうなんだ。いいんじゃない。てか秋人達と知り合いだったんだ」
「こっち越して来て間もないときに、少し」
彼女は「へぇ」と呟き、何か思い出そうとする素振りを見せた。そういえば同じ田舎町に住んでいるのだから一度会っているはずだけれど、彼女には一度も会った記憶がない。印象に残りやすい彼女だけに不思議だ。
「そうだ、あたし卒業してからずっとフットサルクラブに顔を出してたからだ」
彼女は納得したように、一拍した。つい「ほぉ」と言ってしまった。でもわかる気がする。家の中で過ごしているよりも、外で体を動かしている方が似合う。とことんわたしとは対照的だ。わたしは逆に部屋で本を読んだり絵を描いている方が好きだ。
「そういえば、なんで越してきたの? 親の転勤とか」
彼女の問いかけに首を横に振り「実は…」。こっちに越してきた理由や芳成さんとの関係性などを説明した。
「あの人の姪なんだ。似てないね」
まるっきり秋人くんと同じ反応だ。確かに顔つきや性格は全然似ていない。どちらかというとわたしは母方に似ているとよく言われる。芳成さんは父の兄である。似ていないと言われても仕方がないかもしれない。
「美菜、ここではあんたをイジメるような人はいないから大丈夫だよ」
そう言って、わたしの背中を叩いた。なんだかおかしくなって笑い出してしまった。
部室へ入ると淳一くんが開口一番に「二人ともおせぇよ」叫んだ。まるでごはんが待ちきれない小学生のようだ。笑うとこではないのだが、この場にいる全員が噴き出していた。多分、みんな同じ理由だろう。
「なんだよなんだよみんなして。僕は本気で怒ってるんだぞ」
「うるさいわね、乙女には乙女の用事ってのがあんのよ」
鈴音ちゃんが言い返すと、みんなが盛り上がって「言ったれ言ったれ」と野次を飛ばしていた。これがいつもの光景なのだろうか。まるで祭りに来た気分だ。少し疎外感があった。どこか置いて行かれている気がした。思わず後退ると、誰かとぶつかり、わたしは慌てて「すいません」と言いかけた。見知った顔に、わたしは見開いた。そこには複雑そうな表情を浮かべた秋人くんが立っていたのだ。
彼は上着のポケットからスマホを取り出し、シャッター音を鳴らし笑みを溢した。
「美菜、今の表情最高だったな」
「今すぐ消してください」
「やだって言ったら」
「わたし帰ります」
ドアノブに手を伸ばすと、秋人くんがわたしの手首を握りしめた。真剣な表情を浮かべる彼に思わず笑ってしまった。
「これでおあいこです」
「なんだそれ。お前、やるようになったな」
呆気に取られつつも秋人くんは笑顔を浮かべた。彼の笑顔に何故だが胸がドキドキと音を立てた。この音の止め方がわからず、焦ってしまう。初めての事でもどかしさがあった。これに名前があるのなら、なんと言うのだろう。その答えが霧のようにぼんやりとしていて、はっきりとしなかった。秋人くんに対して友情以上の感情があるのだろうか。急に体が熱くなり、彼から視線を逸らした。
「何、美菜と秋人ってできてんの? いつの間に」
その声にハッとし、振り向くと部屋にいるみんながわたし達を暖かい目で見つめていた。わたしは慌てて首を横に振るが秋人くんが「そうだけれど」と虚言した。みんな声を上げて盛り上がるが、鈴音ちゃんは複雑な表情を浮かべ、わたし達を見つめていた。
パンと手を叩く音がし、「みんなちゅーもーく」と淳一くんの大きな声が訊こえてきた。
「みんな本題忘れすぎ! 映画についてのミーティング始めるよ」
みんな、そうだそうだという勢いで椅子に座り始めた。鈴音ちゃんは表情が戻る事なくわたしの隣に座り傾聴していた。わたしはそれがなんだが気がかりであった。
撮影日程などの話しが終わり、出演する事になっているメンバーは別の教室へ移動となった。淳一くん曰く撮影をしていく上で親交を深めてほしいとのことだ。わたしは鈴音ちゃんの事が気になりつつも、その場をあとにした。
映画に出演する事になっている生徒のだいだいが上級生だ。うまく親交深められるのか、幸先不安だ。丸くなった背中に秋人くんが軽く叩いた。
「そんな緊張する事はない。みんな素人さ。お前のほかにも初めて参加する奴もいる」
「はぁ」
緊張するなと言われても無理がある。わたしは小さく溜息を吐いた。鈴音ちゃんの事も気になって胸がいっぱいだ。
「美菜、さっきはすまなかった」
「何がですか」
「俺達が付き合ってるって言われたとき、そうだがって答えしまったことだ。あれ、お前に失礼だよな。すまない」
「あれひどいです。わたしの気持ち、考えなさすぎです」
「面目ない」
それにその一つの冗談で鈴音ちゃんの表情を曇らせた。わたしもはっきりしなかったのも悪いかもしれないけれど。
