【改稿版】ハージェント家の天使

「すみません!」

 仕事が休みのある雨上がりの日。青く晴れた空の下、御國(みくに)はまだ雨粒が乾ききっていない駅前のペデストリアンデッキを歩いていた。すると、後ろから声を掛けながら若い男性が小走りで近づいて来たのだった。

「すみません! 待って下さい!」

 自分の事だと思わなかった御國が気にせず歩いていると急に肩を掴まれたのだった。

「きゃ!」

 小さな悲鳴を上げておっかなびっくり振り向くと、短く刈った髪を明るい茶髪に染めた若い男性が息を切らせながら立っていたのだった。

「すみません! あの、これ、落としましたよ……!」

 御國が身を守ろうと身体を丸めていると、若い男性は申し訳なさそうに御國のハンカチを差し出してきたのだった。

「そこの、駅の自動ドアのところで落とされましたよ」
「あっ……ありがとう……ございます……」

 尻すぼみになりながら御國がハンカチを受け取ると、若い男性は元来た道を走って戻った。走って行った先に、同じ様に髪を茶色に染めた若い女性がいたからきっと若い男性の連れなのだろう。御國はほっと肩の力を抜くと、上着のコートにハンカチを仕舞ったのだった。

「わわわ……!」

 歩き始めた直後、足を滑らしそうになって、慌てて近くの手摺りを掴む。後ろで一つにまとめたセミロングの黒髪が御國の動きに合わせて大きく揺れた。

「ふぅ……」

 息を大きく吐き出すと、手摺りから手を離す。
 近くに知り合いがいないとはいえ、見知らぬ衆目の中で、滑って転んで赤っ恥を掻く様な醜態を晒さなくて良かった。
 御國は肩から落ちかけていた小さな肩掛けカバンを持ち直すと再び歩き出したのだった。

 子供の頃から、学校が休みの日は一日中家に引きこもっているようなインドア派の御國だったが、今日は珍しく片道一時間を掛けて、地元で一番大きな駅までやって来た。
 理由なんて大したものはなかった。ただ単に、家に居づらくて――読み掛けの本を片手にカフェで美味しいお茶が飲みたかっただけだった。
 地元民や観光客でごった返す苦手な人込みを掻き分け、雨上がりで濡れて滑るペデストリアンデッキを歩きながら、御國はため息をついた。

(最近、結婚の話ばっかり……。もう、疲れちゃった……)

 今年に入って、海外に住む従妹が現地人と結婚式を挙げた。その結婚式から戻って来てから、同居している両親が執拗に結婚を勧めてくるようになった。

『二十六歳にもなって、いつまでも遊んでばかりいないで早く結婚しなさい! 早くわたしたちに孫の顔を見せて!』

 両親の言う通り、今年で二十六歳になる御國は、もう結婚していてもおかしくない年齢ではあった。
 従妹に限らず学生時代の友人たちも、次々と恋人を作って、結婚をして、出産をしていた。
 未だに彼氏さえいない御國はそんな友人たちと比較したら遅い方で、そんな御國を両親が心配する気持ちもよくわかる。
 けれども、御國も決して好きで結婚していない訳ではない。ただ何となく仕事や趣味を理由に彼氏を作る機会を逃してきただけだった。御國だって結婚したいし、子供だって欲しい。本当に仕事や趣味にばかり時間を費やして恋愛をする時間を得られなかっただけだった。本当にそれだけの――。
 胸を締め付けられる様な痛みを感じながら、ふと視線を遠くに移す。ペデストリアンデッキの奥の方に御國と同い年くらいの若い夫婦と父親の腕に抱かれた可愛らしい女の子の三人がいたのだった。

(あの女の子、二歳くらいかな……? 可愛い……)

 ふっくらとした可愛らしい頬、肩より少し短い髪、女性を中心に世界中で人気のキャラクターが書かれた子供服を着た女の子は、時折ペデストリアンデッキの下を走る車や通行人を小さな手で指しながら何かを話している様だった。そんな女の子に付き添う若い夫婦も楽しそうに談笑しているように見えたのだった。

(もし私も結婚出来たら、ああやって楽しそうに笑えるのかな……)

 そんな若い夫婦と女の子に気を取られながら、下の道路に続く階段を降りていた時だった。
 不意に階段を登ってきた人と肩がぶつかった。そのまま態勢を立て直す間もなく、御國は濡れた段差で足を滑らせたのだった。

(えっ……)

 近くの手摺りを掴もうにも、手を伸ばした先には既に腰の曲がった老婆が掴んでいた。その老婆を押し退けて手摺りを掴むわけにもいかず、御國の手は宙を掴んだだけであった。

(何でもいいから、掴まないと!)

