【改稿版】ハージェント家の天使

「マキウス様、お待たせしました。お出掛けの用意が出来ました」

「どうですか?」と顔を赤らめながら、マキウスに訊ねてみる。
 マキウスは白色のシャツに赤色のリボンタイをして、黒色のズボンと同じ色のロングコートを羽織っていた。
 足元も黒色のブーツであり、いつも見る部屋着や騎士団の制服姿とは違い、新鮮味を感じて、モニカの胸は高鳴ったのだった。

 マキウスはニコラをアマンテに渡すと、モニカを頭から爪先まで、じっと見つめてきた。
 そうして、ニコラに向けていたのと同じ笑みを、モニカにも向けてきたのだった。

「ええ。とてもよく似合っています」
「良かったです。似合っているか不安だったので……」

「ただ」と、マキウスはモニカの頭に手を伸ばしてきた。
 ビクッとモニカが目を閉じて身体を硬ばらせていると、マキウスはティカに結んでもらったばかりの髪を解いたのだった。

「旦那様!?」

 壁際に控えていたティカが、声を上げたようだった。
 そんなティカを、マキウスの後ろに控えていたペルラがキッと睨みつけていた。
 
「この髪型は、既婚者がする髪型です。今のモニカはまだ既婚者ではなく婚約者です。この髪型はまだ早いのでは」

「それに」と、マキウスはモニカの金髪を一房取ると口付けた。

「モニカは髪を流した方が、よく似合っていると思いますよ」
「マキウス様……!」

 モニカとマキウスが見つめ合っていると、ペルラが咳払いをしたのだった。

「おふたり共、ニコラ様の前ですよ」

「あっ」と、二人の声が重なると、どちらともなく離れた。
 モニカは頬が赤くなっていくのを感じたが、ちらりと盗み見たマキウスも、同じくらい顔が真っ赤に染まっているように見えたのだった。

 その後、ティカに両耳にかかる髪だけを後ろで小さく団子状にまとめてもらい、ハーフアップの髪型に直してもらった。
 髪を整えてもらっている間、部屋の隅に連れて行かれたマキウスは、「お子様の前ではもう少し謹んで下さい」とペルラに怒られていたようだった。
 そんな父親の様子を、アマンテに抱かれていたニコラは不思議そうに、じっと見つめていたようだった。

 今度こそ用意が終わると、モニカはマキウスの後に続いて屋敷を出た。
 屋敷の前には、一頭の栗毛の馬が引く、四人掛けらしき馬車が停められていたのだった。

「これが、馬車……!」
「その様子だと、乗ったことはなさそうですね」
「はい……! 馬車自体、見るのも乗るのも初めてです!」

 初めて見る馬車に、興奮を隠しきれないモニカだったが、思い出したことがあって、後ろを向いたのだった。
「アマンテさん、私たちが出かけている間、ニコラをお願いします」
「勿論です。モニカ様、旦那様とのお出掛けを楽しんできて下さいませ」

 モニカはニコラのクリームパンにも似た小さな手を握ると、軽く振ったのだった。

「ニコラも、いい子で待っていてね」

 手足をバタバタさせて、ニコラは笑ったのだった。

「アマンテさん、もし、私が居ない間にニコラが騒いでしまったら、私の部屋のベッドにニコラを寝かせて下さい」
「ベッドにですか?」
「はい。私の匂いが残っていると思うので、ニコラも落ち着くと思うんです」

 ニコラに限らず、赤ちゃんの中には、母親の匂いや温もりを感じられるベッドに寝かせたり、タオルを渡したりすると、落ち着くことがあるという話を聞いたことがあった。
 元の世界では、家事などで手が離せない時、泣き出した赤ちゃんを落ち着かせる為に、母親が愛用しているタオルや衣服を渡して、赤ちゃんを泣き止ませたという話を聞いたことがあった。

「わかりました。その時はそうします」
「お願いします」

 どこか半信半疑なアマンテにニコラを託すと、モニカは馬車の横で待っていたマキウスの元に向かった。
 馬車に手をかけて乗ろうとすると、マキウスがそっと制したのだった。