「ねぇねぇ、二人は本当に付き合ってるの?」
女生徒が興味深々でわたし達に尋ねきたが、わたしは横に振った。
「わたし達、そういう関係じゃないです。ただの友人です」
「そうなんだ。なんか残念。日野くんのそういう話しないから」
「そうなんですか」
「そうなんだよ。クールぶってるけど、かなりのシャイボーイだよ」
意外な公言だ。決してシャイのようには見えない。いつも優しく見守ってくれる太陽のような男の子。わたしが困ったときは、そっと背中を押してくれる。わたしが同世代で初めて信頼できた人かもしれない。
「誰がシャイボーイだよ」
「あんたよあんた。日野秋人くん」
反論しようとするが、強気の女生徒に苦しい表情を浮かべ論破されていた。すごく大人に見えていた彼がとても可愛らしく思ってしまい、つい笑ってしまった。
「あなた笑った顔、可愛いじゃん」
「そんな。わたしなんて」
「なんでそういう事言うのよ。もう」
そう言って、わたしの背中を叩いた。なんだかどことなく絵里さんに似ている気がする。あの人もすぐに髪をわしゃわしゃとしていくる。絵里さんなりのスキンシップなのかもしれないけれど。
「日野くんも趣味がいいんじゃない」
「だから美…、浅倉が違うって言っただろう」
「今、下の名前で呼ぼうとしたな」
冷やかす女生徒に秋人くんは小さく溜息を吐いた。こんなにも押されている彼が物珍しく感じる。いやわたしが普段の彼の事をよく知らないだけだ。彼が何を好きで、友達とどんな話しをしているのかなんてあまり知らない。
仲良くしてくれるが、そういった話しをして来なかった。知っているとしたら好きな言葉と将来の夢ぐらいだ。もっと彼の事が知りたい。知らなくてはいけない気がした。この感情に名前があるのならばなんと言うのだろう。今のわたしにはわからなかった。もし彼女の言う感情があるのだろうか。そう考えると少し恥ずかしく感じた。わたしにはもったいないくらいの素敵な男の子だ。
「お似合いだと思うんだけどなぁ」
「くどいぞ」
秋人くんは呆れた様子で言い返していた。
なんだかそれが切なく感じた。
集まりが終わり、わたしは鈴音ちゃんと待ち合わせしている昇降口へ向かった。彼女の事が気になっていた。なぜあのとき表情を曇らせたのか。心配であった。辿り着くとすでに彼女は昇降口で待っていた。
「ごめんなさい。遅くなって」
「大丈夫、あたしも今来たところだから」
そう言って、わたしを避けるように先に靴箱の方へ歩いて行ってしまった。やはりさっきの事を気にしているのだろう。
「あの鈴音ちゃん」
「何?」
「その秋…、日野さんとは」
「わかってるよ。あれ秋人の悪ふざけでしょ。たまにやるのよ。柄じゃない事を」
口ではこう言っているが、無理しているように見えた。だけどそう言われてしまうと、わたしは何も言い返す事ができなかった。いやその術をしてこなかったツケなのかもしれない。わたしはただ俯いてしまった。
「あんたねぇ、そうやってすぐに俯かないの」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいは禁止。まったくもう」
本当に質の悪い癖だ。
わたし達は靴を履き替えて、校舎から出た。運動部の掛け声や野球部のボールを打つ音が鮮明に訊こえて来た。
「ねぇ、美菜はさ。秋人の事をどう思っているの」
突然の質問、いや当たり前の質問だろうか。
わたしは「初めての男の子のお友達」と煮え切れない返答した。正直、出会った頃はそう思っていた。だけど、女生徒と踏まえた会話でそれ以上の気持ちがあるのじゃないかと感じた。
「あたしね、秋人の事が好きなの。小さい頃からずっと」
彼女のその言葉がとても重くわたしにのしかかった。彼女と秋人くんは言わば幼馴染みという関係で、そう言った想いが存在していても不思議ではないだろう。だけど彼女の想いはわたしの胸を騒めかした。
「だけどね。あたしと秋人、付き合える気がしないんだよね」
「どうして…ですか」
なぜ彼女がそういう事言うのかわからなかった。ずっと傍にいて、ずっと彼の事を想っているはずなのに、どうしてなのだろうか。
「今はそんな素振り見せないけれど、中学時代、秋人の口から女の子の話しが出た事があったの。特に恋愛という意味での話しではなかったんだけど。あのときの秋人の顔がなんだか恋しているように見えたの」
「そうなんですね」
彼女にどんな言葉をかけるべきなのか。声をかけようとしても言葉が出て来ず、ただ口を噤んでしまった。
「ねぇ、美菜」
「なんですか」
「あんた、秋人の事が好きでしょ」
彼女が放った言葉が、すぐには理解する事ができなかった。無意識の内にしたくはなかったのかもしれないが。
――わたしが秋人くんの事が好き?
