1話 

 人というのは、そう簡単に自分を変えられるものではなかった。わたしは相変わらず、体を縮こませて、人に怯えていた。未だに同世代の子達とは目を合わせて話す事ができずにいた。
 先日、中学を無事に卒業し、わたしは芳成さんの家にやってきた。荷物の整理が終わり、窓の外をぼんやりと眺めていた。家は神社の敷地内にあって、とても不思議な気持ちだ。境内の方を見ていると、地元の人達が次々と芳成さんに話しかけて、差し入れ(?)を渡していた。
 ――芳成さんって人気者なんだなぁ
 ついついニンマリとしてしまう。あの人の人気は人柄もあるのだろう。少しだけ羨ましく感じてしまった。どうしたらあの人みたく穏やかに人と接することができるのだろうか。
 心が沈んでいるとき、ノックの音がした。驚いた。今、わたし以外に家の中には誰にもいないと思っていたから。わたしは恐る恐る「はい」と声を出した。すると外からクスクスと笑う声が訊こえた。でもあまり嫌な感じではなかった。あのときのクラスメイトみたいな冷たさはなく、とても暖かいものを感じた。わたしはドアを開け、その人を迎え入れた。そこには巫女の恰好をした一人の女性が立っていた。
「あなたが美菜ちゃんね」
 その人は優しい声で尋ねると、わたしは戸惑いながらも頷いた。
 ――どうしてわたしの名前を知っているのだろう。
 首を傾げていると、その人は太陽のように微笑んだ。どことなく芳成さんに似ている気がした。
「ごめんなさい。自己紹介しなきゃだね。うち、佐伯絵里。ここの神社で巫女をやっているの」
「あ、あの、わたし――」
「浅倉美菜ちゃん。芳成さんの姪っ子ちゃんでしょ。大体の話しは訊いているわ」
 そう言って、わたしを優しく抱きしめた。まるで親鳥が雛を包み込んでいるように。彼女の顔を見るととても切なそうな表情を浮かべていた。この人にも過去にいろんなことがあったのだろう。でもどうしたらいいのか迷った。
「絵里さん」
 名前を呼ぶと、彼女はハッとして、わたしを離した。絵里さんは急いで「ごめんなさい」と謝ってきたが、わたしも深くは訊けず「大丈夫です」と返答するしかなかった。
 しばらく絵里さんとお喋りをした。好きなもの、食べ物の好き嫌い、男性の好きなタイプなどのたわいのない話題で楽しい時間が流れていった。気が付けばもうお昼になっていた。
「そろそろお昼にしようか」
 絵里さんの提案に、笑顔で頷いた。リビングへ向かうと、もうすでに昼食が用意されていた。誰が作ってくれたのだろうと首を傾げていると肩に手を乗せられ「俺が作ったんだ」と声をかけられビクッとした。声の主は芳成さんだ。驚いていると芳成さんはニヤリと笑った。
「驚いたか」
「芳成さん、料理できるんだね」
「これくらいわな」
 誇らしげに腕を組むと、横から「誰が片付けるの」と絵里さんの鋭い質問に芳成さんの顔が一気に真っ青になった。絵里さんとの会話でなんとなく訊いていた。
『芳成くんはね。料理はすっごく上手なんだけれど、それ以外の家事はまったくと言っていい程のド下手なのよ。だから美菜ちゃんもビシバシ行くのよ』
 まるで芳成さんのお母さんのように感じられた。絵里さんは芳成さんより十歳ぐらい年下らしいけれども彼女の方がしっかりしているようだ。絵里さんに叱られ、しょんぼりとしたいる芳成さんを見て、ついクスクスと笑ってしまった。一瞬、芳成さんはハッとしたが、すぐに笑顔で「さて昼食を食べて、仲良くみんなで片付けようか」と一拍し、昼食を始めた。こうして笑ってご飯を食べるのはいつぶりだろうか。とても久しぶりに感じる。