「モニカ、こういう時は男性にエスコートしてもらうものです」
「そうなんですね……。すみません。知らなくて……」

 マキウスが差し出してきた白手袋の手を、モニカは見つめた。
 そうして、同じく白手袋をした自分の手を伸ばすと、マキウスの手に重ねたのだった。

「足元に気をつけて、ゆっくり乗って下さい」
「はい。ありがとうございます……」

 顔が赤くなっていくのが、モニカ自身にもわかった。
 モニカはマキウスの手を取ると、馬車に乗り込んだのだった。

 元の世界でたまに乗っていた自家用車の座席に比べて、若干、ごわごわした椅子に座ると、マキウスも馬車に乗り込み、向かいの席に座った。

「騎士団本部に向かって下さい」

 そうして、マキウスが合図を出すと、馬車はゆっくり走り出したのだった。

 馬車の窓から小さくなっていく屋敷を見ていると、マキウスが声を掛けてきた。

「育児に詳しいようですが、以前も経験をされたことが?」

 マキウスの指す「以前」が、御國の頃だと気づいたモニカは首を振った。

「いいえ。ただ、いつの日か結婚して、子供が生まれた時の為に、何冊か育児に関する本を読んでいたんです」

 御國だった頃は、自分もいつの日か素敵な男性に出会って、恋をして、結婚をして、子供を産むものだと思っていた。
 そんな日を夢見て、時間がある時には育児や子育てに関する本を読んでいたのだった。

「そうでしたか……」

 どこか安心したように、マキウスは肩の力を抜くと視線を逸らした。
 モニカは慌てて、「でも」と続けたのだった。

「マキウス様の様な素敵な男性に出会えて、ニコラという可愛い娘が出来て、私は大満足です。……死ななくて良かったと思っています。この知識も無駄にならないですし……」

 モニカが微笑むと、マキウスは虚をつかれたようだった。
 そうして、「全く」と言って、息をついたのだった。

「貴方には敵いそうにありません」
「私も、マキウス様の懐の深さには敵いません。マキウス様じゃなければ、御國()の話を信じてくれなかったと思います」

 相手がマキウスでなければ、モニカの話を荒唐無稽な作り話だと言って、信じてくれなかっただろう。
 モニカの話を聞いて、モニカを信じてくれたのは、マキウスの懐の深さによるところが大きい。

(私も、何があってもマキウス様を信じよう)

 マキウス様が御國()を信じてくれたように、御國()もマキウス様を信じよう。

 モニカは、そう心に決めたのだった。
 マキウスに連れられてやって来た騎士団の本拠地である騎士団本部は、王都の中心部にある大きなお城の中にあった。

「騎士団本部は、元々は王族が住んでいた城の一部にあるんです」

 騎士団本部までの道すがら、マキウスが教えてくれた。

 騎士団本部がある城は、元は王族が住んでおり、数百年前に王族が騎士団の為に城を解放したらしい。
 それまでは、騎士団本部は城から少し離れた場所に建っていた。
 非常事態の際に城まで駆けつけるのが大変なことと、当時の騎士団本部の建物が老朽化していたことや騎士団員の増加に伴い、狭くなっていたこともあり、当時の騎士団長が王族に交渉したらしい。
 その結果、城の一部を騎士団が使用する許可を得たそうで、今ではすっかり騎士団の拠点は城の中に移っていた。
 そんな元は王族の居城だったという名残りのように、騎士団本部は古めかしいながらも白く頑丈な石造りの城壁の中に建てられていたのだった。

「今も王族の住まいと騎士団の本部は、同じ城の中にあるんですか?」
「いいえ。王族はあの小さな城に移り住んでいます」

 マキウスが指差した先には、白亜の城よりもひと回り小さな黄色の外壁の城が建っていたのだった。

「なんだか、可愛いお城ですね」
「王族専用の城なんです。元は王族の宝物庫として使われていたのを建て直したそうです。黄色の外壁は目立つようにと聞いています。常に誰かの目に入るように目立たせておけば、非常時に誰かは気づくだろうと」

 やがて、茶色のレンガ造りの門を抜けると、群青色の屋根と白色の石造りの城に近づいて行った。
 城の前に馬車が止まると、モニカはマキウスの手を借りて、馬車から降りたのだった。

