【改稿版】ハージェント家の天使

「モニ……」
「マキウス様!」

 その日の夜遅く、マキウスが寝室に入ってくるなり、モニカは夫の身体に飛びついたのだった。

「待っていました! さあ、こちらへ!」
「今日はいつになく積極的ですね……」

 マキウスの腕をグイグイ引っ張ると、ソファーに連れて行った。
 二人並んで座ると、早速、マキウスは口を開いたのだった。

「仕事から帰宅した際に、使用人から『話があるので、いつもより早めに寝室に来て欲しい』という伝言を預かりました。
 それで、いつもより早く寝支度を済ませて来ましたが……何かありましたか?」

 本来なら、晩餐の時に聞いても良かったが、今夜のマキウスはいつもより遅い帰宅であった。
 マキウスが帰宅した時には、既にモニカは晩餐を済ませて、アマンテにニコラを預けて沐浴をしていた。それもあって、マキウスが帰宅したら寝室に来て欲しいという伝言を使用人にお願いしていたのだった。

「お兄ちゃんから手紙が届いたんです! 明日、遊びに来たいって!」

 モニカはテーブルに置いていた封が開いた手紙を、マキウスに渡した。

「私も読んでいいんですか?」

 モニカが頷くと、手紙を受け取ったマキウスはざっと目を通している様だった。
 要約すると、手紙には、ヴィオーラの元での生活が落ち着いたので、モニカとゆっくり話したいことや、生まれたと聞いてから一度も会っていないリュドヴィックから見たら姪に当たるニコラに会ってみたい、といったことが書かれていたのだった。

「なるほど……。私は仕事でいませんが、私や使用人たちに気兼ねせずに、兄妹水入らず、有意義な時間を過ごして下さい」
「それはそうなんですが……。けれども、どうしましょう!?」

 マキウスは瞬きを繰り返した。

「どうとは、一体……?」
「私はお兄ちゃんが知っている『モニカ』ではありません! だから、お兄ちゃんのことを何も知らないのに、何をしたらいいのか……」

 モニカは困惑していた。
 貧民街で会った時は、何とか「モニカ備忘録」からリュドヴィックを見つけられた。
 それでも、リュドヴィックがどういう人物なのか、またリュドヴィックが知っている「モニカ」までは見つけられなかった。
 今のモニカにとって、リュドヴィックは兄ではなく、ただの初対面の男性でしかなかったのだった。

「それは……。そうでしたね」
「明日、リュドさんと会っても、どうしたらいいかわからないんです……。それで、マキウス様が知っているリュドさんの情報を、私に教えて下さい!」
「と、言いましても……」

 マキウスは腕を組むと、考え込んでいるようだった。

「私も『モニカ』とリュド殿についてはよく知りません。二人は共に孤児であり、血の繋がりのない兄妹というくらいしか……」
「そんなぁ……」

 モニカが肩を落としていると、マキウスは「ですが」と続ける。

「私が知っているのは、モニカを迎え入れた際に、国から教えてもらった情報だけです。それでも良ければ、お教えしますよ」

 そうして、マキウスは話し出したのだった。
 マキウスたちは「花嫁」を迎え入れる際に、国からその「花嫁」に関する生い立ちや情報を教えてもらえる。
 そこで教えられた情報によると、親を失って孤児だった幼いモニカは、同じく孤児だったリュドヴィックに拾われたらしい。

 リュドヴィックは子供の頃に大きな火事に遭って両親を失った。リュドヴィック自身もその火事で大怪我を負ったが、助けてくれた人たちが近くの診療所に運んでくれたことで、どうにか助かったそうだ。
 ただ、家を焼け出され、天涯孤独となったリュドヴィックには治療費を支払うことが出来なかった。
 そこで、診療所を手伝うことで、治療費を支払っていたリュドヴィックは、ある時、診療所に来ていた常連の老騎士に、騎士としての才能を見込まれたらしい。

 老騎士の跡を継いで騎士になることを条件に、治療費を全額老騎士に肩代わりしてもらったリュドヴィックは、老騎士の元で修行に励んでいた。
 そんな中、リュドヴィックがお使いに出たある日、たまたま道端に蹲っていた幼い少女を見つけた。
 それが、モニカだったらしい。