「どうした美菜」
「えっ?」
「泪を流しているぞ」
 頬に触れると、濡れていることに気が付いた。泣いているつもりはなかったけれど、何故だか泪が流れてきた。慌てて泪を拭いだ。
「ごめんなさい。泣いているつもりはなかったんだけどな。多分楽しくてかな」
「そうか」
 芳成さんは安心したかのように笑顔で肩を下した。
「なぁ、美菜」
「何?」
「もし良かったなんだが、うちの神社を手伝ってくれないか」
「わたしが芳成さんの神社を…」
「そうだ。まぁ無理にはとは言わんが」
 思わぬ提案にわたしは戸惑ったけれど、芳成さんの優しい目を見ると、首を横に振りたくはなかった。わたしは芳成さんの目をちゃんと見て「わたし、芳成さんの神社を手伝ってみたい」と伝えた。殻に籠っていたわたしを優しく引っ張りだしてくれた芳成さんに恩返しがしたかった。
「わたし強くなりたい」
 芳成さんは馬鹿にする事なく「存分に精進しなさい。神様はきちんと見てくださっているからな」と背中を押してくれた。わたしは屈託のない笑顔で「うん」と返事をした。

 その翌日から神社のお手伝いが始まった。絵里さんに袴の着付けを教えてもらいながら、なんとか様になったところだろうか。あまり馴染みのない事だからウキウキとドキドキが混じり合って、複雑な表情になっていると、絵里さんに頬をつねられてしまった。
「美菜ちゃん、笑顔笑顔。笑わないと福と縁が逃げちゃうぞ」
「ご、ごめんなさい」
「どうして謝るのよ」
 その言葉に頭が真白になって「ごめんなさい」とまた謝ってしまった。絵里さんは優しくわたしの頭を撫でて「あなたは何も悪くない。そこまで追いつめた人達が悪いの。だからあなたは悪くないわ」と励ましてくれた。顔を上げると、彼女の手首を見てしまい、絶句してしまった。彼女の手首に複数の切り傷があった。恐らく自身でやったのだろう。この人にも過去に苦しい事があったのだろうか。だけど訊く勇気はなかった。わたしは目を背けた。
 ――なんて強い人なんだろう。
 酷い事をされたはずなのに、今はこんなに笑顔で過ごせるのだから、本当に凄いと思える。わたしもいつかこの人のように笑顔で過ごせるようになるだろうか。
「美菜ちゃん、笑う門に福来るだよ」
いつかこの人のようになりたいと思えた。

 巫女として、わたしの最初の仕事は境内の掃き掃除であった。わたしは恥ずかしくないように懸命に手を進めた。周りの巫女さん達に「美菜ちゃん、頑張ってるねぇ」と笑顔で通り過ぎていった。
 花園神社は、お世辞にも大きい神社とは言えないが、縁結びの神社として知られており、地元の若者もよく訪れていた。今日も二時間で十組のカップルが訪れて、絵馬に幸せそうに願い事を書いている。いつかわたしも誰かと恋をして、その人達みたいに幸せに過ごせるのだろうか。なんだか気持ちが沈んでいった。ネガティブ思考はわたしの悪い癖だ。
 一呼吸を置いた瞬間、鼓動が走り出し、走馬灯のように中学時代の記憶が湧き出してきた。落書きをされたノート、陰口、隠された制服。だんだんと息が苦しくなって、その場に座り込んでしまった。最悪だ、こんな面前な所でこんなことになるだなんて。涙ぐんでいると、背後から「そこのあんた、大丈夫か」と心配する声が訊こえた。ぐったりと顔を上げるとそこにわたしと同じぐらいの男の子が駆け寄ってきて、顔を覗かした。わたしは小さく「きゃっ」と悲鳴を上げて尻餅を突こうとしてタイミングよく彼がわたしの手を掴んだ。
