リュドヴィックは驚いたように、モニカと同じ色の瞳を見開くと、モニカの話にじっと耳を傾けているようだった。
「『モニカ』さんには、好きな人がいたんです。本当は国を離れたく無かった」
「モニカ」には想い人が居た。
それは「モニカ」にとって、極身近な人ーーリュドヴィックだった。
リュドヴィックは「モニカ」の想いに気づいていたのだろうかと様子を伺うが、リュドヴィックは狼狽えているようだった。
狼狽えるということは、「モニカ」の想いに気づいていなかったのだろうか。
「けれども、リュドヴィックさんが喜んでいるから伝えなかったんです。自分のことを拾って、大切に育ててくれたお兄ちゃんが喜んでいたから」
リュドヴィックにモニカとしての想いを伝えた後、改めて「モニカ」の過去を振り返ってみると、そこには常にリュドヴィックの姿があった。
頼りになる兄、優しい兄、厳しい兄、「モニカ」が「花嫁」としてレコウユスに行くと聞いて喜ぶ兄、「モニカ」の大好きな兄。
「モニカ」はそんな兄がーーリュドヴィックが好きだった。
「それなら、全て私が悪いのか。私が『モニカ』の幸せを願って、『花嫁』に加えてもらったから……」
落胆するリュドヴィックの言葉に、モニカは首を振る。
「いいえ。『モニカ』さんは決して嫌々『花嫁』して国を出た訳ではないんです。
自分とリュドヴィックさんの為に、自ら『花嫁』として国を出たんです」
「私の為? どうして……」
「これは私の想像ですが、『モニカ』さんもどこかで気づいていたんです。自分が居ると、リュドヴィックさんが幸せになれないって」
「どうして、『モニカ』は私が幸せになれないと思ったんだ?」
怪訝な顔をしたリュドヴィックに、モニカは微笑を浮かべる。
「以前、二人で話した時にも言いましたが、リュドヴィックさんは自分の幸せよりも、『モニカ』さんの幸せを優先しがちです。国を救った自分に与えられるはずだった褒美を『モニカ』さんに使ってしまったように……」
ヴィオーラの屋敷でリュドヴィックと話した時、モニカはリュドヴィックに「これからは幸せになって」と話した。
もしかしたら、「モニカ」も同じ気持ちだったのかもしれない。
そう思ったからこそ、想いを伝えないまま、この地に来たとしたらーー。
「これまで『モニカ』さんはずっとリュドヴィックさんを頼ってきました。リュドヴィックさんは優しくて、強いから……。
でも、このままリュドヴィックさんの側にい続けたら、いつまでもリュドヴィックさんを頼ってばかりで、リュドヴィックさんを『モニカ』に縛り付けてしまう。リュドヴィックさんには、リュドヴィックさんだけの人生があるのに……」
そっとモニカは目を伏せる。
「それに気づいた『モニカ』さんは、自分の成長と、リュドヴィックさんの為に、誰にも自分の想いを告げずに、自ら国を出たんです。きっと、最初こそは国にいる想い人を忘れられなくて、苦しんだと思います。でも、この国に来て、マキウス様と出会って……」
モニカは顔を曇らせるマキウスに向かって微笑んだ。
「マキウス様と出会って、マキウス様が優しくしてくれて、甲斐甲斐しく世話も焼いてくれて……だんだんと、マキウス様のことも好きになっていったんです。
そして、マキウス様とその想い人、両者を愛する気持ちに板挟みになって……。そうしている内に、『モニカ』はニコラを身籠りました」
経緯はどうあれ、マキウスとの子供が嬉しくないわけではなかった。
「モニカ」がニコラを大切に想っていたのは、「モニカ備忘録」を見るまでもなく、ニコラを見ればすぐにわかった。
モニカが目覚めるまで時間が空いてしまったとはいえ、ニコラには見る限り虐待や育児放棄をされている様子がなかった。
本当にマキウスとの子供が嫌ならば、ニコラを妊娠している間に、堕ろすことも出来ただろう。
中絶もせず、虐待や育児放棄をしなかった以上、少なくとも「モニカ」はニコラに愛情を感じていたと考えられる。
「この国では、出産は命懸けだと聞きました。それなのに、『モニカ』さんはマキウス様との子供を産みました。それは『モニカ』さんが、リュドヴィックさんから離れて、大切な想い人への想いを封じ込めて、マキウス様を選んだということだと思います」