「本当に『モニカ』とお兄ちゃんは兄妹じゃないんですよね? 二人は見た目がそっくりなので、なんだか信じられなくて……」

 初めてリュドヴィックを見た時、モニカと同じ金髪と海の様な青い目が非常に似ていた。
 一度思ってしまうと、今度は顔立ちまで似ているような気がしてきて、本当は血の繋がった実の兄妹ではないかと、だんだん疑わしく思えてきたところだった。

「私も義兄妹と聞いていたので、実際にリュド殿に会った時は驚きました。姉上も同じ感想を抱いたそうです」

 後日、騎士団で顔を合わせた姉弟も、モニカとリュドヴィックが似ていることについて話題になったらしい。
 モニカだけでなく、マキウスたちも似ていると思ったのなら、やはり気のせいではないのだろう。

「『モニカ』を拾ったお兄ちゃんは、その後、どうしたんですか?」
「リュド殿を引き取った老騎士の元に連れ帰ったようですね。もしかしたら、リュド殿自身も、自分とそっくりな『モニカ』を放って置けなかったのかもしれません」

 リュドヴィックはモニカを老騎士の元に連れて行くと、一緒に暮らせないか頼んだ。
 老騎士自身も血の繋がりが無いながらも、見た目がよく似た二人を気に入って、引き取って育てることにしたそうらしい。

 やがて、リュドは老騎士の跡を継いで、ガランツスの騎士団で、一、二を争う騎士となり、モニカは歳をとって、すっかり身体の自由が利かなくなった老騎士の世話をしていた。
 そうして三人で細々と生活していたらしい。
 ある時、ガランツスとレコウユス、両国の平和を脅かす事件が起こった。
 ガランツスからレコウユスに密入国した犯罪者集団が、当時、レコウユスで問題視されていた犯罪者集団と手を組んで、一大犯罪者組織となったのだった。

 当時は今と違い、出国に関しては両国共に検査を行っていなかった。
 その為、荷物に紛れて国を出たガランツスの犯罪者が国外に多く存在していたのだった。
 そんな彼らを放置していた結果、犯罪者組織同士が手を組み始めて、巨大な犯罪者組織となったらしい。

 彼らはガランツスと他国との国境付近にあった廃村を根城にして、誘拐してきたカーネ族や違法魔法石の売買を行っていた。レコウユスから出国された荷物を受け取るガランツス側の者も犯罪者組織の関係者であり、騎士団が摘発した時には既にかなりの人数のカーネ族、相当数の違法魔法石が犯罪者組織に流れていたらしい。人身売買に遭ったカーネ族たちの行方は今でもガランツス側の騎士団が追っているとの事だった。

 そんな彼らを討伐する為に、両国は腕に自信のある騎士たちを集めた。
 その中で、ガランツス側から選ばれた騎士の一人がリュドヴィックであった。
 またレコウユス側からは、後方に控える補給部隊の担当として、当時まだ一騎士だったヴィオーラが選ばれたとの事だった。

 マキウスから話を聞いたモニカは、「あっ」と気づいたのだった。

「それじゃあ、もしかしてお姉様とお兄ちゃんは知り合いの可能性があるんですね!」

 リュドヴィックをブーゲンビリア侯爵家に連れて行った時、二人は互いに驚いた顔をしていた。
 あれは思わぬところで、顔見知りに会ったからの反応だったのだろうか。

「それは何とも言えませんが……。姉上がこの討伐に選ばれた際、私はまだ地方の騎士団で騎士見習いをしていたので……。この討伐に関する話も、モニカを迎え入れた際に、初めて聞いたくらいです」