「ごめんなさい」
「別に構わないけれど、ちょっと引っ張るぞ」
「はい」
 力強く引っ張り上げて、わたしを抱きとめた。「あっ」と呟いた。なんとなくだが懐かしさを感じたからだ。
「あんた、顔色悪いが大丈夫か」
「すみません。大丈夫です」
 彼から離れ、少し歩くとヨロっとふらつき再び倒れかけ、また彼に手を掴まった。彼は溜息をついて、「大丈夫じゃないじゃん。そこの社務所まで行こう。そこで休もう」と促され、わたしは「ごめんなさい」と呟いて彼の肩に腕を回した。社務所に着くと、他の巫女さん達が駆け寄って、奥の部屋に連れて行ってもらい、横にさせてもらった。男の子は心配して、ずっとわたしの傍にいてくれた。初対面の人なのになんて優しい人なんだろう。嬉しい半分、申し訳がなかった。彼は文庫本からわたしに視線を変え「さっきよりは顔色よくなったな」と笑顔を見せてくれた。
「すいません。ありがとうございました」
「別にいいよ。具合が悪いのは誰にだってあるだし」
「すみません」
「そんなに謝るなよ。俺がイジメてるみたじゃん」
 彼は悲しい声音で忠告した。もしかしたら絵里さんも彼と同じ悲しい思いになってしまったのだろう。俯いてしまったわたしに彼は溜息を吐いた。
「君に今まで何があったかは敢えて訊かないけれど。君はもっと自己評価を上げるべきだと思うぞ」
「でも…、わたしなんて」
 彼はさっきよりも深い溜息を吐いた。今度こそ呆れられてしまった。
「心に明るい太陽と晴天の空を」
 まるで映画の台詞みたいな言葉だ。彼の顔をまじまじと見てしまった。
「これ俺が憧れている人の言葉なんだけどさ。最初この人よくこんな恥ずかしい事を言えるなって思ったけどさ。だけど、その人どんなことがあっても受け入れてくれるんだ」
「本当に憧れているんですね。その人の事」
 彼は頬を赤く染めながら「ああ」と頷いた。
 本当は恥ずかしくて言いたくはなかったはずなのに、どれだけ勇気を振り絞ってくれたのだろう。泪が流れてきた。それは悲しいからの泪ではない。ずっと凍っていた心が溶けていくように泪が流れ出てきた。惨めでかっこ悪くて、すごく恥ずかしい姿を初めて会った男の子の前でさらけ出した。まるで小さな子どものようにわんわんと泣いて、他の巫女さん達が心配して覗きに来ていた。だけど誰も何も言わなかった。

 泣き止んだ頃には、もう夜が訪れていた。田舎ということもあり街灯があまりない。そのためとても暗い。絵里さんが、その男の子の事を叱った後、頭をわしゃわしゃし、懐中電灯を渡していた。どうやら二人は知り合いらしい。
 わたしは、男の子に会釈して手を振った。男の子はそれに気づいて手を振り返して「また会おう」と叫んで帰っていった。その事が嬉しくてはにかんでしまった。その瞬間、頭をわしゃわしゃされた。犯人は絵里さんだ。
「美菜ちゃん、やっと声を出して泣いてくれたね。もう自分だけで溜め込まないでね」
「はい」
 なんだか、少しだけ心が軽くなった気がする。心の中で、また彼と会いたいと思ったのは秘密だ。
 絵里さんは独り言のように「秋人め。また美菜ちゃんをただじゃ済まさないんだから」とブツブツを話していた。わたしはふと「あきと?」と呟いた。
「さっきの少年の名前。日野秋人。美菜ちゃんの一つ上のお兄さんかな」