 けれどもそう思った時には、既に地面に向かって落下していた。
 どうすることもできないまま、スローモーションで動いていく景色を眺めていると、先程の若い夫婦と女の子の三人と目が合った。
 夫婦は「あっ」と言いたそうな顔をしていたが、御國自身もそんな顔をしているような気がしたのだった。
 そうしている間に、御國は音を立てて階段下のコンクリートに叩きつけられた。首の骨が嫌な音を立て、地面にぶつけた頭に鈍い痛みが走る。

「くっ……」

 衝撃で身体に力が入らず、指先一つ動かせなかった。痛みに呻いていると、階段から落ちた御國に気付いて、通行人が周囲に集まってきたのだった。

「大丈夫ですか? 動けますか?」

 最初に声を掛けて来たのは、御國と同い年くらいの若い女性だったが、他にも「大丈夫か!?」や「救急車を呼びますか?」と老若男女問わず声を掛けられた。けれども、御國は声を出すことはおろか、身体を動かすことも出来なかったのだった。

「誰か! 医者はいませんか!?」
「早く、救急車を……!」

 誰かが叫んでいるがその頃にはもう痛みさえ感じなかった。出血しているのか頭から熱と共に何かが流れて出ている様な気がした。

(鉄みたいな臭いがする……)

 それが自分の頭から流れた血の匂いだと気付いた時、雨上がりの匂いや近くを走る車のエンジンの匂いに混ざって鉄臭い血の匂いが辺りに漂い始めた。それもすぐに匂わなくなったかと思うと、身体から血の気が失せて、コンクリートと同じ体温になっていくのを感じたのだった。
 急速に視界が暗くなっていくが、身動きが取れない御國は、ただ呆然と雨上がりの澄み渡った空と周囲で騒ぐ人々を眺めている事しか出来なかったのだった。

(ああ……。私、死ぬんだ)

 ――死は突然やってくる。

 どこかで聞いた様な言葉が急に頭の中で閃く。
 どこで聞いた言葉だろうかと頭の中で反芻しながら、暗くなっていく視界をなんとか動かすと、先程の若い夫婦が目を見開いて、女の子に御國を見せない様にしながら真っ青な顔でこっちを見ていた。小さな男の子の兄弟を連れた別の夫婦も、御國に駆け寄ろうとする兄弟を引き留めながら、若い夫婦と同じ顔をして御國を見ていたのだった。

(私も、あんな子供が欲しかったなあ……)

 周囲の喧騒も車の音も何もかも聞こえなくなったかと思うと、すとんと意識が落ちた。
 そうして、御國は死んだのだった。
(どこからか、赤ちゃんの泣く声が聞こえてくる……)

 微かに聞こえて来る呱呱の声に導かれるように御國が目を覚ますと、そこは先程落下した道端でもどこかの病室でもなく、外からの柔らかな陽光が差し込む見知らぬ部屋だった。
 ホテルのスイートルームの様に豪華な家具が揃った部屋の中の、どこかお日様の匂いがする柔らかなベッドの上に寝かされていたのだった。

「ここは……? うっ……」

 身体を起こしながら、掠れた声で呟くと頭がズキリと痛んだ。

「いったぁ……」

 頭を押さえながら何気なく下を見ると、いつの間に着替えさせられたのか見知らぬ白のネグリジェを着ていた。

(寝ている間に、誰かが着替えさせてくれたのかな?)

 絹の様な上質な生地を使っているようで、着心地は不快ではなく、さらっとした手触りも心地良かった。
 そして、目の前にある大きな二つの膨らみ――自分の胸を見て、ぼんやりとしていた意識が一気に覚醒する。

(いつの間にこんなに大きくなったんだろう……?)

 Cカップあるかないかの控えめな大きさだった胸は、何故か二回り以上の大きさになっていた。パットや詰め物が入っているだけかもしれないと試しに軽く胸を掴んでみたが、それは間違いなく自分の胸の感触だった。

「うわあ……」

 こんなに大きな胸を見たのも触れたのも始めてで、御國の口から思わず声が漏れてしまう。けれども、その声は普段聞き慣れた自分の低い声とは全く違う、綺麗なソプラノボイスであった。

「可愛い声……。トーンも高いし、いつの間に声変わりしたんだろう……?」

 さっきは声が掠れていて気づかなかったが、可愛い女の子が発するような愛らしい声が、自分が言葉を発する度に自分の口から出ていた。

「それに、ここは一体どこ……? 私は死んだはずなんじゃ……?」
「ほんぎゃあ……!」

 けれども、御國が考えている間も、赤ちゃんは部屋の隅に置かれたベビーベッドの上で、泣き続けていた。

(誰の赤ちゃんかわからないに、勝手に触れていいのかな……?)