自分はマキウス様と幸せになるから、大切なお兄ちゃんにも幸せになって欲しい。
きっと、そう考えて、「モニカ」はリュドヴィックへの想いを封じて、マキウスを選んだのだろう。
それとも、ニコラが産まれた頃には、リュドヴィックへの想いよりも、マキウスに対する想いの方が勝っていたのか。
モニカは「ここからは私の考えですが……」と、前置きをしてから続けた。
「『モニカ』さんは幸せだったと思います。想い人とは結ばれなかったけれど、リュドヴィックさんからも、マキウス様からも、大切に想ってもらえて。……だから、不安にならないで下さい」
リュドヴィックは上を向くと、「そうか……」とだけ呟いた。
三人が心配そうに見つめる中、リュドヴィックは正面に顔を戻すと、モニカを見つめたのだった。
「ありがとう。教えてくれて」
「いえ……。リュドヴィックさんのお役に立てたのなら良かったです」
そうして、モニカは呟いたのだった。
「『モニカ』さんが羨ましいです。こんなに、素敵なお兄ちゃんがいて……」
モニカにはーー御國には、兄や姉がいなかった。
こうして、どんなに離れていても、妹を大切に想う兄がいる「モニカ」が羨ましかった。
「……貴女にも兄がいるだろう」
「えっ!?」
驚くモニカを前に、リュドヴィックは自らの掌を胸に当てる。
「私がいる。例え、貴女が私の知っている『モニカ』じゃなくても、貴女も私にとって大切な妹だ」
「それは……」
モニカが戸惑っていると、リュドヴィックは「モニカ」に向けていたのと同じ笑みを浮かべた。
「私は貴女の言葉に救われた。……嬉しかったんだ。今も、この間も」
リュドヴィックの言葉に、モニカは瞬きを繰り返す。
「……本当に?」
「ああ、本当だとも。こんな私で良ければ、貴女の兄になりたい。私も貴女の力になりたいんだ。……駄目だろうか?」
リュドヴィックに訊ねられて、モニカは首を大きく振った。
「モニカ」じゃないと知られた時、リュドヴィックに落胆されて、詰られるだろうと思っていた。
そんな覚悟をしていた分、リュドヴィックの言葉に胸が温かくなった。
「そんなことない……。そんなことないよ! 嬉しい……! ありがとう! お兄ちゃん!」
目尻に涙を溜めて、泣き笑い顔を返すと、リュドヴィックは満足そうに笑い返してきたのだった。
「そうですね……。私も貴女の力になりたいです」
それまで、黙って事の成り行きを見守っていたヴィオーラが不意に口を開いた。
「お姉様……!」
「私も貴女に感謝しています。貴女が私とマキウスが話す機会を設けてくれたので、私たち姉弟の仲は修復されたのです」
ヴィオーラがマキウスに視線を移す。
つられてモニカもマキウスを見ると、そっと頷いたのだった。
「それに、今度は私が話さねばなりません」
「姉上、それは一体……?」
三人から注目を集める中、ヴィオーラは声を潜めながら慎重に話し出した。
「これは、王族と一部の侯爵家にしか、伝わっていない話です。……これから話すことは、他言無用でお願いします」
真顔になったヴィオーラに、モニカだけではなく、マキウスとリュドヴィックも神妙な表情になったようだった。
三人が頷くと、ヴィオーラは声を潜めると、慎重に口を開いたのだった。
「マキウス、そして、モニカさん」
そうして、ヴィオーラはすうっと息を吸うと、破顔したのだった。
「『天使』は、貴方たちの元にやって来たのですね!」
「ヴィオーラ殿、『天使』とは……?」
リュドヴィックが訊ねると、ヴィオーラは「マキウスとモニカさんはご存知かと思いますが」と、言い置いた。
「この国は、大天使様によって出来ました。ユマン族人の大天使様が持っていた技術と知識によって」
「はい。確か、騎士団の壁画に描かれていましたよね?」
モニカがマキウスと婚姻届を騎士団に提出しに行った際に、モニカは騎士団の詰め所である城の壁に描かれたこの国の創世について、ヴィオーラに教えてもらった。
この国、レコウユスは、天から現れた一人のユマン族人である大天使によって作られた。
大天使が持ってきた不思議な技術と知識によって。