「わぁ、間近で見ても大きいですね!」

 例えるなら、童話の『シンデレラ』に出てくるような、大きな城といえばいいのだろうか。
 今にも、舞踏会が開かれて、王子様が出てきそうな雰囲気があった。

「城内は天井が高いんです。王族が使っていた頃の名残りで、場所によっては、この国の歴史を表した天井画や壁画もあります」

 マキウスに連れられて、建物の中を歩いていると、普段、マキウスが着ているのと同じ白の騎士団の制服を着た者たちとすれ違った。
 彼らとすれ違う度に、マキウスは端に寄って頭を下げた。
 意味はよくわからないが、モニカもそれに習ったのだった。

 頭を下げて三回目、二人の前を騎士が通り過ぎると、マキウスは申し訳なさそうな顔をしたのだった。

「すみません。私の身分が低いばかりに、貴女にまで苦労をかけて」
「いいえ、私は気にしていないので」

 どうやら、すれ違った騎士たちは、いずれもマキウスより身分の高い騎士だったらしい。
 それから少し歩くと、急に大きな木製の扉の前で、マキウスが立ち止まった。

「この先が婚姻届の受付部屋となっています」

 マキウスに続いて部屋に入ろうとすると、忙しなく人が行き来しており、話し声も絶えず聞こえていた。
 なんとなく、モニカが入ったら邪魔になりそうな気がした。

「マキウス様、なんだか部屋の中が忙しそうなので、邪魔にならないように、ここで待っていますね」
「そうですか……。私が出してきますので、貴女はこの辺りで待っていて下さい」
「わかりました」

 モニカが頷くと、どこか寂しげなマキウスは部屋の中に入って行ったのだった。

(まるで、童話の中に入ったみたい!)

 マキウスの手前、ジロジロと城内を見渡すわけにはいかなかったので、一人になったことでようやく城内をゆっくり見渡せた。
 古色な石造りの城内、どこまでも高い天井、時折見かけるひびの入った壁や床からは歴史を感じられた。
 そんな風情ある城の中をオシャレなドレスを着て、これから夫となるマキウスと共に歩いていると、まるで童話に登場するお姫様か令嬢の気分になれたのだった。

 物珍しそうに城内を見ていると、右側の通路の先に壁面が描かれているのが見えた。

(何の絵だろう……?)

 モニカはもっとよく見ようと、壁画に近づいたのだった。
 通路の突き当たりの壁には、大きな絵が描かれていた。
 壁に直接描かれた絵は、劣化してインクがところどころ剥がれかけていたのだった。

「これは……?」

 壁に描かれていたのは、壊れかけた家や荒れた田畑の側で、頭から犬の様な耳が生えた人たちが上空に向かって手を伸ばしている絵だった。

 手を伸ばした先には、背中に大きな羽が生えた人が空から降りて来たようだった。

「羽が生えた人間……?」

 背中の大きな羽は、光輝いているように描かれており、それが神々しさを表していた。
 
「この人は、天使なのかな……?」
「これは、我が国の創世を表す絵です」
 
 モニカが壁画に近づいて眺めていると、急に後ろから声を掛けられた。
 後ろを振り返ると、そこには騎士団の制服に身を包んだ見目麗しい若い女性が立っていたのだった。

「創世を表す絵ですか?」

 女性はモニカやマキウスより、やや歳上に見えた。
 限りなく白に近い灰色の髪を、ポニーテールの様に頭の上で一つに結び、背中に流していた。
 頭の上の耳には、モフモフしていそうな黒の毛が生えており、凛とした両目はアメシストの様な深い紫色をしていた。
 その凛然とした姿は、マキウスとよく似ていたのだった。
 
「家々の前にいるのが、我らがカーネ族です。そして、天から降りてきているのは、我が国の救世主たる大天使様と言われています」

 女性騎士は背中から流れる青色のマントを靡かせて、説明をしながらモニカに近づいてきた。
 制服の肩章がマキウスより多いことから、高い階級の騎士だと思った。
 モニカより頭一つ分大きい女性騎士は、隣に並ぶと微笑んだのだった。