 一つ年上という事は現在高校一年生、四月から二年生になる。話しを進めていくと、わたしがこれから通う高校と同じらしい。なぜだがとても嬉しい気持ちになった。
「美菜ちゃん、ニヤついているけれど、どうしたの」
「い、いえ、別に何も」
「変な子だねぇ」
 絵里さんは優しく笑った。その笑顔につられてわたしもフフッと笑った。

 彼との再会は思ったよりも早かった。午前中、掃除し終え社務所に向かっていると後ろから「よっ」と声かけられた。ドキドキしながら振り向くとそこに秋人くんが立っていた。
「お、おひゃようございます」
 しまった思わず噛んでしまった。心なしか秋人くんは口を押えて笑っていた。恥ずかしさから、全身が真赤に染まった。
 男の子から声か掛けられるのはほとんど初めてかもしれない。授業関係とかで話しかけられることとかあったが、そのほかはあまりなかった。ましてや挨拶なんてしてくれる人なんていなかった。
「今日は調子良さそうだな」
「お、お陰様で」
「それはどーも」
 秋人くんはニヤリと笑った。だけど嫌味のない優しい笑顔だ。そんな彼に安心感を感じていた。
「今日、友達と待ち合わせしてんだ」
「そうなんですね」
「でさあんたにも会ってほしいんだ」
「わたしもですか」
「ああ、あんたとも会ってほしいんだ」
「どうしてですか」
 首を傾げると、彼は真面目な表情を浮かべ、「君にも加わってほしい話しがあるんだ」と答えた。そう言われ方すると、緊張してしまう。どんな話しをされるのだろうか。鼓動が走り出した。
「は、話しというのは」
「それは友達が来てから話す」
 そう言われてしまい、わたしはそれ以上の事は訊くことはできなかった。わたしは俯いて箒をギュッと握りしめた。秋人くんはやさしくわたしの頭を撫でて「そんな不安そうな顔をするな」と呟いた。彼の手はとても大きくて指は細いのにとても逞しく感じる。それに太陽のように暖かな手だ。そのおかげで少し安心してしまう。不思議な感じがする。
 わたし達はその友達を待っている間、おしゃべりをして過ごした。趣味とか好きなテレビとか話題で話した。彼はふと気付き「そういえばあんたの名前訊いていなかったな」と質問を投げかけられた。確かに名前を知っているのはわたしの方だけだ。それは確かに不公平に過ぎない。
「え、えっと。わたし、浅倉美菜って言います。四月から高校生になります」
「へぇ、こっちでは見ない顔だけれど越してきたの」
「はい。訳があってこっちの高校を受けて。その際に芳成さんが家に来ていいって言ってくれて」
「どうしておっちゃんが?」
 当たり前の疑問だろうか。わたしは芳成さんとの関係を話し、彼も納得したようだ。
「おっちゃんの姪っ子だったんだ。なんか雰囲気が違うな」
「そりゃ、叔父と姪だから当たり前です」
「それもそうだな」
 まるで子どものように彼は笑った。わたしもつられて笑った。
「あんた、ちゃんと笑えるじゃん」
 不意を取られた言葉にドキッとした。照れくささから俯いてしまった。きっと顔は赤くなっている。そんな顔を見られたくはなかった。突然彼が笑い出した。
「すまない。なんか可笑しくてな」
「ひどいです」
 また口を押えて笑い始めた。だけど嫌な感じはしなかった。彼が優しい人だとわかっているからだろうか。ぽーと見つめてしまう。
「お二人さん、イチャつくのはあとにしてもらえるかい」
 秋人くんの背後から冷やかしの言葉をかけられた。二人揃ってそちらを見つめると、ニヤニヤとしている少年が立っていた。
 ――この人が秋人くんの友達?