「その大天使様は、モニカさんと同じように、異なる世界からやってきたユマン族だと言われています」
「えっ……!? そうなんですか!?」
モニカは口を開けた。
マキウスも知らなかったようで、アメシストの様な目を見開いたまま固まっていたのだった。
「ええ。大天使様も、元の世界で死んだ後に、とあるユマン族人の身体に宿ったと言われています」
大天使が居た世界では、国同士の争いが勃発していた。
絶え間なく戦火の炎は上がり、大天使もその被害を受けた。
そうして、空から「カガクヘイキ」なるものを落とされた後、大天使が目を覚ますと、この世界に居たと言われている。
「大天使様は放浪の末に、この国の原型であるカーネ国に辿り着きました。そうして、空に国を作ろうとしている我らが祖先に力を貸して下さったのです」
大天使はカーネ族から話を聞くと、自らも協力を名乗り出た。
国の設計図に手を加え、道具や人材などの建国に必要な材料を集めた。
けれども、国を浮かべるには、燃料が足りない。
そこで目をつけたのが、カーネ族が持つ魔力であった。
「当時のカーネ族は、誰もが高い魔力を持っていました。それを集めれば、不足している国の浮遊力になると考えたのです」
大天使はカーネ族を説得した。
全てのカーネ族が納得した訳ではなかった。当然、納得しなかった者たちも当然いたが、そういう者たちは国を去って行ったらしい。
そして、大天使は賛同した者たちの魔力を一つに集めた。
それは一つの大きな炎となって、浮遊力となり、国を浮かばせたのだった。
「私たちの魔力が生まれつき少ないのは、この時にご先祖様たちが、ほとんど使い切ってしまったからだと言われています。中には魔力を使い過ぎて、死んだ者もいるそうです……。
とにかく、この国が完成した私たちのご先祖様は移住を開始しました。けれども、その中に大天使様の姿は無かったそうです」
全てを終えた大天使の行方は、誰も分からなかったらしい。
カーネ国に残ったとも、カーネ国から出国して旅に出たとも、力を使い果たして天に還ったとも、魔力に強く当たり過ぎて死した後にカーネ族に生まれ変わったとも、言われている。
「それでも、私たちは大天使様を忘れてはいけない。この国は大天使様の助力があって完成したのだからと……。
そんな意味も込めて、ご先祖様たちは大天使様の像を建てました。国の原動力でもある、魔力の炎を守る核としての役割も含めて」
国の浮遊力の元でもある魔力の炎を剥き出しのままにしておくのも、今後悪用され、悪戯される可能性があるということで、何かで守る必要があった。そこで当時のカーネ族たちが考えたのが、耐熱性のある素材で作った像を作り、その中で魔力の炎を守り、管理することだった。
国の中心となる炎を守護する像を作るなら、国の象徴となるような形にしたいと考えた結果、いつまでも国の礎となった存在を忘れないようにという意味を込めて、像の形は大天使に決まった。
そうして大天使を模した像を作り、その中で魔力の炎を管理することにしたのだった
「そうだったんですね……」
「今ではすっかり風化しましたが、大天使様の像が出来たばかりの頃は、ご尊顔もはっきり彫られていたそうです。……悠久の時の中で、大天使様のご尊顔の記録が失われてしまい、今では修復出来ず、そのままとなっていますが……」
ヴィオーラは紅茶少し飲んでひと息つくと、紅茶に大量のミルクを注ぎながら「話はこれで終わりではありません」と続けたのだった。
「それから数百年後。このレコウユスとガランツスが同盟の証として、『花嫁』を迎えた際、不思議なことが起こるようになりました」
「不思議なことですか?」
姉と同じく紅茶を一口飲んだマキウスが、大量の砂糖を入れながら首を傾げると、ヴィオーラは頷いたのだった。
「迎え入れた『花嫁』の中に、異なる世界から来た者が混ざるようになったのです。それも、何故か必ず王族に近い血筋が選んだ『花嫁』の中に……」
「王族に近い血筋ですか……」
モニカの呟きに、ヴィオーラはそっと頷く。