わたしが、恋愛感情を抱いていいものだろうか。こんなに弱くて、自分に自信のないわたしが恋なんてしてもいいのだろうか。
わたしは何も答える事ができず、彼女を見つめていた。
「どうしたの、美菜ちゃん」
部屋に籠っていると、絵里さんの心配する声がした。わたしは振り向く事なく言葉を発した。
「絵里さん、わたし。わたし、秋人くんの事、好きになってもいいですか」
絵里さんは優しく微笑んでわたしの隣に座って「馬鹿だねぇ」と囁き言葉を続けた。
「誰かを好きになってはいけないなんてないよ。誰にだって恋をする権利はあるの。美菜ちゃんにもね」
「わたしにも」
「そうだよ」
わたしスカートをギュッと握りしめて自分の胸の内を打ち明けた。
「わたし、恐いんです。男の子を好きになるのが」
「初恋なんだ、美菜ちゃん」
絵里さんの言葉に、わたしは頷いた。絵里さんはそっとわたしの体を引き寄せた。
「初恋ってなんだか恐いよね。何したらいいかなんてわからないし。うちもそうだったなぁ」
「絵里さんも」
「そうだよ」
笑顔で頷く彼女をわたしは不思議で仕方がなかった。彼女にもそういった時期があった。いつも明るくて優しく恐れ知らずの印象があり、到底怖いという感情が持つだなんて思えなかった。だけどそれはわたしが現在の絵里さんしか見ていないからそう言った印象が持ってしまっているのかもしれない。
「そうかぁ秋人少年か。美菜ちゃんの初恋の相手」
何気ない言葉にわたしは体が熱くなった。
絵里さんはわたしの頭を撫でながら「赤くなちゃってかわいいなぁ」と囁いた。わたしは彼女の胸の中が好きだ。辛い事を忘れて安心する事ができる。
――わたし、秋人くんに恋してもいいんだ。
わたしは微笑んで、絵里さんを抱きしめ返した。
四月、わたしは高校生になった。先日、入学式が終わり、本格的に新生活が始まったのだ。とは言え、わたしは知り合いがいるわけでもなく、そして話しかける勇気がなかったため、クラス一人浮いていた。クラスメイトの人達のだいたいが地元という事もあり、グループができていた。その中、わたしはひっそりと配布されたプリントの片隅に絵を描いていた。一つの精神安定剤みたいなものだろうか。だけれどスケッチブックやキャンバスに描く事だけはできなかった。保健室登校しているとき、何度か描こうとした事があった。イジメの記憶が蘇って、手が震えてしまう。最後に鉛筆を置いてしまっている。今は紙の片隅に落書き程度であったら描けるようにはなって来た。神社の手伝いが、良い心のリハビリになっているのかもしれない。黙々と絵を描いていると、前方から「可愛い絵だね」と可愛らしく澄んだ声で声を掛けられた。わたしは驚いて肩を震わせた。顔を上げると、そこにはお人形みたいに綺麗な少女がクスクスと笑いながらわたしの顔を覗かせていた。
「そんなに驚かないでよ」
「え、えっとえっと。ご、ごめんなさい」
驚きのあまりに、悪い癖が出てしまった。彼女は首を傾げながら「別に謝らなくていいのに」と呟いた。確かに対して謝る程の事はなかった。心臓がまだドキドキしていた。
「えーと確か浅倉さんだっけ」
「は、はい。あ、浅倉み、美菜です」
再び少女はクスクスと笑い始めた。胸の所が騒めいて、顔の血の気が引いていった。彼女もそれに気づいて慌てる様子を見せた。少し罪悪感があった。
「ごめん、浅倉さん。別に馬鹿にして笑ったわけじゃないよ」
悪気がないというのはわかっている。わたしも彼女の立場だったら同様な行動になっているだろう。だけれど胸の中に不安が残った。彼女は何度も「本当にごめんね」と謝り続けた。
「だ、大丈夫ですから。気にしないでください」
「本当に?」
わたしは首を縦に振り、彼女はホッとした表情を見せた。いちいち笑われる事を気にしていたらキリがないだろう。わたしは恐る恐る彼女に声を掛けた。
「あ、あの。あなたは…」
「あたし、雪村鈴音。鈴音でいいよ」
「す、鈴音さん」
「同い年なんだから、下の名前で『さん』は辞めてよ」
「じゃあ鈴音ちゃん」
「うーん、ギリギリオーケーかな」
彼女は複雑な表情を浮かべて、OKマークの輪っかを作った。わたしは胸を撫で下ろした。下の名前で呼ぶ事があまりいなかったから、緊張してしまう。まだ心臓がドキドキと踊っている。きっと顔も赤くなっているだろう。体が熱くなってきた。