 戸惑いながらも、ベビーベッドをじっと見つめる。赤ちゃんが泣く度に、なぜか胸がぎゅうと締めつけられるように痛くなった。
 いや、胸が「張った」の間違いだろうか。

(どうしたらいいんだろう……?)

 近くに人がおらず、誰にも聞くことが出来ないので、御國はオロオロと迷うばかりであった。すると頭の中のどこか遠いところから、誰かの声が聞こえてくるような気がした。

 ――行かなきゃ。大切な子供の元に。

「うっ……」

 声が聞こえた直後に耳鳴りの様なキーンとした音が頭の中に響き渡り、両耳を押さえてしまう。その音が鳴り止むと、意を決した御國はその声に従う様にベッドから小鹿の様に白くほっそりとした裸足の両足を抜いて薄茶色の絨毯の上に乗せる。
 柔らかな毛先が裸足の足裏に当たってくすぐったかったが、我慢してそのまま立ち上がろうとする。自室のベッドで寝ている時と同じ様にベッドから起き上がったつもりが、足に全く力が入らず、ベッドから落ちて絨毯の上に倒れてしまったのだった。

「……っ!」

 ドスンという小さな音と共に床に倒れてしまう。絨毯の毛が柔らかい事もあり怪我はしなかったが、顔に絨毯の毛先が当たってくすぐったかった。足裏がくすぐったかった事といい、触覚があるという事はやはり自分は死んでいないのだろうか。
 御國が床に身体をぶつけた痛みに耐えながらそんな事を考えている間も、赤ちゃんは泣き続け、頭の中では誰かが赤ちゃんの元に行くように訴え続けていた。

「わかったから……!」

 頭の中で響き続ける声に返事をしつつ、御國は絨毯の上を這いながら壁に向かう。壁に両手をついて身体を起こすと、力の入らない足を引き摺りながら壁伝いに歩く。途中で足が痛くなり歩くのが困難になると、床を這うようにして赤ちゃんが声を上げ続けるベビーベッドに向かったのだった。
 ようやく御國は赤ちゃんの泣き声が聞こえてくるベビーベッドに辿り着くと、ベビーベッドの柵に掴まりながら何とか立ち上がる。
 ベビーベッドの中には、薄いピンク色の産着に包まれた愛らしい赤ちゃんが泣き続けていたのだった。

「ほぎゃあああ! ほぎゃあ!」

 御國は頭に薄っすら生える金色の髪を撫でると、ベビーベッドに上半身を乗り出すようにして赤ちゃんを抱き上げたのだった。

(抱き方はこれでいいのかな……?)

 不安になったが、なぜか身体が自然と首の座っていない赤ちゃんを支える抱き方になった。
 御國はベビーベッドの柵に掴まりながら、ゆっくりとその場に座り込む。湯たんぽのような温かさが腕の中に広がり、自然と口角が緩んでしまう。
 腕に力が入らず一度赤ちゃんを床に落としそうになったが、また意識するまでも無く、両腕でしっかりと赤ちゃんを支え直した。

(なんでだろう……? 赤ちゃんなんて抱いたことが無いのに……。まるで、身体が覚えているみたい……)

 御國には下に弟妹がいるが、弟妹を抱いた記憶がほとんどない。また自分を含めた身内にも赤ちゃんはいなかった。
 学生時代の友人たちに生まれたばかりの自分の子供の写真を見せてもらったことはあったが、実際に抱いたことは無かった。
 それなのに、なぜか「今の」御國は赤子の抱き方を知っていた。
 まるで、自分の中にいる「誰か」が覚えているかのようにーー。

「それより、どうして泣いているんだろう? オムツ? 具合が悪いの?」

 御國は泣いている赤ちゃんに声を掛けるが返答は全くなかった。
 当たり前といえば、当たり前だがーー。

「どうしよう……? やっぱり、誰か呼んだ方がいいよね?」

 御國がベビーベッドの近くにある扉を見ていると、腕の中の赤ちゃんがしきりに御國の胸の辺りに吸い付こうとしている様子に気づいた。その様子を見ていて、閃いたものがあった。

(もしかして……)