「そうです。何も『花嫁』を迎え入れるのは、王族や侯爵家だけではありません。他の貴族も迎え入れますし、商家が迎え入れたこともあります。それなのに、何故か異なる世界から来た者は、貴族や王族や王族の血を引く侯爵家が選んだ『花嫁』の中にだけ現れるのです」
「でも、私を迎え入れて下さったマキウス様は王族でも侯爵でもなく男爵ですよね。どうして……」
「失礼ですが、モニカ……」
隣から咳払いと共に低い声が聞こえてくる。
モニカが振り返ると、そこには言いづらそうに唇を歪めたマキウスの端正な顔があったのだった。
「今でこそ、私はハージェント男爵を名乗っていますが、元はブーゲンビリア侯爵家の人間です」
「あ……」
身分制度にあまり馴染みのないモニカは忘れていたが、元々、マキウスはブーゲンビリア侯爵家の人間であり、母親が亡くなった後、母親の生家であるハージェント男爵家に引き取られ、そこで男爵家の家督を継いだと話していた。
小さく口を開けて顔を真っ赤にしたモニカに、マキウスだけではなく、ヴィオーラとリュドヴィックも苦笑したのだった。
「す、すみません。忘れていて……」
「良かったですね、マキウス。これで貴方は紛れもなく、お父様の血を引く侯爵家の人間だと証明されましたよ」
「……せっかくなら、もう少し違う形で証明されたかったですね」
ヴィオーラの軽口を受け流したマキウスと目が合うと、マキウスは呆れたように小さく息を吐いていた。
「モニカはもう少し身分制度について知った方がいいですね。これから社交界のシーズンになれば、私のパートナーとして、貴族や王族が主催するパーティーに同伴する機会も増えるでしょう。特に貴女は『花嫁』なので、気になっている者も多いかと」
「私も社交界に行くんですか……!? 社交界ってあれですよね? 煌びやかなシャンデリアの下で、動きづらいドレスを着てダンスを踊ったり、見知らぬ貴族と会話をして腹の中を探り合ったり、刺客に命を狙われたり、毒を盛られたり、殺人事件が起きたり、酔っ払った人にセクハラをされそうになる、あの……」
「ダンスと腹の探り合いは否定しませんが、後半は否定します。貴女をそのような危険な目には合わせません」
「そうだぞ。私たちが守るから安心するんだ」
「可愛い義妹を危険な目には合わせません。私も騎士として、貴女を守ります。これでも腕には自信があるんですよ」
「あ、ありがとうございます……。マキウス様も、お兄ちゃんも、お姉様も」
マキウスだけではなく、リュドヴィックとヴィオーラにも言われて、モニカは胸を撫で下ろしたのだった。
「モニカさん。ダンスや礼儀作法はどうですか? 出来ますか?」
「ダンスは中学校が最後で、礼儀作法は育児の合間にペルラさんに教わっていますが、どちらも自信が無くて……」
「それなら、ダンスの講師も、礼儀作法の講師も、うちで手配しましょう。どちらも腕利きの者を知っているので」
「いいんですか!?」
モニカが顔を輝かせると、ヴィオーラは笑顔で頷いた。
「勿論です。大切な義妹に恥をかかせる訳にはいきません」
「ありがとうございます! お姉様!」
歓喜のあまり、ヴィオーラに抱きつきたい衝動に駆られていると、傍らのマキウスが不機嫌そうに咳払いをしたのだった。
「姉上。モニカを取らないで下さい。モニカは私の妻。大切な伴侶です」
「取るだなんて……私は可愛い義妹の力になれればと思って、言っているだけですよ」
「それもどうだか……。騎士団でも数多くの女性騎士を惚れさせているともっぱらの噂です。少しは婚期を逃している騎士たちの気持ちも考えて下さい」
「惚れさせているのではなく、ただ優しく接しているだけです。勿論、時には厳しく接しますが、その分、優しくする時は徹底的に優しくします」
つまり、飴と鞭を使い分けているということだろうか。厳しく接しているヴィオーラが想像出来ないが、騎士としてのヴィオーラは、やはり義姉としてのヴィオーラとは、別の顔を持っているのだろう。
そんな義姉の顔を知っているのか、小さく溜め息を吐いたマキウスだったが、すぐにいつもの顔に戻る。
「話を戻しましょう。『花嫁』の中に異なる世界から来た者が混ざっているという話でしたね」