 わたしはジッと彼を見つめた。白の長いシャツの上にアロハシャツを着て、ジーンズを履いている。なんというか型破りな所があるのだろうか。わたしは身構えてしまった。秋人くんの友達なのだから悪い人ではないのだろう。
「そこのお嬢さん。あまり僕を見つめないでおくれ。恥ずかしいではないか」
 彼はふざけて恥ずかしがる素振りをした。わたしはそれに対して反応に困っていると秋人くんは即座に彼に蹴りを入れた。
「お前、初めて会う相手にそのノリはやめろっつーの」
「悪かったよ。あっきー」
 あ、あっきー。秋人くんのあだ名だろうか。少し驚いた。彼にもあだ名で呼ばれる事があるというのが意外であった。
 ――友達から呼ばれるのって憧れるなぁ。
 わたしにはそんな存在なんていなかった。部活で話したりした子達はいるけれど、友達というには軽薄だ。イジメを受けるようになってからは疎遠になってしまった。それからわたしはクラスから「ぼち子」と呼ばれるようになった。あのときは、本当に苦しかった。
 もしあのときもっと明るかったら、もしあのとき友達がいたら。そんな事が頭の中をぐるぐると回っていった。だんだんと俯いていった。それに気づいた秋人くんが優しく撫でてくれた。何故か、彼の手は安心をする。とても不思議だ。
「そんな暗くなるな。こいつは、こんなノリしているが悪い奴じゃない」
「おうよ。新入りは大歓迎さ。この映画界の大スターとなる男、月島淳一たぁ。僕の事よ」
 歌舞伎かかった自己紹介に、ついほぅと彼を見てしまった。月島淳一と名乗った彼は、とても堂々としていて、すごく頼もしく感じられた。
「お嬢さん、お名前を訊いてもいいかな」
 突然、紳士的な喋り方になり、ビックリした。すると秋人くんはクククと笑った。
「美菜、お前。コロコロ表情が変わって面白いな」
 再び笑い始めた。本当に嫌味のない笑顔を見せてくれる。だけどそんなに笑われるれるとさすがにへこむ。
「そんなに笑わなくたっていいじゃないですか」
「すまない。悪気はないんだ」
「ひどいです」
 わたしは俯いて呟いた。
「本当に悪かったって。もうイジワルしないよ」
「本当ですか。約束してくれますか」
「あぁ、約束するよ」
 なんだか、急に可笑しくなって笑ってしまった。秋人くんも安心したように笑った。淳一くんは戸惑いながら「二人の世界を作らないでよ」とわたし達の肩を叩いた。
 そんなつもりはなかったのだけれど、彼にはそう見えたのだろう。
「えっと…。わたし、浅倉美菜っていいます」
「美菜っちな。覚えた」
 み、美菜っち。なんてフレンドリーな人なんだろう。でも初めて「ぼち子」ではないあだ名で呼ばれた。わたしはすごく嬉しくてその場で飛び跳ねたくなった。
「美菜、なんか嬉しそうだな」
「そうですか」
「そう見えたから」
 わたしって、わかりやすいのだろうか。首を傾げていると、淳一くんはパンっと一拍した。
「さて本題に入ろうか」
「そうだな」
 二人は真剣な顔つきになった。それに吊られるように箒をギュッと握りしめた。
「ちょっと社務所の奥って借りられるか」
「大丈夫かと」
 すぐに絵里さんに確認し、少しだけならということで、許可してくれた。わたしは二人を奥の部屋に案内をした。絵里さんは気遣ってお菓子や飲み物を出してくれた。
 淳一くんはリュックからクリアファイルを出し、わたしに差し出した。
「実は美菜にこれを頼みたくて来たんだ」
 資料に目を通すと、映画の設定やキャラクター表が記載されていた。この中で何ができる事があるのだろうか。
「美菜に主人公の役をやってほしいと思っているんだが、どうだろうか」
「主人公の役をわたしが…」
 秋人くん達が何を言っているのがわからなかった。映画の話しで、それもわたしが主人公の役。頭の中が霧のようなモノが包み込み始めた。突然の話しで戸惑いを隠す事ができなかった。
「もちろん、無理にとは言わない。だけど、できれば美菜にやってもらいたいというのが、俺の本音だ」
 真剣でまっすぐな訴え。だけれど、わたしの汚い心が渦巻いていく。あのときみたいに笑いものにされるんじゃないか。ただただお願いしに来てくれているだけなのに、どうして。わたしは戸惑ってしまった。