「浅倉さんって本当に面白いね。ねぇ、これから美菜って呼んでいい」
「大丈夫ですよ」
彼女は笑顔を見せ、「やった」とガッツポーズをしていた。自然と表情筋が緩み、恥ずかしくて急いで口を押えた。
「ど、どうしたの」
「い、いえ。なんでもないです」
「変な人だね」
小さく溜息を吐き、再び笑顔を見せた。
なんだか彼女は不思議だ。自然と笑顔にさせられてしまう。もしかしたら彼女には、人を笑顔にさせる才能があるのかもしれない。
――なんだ普通に笑えば良かったんだ。
恥ずかしがる事なんて最初からなかった。わたしはフフッと笑った。鈴音ちゃんが嬉しそうに「美菜は、そういう風に笑うんだね」とまじまじと見つめた。なんだか面映ゆく感じる。
「あっ、顔が赤くなってる。かっわいい」
「やめてください。恥ずかしいので」
「照れてるの。このこの」
彼女はハイテンションで、わたしを突いた。近くにいたクラスメイトがなんだなんだと集まってきた。もう頭の中がパニックだ。性格上、あまり目立つ事は好きではなかった。寧ろ苦手だ。こういう時はどうしたらいいのだろうか。あたふたしていると、「この子、面白―い」という声が訊こえ、とても恥ずかしかった。きっと顔が真赤になっているだろう。
思いかけず、わたしは教室から逃げ出してしまった。クラスメイトのざわめきが遠くに感じた。
辿り着いたのは屋上であった。わたしは魂が抜けたように座り込み、一人泣いていた。恥ずかしいと苦しいという気持ちが混じり合っていた。そして逃げ出してしまった事への後悔。自分でそれをどう対処すればいいのかわからず、ただただ泣いていた。
こんなとき、誰に相談をいいのだろうか。わたしは一人の少年の顔が頭の中に過った。秋人くんだ。だけれど、彼に相談する事なんてできなかった。いくら知り合いだからといって、そんな甘えるわけにはいかない気がした。誰にも相談が出来ず、独り泣いていた。
「お前、本当によく泣くな」
呆れた男の子の声。だけれど、どこか暖かい。顔を見ずとも、声の主がわかった。秋人くんだ。わたしは振り返る事が出来ず、その場で座り尽くしていた。彼は何も言わず、わたしの隣に座りパソコンを開いた。ただ沈黙の時間が流れ、キーボードの音だけが訊こえていた。それだけなのに、とても安心する。
「秋人くん、今から話す事は独り言ですから、訊き流してくださいね」
秋人くんキーボードを打ちながら「ああ」と返事をしてくれた。わたしは一呼吸していから話し始めた。
「今日、わたしが描いた絵を可愛い絵だねって言ってくれた子がいたんです。恥ずかしかったけれど、嬉しいって気持ちもありました。だけどわたし、その子から逃げ出しちゃったんです。その子のおかげでクラスに溶け込めたのに。わたし、駄目なんです。たくさんの人に囲まれて見られるのが。中学時代の事を思い出してしまって…」
話していく内にみるみると泪が浮かび、零れていった。本当に惨めで恥ずかしい。わたしは彼に背を向けた。何度も泣いている顔を見られたくはない。わたしは必死で泣く声を我慢した。そのときだった。秋人くんは懐かしそうにそして切なそう表情を浮かべながら口を開いた。
「俺さ、中二のときに脚本家の夢を、ガラ悪い奴からからかわれててさ。すげー悔しかったんだ。でさ一回脚本のコンクールに送ったんだ。見事に落選したけど。その事を知ったそいつがさ、俺を晒しものにして笑ったんだ。他の奴らの何も言わず笑ってた。俺も言い返せなくて、ただ耐えてだけだった。そんなときに言い返してくれたのが、淳一だった。そん時、なんて言ったと思う」
「なんですか」
「僕の大事な相棒を馬鹿にするなだって。あいつ、目立ってたけど話した事なかったからさ。衝撃的だったよ。それから俺達、仲良くなってさ、一緒に作品創るようになったんだ」
彼はとても嬉しそうだった。彼には淳一くんという味方がいてくれたのが救いだったのだろう。わたしにはそのような人がいなかったから、少し羨ましい。部活動で仲が良かった子も、イジメの標的にされるのを恐れてわたしから距離を置くようになった。もちろん、それが当たり前の反応だったのかもしれない。だけどわたしは誰かに助けてほしかった。心のどこかでそれを望んでいた。わたしは悲しみの淵にいた。
――そういえば。