「そうです。今回、迎え入れた『花嫁』の中には、それらしき者がいると噂になっていなかったので、今回はいないと思っていました。ですが、どうやら違ったようですね。一人、居たわけですから」
「ヴィオーラ殿。それは、もしや……」
「私?」
モニカが自らの顔を指差していると、リュドヴィックとマキウスは揃って見つめてきたのだった。
ヴィオーラによると、『花嫁』の中に、毎回必ず入っている訳では無いらしい。
ただ、その異なる世界からやって来た者は、必ず国から選ばれた「花嫁」と同じ姿形をしているとされていた。
どの基準で、どういった理由で、現れるのかはわかっていなかった。
人数も決まっている訳ではなく、一人の時もあれば、数人の時もあった。
そんな不規則にも見える「花嫁」だが、判明しているところもある。
まず、「花嫁」に選ばれた前後に、瀕死の重症、または死亡した「花嫁」の姿であること。
同時期に同じ姿の「花嫁」が、二人同時に現れるということはないらしい。
その「花嫁」も、王族か又は王族の血筋を引く者ーー侯爵家が選んだ「花嫁」の元にしか現れないと言われていた。
今のところ、公爵や伯爵以下の家に嫁いだ「花嫁」の元に現れたことは、これまで無いらしい。
「大天使様の様に、異なる世界からやって来た者たちのことを、私たちは大天使様の使いである神使という意味も込めて、密かに『天使』と呼んで保護してきました。
『天使』を迎えた家には、至上の幸運と巨万の富がもたらされると言われているからです」
他には無い知識や技術、思想などを持っている「天使」は、国の宝でもあった。
決して、悪用されてはならない、奪われるようなこともあってはならなかった。
それもあって、王族や過去に「天使」を迎え入れたことのある侯爵家は、「天使」の存在を大々的に広めるようなことはせず、密かに保護してきたのだった。
「保護って、じゃあ、私はマキウス様と離ればなれになるんですか……?」
「モニカは誰にも渡しません。例え、姉上であっても」
マキウスが二人から庇うように、モニカを抱きしめた時、ヴィオーラは「落ち着きなさい」と呆れたように止めたのだった。
「誰も、二人を引き離すとは言っていません。ただ、いざという時に備えて、こちらで把握しておきたいのです。国の存亡の危機に瀕した時や、モニカさんが事件や事故など、命の危険に巻き込まれた際にすぐ助けられるように」
「そこまで、『天使』は重宝される存在なんですか……? お姉様……」
「今、この国にはモニカさん以外の『天使』がいないんです。もし『天使』に関して何かあれば、モニカさんが真っ先に危険に晒されるかもしれません」
「ヴィオーラ殿。これまでこの国に現れた『天使』はどうなりましたか?」
「……全員、大天使様の御許に逝かれました。要は、亡くなったんです。モニカさんの前の『天使』は、今から十二年前に亡くなりました」
「……『天使』でも、やはり儚くなるんですね」
「『天使』と言っても、私たちと同じヒトであることに変わりはありません」
暗い表情になった姉弟に、モニカは頷いたのだった。
「分かりました。私自身も、悪用されないように気をつけます。
あの、どうして、お姉様はこのお話をご存知なんですか? やはり、侯爵家だからですか?」
首を傾げたモニカが訊ねると、ヴィオーラは頷いたのだった。
「それもありますが……。我がブーゲンビリア家は過去に一度、『天使』を迎え入れたことがあります」
「そうなんですか!?」
「迎え入れたと言っても、ブーゲンビリア侯爵家にやって来た訳ではなく、当家と深い関係があった侯爵家が迎え入れたのです」
モニカとリュドヴィックは驚いたが、それよりも驚いたのは眉間に皺を寄せたマキウスであった。
「そんな話、私は知りませんよ。姉上……」
「そうですね。私も知ったのは、母が死んだ直後です。母が管理していた父の遺品を整理していたところ、『天使』に関する記録を見つけました」
本来であれば、「天使」の情報は、親から子へと内密に伝えられるらしい。
けれども、姉弟の父親は二人が子供の頃に若くして急死したので、それを伝えられなかったのではないかと、ヴィオーラは考えたらしい。
「それに、マキウス。貴方は会ったことはありませんが、私は我が家が迎え入れた『天使』に会ったことがあります」