「わたし、できません」
 二人に目を背け、逃げた。わたしは改めて感じた。なんて臆病な人間なんだろうと。彼らの映画に出たところで、わたしなんて笑われるだけだ。ただ怖いのだ。たくさんの人に見られる目が。想像しただけでも、身震いしてしまう。一年前に見たあの冷ややかな笑顔が、今でもわたしを纏わりついてくる。
「どうしても駄目かい。美菜っち」
 前のめりに淳一くんはわたしに確認をした。それに答えらず、口を噤んでしまった。秋人くんは彼の肩に乗せ「そんなに無理強いするのはやめろ」と止めていた。淳一くんは納得できていないようであった。もちろん秋人くんもどことなく悔しそうな表情を浮かべていた。その表情はズルく感じてしまった。そんな顔をされたら断れなくなってしまう。わたしみたいな地味で暗くて空気みたいな子を使っても、良いものなんてできるはずがない。それなのにどうしてわたしなのだろう。もっと良い人がいるはずなのに。二人を見る事ができなかった。
「美菜、悪かったな。出会ってまだ間もないのに迷惑だよな」
 秋人くんの言葉に、首を横に振った。決して迷惑だなんて思っていない。勇気のない自分が悪いのだ。彼らは悪くない。だから謝る必要なんてないのに。罪悪感があった。
「迷惑ではないです。わたしはただ…」
「ただ?」
 怖いんです。その言葉を口から出す事ができなかった。あのときの出来事が未だにわたしを苦しめる。結局、土地を変えてもわたしは変わる事なんてできないのだ。あれからわたしの時間は止まり、心をいつまでも曇らせるのだ。日差しが出始めても、晴れる事なんてない。まるで出口のないトンネルにいるようだ。声を発しようとしても、すぐに言葉が出なかった。
「ごめんなさい。今日はお引き取りしてもらってもいいですか」
 二人と目を合わせる事ができない。申し訳なくて、それに怖かった。あの頃のようになるんじゃないかという考えが頭に過った。そのような事はする人達じゃないというのはわかっている。だけれど、怖いのだ。
「美菜」
 秋人くんがわたしの肩に手を置こうとした途端、手が勝手に彼の手を振り払った。突然の事で自分でも驚いてしまった。彼も驚きのあまり見開いていた。どうしたらいいのかわからなかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
顔を真っ青にして謝るわたしに秋人くんは「謝らなくていい。謝らなくていいから」と促してくれたけれど、気持ちを切り替える事ができなかった。頭の中が真っ白になり、何も考える事ができない。ただただ二人に謝り続けていた。
状況を訊きつけたのか、絵里さんが部屋へやって来て、わたしを抱きしめた。その反動でわたしは泣き出してしまった。泣きたいのは彼らの方なのに、それぐらい嫌な思いをさせてしまったのに。本当にわたしは最低だ。
 絵里さんは背中をさすりながら、二人に「気にしなくていいから。今日は帰りなさい」と声かけをし、二人も気まずいながらも頷いて静かに帰っていった。わたしが勝手にパニックになって、勝手に泣いたせいで、二人にいらない表情を浮かべさせてしまった。
 わたしは絵里さんの胸の中で、泣き続けた。

 わたしは手伝いを早退し、部屋に籠っていた。何もやる気は出ず、ベッドに座ってぼんやりとしていた。あんなに自分が取り乱すとは思っていなかった。あのあと、わたしは絵里さんに部屋まで送ってもらって、わたしは魂が抜けたかのようにベッドへ座り込んだ。絵里さんは何も言わなかった。いや何も言えなかったのかもしれない。そのとき彼女は何を思っていたのだろう。それは彼女にしかわからない。窓から空を見上げた。灰色の雲が包み込み、空の青さはなかった。まるで今のわたしのようだ。わたしの心は雲に覆われて今にも雨が降り出しそうだ。袴をグッと握りしめた。怖くて悔しくて溜まらなかった。一年経ってもわたしをイジメていた人達の顔を思い出してしまう。卒業式の時にも彼らはわたしを見て嘲笑っていた。同じ部活だった子達もわたしを遠巻きに見ていた。きっと気まずいところもあったのだろう。イジメが始まったころは話しかけてくれたりはした。だけれど、いつしか話しかけてくれる事がなくなった。恐らく脅されたのだろう。学校にはわたしの居場所なんてないんだと感じ、両親にも先生にも打ち上げる事ができず、部屋に引き籠るようになった。そのせいで余計に両親に心配をかける結果となってしまった。もしも芳成さんがいなければ、ずっと部屋の中で自分の殻に閉じこもっていたのかもしれない。