 両国から集められた騎士たちは手を組んで、犯罪組織を壊滅させた。
 その際に、一番の手柄を上げたのが、犯罪者組織の首領を討ち取ったリュドヴィックであった。

 両国の危機を救ったリュドヴィックは、英雄として両国から称えられた。
 その時の功績を称え、両国の国王は褒美として、リュドヴィックの望みを叶えることにした。

 そこでリュドヴィックが望んだのか、「妹のモニカの幸せ」であった。

 リュドヴィックによると、たまたまリュドヴィックが討伐に出ていた時に、リュドヴィックたちを引き取って育ててくれた老騎士が亡くなったらしい。
 特に付きっきりで老騎士の世話をしていたモニカが酷く落ち込んでしまい、食事も取らず、ずっと塞ぎ込んでいたからとのことだった。

 これまで老騎士やリュドヴィックを支えてくれた大切な妹。
 これからは、幸せになって欲しい。

 その願いを込めて、リュドヴィックは国王たちに望みを伝えらしい。
 その結果、リュドヴィックに与えられた褒美が、栄誉なるレコウユスへの「花嫁」に、モニカを加えることであったーー。

 リュドヴィックについて一通り説明してくれたマキウスは、そっと息をついたようだった。

「この討伐で、姉上は騎士としての功績を称えられて、女性初の士官となりました」
「この時のお姉様は、まだ士官じゃなかったんですね」
「ええ。この時の姉上は、まだ士官ではなく騎士団の一騎士でした」

 この時のヴィオーラを始めとする女性騎士たちの主な任務は後方支援で、前線で戦う騎士たちの物資の調達や怪我人の手当てを担当していたらしい。

「ですが、犯罪組織に隙を突かれ、前線で戦っていた騎士たちの一部が大打撃を受けて、陣形が乱れました。幸いにして死者はいませんでしたが、陣形が崩れたことで、騎士たちは散り散りになったそうです。彼らが手当てを受けている間、代わりに指揮を執って前線で戦ったのが姉上です」
「お姉様……! カッコイイですね! 尊敬します……!」

 モニカが感嘆の息をついたからだろうか。マキウスは眉根を寄せると、「私も指揮を執って戦えます」とムッと口を尖らせたのだった。
「また、リュド殿はこの戦いまでは、ガランツスの騎士団に所属していたそうです。貧民街で会った時に、リュド殿が持っていた盾を覚えていますか?」
「はい。何か鳥らしき絵が描いてあったような……?」

 貧民街でリュドヴィックに助けられた時、モニカを庇ってくれた盾には、翼を広げた何かの鳥が彫られていた。

「あそこに描かれていたのは、ガランツスの騎士団の紋章です。この国では、(ファルコ)と呼ばれている鳥です。ガランツスでは、フォーコンと呼ばれていたと思います」
「ファルコって鷹でしたっけ……?ということは、フォーコンも……?」

 首を傾げていると、「明日にでも書斎の図鑑を読んで下さい」と、マキウスは苦笑したのだった。

「ちなみに、私や姉上が所属するレコウユスの騎士団の紋章には、(ルーポ)が描かれています。
『強き者であれ。されど知恵と友愛を忘れるべからず』という意味らしいです」
「ルーポ……?」
「それも、図鑑を読んで下さい。動物図鑑は眺めるだけでも楽しいものです。子供の頃、病弱で寝たきりだった母上に付き添いながら、私もよく読んでいました」
「そうなんですね……。私も読んでみます!」

 無知なことを咎められるかと思いきや、図鑑を勧められて、嬉しいやら、恥ずかしいやら、何とも言えない気持ちになる。
 
「リュド殿はモニカをこの国に送り届けた後、騎士団を抜けて世界を旅していたそうです。自らの見物を広げ、腕を磨く為に。時には、レコウユスとガランツスを繋ぐ騎士としての役割も、果たしていたと」

 階段から落ちて意識不明になる前のモニカは、頻繁にリュドヴィックに手紙を書いていたらしい。
 だが、モニカが書いた手紙の内容までは、誰も知らず、またリュドヴィックからの手紙の返信も一度もなかったらしい。