「それは……」
「大叔母様です。お祖父様の弟である大叔父様が迎え入れた『花嫁』です」
「お祖父様の弟ーー確か、オルタンシア侯爵家に養子に出された?」
「そうですね。今はもうありませんが……。オルタンシア侯爵家の最後の当主こそが、我が家が迎え入れた『天使』でした」
モニカとリュドヴィックが話についていけず、困惑して顔を見合わせていると、ヴィオーラが説明してくれたのだった。
姉弟の曽祖父の弟である大叔父は、「花嫁」を娶ったことを機に、ブーゲンビリア侯爵家と懇意であったオルタンシア侯爵家に養子に入った。
オルタンシア侯爵家には跡継ぎがおらず、また大叔父自身も、次男である以上、このままブーゲンビリア侯爵家にいても家督を継げる可能性が無かった。
そんな時、大叔父は跡継ぎがいなかったオルタンシア侯爵家から養子の話を打診された。大叔父はオルタンシア侯爵家に養子に入り、そこで「花嫁」を迎え入れた。
その「花嫁」こそが、「天使」だった。
「大叔父様は私が生まれる前に他界されましたが、『天使』であった大叔母様はまだ生きていました。
マキウスが男爵家に戻されてすぐ、私は一度だけ大叔母様にお会いしたことがあります」
「どんな方だったんですか?」
「とても不思議な雰囲気を持った人でした。まるで、澄んだ湖のように静かで、穏やかで、けれども芯の強さも感じました。
当時は大叔母様が『天使』だと知らなかったので、そういう人柄だと思っていましたが、思い返せば、『天使』だったからこそ、そういう人柄だったのかもしれません」
ヴィオーラは紅茶に口をつけると、思い出すように話し出す。
「大叔母様と会った頃、私はずっと塞ぎ込んでいました。お父様は亡くなり、大切な弟は、弟を嫌うお母様によって、地方にあるハージェント家に連れて行かれました」
「姉上、それは……」
口を開いたマキウスを遮るように、ヴィオーラは片手を挙げた。
「大切な弟……大好きな私の弟。お母様を亡くされたばかりで悲しいはずの弟。それなのに、私は屋敷の中から、地方のハージェント男爵家に向かう馬車に乗り込む弟の背を見ていることしか出来なかった。両親を亡くした弟を守れるのは、私しかいなかったのに……。それをずっと後悔していました」
その時を思い出したのか、俯いたヴィオーラは悲痛な顔をしていた。
「ずっと部屋で塞ぎ込んでいた私を心配したペルラが、ある日、お母様の目を盗んで、こっそりオルタンシア侯爵家に連れて行ってくれました」
「こっそり、ですか……?」
マキウスの言葉に、ヴィオーラは頷いた。
「お母様は、大叔母様が行っていた活動が気に入らなかったんです。
オルタンシア侯爵家の『花嫁』である大叔母様は、屋敷で私塾を開いていたので」
「私塾というのは、学校……学び舎ですか? 私も元の世界で学校に通いましたが……」
「そこまで立派なものではなかったと思います。身分や性別に関係なく、ただ学びたい意思があれば、誰でもふらりと屋敷にやって来て、読み書きや計算など、どんなことでも勉強が出来る場所として、屋敷を解放していました。そこにペルラは私を連れて行ってくれたのです」
視線を天井に向けたヴィオーラは、当時を思い出すかのように話を続ける。
「私塾に足を踏み入れるまで、私は自分が恵まれた環境にいることに気づいていませんでした。同じ国、同じ王都に住む民でも、等しく学びの場を与えられない者がいることに。同じヒトでも、身分が違うというだけで、環境が全く違うということに衝撃を受けたのです」
それまで、ヴィオーラの周りには、弟のマキウスと、乳姉妹のアマンテとアガタ、そして両親と、自分たちに仕える使用人たちしかいなかった。
屋敷という、綺麗で、安全で、決して飢えることのない、ブーゲンビリアという小さな箱庭の中しか知らなかったヴィオーラにとって、身分や性別の垣根を越えて机を並べ、遠慮なく意見を言い合い、勉強を教え合う環境は、新しい世界と可能性を教えてくれたらしい。
「その時に、私は大叔母様と話して、そして決意しました。次こそは、必ず弟をーー大切な存在を守り抜こうと。その日から、私は女ではなく、お父様の様な騎士として生きていくことを決めたのです」