多分これからもずっとわたしはこのままなのだろう。
「また読み聞かせやろうか。美菜」
 暖かい声。芳成さんだ。彼の言葉に首を横に振った。
「もうそんな子どもじゃないよ」
「だな。なんか懐かしいな。昔は俺の膝の上でよく絵本の読み聞かせやってたな」
「うん」
 今でも覚えている。幼い頃、親戚に会う度、母の後ろに隠れていたけれど、何故だが芳成さんだけはそんな事はなかった。よく無言で絵本の読み聞かせの訴えをしていた気がする。芳成さんは嫌な顔をする事なく、わたしを膝の上に乗せて、絵本を読んでくれた。その時間が心地よく感じられた。それがきっかけとなったのか、絵本から離れる事ができず、本棚に並んでいる。そしてわたしが絵を描くようになったのも絵本がきっかけだったと思う。いつかわたしもこのような絵を描いてみたいという子供心だ。暇さえあれば、ずっと絵を描いていた。褒められたら、とても嬉しかった。小学校に上がると、最初は話しかけてくれていたけれど、日が経っていくと、“変な子”という目で見られるようになって、みんな離れていった。先生から「積極的に話しかけなきゃ」と何度も言われた事があった。わたしはクラスで浮いており、担任の先生も頭を抱えていた。人間関係に臆病な所が難となっていた。そのとき相談したのが芳成さんだ。両親には訊かれたくはなかったため、文通という手段で相談していた。今となっては気付かれていたのかもしれない。でもあのときの行動があったから良き相談相手になってくれている。
「絵里くんから訊いたよ。少しは落ち着いたかい」
「うん」
「辛かったな、美菜。あの頃の事を思い出しちまったんだよな」
「秋人くん達が優しい人達だってわかってる。だけれどわたし…。わたし、怖くなっちゃったの。また笑い者にされちゃうんじゃないかって。そしたらどうしたらいいのかわからなくなっちゃった」
「馬鹿だな。ほんとに。大丈夫だよ。もしもお前を笑う奴がいたら、あいつらはお前のために怒るだろうな」
「わたしのために?」
 芳成さんは優しく微笑み、わたしの頭を撫でた。
「あぁ。あいつらはそういう奴らだ。俺が保証するよ」
 彼の言葉に嘘は感じられなかった。芳成さんたちは、幼い頃からの秋人くん達を知っているから、言い切れるのだろう。わたしは芳成さんの胸元に体を任せた。彼は拒む事は無く、わたしを受け入れてくれた。変わらぬ暖かさ、まるでお日様のようだ。
「わたし、二人の事を信じていいのかな」
「当たり前さ。もしかして、俺の事を信じてないな」
 そう言って、芳成さんは笑い飛ばした。釣られて、わたしも笑い出してしまった。少し気が楽になった気がする。
「わたし、秋人くん達から映画に出てみないかって言われたの。わたし、それに出ていいのかな」
「それを決めるのは、美菜次第だ。だけれど、出てみるのもいいんじゃないのか。変わるきっかけなんて、どこに転がってるかなんてわからないからな」
 家に向か入れてくれた上に、巫女をやらせてくれているのに。映画でも背中を押してくれる。本当に太陽のような人だなって思う。わたしは芳成さんの目を見て、自分の気持ちを伝えた。
「わたし、秋人くん達のところに行きたい。二人の思いに応えたい」
「送って行こうか」
 彼の言葉に首を横に振った。芳成さんは優しく微笑み、二人の家までの地図を書いてくれた。
 本当は二人と顔を合わせるのが怖かった。どんな顔をしていいのかわからない。だけれど逃げるという選択肢はなかった。
「いってきます」
「あぁ、いってらっしゃい」
 いつもの暖かい声が勇気をくれる。
 通学のために購入したピンクの自転車に乗り、二人の家へ向かった。
 わたしの心に晴れの兆しが差し掛かった。