 御國は覚悟を決めると、ネグリジェの胸元をはだけさせる。
 ネグリジェの中から想像以上に豊満な白い胸が出てきて、同性の御國でさえじっと見入ってしまいそうになる。そんな誘惑に負けそうになる前に腕の中の小さな身体を支え直すと、そっと自分の右胸を指で摘んだのだった。

「やっぱり……!」

 思った通り、右胸の乳首と乳首を摘んだ指先が濡れていた。御國が驚いていると、再び頭の中で声が響いた。

 ーーお腹が空いて泣いている。飲ませなきゃ。

 御國は声に導かれるままに、赤ちゃんの顔を右胸の乳首に近づけた。
 赤ちゃんはようやく目的のものを見つけたというように乳首を口に含むと、夢中になって吸い出したのだった。

(授乳ってこんなにくすぐったいんだ……)

 乳首を吸われる度にむずむずするようなくすぐったさを感じて、御國は声を上げそうになった。
  ひとしきり母乳を飲んだ後は、また身体が勝手に赤ちゃんの背を叩いた。
 この動きは御國でもわかる。母乳と一緒に飲んでしまった空気を出そうとしているのだろう。
 母乳を飲む時、赤ちゃんは空気まで飲んでしまう。空気が残っていると吐き戻しをしやすく、更には吐いた時に吐瀉物を誤飲してしまう可能性があった。それを防ぐ為に、母乳を飲ませた後は空気を吐き出させる必要があった。
 やがて赤ちゃんが空気を吐き出すと、背中を叩いていた御國の手が止まる。
 そうしてお腹が満たされた赤ちゃんは安心したように眠ったのだった。
 穏やかに眠る赤ちゃんの顔を見ていた御國は、ふいにポツリと呟く。

「ニコラ」

 良かったと、安心したところで、御國は我に返ったのだった。

(どうして、私は赤ちゃんの抱き方や授乳の仕方を知っているの……? そもそも、どうして母乳が出るの……?)

 御國は赤子を産んだことも無ければ、男性とお付き合いをしたことも――性行為さえしたことさえなかった。
 それなのに、どうして一連の授乳が出来るんだろう。

(それに今、ニコラって呟かなかった……? ニコラってこの子の名前?)

 先程、御國が無意識に呟いた「ニコラ」。
 それがこの赤ちゃんの名前だとしたら、どうして自分は知っているんだろう。

(それにこの部屋……。私は階段から落ちて死んだはずじゃ)

 赤子――ニコラが眠ったことで、ようやく落ち着いて部屋の中を観察出来た。
 女性らしさが溢れた室内には、御國が寝かされていたベッドと、沢山の化粧品が置かれた鏡台、本棚、ニコラのベビーベッドがあった。
 どれも高級品だと一目でわかるような豪華な造りをしているが、鏡台の足元や本棚には細かい傷が沢山ついていた。
 そうして、ベビーベッドの近くには大きな窓とバルコニーがあったのだった。

 御國はニコラを抱いたまま、恐る恐る窓に近づいていく。
 窓ガラスに近づくと、外には丸い形の青空が広がっていた。

「空が丸い……? ここはどこかの建物の中なのかな……?」

 まるで、ドームの様な形をした空を見上げていると、窓ガラスに人が映っていた。

 そこに映っていたのは――。

「誰なの? この人……」

 ガラスに映っていたのは、腰近くまでの長さのあるストレートの金髪と深い海の様な青い瞳を丸く見開いた、御國よりも若い二十代前半くらいの女性であった。
 わずかに少女らしさを残した女性らしい丸い顔立ちは、御國よりもずっと愛らしく可憐であり、ほんのり赤く色付いた白い頬と艶やかな唇、小さな鼻が女性の可愛らしさを引き立てていた。
 御國がそっと微笑むとガラスの中の女性も同じ様にぎこちなく笑った。どこか引き攣った笑みながらも、少し微笑んだだけで柔和な顔立ちがますます柔らかくなるのも魅力的だった。何をしても絵になるのは、まるでテレビの中の人気アイドルと同じだと思った。
 そんなアイドルの様に万人に愛されるような可愛らしさを持った女性の腕の中には、女性と同じ色の髪をした赤子――ニコラがいた。
 御國が手を伸ばしてガラスに触れると、ガラスに映っている金髪の女性も御國に向かって手を出してきたのだった。
 手を伸ばしてガラスに触れると、同じようにガラスに映っている女性も、御國に向かって手を伸ばしてきた。