「使用人の記憶では、モニカが最後に手紙を出したのは、階段から落ちる前日でした。それ以降は、送っていないかと……」

 伺う様に見つめられたので、モニカは頷く。

「私もお兄ちゃんがこの国に来なければ、『モニカ』にお兄ちゃんがいたことを知りませんでした」

 今のモニカは、「モニカ」に兄がいたことを知らなかった。
 これまで、忙しかったことを理由に、「モニカ」について考えていなかった。
 御國に兄妹や友人や大切な思い出があるように、「モニカ」にだってあるはずなのに。
「それなら、お兄ちゃんはどこで『モニカ』が階段から落ちた話を聞いたのでしょうか?私は連絡していませんし…… 」
「リュド殿も風の噂で聞いたと言っていましたし、両国を出入りする行商人から聞いたのかもしれません」

 両国の出入りは厳しいが、行商人なら比較的に出入りは簡単であった。
 両国の大切な物資を輸出入する行商人は、両国を繋ぐ大切な存在であり、時には互いの国に嫁いだ「花嫁」たちを心配した家族の手紙や贈り物を代わりに運搬するメッセンジャーとしての役割も担う。
 そんな行商人の審査は緩く、出入国の許可も出やすい。
 最近では行商人の審査ももう少し厳しくするべきだという意見もあり、国王と文官たちが審議をしているとのことだった。

「それなら、尚更、お兄ちゃんと会って安心させるべきですよね。心配してわざわざ来てくれたくらいです」
「そうですね。貴女さえ良ければ会って下さい。私も機会があったらリュド殿からモニカの幼少期について、話を聞きたいくらいです。……無論、貴女自身の幼少期も」

「貴女自身の幼少期」というのは、今のモニカのーー御國の話だろう。
 期待するようなマキウスの目を見られなくて、モニカは目を逸らす。

「私の幼少期なんて、恥ずかしい話しかないですよ。下の弟妹をからかって、弟妹の持っているものが羨ましくて、何でも奪いましたし」
「それなら、私も幼少期は散々、姉上やアガタにからかわれ、奪われました。それだけではありません。絵の具まみれにされ、当時は苦手だった虫を服の中に入れられ、二人が虫の巣に石を投げ込んだせいで、私が巣から出てきた虫に追いかけられたこともあります」
「大変だったんですね……」
「いつの日か、貴女にも姉上たちの愚痴をお聞かせしますよ」

 そんなマキウスの話を聞いて、ふと気づいたことがあった。

 これまで「モニカ備忘録」を見ても、モニカの家族であるリュドヴィックに関する記憶が、他の記憶よりも遠い場所にあるような気がした。
「モニカ」がリュドヴィックの記憶を意図的に避けているのだろうか。
 リュドヴィックと話した限り、好青年といった感じで、特に怪しいところやいかがわしいはなかったがーー。

(この機会に知ろうかな)

 これまで、「モニカ」が歩んできた人生、「モニカ」の過去について。
 もしかしたら、その中に御國がモニカになった理由もわかるかもしれない。
 それが、「モニカ」を託された、今のモニカの役割でもあるのだろうから。
「我が家にようこそ、お兄ちゃん! 待ってたよ!」

 次の日の午後、屋敷にやって来たリュドヴィックをモニカは玄関で出迎えたのだった。

「突然すまない。ようやく時間が取れたんだ。そうしたら、すぐにモニカに会いに行きたくなった」

 屋敷にやって来たリュドヴィックは、貧民街で会った時の鎧姿とは違い、白色のシャツと黒色のスラっとしたパンツとサスペンダー姿であり、ストレートの金髪を背中に流していたのだった。
 また、帯剣している剣の柄にはオレンジ色の魔法石が紐で結ばれていた。
 リュドヴィックによると、洋服も、魔法石も、全て滞在先であるヴィオーラから借りたらしい。

「定刻より早く来てしまった。これでも歩いてきたんだが……。もう少しゆっくり来るべきだったな」
「ううん。お兄ちゃんらしくて、いいと思うよ!」

 モニカはフフッと笑ったのだった。

「立ち話もなんだし、応接間に案内するね」

 モニカはリュドヴィックを連れて応接間に案内しながら、兄にバレない様にそっと息をついた。

(ここまでは、『モニカ備忘録』の通り)