「我が国が出来た由来はご存知ですか?」
「確か、元々住んでいた国に人間たち――ユマン族がやってきて、内乱が起きたからでしたよね?」

 満足そうに、女性騎士は頷いた。

「そうです。けれども、私たちがこの国を造るきっかけとなったのは、この大天使様であると言われています」

 そうして、女性騎士は説明してくれたのだった。
 ユマン族との争いから逃れる為、国を空に浮かべることを思いついたカーネ族だったが、完全に国を空に浮かべる技術を持っていなかった。

 魔法を使って国を浮かべるも、それはほんの一時だけ。永久的に浮かべることは出来なかった。
 いたずらに時間だけが過ぎていく中、突然、空から一人のユマン族がやってきた。

 そのユマン族をカーネ族は警戒をするが、ユマン族はカーネ族が持っていなかった知識や技術を彼らに見せた。
 その中に、国を空に浮遊させる知識と技術があったのだった。
 カーネ族はユマン族の言葉を信じて、再度、国を造った。
 そうして、ユマン族の力を借りて、国を空に浮かべたのだった。
 
 力を使い果たしたユマン族は、天に還った。
 そんな不思議な知識と技術を持っていたユマン族を、カーネ族は「大天使」と呼び、国の守り神として祀ることにした。
 いつの日か、また「大天使」がやってきてくれることを信じてーー。
 
「そのユマン族さんーー大天使様が、皆さんのご先祖様を救ってくださったんですね!」
「ええ。この騎士団の原型も、大天使様が作ったと言われています」

 女性騎士と話していると、「モニカ」と後ろから呼び掛けられた。

「マキウス様!」

 後ろを振り向くと、婚姻届を提出しに行っていたマキウスが慌てたようにやって来たのだった。

「モニカ、探しましたよ。こちらにいたんですね」
「心配をおかけしてすみません。こちらの壁画が気になってしまって……」
「全く、貴女という人は……」

 やれやれと、呆れたように、モニカに近づいてきたマキウスだったが、隣に立っていた女性騎士の姿に気づいたのか足を止めた。
 そうして、何故か、顔を強張らせたのだった。

「マキウス様?」

 モニカが首を傾げると、マキウスは顔を強張らせたまま女性騎士に声を掛けたのだった。

「……隊長、今日はお休みだったはずでは?」
「ええ。忘れ物をしたので、取りに来たんです」

 隊長と呼ばれた女性騎士は、マキウスを見つめたまま答えた。
 マキウスは女性騎士を一瞥すると、モニカに向き直ったのだった。

「……用は済みました。さあ、行きましょう」

 マキウスはモニカの手を取ると、そのまま立ち去ろうとした。
 その時ーー。
 
「マキウス」
 
 女性騎士が静かに呼び掛けると、マキウスはピタリと足を止めた。
 危うく、急に立ち止まったマキウスの背にぶつかるところだった。

「マキウス様……?」

 先程から、いつものマキウスらしくない態度に戸惑っていると、女性騎士が話し出したのだった。
 
「姉である私に、義妹《いもうと》を紹介してくれないのですね」

 その言葉に、モニカに背を向けていたマキウスの身体がビクリと震えた。
 モニカの手を掴んだマキウスの手に、力が込められた。
 
「えっ? 姉? 義妹?」

 モニカが困惑していると、マキウスは顔を強張らせたまま、女性騎士に向き直ったのだった。

「……失礼しました。隊長(・・)。彼女は、モニカ・ハージェントです。今日を持って、正式に私の妻となりました」

 マキウスは次いでモニカの方を向くと、「そして」と話し出す。
 
「モニカ。彼女の名前はヴィオーラ。私が所属している小隊の隊長です。……そして、私の異母姉(あね)でもあります」
 
 女性騎士ーーヴィオーラは、胸に手を当てると、モニカに向かって優雅に一礼をしたのだった。
 
「初めまして、モニカさん。弟がお世話になっております。
 私はヴィオーラ・シネンシス・ブーゲンビリアと申します。
 ブーゲンビリア侯爵家の当主であり、マキウスの姉になります」
 