「もしかして、私なの?」

 御國と同じように、窓ガラスに写った女性も同じように口を動かしたのだった。

 その時、扉が控え目に叩かれた。

「失礼します。遅くなって申し訳ありません。ニコラ様」

 扉を開けながら入ってきたのは、若い女性だった。
 女性は襟が白い黒のワンピースドレスの上に、白いフリルのエプロンドレスを着て、茶色の革のロングブーツを履いていた。
 御國は行ったことはないので、実際に見たわけではないが、例えるなら、メイド喫茶で働いているような、メイドのような格好であった。
 肩ぐらいまである赤茶色の髪をニ本の三つ編みにして、白いメイドキャップを付けた頭からは、犬の様な茶色の小さな耳が生えていたのだった。
 メイドは御國の姿を見ると、犬の様な耳を揺らしてギョッとした。

「あ……あ……」
「あ、あの……。これは、その……」
「知らせなければ……! 誰か、モニカ様が目を覚まされました!」

 言葉を失っていたメイドだったが、急に叫んだかと思うと、御國が説明する前に、部屋から駆け出して行った。
 メイドが去った室内には、女性の叫び声に驚いたニコラがまた泣き出す声だけが、虚しく響いていたのだった。
 御國がニコラを抱いたまま呆然としている間に、先程のメイドは年配の女性を連れてすぐに戻ってきた。
 同じ格好をしているところから、この年配の女性も同じメイドなのだろう。
 年配のメイドも、先程の若いメイドと同じように御國の姿に驚いていたようだった。
 そうして御國に近づくと、腕の中ですやすやと寝息を立てるニコラを取り上げたのだった。

「あっ……」

 年配のメイドは取り上げたニコラを手慣れた様に丁寧に抱くと、そっとベビーベッドに戻す。
 そうして、御國は最初に会ったメイドによって、先程まで眠っていたベッドに戻されたのだった。

 ニコラを取り上げられて、やや不満気な御國はベッド脇に立ってコソコソ話している二人の会話を聞いていた。

「旦那様に連絡は……」
「執事長に確認したところ、もうじき騎士団から戻られるとのことです」
「そうですか。状況の説明はメイド長である私と貴女でします。いいですね?」
「はい……」

 二人の会話から、年配の女性がメイド長で、先程の女性がその下で働くメイドらしい。
 薄い金色のメイド長の頭からも、犬の様な耳生えていた。
 先程のメイドは赤色の耳だったが、メイド長は白色の耳だった。

(触ったら柔らかそう)

 御國がベッド脇に立つメイド長の耳を眺めていると、コンコンと扉が叩かれる音が、部屋中に響き渡ったのだった。

「入りますよ。モニカ」

 そう声を掛けて入ってきたのは、今の御國より少し歳上の見目麗しい白皙の男性であった。
 わずかに黒を帯びた白色に近い灰色の長い髪をうなじで結び、腰近くまで垂らしていた。
 何よりも御國の目を引いたのは、他のメイドたちと同じ様に灰色の頭から犬の様な三角形の耳を生やしていたところだった。フワフワした黒色の毛で覆われた耳は、時折ピクリと動いていたのだった。

(かっこいい……)

 御國が見惚れている間も、男性はどこか不機嫌そうな表情を浮かべたまま、御國が上半身を起こしているベッドに近づいて来たのだった。

「騎士団に知らせがきました。モニカが目を覚ましたと聞いて、慌てて戻ってきました」

 綺麗なテノールボイスに声を掛けられて御國はハッと我に返る。
 男性をよく見てみれば、鎧こそは身に着けていなかったが、白を基調とした青いラインが入った制服姿であった。胸元には狼の様な獣を象った紋章を付けており、濃い青のマントを身に着けていた。背中のマントが乱れているのは、慌てて駆け付けたからだろうか。

「一か月近く眠っていたのです。どこか具合が悪いところはありませんか?」

 そう言って、男性はアメシストの様に輝く紫色の瞳で御國の頭から足までじっと見つめてきた。時折アメシストの瞳を細めてつぶさに観察してくる姿は、まるで御國の変化を少しも見逃さないと言いたげな様子にも見えた。
 男性の見目麗しい顔立ちにドキドキしながらも、御國は何とか頷いたのだった。

「大丈夫です。ご心配をおかけして、すみません……」
「そうですか……。それなら安心しました」

 男性が俯いた御國に触れようと手を近づけてきた時、御國の頭の中に声変わり直後のまだわずかに高い声が残る少年の声が響く。

 ――こんな……以外良いところのない……のない奴に……。

 身体が大きく震えると、御國は反射的に身体を引いてしまう。そんな御國の動きに気づいたのか、それとも何かを思い出したのか、男性は御國に触れる直前に手を止めると、何事も無かったかの様に降ろしたのだった。