 モニカはリュドヴィックが来るまでに、モニカから引き継いだ記憶ーー「モニカ備忘録」の中から、リュドヴィックに関する記憶を探した。
 全て見つけた訳ではないが、どうやらリュドヴィックは几帳面な性格らしい。
 時間や規律に厳しいらしく、時間を厳守しなかったモニカが、リュドヴィックに怒られていた記憶もあった。

「お待たせ、お兄ちゃん。ニコラを連れて来たよ」

 リュドヴィックを応接間に案内した後、モニカはニコラを連れて応接間にやって来た。
 モニカの後ろからは、何かあった時に備えてニコラの乳母のアマンテが控えていた。

「お兄ちゃん。この子が私とマキウス様の娘のニコラだよ」

 リュドヴィックにニコラを紹介した後、次いで腕の中のニコラを見下ろした。

「ニコラ、こっちは私のお兄ちゃんのリュドヴィックお兄ちゃん。ニコラの伯父さんだよ!」
「この歳で伯父さんは、なんだか恥ずかしいな……」

 リュドヴィックが見えるように、腕の中でニコラの抱き方を変えると、ニコラは様子を伺うように、じっとリュドヴィックを見つめているようだった。
 ニコラを連れてリュドヴィックの側に行くと、リュドヴィックはニコラの顔を覗き込んだのだった。

「モニカとよく似ているな。可愛い」
「お兄ちゃんも、私と似てるって思うんだ」
「髪の色もだが、柔らかな面差しはモニカそっくりだ。目や顔の形はマキウス殿か? 目元もマキウス殿にそっくりだな」
「そうでしょ! 目元はマキウス様に本当にそっくりで……」

 モニカとリュドヴィックは顔を見合わせると、笑い合ったのだった。
 その後、ティカとエクレアが来て、テーブルにお茶の用意をしてくれている間、モニカはふと思いついたことを口にする。

「そうだ! お兄ちゃんもニコラを抱いてみる?」
「いいのか?」
「勿論! 良いですよね?」

 モニカが後ろに控えていたアマンテに声を掛けると、すぐ頷いたのだった。

「じゃあ、モニカの言葉に甘えて」

 モニカがリュドヴィックにニコラを渡すと、リュドヴィックはおっかなびっくり抱いていた。

「思ったより大きいな……」
「最近また体重も増えて、大きくなったからね」
「まだまだ成長するのか……。赤子とは凄いものなんだな」

 そんな事を話しながら、モニカがリュドヴィックにニコラの抱き方を教えていた時だった。
 今までずっとリュドヴィックの様子を伺っていたニコラが、突然、火がついたように泣き出したのだった。
「お、おい。モニカ。これは……」
「ああっ! 動かないで、お兄ちゃん! 私が受け取るから!」

 姪が泣き出したことに慌てたリュドヴィックは、ニコラを抱いたままオロオロし出した。
 リュドヴィックからニコラを預かると、そのまま腕の中で「よしよし」とあやしたのだった。

「す、すまない」
「ううん。こっちこそ驚かせてごめんね。マキウス様以外の男性に抱かれたことがないから、慣れていないのかも」

 思い返すと、ニコラはマキウス以外の男性と触れ合ったことがないような気がする。
 普段、屋敷でニコラに触れるのは、モニカと乳母のアマンテだった。
 たまに遊びに来たヴィオーラや他のメイド、またはニコラの定期検診を担当している医師が触れることはあれど、使用人を始めとする男性にはほとんど触れられたことが無かったように思う。

 それ以外でも、最近のニコラは今までのように誰にでも笑いかけることはせず、相手を伺ってから笑いかけることが増えた気がした。
 最初にヴィオーラが屋敷に来た時は、微笑みかけたヴィオーラに合わせるように、ニコラは微笑み返していた。
 けれども、最近のニコラはモニカやアマンテといった普段から顔を合わせる人には笑いかけるが、リュドヴィックの様に初対面の人間には自分から笑いかけず、相手を伺う様な素振りを見せていた。