 そうして、ヴィオーラは顔を上げると優雅に微笑んだのだった。
「あの……マキウス様?」

 ヴィオーラと別れ、城の前で馬車に乗って、騎士団本部を離れたが、マキウスはずっと不機嫌そうな顔で黙ったままだった。

 声を掛けて良いのか悪いのか分からず、ずっと黙っていたモニカだったが、やがて心配になって、おずおずと声を掛ける。
 すると、ようやくモニカの存在に気づいたというように、マキウスは目を合わせてくれたのだった。

「どうしましたか?」
「先程の方……。ヴィオーラ様が、地方の騎士団にいたマキウス様を、この王都に呼んでくださった方なんですよね?」
「ええ、そうなります」

 以前、地方の騎士団に所属していたマキウスを王都の騎士団に引き抜いたのは、今の小隊長だと話していた。

「マキウス様の上司である隊長のヴィオーラ様は、マキウス様のお姉さんだったんですね。驚きました……」
「モニカ」

 マキウスはモニカの話を遮ると、馬車の外に視線を移した。

「少し、寄り道をしませんか?」

 モニカが頷くと、マキウスは行き先の変更を御者に告げたのだった。

 マキウスが御者に指示して辿り着いたのは、王都の中央部近くにある石畳の広場であった。
 広い芝生もあるようで、そこでは王都に住む人たちが、各々の好きなことをしていた。

 馬車を降りた二人は、広場を端まで歩いて行った。
 広場の突き当たりに行くと、そこは人工の海となっており、その前には大きな人型の銅像が建っていた。
 広場より少し低くなった場所に建っている銅像の前には、扇状に広がる石畳があり、広場と繋がっている石造りの階段がいくつかあったのだった。

 風雨に曝されて劣化の目立つ銅像の背中には、色褪せた大きな羽が生えていた。
 長い時間が経っているのか、銅像の顔は窪んでおり、顔は全く判別出来なかった。

「マキウス様、この銅像は?」

 風で乱れる金髪を抑えながら、傍らのマキウスに訊ねる。

「これは、この国を作ったとされている大天使の銅像です」
「大天使って、騎士団の壁画に描かれていた?」
「ええ。そうです。この銅像の中には、大きな魔力の炎が燃えていると言われています。その炎が、この国を空に浮かべていると」
「そうなんですね」

 銅像の外側からは、魔力の炎を見ることは叶わなかったが、なんとなく銅像からは熱を感じた気がした。
 魔力の炎とは、どんなものなのだろうか。
 色や臭いが、熱は普通の炎とは違うのだろうか。
 そんなことを考えながら、銅像に見惚れていると、不意にマキウスがポツリと呟いたのだった。

「……子供の頃、私と隊長の二人で屋敷を抜け出して、ここまで遊びに来たことがあります」

 モニカが隣を振り向くと、マキウスはアメシストの様な目で遠くを見つめたまま、話を続けた。

「懐かしいものです。あの日、この銅像に宿る魔力の炎を入手したいと騒いだ隊長に連れられて、ペルラたちに内緒でここに来ました。
 私たちがいなくなったことに気づいたアマンテとアガタが探しに来るまで、私たちはこの銅像に宿っている魔力の炎を見つけようと躍起になりました」

 アガタとはアマンテの妹で、今はヴィオーラの屋敷でメイドをしているらしい。
 今よりも小さい幼少期のマキウスと、先程会ったヴィオーラの幼少期を想像して、モニカはクスリと笑ったのだった。

「ヴィオーラ様と仲が良いんですね」
「そうかもしれません。
 ただ、隊長の母親が私と私の母を嫌っていましたので、表立って親しくすることは叶いませんでした」

 そうして、マキウスはヴィオーラとブーゲンビリア侯爵家について話してくれたのだった。
 マキウスとヴィオーラの父親は、ブーゲンビリア侯爵家の当主だった。

 この国で侯爵を名乗れる者は、全員が王族の血を引く者だけである。
 それ以外の者が爵位を賜る際には、必ず侯爵以外の爵位となるらしい。
 実際にブーゲンビリア侯爵家を最初に賜わったのも、何代か前の国王の弟だと言われていた。