「私は仕事に戻りますが、何かあればすぐに使用人に言って下さい。それでも解決しなければ私を呼んで下さい」
「あの!」

 咄嗟に御國はベッドから離れようとした男性を呼び止めてしまう。男性は立ち止まると、何故か驚いた様子で御國を振り返ったのだった。

「どうかしましたか?」
「えっと……あの……」

 男性を呼び止めたのはいいが、何も考えていなかった。何か言わなければと焦っていると、視界の隅にベビーベッドが入ったのだった。

「せっかく帰宅されたのに、ニコラには会っていかないんですか?」

 苦し紛れにニコラが寝ているベビーベッドを指差しながら尋ねると、男性は不思議そうな顔をしたのだった。

「……私がニコラに会っていいんですか?」

 これには御國が首を傾げた。

「はい……。駄目ってことは無いと思いますが……」

(もしかして、何かマズイことを言ったのかな……?)

 御國が内心慌てていると、男性は少し迷った末に「では、モニカの言葉に甘えて」と答えた。男性はベビーベッドに近づくと、寝ているニコラの邪魔をしないように、そっと上から覗き込んだのだった。

「ニコラ」

 そうしてニコラに向かって、柔らかく微笑んだのだった。

(うわぁ……いい笑顔……)

 そんな男性の横顔を見ていた御國の胸がドキッと大きく高鳴った。
 その時、いつの間にか御國の側から離れて、扉の前に立っていたメイド長が男性に呼びかけたのだった。

「旦那様、愛娘にようやくお会い出来たところ恐縮ではありますが、外で使用人が待っております」

 御國がメイド長から扉に視線を向けると、扉の外に何者かの姿が見えたのだった。

「わかりました。すぐに行きます。詳細は帰宅してから教えて下さい」

 男性は名残惜しそうにニコラから離れると、メイド長に声を掛けながら扉に向かう。部屋から出る時、何か言いたげな顔で御國を見つめてから、そっと出て行ったのだった。
「旦那様」と呼ばれていた男性が出て行くと、御國はそっと安堵の息をついた。

(緊張した……。あんなイケメンを間近で見たことなんて、これまでなかったし……)

 気がかりなことがあるとすれば、御國に対する態度とニコラに対する旦那様の態度があまりにも違うところだろうか。

(何か理由があるのかな……)

 とりあえず旦那様から何も追及されなかった事に安堵してそっと息を吐いていると、それに気づいたメイド長が金色の鋭い眼光を御國に向けて、声を掛けてきたのだった。

「モニカ様。旦那様にニコラ様に会わないのかと勧めるとは……何かありましたか?」
「えっ!? 何かって、何も……。駄目でしたか?」

 御國がギョッとしてメイド長を見つめると、メイド長は「いえ、駄目という訳ではありませんが」と首を降るが、ややあってから「ですが」と続けたのだった。

「これまでは頑なに、旦那様にお嬢様のニコラ様を会わせることはありませんでした。
 二人の間に出来たお子様にも関わらず、頑なに旦那様に会わせないのは、何か理由があるのかと思っていましたので」
「えっ……?」

 御國が何か言わなければと考えている間に、メイド長は咳払いをしたのだった。

「起きたばかりで長々と失礼しました。長話は身体に障ります。しばらく横になってお休み下さい。ニコラ様は私共で看ますので」

 そうして、メイド長は他のメイドにニコラを別室に連れて行くように命じると、御國を残して部屋から出て行ったのだった。
 他のメイドたちもそれに続き、やがて、一人、部屋に残された御國は呆然としたのだった。

(ま、間違えた……?)

 御國自身は、御國とニコラが、清潔に整えられた豪華なこの部屋の中に、大切そうに寝かされていたことから、二人はあの「旦那様」と呼ばれていた男性と、深い関係があると思って声を掛けた。
 けれども、旦那様の反応やメイド長の様子から考えると、そんな親密な関係では無さそうだった。

 そしてもう一つ、気にかかることといえば――。

「今、『モニカ』って呼ばれた……?」

 旦那様も、メイド長も、最初に部屋に入ってきたメイドも、誰もが御國のことを「モニカ」と呼んでいた。

(もしかして、私は『モニカ』っていう女性の中に入ってしまったの?)