わたしは一度だけ、顔見知りではない男の子から助けてもらった事があった。顔は覚えていない。学校から帰宅しているときに、わたしは上位層の子達から化粧品を万引きするよう強要され、わたしは拒否をしたのだ。その子達は人目が付かない場所へ連れていき、わたしを罵った。わたしは言い返せず、ずっと終わるのを待っていた。
『お前ら、そこで何している』
思いがけない展開で、みんな『やば』と呟きつつ、逃げていった。わたしはその場で座り込み呆然としていた。そのときは泣く事はなかった。多分、少し感情がマヒしていたのだろう。男の子から『大丈夫』と訊かれたが、わたしは答えられなかった。泣く事も言葉出す事のないわたしに男の子は戸惑っていただろう。それなのに彼はわたしの事を優しく包み込み、頭を撫でてくれた。何故だが、その人を拒否する事はなかった。ただただ力無く、彼の胸に項垂れていた。見ず知らずの男の子なのにとても安心していた。この人なら大丈夫、心のどこかでそういう気持ちがあったのだろう。その人とはきちんとお礼もせずに別れてしまっていた。彼は今どこで何をしているのだろうか。
「わたし、そろそろ行きますね」
「大丈夫なのか」
「正直、不安しかありません。だけど、勇気出してみます」
「そうか」
彼はそれ以上の事は言わなかった。わたしは軽く会釈をし、屋上をあとにした。早く鈴音ちゃんと友達になりたい。初めてのこんな気持ちになったかもしれない。教室に急いだ。また彼女が仲良くしてくると淡い期待を抱いて。
教室前に着くと、美鈴ちゃんが気まずそうな表情を浮かべて立っていた。速足を緩め、「あの!」と声をかけた。彼女は驚いて、ビクッとしていた。わたしはあまり声を張るタイプではない事もあって、恥ずかしくて鈴音ちゃんの顔を見る事ができなかった。
「あの! あの!」
上手く言葉を発する事ができず連語いると、彼女から「ごめんね」と謝罪を告げ、言葉を続けた。
「本当にごめん。あたし、楽しくなりすぎちゃって美菜の事が見えてなかった。美菜と仲良くなれると思ったら、嬉しくなって、はしゃいじゃったの。だからごめんなさい」
必死に謝る彼女に、わたしは首を横に振った。謝るのはわたしの方だ。逃げ出してしまった事で、彼女を傷つけた。そして彼女に謝らせてしまっている。内心、最低な人間だと感じた。わたしは顔を上げ、彼女と目を合わせた。
「謝る方なのはわたしの方です。せっかく話しかけてもらったのに、わたし恥ずかしくなて、どうしたいいのかわからなくなっちゃったんです。だからと言って、逃げていいってわけではないのに、本当にごめんなさい」
私が深く頭を下げると、彼女は不意にクスクスと笑い始めた。わたしは驚いて顔を上げると、彼女は悪意のない笑顔を見せていた。すぐに状況が呑み込めず、焦ってしまう。
「ごめんごめん。笑うタイミングじゃないよね」
「そ、そうですよ。少し傷つきました」
「だよね。でもおかしくてつい」
再び笑顔を見せた。おかしな人だというのが、彼女への印象になっていった。そのせいもあり、ついつられて笑い出してしまった。二人で笑い合っていると、周囲の視線が集まっていた。お互いに頬を赤く染め上げるが、それでもおかしくて笑い続けた。
「美菜、今日はいい事でもあったのか」
リビングでスマホを見ていると、芳成さんが頬杖を突きながら尋ねてきた。たわいのない質問なのに、この人だと何故か心の中を覗かれているようだ。だけど悪い気はしない。わたしは、控え目に「うん」と頷いた。
「芳成さん、わたし友達できたよ。鈴音ちゃんって言う、とても明るい子なの。って知ってるか」
「すずね? すずねすずね…。ああ、雪村さんとこのおてんば娘か」
おてんば娘って、わからない気もしないけれど。確かに明るくて、どことなくおっちょこちょいな子だ。それが初めてできたわたしの友達だ。なんだかわたしの心に今までなかった色が塗られた気がする。少しだけ心が躍った。
「楽しく過ごせそうでよかったな」
「うん。わたし、ここに来てよかった気がする」
「そうか」
芳成さんは短く返事をしてから「風呂に入ってくる」と告げリビングをあとにした。