 マキウスの父親は、家同士の繋がりを深める為に、親族の勧めで公爵家の女性との婚姻を強要されていた。
 それが、ヴィオーラの母親であった。

 けれども、マキウスの父親は、地方の騎士団に所属していた時、そこで知り合ったハージェント男爵家の女性を愛していた。
 それが、マキウスの母親であった。

 最初こそ、親族は身分の低いマキウスの母親との結婚を反対していた。
 けれども、何度説得してもマキウスの父親は、マキウスの母親との結婚を諦めず、更には「結婚を認めないなら爵位を放棄して地方に移り住む」とまで言い出したそうだ。

 そこで、正妻としてヴィオーラの母親を迎え入れることを条件に、マキウスの母親との結婚を認めた。
 正妻と妾の順番を決めたのは、両者の生家の身分を考慮してのことだったらしい。
 両者の生家ーー特にヴィオーラの母親の生家であるロードデンドロン公爵家に。

 やがて、結婚して間もなく、ヴィオーラの母親は娘のヴィオーラを産んだ。
 これには、侯爵だけでなく、使用人たちもヴィオーラの母親を称賛した。

 使用人によると、貴族特有のプライドの高いマキウスの母親は、公爵家の出身で、正妻の自分ではなく、男爵家の出身の妾ばかり気にしているマキウスの父親に、不満が募っていたらしい。
 けれども、この時ばかりは、ヴィオーラの母親も上機嫌になり、いつもなら使用人たちに振るやつあたりもなくなった。
 これには、ヴィオーラの母親に振り回されていた使用人も安堵したそうだ。

 けれども、それもヴィオーラが二歳の時に終わった。
 妾が跡継ぎとなる男子ーーマキウスを産んだからであった。

 跡継ぎとなる男子を産んだことで、両者の関係は逆転してしまった。

 部屋から出れば、使用人たちは産まれたばかりのマキウスの話をしており、夫の侯爵もマキウスとマキウスの母親の元にばかり通うようになった。
 やがてヴィオーラの母親の周辺には、生家から伴った一部の取り巻きのメイドを除き、誰もいなくなったのだった。

 ーー自分より身分の低い男爵家の妾が、自分が産めなかった跡継ぎを産んだ。

 それが、ヴィオーラの母親の神経を、ますます逆なですることになったのだった。

 マキウスの母親は、マキウスを出産する時に体調を崩して、ほとんど屋敷の自室に籠もりがちになった。
 そんなマキウスの母親に、ヴィオーラの母親は取り巻きのメイドを使って、嫌がらせをし続けた。

 それでも、夫である侯爵が生きていた頃はまだ良かった。
 だが、騎士だったマキウスの父親は、騎士団の任務中に不慮の事故に遭い、若くして亡くなってしまったのだった。

 ヴィオーラの母親が、侯爵家の第一子の母親という立場を利用して、ブーゲンビリア侯爵家を継いだことから、嫌がらせはますますエスカレートした。
 やがて嫌がらせは子供のマキウスにも向かうようになった。
 マキウスの母親は、どうにかヴィオーラの母親の手からマキウスを守ろうとしたが、それが更に体調を悪化させる結果となってしまった。

 そうして、侯爵が亡くなって間もなく、心労が原因で、マキウスの母親は息を引き取ったのだった。

 ひとり残されたマキウスは、地方にある母親の生家ーーハージェント男爵家に移り住むことになったのだった。
「男爵家に移り住んだ私は男爵家の当主だった祖父母が亡くなった後、その跡を継いで、ハージェント男爵となりました。
 十六で地方の騎士団に所属する騎士見習いとなり、二十二の時に騎士を叙任して下級騎士となりました。
 そんな私を王都の騎士団本部に引き抜いたのが、今の隊長です」

 マキウスは風の噂で聞いていたが、数年前、ヴィオーラの母親が病気で亡くなると、ブーゲンビリア侯爵家はヴィオーラが跡を継いだらしい。
 贅沢三昧の暮らしをして、侯爵夫人として何もしなかった母親とは違い、ヴィオーラは父親譲りの才能を遺憾なく発揮していると。