 確かに、御國は階段から落ちて死んだはずだった。その時のことは、今でもよく思い出せる。
 頭から出血して血の気が失せていき、真っ暗になっていく視界。コンクリートにぶつけた痛みが続く間もなく、冷たくなっていく身体。何も聞こえなくなって、意識がブツリと切れたあの瞬間。
 自分が死んだ時を思い出して、御國は両肩を押さえて真っ青になるとぶるりと身震いをした。

(あの時、階段から落ちて死んだ以外に何かあったっけ……?)

 自分が死んだ時のことを思い出そうとすると、何故か頭がズキリと痛んだ。まるで、思い出してはいけない「何か」がそこにあるかのように――。

(今は自分が死んだ時は考えないようにしよう。それよりも、これからどうしたらいいか考えないと……!)

 御國がモニカの中にいるということは、もしかしたら、モニカは御國の中にいるのかもしれない。
 それよりも、階段から落ちたはずの御國の身体はどうなったのだろうか?
 あの時は死んだと思っていた。けれども、モニカの中に入った御國が生きているということは、もしかしてモニカが中に入った御國が生きている可能性も――。

(でも、誰かに相談しようにも、こんな話、信じてくれそうにないし……)

 いつ元の身体に戻れるかはわからないが、しばらくの間、御國はモニカとして生活しなければならないだろう。

「バレないようにしなければ……。モニカにならなければ……!」

 御國は決意を新たにしたのだった。
「昨日も来なかった……」

 ベッドの上で上半身を起こした御國がため息をつくと、部屋を掃除していたメイド――御國が初日に出会った赤茶色の髪のメイド。は、ビクッと肩を揺らしたのだった。
 メイドは御國の様子を恐る恐る確認すると、また掃除に戻ったのだった。

 御國がモニカとして生活を始めてから、今日で三日が経った。
 その間、ニコラの三時間おきの授乳――身体に障るからと昼間しかやっていないが。以外は、ほとんどベッドでの生活が続いていた。
 この三日間、授乳以外何もさせてもらえず、退屈ではあったが、その分、部屋に入って来るメイド達の会話を聞いていて、いくつかわかったことがあった。

 まず、御國と――モニカとニコラは親子で間違いないこと、ニコラの父親は御國が目覚めた最初の日に、様子を見に来た「旦那様」で間違っていないらしい。
 けれども、モニカと旦那様は、夫婦らしい親密な関係では無いようだった。
 その証拠に、最初の日以降、旦那様は一度も部屋にやって来なかった。
 ただ、メイド達の話からすると、毎日、屋敷には帰宅しているらしい。

 そして、モニカは一ヶ月程前に、屋敷内の階段から転落して、ずっと意識が戻らなかったこと――まるで、元の世界の御國と同じように。
 それなら御國が目覚めた時に、ニコラが寝ていたベビーベッドまで歩くのが困難だった訳も理解した。
 一か月も寝ている間に、筋力が衰えてしまったのだろう。
 モニカの意識が戻るまで、そして現在、夜間のニコラの世話は、旦那様が雇った乳母がニコラの面倒を見てくれていたとのことだった。

(ニコラの母親としては、目覚めるまでニコラを看てくれたという乳母さんにお礼を言うべきなんだろうし、元の身体に戻る為にはもっと情報を集めるべきなんだろうけども……)

 でも、と御國は先程から部屋を掃除してくれているメイドに視線を向ける。
 このメイドもそうだが、どうも「モニカ」はメイドたちを始めとする使用人たちに、恐れられている様子だった。
 誰もが「モニカ」とは目線を合わせてくれず、「モニカ」から話しかけようとすると距離をとろうとしたり、手が震えていたり、俯いたりしていた。
 もしかしたら、「モニカ」は使用人たちに恐れられる存在だったのかもしれない。
 それでも御國は元の身体に戻る為に、情報を得なければならない。

 何か話しかけるきっかけはないだろうか。と考えながら、メイドが掃除する姿を見守っていた時だった。
 メイドは鏡台の拭き掃除に夢中になっていたのか、肘が近くの花瓶に当たりそうになっていることに気付いていなかった。
 御國は音を立てないように、そっとベッドから出ると、メイドの肘がぶつかる前に、バレないように花瓶の位置をずらそうとした。

「あっ……」

 けれども、御國が花瓶に手が届く直前に、メイドの肘が花瓶に当たってしまった。
 御國は慌てて手を伸ばすと、花瓶を支えたのだった。

(危なかった……)

 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、視線を感じて振り返ると、そこには真っ青な顔になったメイドがいたのだった。