静まりくるリビング、再びスマホを見始めた。画面には今日交換した鈴音ちゃんの連絡先が映っている。未だに信じられない。だけどこの真実に嬉しさは感じて、心なしにはにかんでしまう。飛び跳ねたいくらいだ。初めて笑い合える友達ができ、わたしの胸は躍っている。こんな感じは初めてではないだろうか。わたしの世界がキラキラとし始めた。そのとき、ピコーンと通知音が鳴った。秋人くんからだ。内容は映画の脚本が完成したという報告と放課後に映像研究会の部屋に来てほしいという連絡であった。さっきまでの違うドキドキを感じた。
翌朝やけに早く起きてしまい、わたしは近所を散歩する事にした。どこまでも続く畑道。そこから香ってくる土の匂いは、どこか切なく心地よさがあった。わたしはその曖昧さが好きだ。なんだか違う世界に来た気がするから。わたしは進める足を止め、目を閉じた。そして想像をするのだ。もしもこの田舎町が不思議の国のアリスのような世界だったら。その想像の世界で、わたしは胸を躍らせ駆け出した。人の言葉を可愛らし気に話すウサギや茶会を開く帽子屋、道案内をしてくれるチェシャ猫が愛くるしく、キラキラしている。わたしはこの瞬間が好きだ。小さい頃はよくやっていたが、年齢を重ねる事にする事が少なくなって気がする。そう考えると少し寂しくなった。
スマホで時間を確認すると、もうすぐ神社の手伝いの時間であった。のんびりしすぎてしまった。朝の神社の手伝いは、ここに来てからのルーティンだ。わたしは慌てて足を走らせた。
放課後、わたしは鈴音ちゃんと一緒に映研の部室へ向かっていた。どうやら鈴音ちゃんもエキストラで頼まれていたらしい。知人がいるというのは嬉しいが、少し照れくささがある。
「にしても、美菜が主役をやる事になっていたとは。そういう役やりたがるタイプではないと思ってたけど」
「最初は断ったんですけど。わたし、引っ込み思案の性格を直したいという気持ちがあって。それで…」
「そうなんだ。いいんじゃない。てか秋人達と知り合いだったんだ」
「こっち越して来て間もないときに、少し」
彼女は「へぇ」と呟き、何か思い出そうとする素振りを見せた。そういえば同じ田舎町に住んでいるのだから一度会っているはずだけれど、彼女には一度も会った記憶がない。印象に残りやすい彼女だけに不思議だ。
「そうだ、あたし卒業してからずっとフットサルクラブに顔を出してたからだ」
彼女は納得したように、一拍した。つい「ほぉ」と言ってしまった。でもわかる気がする。家の中で過ごしているよりも、外で体を動かしている方が似合う。とことんわたしとは対照的だ。わたしは逆に部屋で本を読んだり絵を描いている方が好きだ。
「そういえば、なんで越してきたの? 親の転勤とか」
彼女の問いかけに首を横に振り「実は…」。こっちに越してきた理由や芳成さんとの関係性などを説明した。
「あの人の姪なんだ。似てないね」
まるっきり秋人くんと同じ反応だ。確かに顔つきや性格は全然似ていない。どちらかというとわたしは母方に似ているとよく言われる。芳成さんは父の兄である。似ていないと言われても仕方がないかもしれない。
「美菜、ここではあんたをイジメるような人はいないから大丈夫だよ」
そう言って、わたしの背中を叩いた。なんだかおかしくなって笑い出してしまった。
部室へ入ると淳一くんが開口一番に「二人ともおせぇよ」叫んだ。まるでごはんが待ちきれない小学生のようだ。笑うとこではないのだが、この場にいる全員が噴き出していた。多分、みんな同じ理由だろう。
「なんだよなんだよみんなして。僕は本気で怒ってるんだぞ」
「うるさいわね、乙女には乙女の用事ってのがあんのよ」
鈴音ちゃんが言い返すと、みんなが盛り上がって「言ったれ言ったれ」と野次を飛ばしていた。これがいつもの光景なのだろうか。まるで祭りに来た気分だ。少し疎外感があった。どこか置いて行かれている気がした。思わず後退ると、誰かとぶつかり、わたしは慌てて「すいません」と言いかけた。見知った顔に、わたしは見開いた。そこには複雑そうな表情を浮かべた秋人くんが立っていたのだ。
彼は上着のポケットからスマホを取り出し、シャッター音を鳴らし笑みを溢した。
「美菜、今の表情最高だったな」
「今すぐ消してください」
「やだって言ったら」
「わたし帰ります」
ドアノブに手を伸ばすと、秋人くんがわたしの手首を握りしめた。真剣な表情を浮かべる彼に思わず笑ってしまった。
「これでおあいこです」
「なんだそれ。お前、やるようになったな」