「そうだったんですね……」

 話し終わると、マキウスは空を見上げた。
 モニカもつられて見上げた丸い空は、どこまでも高くてーーどこか寂しささえ感じた。

「母親同士の仲は険悪でしたが、隊長は私に優しくしてくれました。……いつも振り回されていましたが」

 部屋に籠もっていたマキウスの元に、ヴィオーラは母親の目を盗んで、よく遊びに来ていたらしい。
 日によっては、ペルラの娘であるアマンテとアガタも一緒にやって来て、四人で遊んだ。
 四人のリーダー的存在のヴィオーラ、まとめ役のアマンテ、ヴィオーラ以上にマキウスの姉のような顔をするアガタ。
 そして、三人の姉に振り回されるマキウス。

 マキウスはヴィオーラに連れられてこっそり屋敷を抜け出すと、王都の街中に遊びに行ったこともあった。
 あの時は、姿が見えなくなった姉弟が、誘拐事件に巻き込まれたと勘違いされて、大騒ぎになった。
 時には屋敷の使用人に悪戯をして、二人の乳母であるペルラに怒られたのだった。

 モニカは一切口を挟まず、ただマキウスが話す姉弟の思い出話に耳を傾けていた。

「子供の頃、隊長は母には内緒だと、高価な菓子を持って来てくれたことがありました。
 二人で分け合って食べた菓子の美味しさ、甘さは今でも忘れられません」

 その時を思い出したのか、マキウスは在りし日を懐かしむような顔をしたが、「ですが」とすぐに眉根を寄せた。

「そのような日々は、もう来ません。子供の頃に失われてしまったのです」

 昔は姉と弟であり、侯爵家の姉弟であった。
 けれども、今は隊長と部下であり、公爵と男爵でもあった。
 半分ではあるが血を分け合った姉弟は、もう同じ位置に並ぶことさえ許されないのだろう。

 その時、一際強い風が吹いた。
 強風に煽られて、マキウスの横顔を隠すように、灰色の髪が靡いた。
 それが収まると、マキウスはモニカの方を向いて、微笑を浮かべたのだった。

「そろそろ、屋敷に戻りましょう。風が冷たくなってきました」
「はい……」

 風に靡く金の髪を抑えながら、マキウスの後ろについて、広場に停めた馬車に向かって歩いて行く。
 広場までの道すがら、モニカは気になったことを尋ねたのだった。

「もし、子供の頃のように、立場や身分を気にしなくていいのなら……もう一度、ヴィオーラ様との関係を取り戻したいですか?」

 前を歩くマキウスがどんな表情をしているのかは分からなかった。
 けれども、しばらく経った頃、マキウスはぽつりと呟いたのだった。

「そうですね。……願わくは」

 その呟きは、風にさらわれて、やがて消えていったのだった。
 マキウスと婚姻届を提出しに騎士団に行って、しばらく経った昼下がり。
 アマンテと交替してニコラを見ていたモニカは、ニコラのオムツを替えていた。

「オムツ替えもすっかり慣れたなあ……」

 オムツを替えてスッキリしたニコラは、モニカに向かって嬉しそうに笑いかけてきたのだった。
 取り替えた布オムツを汚れ物入れ用の籠に入れると、ニコラをベッドに寝かせる。
 この世界にはまだ使い捨ての紙オムツは存在しておらず、麻で織られた布オムツを洗って使い回しをしていた。勿論、一度使った布オムツを洗って使い回しをするのはモニカの様な一部の貴族と平民だけで、王族や高位の貴族になると布オムツも使い捨てるらしい。
 使った布オムツは、毎日使用人たちが洗っては、ニコラのベッド下の箱に補充してくれているのだがーー。

「あっ! もうストックが無いんだ……」

 手を洗い終わって片付けに戻って来たモニカは、予備の布オムツを入れている箱が空になっていることに気付く。
今朝のアマンテの話によると、昨晩から今朝にかけて、ニコラがお腹を下したらしい。
 いつも以上にオムツを替えており、アマンテもほぼ寝ずにニコラを見てくれた。
 それもあって洗濯が間に合わず、予備のオムツが無くなっていたのだった。

「う~ん。すぐに使いたい訳でもないから、誰かに頼むまででもないし……」

 モニカはベッド脇にある紐を眺める。この紐は使用人たちの部屋に繋がっており、紐を引くとティカたちが来てくれる事になっていた。
けれども、アマンテやティカを始めとする使用人は昼休憩中であった。
 呼べば来てくれるだろうが、こんなことでわざわざ呼ぶのも躊躇われた。