「も、申し訳ございません……! モニカ様の手を煩わせるなど……!」

 メイドは泣きそうな顔で、何度も頭を下げてきた。

「大丈夫です。それよりも花瓶の水が身体にかからなかったでしょうか?」

 御國は花瓶を元の位置に戻しながら確認すると、メイドは「大丈夫です!」と何度も頷いたのだった。

「それなら良かったです」

 せっかくだからと、御國は気になっていたことを尋ねたのだった。

「最近、旦那様をお見かけしてないんですが、お仕事が忙しいんですか? それとも、お身体に何か……?」

 御國の言葉に、メイドは何を言われたのかわからないという顔をしていたが、やがて慌てて首を振ったのだった。

「いえいえ! そこまで忙しい訳ではなさそうですが……。あの、旦那様にご用事でしょうか?」
「えっ!? いえ……。用事という程でもないんですが。ここ三日間、お姿をお見かけしていなかったので、心配で……」

 御國は何気なく尋ねただけだったが、メイドは訝しげな顔をしてしまったのだった。

(そんなに変な質問をしたかな……?)

 困らせてしまったかと、御國は「大したことじゃないからいいんです」と首を振った。

「ただ、私やニコラに会いに来れないくらい、お忙しいのかと心配になっただけですので。何でも無いならいいんです」
「はあ、そうですか……」

 メイドは納得していないようだったが、御國はそこで話を切るとベッドに戻ったのだった。

(やっぱり、仲悪いの? 私たち……)

 首を傾げたまま掃除を再開したメイドを見ながら、御國は不安になったのだった。
 その日の夜、ニコラの授乳を終えた頃、控え目なノックの音が部屋に響いた。

「はい?」
「私です。入ってもいいでしょうか?」
「はい。どうぞ」

 そっと扉が開くと、旦那様が入ってきたのだった。
 部屋着に着替えたのか、よくアイロンがかけられたパリッとした白いシャツと黒いズボンの姿だった。

「お帰りなさいませ。旦那様」

 御國がニコラを抱いたままベッドから出ようとすると、旦那様は一瞬、驚いた顔をした。
 そうして、「そのままで結構です」と片手を上げると、御國を制したのだった。

「私に用事があると伺いました。何か不足している物がありましたか? それとも、体調が悪化されましたか?」

 恐らく、昼間のメイドから話を聞いて来てくれたのだろう。
 端正な顔立ちに、心配そうな表情を浮かべていた。
 そうして、旦那様は御國に目線を合わせる為か、ベッド脇に椅子を持ってくると座ったのだった。

「わざわざ部屋まで来ていただいてすみません。でも、用事という訳では無いんです」
「それでは……。何か?」
「最近、お部屋に来ていただけないので、お仕事が忙しいのかと、心配になっただけでして……」

 首を傾げていた旦那様だったが、今度は目を丸くしたのだった。

「今は繁忙期では無いので、さほど忙しくはありませんが……?」
「そうですか。それなら良かったです」

「安心しました」と御國はゆっくりと微笑んだが、旦那様はますます不思議そうな顔をしたのだった。

「話はそれだけですか?」
「えっと……。そうですね」

 御國が引き留めようと口を開いた時、丁度、旦那様の視線が御國の腕の中に移った。
 その目線を辿ると、腕の中にはすやすやと眠るニコラがいたのだった。

「あの、旦那様!」
「はい?」
「もし、もし良かったら……ニコラを抱いてみませんか?」

 御國の言葉に、旦那様はアメシストの様な紫色の瞳で瞬きを繰り返すと、じっと御國を見つめてきた。
 そうして、椅子ごと御國に近いてきたのだった。

「私がニコラを抱いていいんですか?」
「抱いていいも何も……。旦那様はニコラの父親……ですよね? 抱いていいに決まっています!」

「さあ」と、御國はニコラを抱いた腕を、旦那様に向かって差し出す。
 けれども、旦那様は、「だが……」や「いや……」と言って、何やら迷っているようだった。

「旦那様……?」

 御國が首を傾げていると、やがて観念したのか、旦那様は剣を受け取るように、大切そうに両手でニコラを受け取ったのだった。

「首がまだ据わっていないので、腕で支えてあげて下さい。反対の腕で足を支えて」

 御國はベッドから出て旦那様の隣に来ると、ニコラを抱くのを手伝った。
 旦那様はおっかなびっくり抱いていたが、丁度良い位置を見つけたのか、やがて安定してニコラを抱いたのだった。