呆気に取られつつも秋人くんは笑顔を浮かべた。彼の笑顔に何故だが胸がドキドキと音を立てた。この音の止め方がわからず、焦ってしまう。初めての事でもどかしさがあった。これに名前があるのなら、なんと言うのだろう。その答えが霧のようにぼんやりとしていて、はっきりとしなかった。秋人くんに対して友情以上の感情があるのだろうか。急に体が熱くなり、彼から視線を逸らした。
「何、美菜と秋人ってできてんの? いつの間に」
その声にハッとし、振り向くと部屋にいるみんながわたし達を暖かい目で見つめていた。わたしは慌てて首を横に振るが秋人くんが「そうだけれど」と虚言した。みんな声を上げて盛り上がるが、鈴音ちゃんは複雑な表情を浮かべ、わたし達を見つめていた。
パンと手を叩く音がし、「みんなちゅーもーく」と淳一くんの大きな声が訊こえてきた。
「みんな本題忘れすぎ! 映画についてのミーティング始めるよ」
みんな、そうだそうだという勢いで椅子に座り始めた。鈴音ちゃんは表情が戻る事なくわたしの隣に座り傾聴していた。わたしはそれがなんだが気がかりであった。
撮影日程などの話しが終わり、出演する事になっているメンバーは別の教室へ移動となった。淳一くん曰く撮影をしていく上で親交を深めてほしいとのことだ。わたしは鈴音ちゃんの事が気になりつつも、その場をあとにした。
映画に出演する事になっている生徒のだいだいが上級生だ。うまく親交深められるのか、幸先不安だ。丸くなった背中に秋人くんが軽く叩いた。
「そんな緊張する事はない。みんな素人さ。お前のほかにも初めて参加する奴もいる」
「はぁ」
緊張するなと言われても無理がある。わたしは小さく溜息を吐いた。鈴音ちゃんの事も気になって胸がいっぱいだ。
「美菜、さっきはすまなかった」
「何がですか」
「俺達が付き合ってるって言われたとき、そうだがって答えしまったことだ。あれ、お前に失礼だよな。すまない」
「あれひどいです。わたしの気持ち、考えなさすぎです」
「面目ない」
それにその一つの冗談で鈴音ちゃんの表情を曇らせた。わたしもはっきりしなかったのも悪いかもしれないけれど。
「ねぇねぇ、二人は本当に付き合ってるの?」
女生徒が興味深々でわたし達に尋ねきたが、わたしは横に振った。
「わたし達、そういう関係じゃないです。ただの友人です」
「そうなんだ。なんか残念。日野くんのそういう話しないから」
「そうなんですか」
「そうなんだよ。クールぶってるけど、かなりのシャイボーイだよ」
意外な公言だ。決してシャイのようには見えない。いつも優しく見守ってくれる太陽のような男の子。わたしが困ったときは、そっと背中を押してくれる。わたしが同世代で初めて信頼できた人かもしれない。
「誰がシャイボーイだよ」
「あんたよあんた。日野秋人くん」
反論しようとするが、強気の女生徒に苦しい表情を浮かべ論破されていた。すごく大人に見えていた彼がとても可愛らしく思ってしまい、つい笑ってしまった。
「あなた笑った顔、可愛いじゃん」
「そんな。わたしなんて」
「なんでそういう事言うのよ。もう」
そう言って、わたしの背中を叩いた。なんだかどことなく絵里さんに似ている気がする。あの人もすぐに髪をわしゃわしゃとしていくる。絵里さんなりのスキンシップなのかもしれないけれど。
「日野くんも趣味がいいんじゃない」
「だから美…、浅倉が違うって言っただろう」
「今、下の名前で呼ぼうとしたな」
冷やかす女生徒に秋人くんは小さく溜息を吐いた。こんなにも押されている彼が物珍しく感じる。いやわたしが普段の彼の事をよく知らないだけだ。彼が何を好きで、友達とどんな話しをしているのかなんてあまり知らない。
仲良くしてくれるが、そういった話しをして来なかった。知っているとしたら好きな言葉と将来の夢ぐらいだ。もっと彼の事が知りたい。知らなくてはいけない気がした。この感情に名前があるのならばなんと言うのだろう。今のわたしにはわからなかった。もし彼女の言う感情があるのだろうか。そう考えると少し恥ずかしく感じた。わたしにはもったいないくらいの素敵な男の子だ。
「お似合いだと思うんだけどなぁ」
「くどいぞ」
秋人くんは呆れた様子で言い返していた。
なんだかそれが切なく感じた。