 人を選ぶ様な様子も、成長の証なのだろうか。
 そう考えれば、出会った頃とは違い、昼夜の生活リズムが整ってきて、声を発する回数も減ってきたような気がした。
 
「そうなのか? 姪にまで嫌われたのかと思って、不安になったんだが……」
「そんなことはないよ……。それよりも、姪にまでって?」

 モニカが首を傾げると、リュドヴィックは肩を竦めたのだった。

「一時期はたくさん便りを送ってくれたのに、最近はすっかり来なくなった。自分も返事を書かなかったのは悪かったと思う。一つの所に長々と留まらなかったから、受け取るまで時間が掛かったんだ」
「そうだったんだ……」
「けれども、風の便りで聞いたところによると、階段から落ちて瀕死の重傷だったそうじゃないか。心配したぞ」
「ごめんなさい。心配をかけて……」

 予想通りのリュドヴィックの言葉に、モニカは肩を落とす。
 やはり、リュドヴィックは階段から落ちたモニカを心配してやって来てくれたのだ。
 遠いところから、自分の見聞を広める旅を中断してまでも。

 やはり、モニカは周囲からこんなにも愛されていたのだ。
 そんなモニカが羨ましくもあり、早逝してしまったことを悼ましく思う。

「いや。無事ならいいんだ。その後、身体の調子はどうだ? まだ痛むところはないか?」
「もうすっかり治ったから大丈夫だよ」
 
 リュドヴィックがモニカに向かって手を伸ばしてきた。
 モニカがギュッと目を閉じて身体を強張らせていると、その頭をそっと愛撫してきたのだった。
 
「何事もなくて安心した。でも、無理はするな。国が違っても、どんなに遠く離れていても、いつも想っているからな」
「うん……ありがとう。お兄ちゃん」

 頭を触られた時、モニカの頭の中に「閃いたもの」があった。
(これは……)

 ぼんやりとだが、モニカの頭の中に浮かんできたのは、子供の頃のモニカがリュドヴィックに頭を撫でられて、喜んでいる場面であった。
 この場面は「モニカ備忘録」の中になかったような気がした。
 すると、これはこのモニカの身体が覚えていた記憶なのだろうか。

 どうやら、モニカは昔から褒められたり、心配をかけたりする度に、リュドヴィックに頭を撫でられていたらしい。
「モニカ備忘録」の中にも、同じ様にリュドヴィックに頭を撫でられている記憶があった。

 今のモニカの胸の中が温かくなったことから、この時の「モニカ」も頭を撫でられて嬉しかったのだろう。
 御國だった頃は、ほとんど褒められたことがなければ、こうして頭を撫でられたことも無かったので、嬉しさと気恥ずかしさが混ざった、むず痒い気持ちになったのだった。
 
「せっかくだ。この国に来てからの話を聞かせて欲しい」
「うん、いいよ!」

 モニカはニコラをアマンテに預けると、ティカとエクレアが用意してくれたお茶と共に、屋敷での生活や、マキウスやニコラの話、アマンテやティカたち使用人の話をした。
 そうは言っても、モニカが目覚めてからの話が主であり、「モニカ」の話は「モニカ備忘録」にもほとんど無いので、曖昧な話し方になってしまったが。
 
 モニカの話を聞いたリュドヴィックは、安心したのか愁眉を開いたようだった。

「生まれ故郷から離れ、知る者も、頼る者も居ない中での結婚と出産で、さぞかし心細い思いをしているのではないかと心配したが……。楽しそうなら良かった」
「うん。毎日楽しいよ。全く心細くないと言ったら、嘘になるけれども……」
 
 この世界に来たばかりの頃は、勝手が分からず、使用人を始めとして、夫であったマキウスからも距離を置かれていて、モニカは心細い思いをした。
 心を慰めてくれるのは、無垢な笑顔を向けてくれるニコラだけであった。
 
「でも、マキウス様を始めとする使用人の皆さんが優しくしてくれるの。今は心細くないよ。だから、大丈夫」
「そうか……」
「それに最近は、お姉様ーーヴィオーラ様も気遣ってくれるの!」