「お姉様……」
ヴィオーラにそんな過去があったとは知らなかった。
どうやら、マキウスも知らなかったようで、モニカやリュドヴィックと同じように、言葉を失っているようだった。
「屋敷に帰るなり、私はドレスを脱いで、剣を握りました。そんな私をお母様は訝しみ……やがて、大叔母様のところに行ったことが知られてしまい、酷く怒られました。でも、後悔はしていません。騎士にならなければ、こうしてマキウスと再会することは叶わなかったのですから」
ヴィオーラに笑みを向けられたからか、マキウスは照れたように視線を逸らしていた。
「その後、大叔母様とは二度と会わないことを約束させられたので、一度も会えないまま、大叔母様は十二年前に他界されました。会えたのは、この時のただ一度だけ。それでも、今でも鮮明に覚えています」
「最後の当主だったということは、もしやオルタンシア侯爵家は……」
「今は途絶えてしまいました。大叔父様と大叔母様の間には子供はおらず、他に親類もいなかったので……大叔母様亡き後、オルタンシア侯爵家は断絶してしまったんです」
そこまで話すと、「モニカさん」とヴィオーラが声を掛けてきた。
「モニカさんを見ていると、誰かに似ていると思っていました。でも、今ならわかります。モニカさんは大叔母様によく似ているのです。神秘的な雰囲気やどこか犯しがたい、芯の強さ、強い意志を持ったその姿……。本当に大叔母様にそっくりです!」
ヴィオーラはモニカに向かって、微笑んだのだった。
「そ……。そうですか? どちらかと言えば、お姉様の方が、その言葉が似合うと思います」
「私などまだまだです。まだ大叔母様には遠く及びません」
そう言って、ヴィオーラは首を振った。
「今回、こうして改めて大叔母様について話して気づいたことがあります。私が貧民街の改革に着手する理由。それは、この大叔母様の私塾が関係しているような気がします」
ヴィオーラはそっと息をつくと、目を伏せた。
「……いつか大叔母様が開いていた私塾のように、身分に関係なく学びの機会を与えられて、意見を言い合える日が来ればいいのですが……」
「姉上、身分に関係なくというのは、さすがに難しいのでは……? 国の身分制度を根本的に変える必要があります……」
「いつかの話です。せめて、私も大叔母様のように私塾を開けるくらいの力を持っていれば良かったのですが……」
「お姉様」
モニカの呼び掛けに、ヴィオーラは端麗な顔を上げる。
「お姉様なら、いつか出来ると思います。その時は私も手伝わせて下さい!」
「ありがとうございます、モニカさん。その時はぜひお願いします」
小さく息をついたマキウスを振り返ると、仕方がないというように肩を落とした後に小さく微笑んだ。
「妻が手伝うなら、私も手伝いますよ」
「私も力が及ぶかはわからないが、手伝わせて下さい」
「まあ! ありがとうございます。リュド様。リュド様にもお力添えを頂けるのなら心強いです」
「姉上、私は……?」
「マキウスは当然手伝うのです」
不服そうな顔をしたマキウスに三人が笑うと、ヴィオーラはそっと立ち上がったのだった。
「さて、モニカさんについてわかったところで、私たちはお暇しましょう」
「えっ!? せっかくなので、夕食もご一緒しませんか?」
モニカの提案を、二人は丁重に断った。
「あまり長居してもご迷惑でしょう。夫婦の時間を邪魔したら」
「そんなこと無いです。ねぇ、マキウス様?」
モニカの言葉に、マキウスも頷いたが、ヴィオーラは苦笑しただけであった。
「ありがとうございます。でも、それはまた別の機会にお邪魔しますね」
ヴィオーラは立ち上がると、さっと扉に向かって行った。
すると、リュドヴィックは「ヴィオーラ殿」と、声を掛けたのだった。
「私はマキウス殿と、少し話をしてから戻ります」
振り振り返ったヴィオーラは、「わかりました」と、答えると部屋から出て行ったのだった。
「あっ! 待って下さい! お姉様! お見送りさせて下さい!」
ヴィオーラを追いかける様に、モニカもマキウスとリュドヴィックを置いて、部屋を出たのだった。