集まりが終わり、わたしは鈴音ちゃんと待ち合わせしている昇降口へ向かった。彼女の事が気になっていた。なぜあのとき表情を曇らせたのか。心配であった。辿り着くとすでに彼女は昇降口で待っていた。
「ごめんなさい。遅くなって」
「大丈夫、あたしも今来たところだから」
そう言って、わたしを避けるように先に靴箱の方へ歩いて行ってしまった。やはりさっきの事を気にしているのだろう。
「あの鈴音ちゃん」
「何?」
「その秋…、日野さんとは」
「わかってるよ。あれ秋人の悪ふざけでしょ。たまにやるのよ。柄じゃない事を」
口ではこう言っているが、無理しているように見えた。だけどそう言われてしまうと、わたしは何も言い返す事ができなかった。いやその術をしてこなかったツケなのかもしれない。わたしはただ俯いてしまった。
「あんたねぇ、そうやってすぐに俯かないの」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいは禁止。まったくもう」
本当に質の悪い癖だ。
わたし達は靴を履き替えて、校舎から出た。運動部の掛け声や野球部のボールを打つ音が鮮明に訊こえて来た。
「ねぇ、美菜はさ。秋人の事をどう思っているの」
突然の質問、いや当たり前の質問だろうか。
わたしは「初めての男の子のお友達」と煮え切れない返答した。正直、出会った頃はそう思っていた。だけど、女生徒と踏まえた会話でそれ以上の気持ちがあるのじゃないかと感じた。
「あたしね、秋人の事が好きなの。小さい頃からずっと」
彼女のその言葉がとても重くわたしにのしかかった。彼女と秋人くんは言わば幼馴染みという関係で、そう言った想いが存在していても不思議ではないだろう。だけど彼女の想いはわたしの胸を騒めかした。
「だけどね。あたしと秋人、付き合える気がしないんだよね」
「どうして…ですか」
なぜ彼女がそういう事言うのかわからなかった。ずっと傍にいて、ずっと彼の事を想っているはずなのに、どうしてなのだろうか。
「今はそんな素振り見せないけれど、中学時代、秋人の口から女の子の話しが出た事があったの。特に恋愛という意味での話しではなかったんだけど。あのときの秋人の顔がなんだか恋しているように見えたの」
「そうなんですね」
彼女にどんな言葉をかけるべきなのか。声をかけようとしても言葉が出て来ず、ただ口を噤んでしまった。
「ねぇ、美菜」
「なんですか」
「あんた、秋人の事が好きでしょ」
彼女が放った言葉が、すぐには理解する事ができなかった。無意識の内にしたくはなかったのかもしれないが。
――わたしが秋人くんの事が好き?
わたしが、恋愛感情を抱いていいものだろうか。こんなに弱くて、自分に自信のないわたしが恋なんてしてもいいのだろうか。
わたしは何も答える事ができず、彼女を見つめていた。
「どうしたの、美菜ちゃん」
部屋に籠っていると、絵里さんの心配する声がした。わたしは振り向く事なく言葉を発した。
「絵里さん、わたし。わたし、秋人くんの事、好きになってもいいですか」
絵里さんは優しく微笑んでわたしの隣に座って「馬鹿だねぇ」と囁き言葉を続けた。
「誰かを好きになってはいけないなんてないよ。誰にだって恋をする権利はあるの。美菜ちゃんにもね」
「わたしにも」
「そうだよ」
わたしスカートをギュッと握りしめて自分の胸の内を打ち明けた。
「わたし、恐いんです。男の子を好きになるのが」
「初恋なんだ、美菜ちゃん」
絵里さんの言葉に、わたしは頷いた。絵里さんはそっとわたしの体を引き寄せた。
「初恋ってなんだか恐いよね。何したらいいかなんてわからないし。うちもそうだったなぁ」
「絵里さんも」
「そうだよ」
笑顔で頷く彼女をわたしは不思議で仕方がなかった。彼女にもそういった時期があった。いつも明るくて優しく恐れ知らずの印象があり、到底怖いという感情が持つだなんて思えなかった。だけどそれはわたしが現在の絵里さんしか見ていないからそう言った印象が持ってしまっているのかもしれない。
「そうかぁ秋人少年か。美菜ちゃんの初恋の相手」
何気ない言葉にわたしは体が熱くなった。
絵里さんはわたしの頭を撫でながら「赤くなちゃってかわいいなぁ」と囁いた。わたしは彼女の胸の中が好きだ。辛い事を忘れて安心する事ができる。
――わたし、秋人くんに恋してもいいんだ。
わたしは微笑んで、絵里さんを抱きしめ返した。