 弾んだ声で話すモニカに釣られるように、リュドヴィックも微笑んだのだった。

「マキウス殿のご家族とも仲が良いのだな」
「うん!」
「世に聞く義理の家族は、嫁に厳しいと聞いていたが」
「全然! それどころか、お姉様は私の憧れなの! いつか、私もあんな風にお仕事がバリバリ出来るキャリアウーマンみたいな大人のお姉さんぽくなりたいんだ……」
「今でも充分、大人だから大丈夫だ」
 
 二人で笑っていると、リュドヴィックは「そうだ」と声を上げた。

「せっかくだ。いつものように、髪を切ってくれないか?」
「えっ!? お兄ちゃんの髪を!?」
「ここのところ、散髪する暇がなくて伸ばしっぱなしになっていたんだ。そろそろ邪魔になってきたし、この機会に切ってくれないか?」

「モニカ備忘録」の中には、リュドヴィックの髪を切っている記憶が無かった。

(ど、どうしよう……)

「モニカ」にとっては、食事や沐浴の様に日々の生活の中で行う当たり前のことで、記憶に留めておく程のことでは無かったのかもしれない。
 
(断ったら怪しまれるよね……?)

 モニカが内心で悩んでいる間も、リュドヴィックは期待するようにモニカを見ていたのだった。

「いつものように切ってくれて構わない。それこそ、二人で暮らしていた頃のように」
「……わかった」

 モニカは部屋の隅に控えていたティカに、道具を持ってくるようにお願いしたのだった。
 ティカが鋏と櫛を用意してもらっている間、他の使用人が部屋の片隅の床に白い布を引き、その上に大きな姿見を置いてくれた。
 美容室に置いてあるバーバーチェアやスタイリングチェアには及ばないが、姿見の前に椅子を置いて即席の美容室の様にすると、ティカたちには部屋から出て行ってもらった。
 アマンテは既にニコラを連れて、部屋に戻っていた。
 モニカは椅子に座るようにリュドヴィックに言うと、椅子の後ろに回ったのだった。

「お、お兄ちゃん。長さはどうする?」

 モニカは手を震わせながら、鋏を手に取った。
 椅子に座ったリュドヴィックは、背中まで伸ばした髪を軽く整えていた。

「そう深く考えなくていい、いつもの長さで構わない」

(その「いつもの長さ」がわからないんだって~!)

 内心で泣きそうになった。
 こんなことなら、最初に適当な理由をつけて断っておくべきだった。

「懐かしいな。一緒に暮らしていた頃も、こうして髪を切ってもらっていたな」

 そんなモニカの様子に全く気づかないまま、リュドヴィックは散髪を待っていた。
 
 モニカはリュドヴィックのサラリとした金の髪ーーモニカの髪と同じ触り心地だった。を一房取ると鋏を向けた。
 けれども、すぐに髪から手を離すと、鋏も下ろしてしまった。

(ここで間違えたら、「モニカ」じゃないってバレちゃう……)

 恐らく、「モニカ」なら迷わず切っていただろう。
 けれども、「モニカ」じゃない今のモニカには出来ない。
 長さを間違えて、期待を裏切ってしまったら、リュドヴィックはモニカが同じ顔をした別人だと気づいてしまうかもしれない。
 モニカの正体を知った時、リュドヴィックはどんな顔をするのだろう。
 驚愕? 痛嘆? それともーー?
 
「モニカ? どうしたんだ?」

 怪訝そうにリュドヴィックは振り返った。
 けれども、その顔を見ていられなかった。
 見てしまうのが怖かった。
 モニカは目を合わせないようにして、頭を振ると「なんでもない」と苦笑したのだった。

「やっぱり、私が切るよりも、ちゃんとした人に切ってもらった方がいいと思うの。お姉様やマキウス様なら知っていると思うから、聞いてみるね」
「あ、ああ……」

 モニカはなんでもないというように笑ったが、リュドヴィックは納得がいかないようだった。

「それよりも、良かったらお茶のお代わりはどう? ティカに頼んで持ってきてもらうね」

 リュドヴィックに背を向けると、モニカは鋏を置いて、ティカを呼びに行った。
 泣きそうになった顔を見られないように、モニカはグッと顔を引き締めたのだった。

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