「仕舞っている場所はわかっているから、自分で取りに行ってもいいよね」

 後で誰かに言えばいいだろうと、ニコラが静かなのをいいことに、モニカは部屋を出たのだった。

 モニカの部屋のすぐ側には、ニコラの洋服や道具を仕舞っている倉庫部屋があった。
 マキウスによると、モニカが普段使っている部屋は、元々乳母のアマンテとニコラの部屋にするつもりだったらしく、すぐ側にニコラの洋服やオムツなどを仕舞っている部屋を用意したとのことだった。

「あれ? 鍵がかかっているのかな?」

 倉庫部屋のドアノブを回すが、鍵がかかっているのか何度回しても扉が開かなかった。

「他の人は、鍵を使っていなかったのに……?」

 前にティカと来た時はティカがドアノブを回しただけで扉が開いたので、鍵は掛かっていないと思っていた。最近掛けるようになったのだろうか。

「でも、鍵穴なんて見当たらないし……」

 ドアノブに顔を近づけるが、本来ならドアノブの上にあるはずの鍵穴が無かった。念の為、扉周辺も見てみたが鍵穴らしきものは見当たらなかった。

「鍵を掛けた訳ではないのかな……?」

 鍵を掛けたのではないのなら、一体どうして開かないのかーー。
モニカが扉の前で戸惑っていると、一人のメイドがやって来たのだった。

「モニカ様?」

 振り返ると、屋敷のメイド服に身を包んだモニカと同年代くらいの女性が立っていた。
 いつだったか、ティカと一緒に部屋の掃除に来てくれたことがある。
 確か、名前はーー。

「貴女は……。ティカさんのメイド仲間の……?」
「はい。ティカのメイド仲間のエクレアです」

 切れ長の緑色の瞳に、雪の様に真っ白なボブショートの髪。
 頭からも同じ色のフワフワの毛を生やしたエクレアは、抑揚のない声で話すと、無表情で頷いたのだった。

 ティカから聞いていた説明によると、この屋敷に移る際に、以前働いていた屋敷からティカと共にやって来たというメイド仲間がエクレアらしい。
 無表情で何を考えているかわからないところがあるが、ティカ曰く「とても優しくて、仕事はとても優秀な、仲の良い友人です」とのことだった。

「この部屋がどうされましたか?」
「ニコラの予備のオムツが無くなってしまったので補充しようかと……」
「そんなことでしたら、私たちを呼んで頂ければ良かったのに……」

 エクレアは呆れた様に溜め息をついたのだった。
 エクレアによると、使用人は交代で昼休憩を取っており、一度に全員は居なくならないので、モニカが呼べば休憩をしていない使用人が来たとのことであった。

「そうだったんですね~。知りませんでした」

 いつもモニカが使用人を呼ぶと、ティカしか来ないので、ずっとモニカの世話係はティカしかいないのだと思っていた。そのことをエクレアに話すと、「ティカは旦那様とメイド長の指示でモニカ様専属のメイドになったので」と返されたのであった。

「ティカは食事中ですが、今の時間でしたら手が空いていた私が来ました。特にモニカ様からお呼びがかからなかったので、洗濯係の手伝いをしていたのですが……」

言われて見てみると、エクレアの足元には綺麗に畳まれた布がいくつも入った籠が置いてあった。モニカの視線の先に気付いたのか、「中はニコラ様のベッドシーツや寝間着です。昨晩汚されたので、洗って乾いたものをお持ちしました」と教えてくれたのであった。

「すみません……」
「……それでは、開けますね」

 そんなモニカに構うことなく、エクレアはドアノブを掴む。一瞬だけドアノブが光ったかと思うと、扉は難なく開いたのだった。

「あれ? 鍵がかかっていなかったの……? 私の勘違いだったかな……?」

 開かないと騒いでいた扉が難なく開いたことが恥ずかしくて頭を掻いていると、エクレアは首を振った。

「いいえ。鍵はかけていましたよ。ただ魔法で締めていただけです」
「魔法で!?」